17
病院。
涼村桔平こと僕の父さんは、泣く子も黙るような強面である。
年の数だけ深く刻まれた皺は顔に影を作り、ただでさえ怖い顔をより一層彫りの深い顔付きに変貌させてしまう。ここで色付きのサングラスでも付けた日には、どこぞのマフィアか何かと間違えられてもおかしくはないくらい顔が怖い。きっと言わないだけで何度職質を受けているか、分かったものではない。
ひめ姉の容姿が母さん似と言うくらいなのだから、翻って僕の容姿が父さん似かと思いきや、似ているのは鼻の形くらいのもの。もしかしたら大人になるにつれて父さんみたくなっていくのかと思われるが、それはきっと中身の伴わない貫禄っぷりが芽生えることだろう。それだけはなんか、ちょっとだけ嫌だった。
今日は病院への付き添いだからサングラスをかけていないけれども、素の状態でも凄んで見せれば高校生は疎か、大人ですらも距離を取りたくなるような強面っぷりを発揮するのであった。
「ひっ……!」
それが、息子の怪我をした要因を作り出した相手なら尚更のことで。
「と、父さん。遊佐さんが怖がってるから」
むしろ会社員という方が嘘ではないかと思う程の眼光。
それに晒された遊佐さんが顔を青くしているのを見て、僕は慌てて二人の間に立って父さんを座らせる。
遊佐さんの方は昨日のこともあって少しだけ僕と父さんに警戒する素振りを見せたけれども、僕とは一つ離れた座席に腰を下ろした。
僕としては遊佐さんのようなクラスの陽キャに値する存在とは相容れない存在だと思っている反面、昨日のことは楠木さんと遊佐さん達との間に起こったトラブルであり、僕はただ自ら巻き込まれに行ったため半ば部外者のような気分でもあった。
そのため、僕が遊佐さんを嫌う要素が無い以上、苦手というだけで避け続けるのは要らぬ印象を与えてしまうかもしれないと思い会話を振る。
断じて微妙な沈黙の間が怖かったという訳ではない。ないったらない。
「ゆ、遊佐さんは、どうして病院に?」
「涼村──結月。あんたに、突き飛ばされたからだけど」
「もしかして、怪我とかしてた? 大丈夫?」
「あたしは大丈夫だ、って言ったんだけど、パパとママが行けって言うからさ……。ただの怪我があるかないかの検査。ここら辺じゃ総合病院はここだけだしね。なんともないのに医者にかかるなんて、なんて言って説明するか考える方が大変だったし。かなり恥ずかったんだけど……」
「遊佐さんのご両親が?」
「探したって来てないよ。たかが検査程度、親に付いて来てもらう程じゃないから。それに、パパとママにはちゃんと全部話したから。内申点が下がったり、停学になる可能性だって話した。あたしは、それだけのことをしたって自覚があるから。お陰様で、昨日はパパに怒られるわ、ママに泣かれるわで大変だったんだから。まぁ、自分のせいなんだけど」
「……遊佐さんは、偉いね」
「は? 何言ってんの? あんた、あたしのこと舐めてんの?」
「い、いや、そういうつもりで言ったわけじゃ……。ただ、素直に自分の非を認められるくらいなら、どうしてあんなことをしたのかなって思って」
「…………ただの嫉妬よ、嫉妬。醜いでしょ。それと……、とにかく楠木陽葵が気に食わなかっただけ。だから、あんたには悪い事をしたと思ってる。まさか、突っ込んでくるなんて思っても無かったから」
「いや、その件は本当に、僕が勝手に突っ込んで勝手に怪我しただけだから……! 謝られると逆に申し訳ないというか……。どうせだったら、僕じゃなくて楠木さんに謝ってあげて。楠木さんは誤解されやすいだけで、遊佐さんとはきっと仲良くなれると思うから」
「は? 何それ。あんた、あたしのこと馬鹿にしてんの? 誰があんなやつとなんて仲良くするもんか。向こうから請われたって願い下げるに決まってるでしょ。それくらい、あいつの性格は死んでるの。謝るのだって本当はしたくないけど、涼村の……結月の、あんたの顔を立てて謝ってやる、って言ってんの!」
遊佐さんは遊佐さんで自分の中でもう答えが出ている様子で話したかと思えば、僕の「楠木さんと仲良くしてほしい」という意見は断固として拒否する。
誰が誰と仲良くなるか、なんてのは人に強制されるものではないと分かっているが、それでも遊佐さんと楠木さんは何故だか相性がよさそうに見えるのは気のせいだろうか。両者ともに性格に難がある点とか、プライドが高い点とか、共通点はあるはずなのに。
「……あんた、今失礼なこと考えてるでしょ」
「そ、そんなことないよ?」
「まぁいいわ。あたし、この後学校に呼ばれて行かなきゃだから」
「そうなんだ」
「あんたも制服着てるじゃない。この後、学校来るんでしょ?」
「……ま、まぁね。これ以上、授業が遅れるのは不味いからね」
「随分と不服そうに頷くのね。……まぁ? ノートくらいなら、貸してあげられるけど?」
「いいの!? ……あ、でも。それくらいは自分でできるようにならなきゃいけないから……気持ちだけでも受け取っておくね」
「きょ、今日の分だけでも黙って受け取ってろ」
「今日の分だけ、って、遊佐さんも午前中休んでるでしょ? それなら、楠木さんに見せてもらうからいいよ」
「……あたしが、友達からノート見せて貰ったのを見せてあげるから、黙って受け取れ、って言ってんの。これはあたしなりの、謝罪の証なの」
「そ、そこまで言うなら……。はい、ありがとうございます……」
本当なら休む気満々だったのだが、昨日楠木さんと約束しているから僕も学校には行く。
また明日、と約束しているから。
それに、昨日の件の話を進めなくちゃいけないからね。
赤色に染められた髪の毛が触れる程まで接近して借りを返さんとばかりに迫った遊佐さんに押し切られた僕は、黙ってそれを受け取らざるを得なくなる。
遊佐さんもスクールカーストの上位に位置するだけあって楠木さんに引けを取らない整った顔つきをしているお陰で、迫った瞬間には息を飲む。けれども、今まで身近に楠木さんという別格の異性を目の当たりにしてきたお陰で整った顔の女性には耐性がついたのか、それ以上緊張することなく話をすることができたように思える。
ただ、遊佐さんは楠木さんとは違って異性との隔たりがかなり緩いというか、人との距離感が非常に近いのは僕にとっても初めての経験で、シャツが第二ボタンまで開いた状態で前かがみになるのだけは止めて欲しかった。目のやり場に困るから。
「じゃあね、結月。お父さんも、ご迷惑をおかけしました」
「……結月と、仲良くしてやってくれ」
「遊佐さん、また学校で」
「下の名前で呼んで良いよ。名字で呼ばれんの、あんま好きじゃないし」
「……下の名前って、なんて言うの?」
「はぁ? あたしら二年の時から一緒のクラスメイトだよねぇ? ……まぁ、楠木のことは名字で呼んでるみたいだし、トントンで許してあげる。あたしは遊佐澪奈。友達には色んな呼び方されてるけど、結月は特別に下の名前で呼んでいいわよ。ほら、澪奈ちゃんって呼んでみてよ」
「み、澪奈、さん?」
「……今はそれでいいや。じゃあ呼ばれたから。またね、結月」
一瞬だけ悪魔のような笑みを垣間見せた遊佐さんは、バイバイ、と手を振って名前を呼ばれた受付の方に向かって去って行く。
その頃には強面の父さんに対して恐れることなく果敢にも声を掛けていく姿は、彼女のコミュニケーション能力の高さを物語っているようだった。
その背中を見送りながら、僕は少しだけ熱くなった頬を冷ますように顔を扇いでいると、父さんがポツりと呟く。
「……確かに、彼女は恨めるような人物では無いな。自分の行動を顧みて、反省が出来る点は素晴らしい。進学校の生徒として申し分ない素養の持ち主だ。だからこそ、今回の一件は非常に残念だと言わざるを得ない」
「……遊佐さんは悪くないよ。今回のことだって避けられたはずだし、僕が騒ぎを大きくしちゃったのは本当だから」
「結月のパートナーには、多少強引でも結月を引っ張ってくれる人がいいのかもな。例えば、彼女のように」
「……何の話? っていうか、遊佐さんはそういうんじゃないよ。誰に対してもあんな感じだから。それに、僕なんかじゃ全然釣り合わないよ。そういうのは、遊佐さんに失礼だよ」
「そ、そうなのか。すまない」
僕と遊佐さんの会話には口を挟まなかったと思えば、二人になった途端急にそんなお節介気分で口出ししてくる父さんに、僕は「有り得ない」と突っぱねる。弱みに付け込むみたいな真似は、余りにも遊佐さんに失礼ではないか。
そもそも、自分の将来すらまともに向き合えない僕に、誰か一人と真正面から向き合うなんて出来るわけがない。
遊佐さんが僕と仲良くしようとしてくれているのも、今回の一件に関して終わり方を模索しているからだろう。日陰者の僕と、日向に暮らす遊佐さん。文字通り住む世界が違う僕と彼女。被害者と加害者と思われている現状を、僕たち二人が仲良くしているという証拠を生み出すことで、傍観者でしかなかった教師陣からものを言われることを防ぐ、というような算段だろう。姑息な遊佐さんらしいと言える。
妙なやる気を出した宮野先生達によって学校側の意向にそぐわぬ結果を迎える羽目にならないように遊佐さんは画策したのだろうが、僕としては楠木さんと遊佐さんの関係がこれ以上悪化しないようにと彼女の考えを利用させてもらうことにした。
どうせこの件が落ち着けば遊佐さん達目立つクラスメイト達と僕は、卒業するまで一切かかわり合うことはないだろう。体裁だけでも手に入れば、表面上で最低限仲良くしているふりをすれば次第に忘れられていくものだから。
日陰者と日向者。交わるはずのない者同士が裏で手を取り合う、なんて言うのはフィクションでは熱いの展開の一つだ。エンタメに飢える思春期の高校生たちからすれば、瞬間最大風速は望めるものの、持続性にはとことんまで欠けているため、こちらとしても願ったり叶ったりだ。
それを偶々病院で僕と出会った瞬間に思い付くだなんて、やはり学力上位の本物は頭の出来が違うというのを思い知らされた。
遊佐さんが結果を取りに行くのに続けて、「涼村さん」と看護師さんの呼び声が聞こえてきて、お医者さんが待つ部屋へと緊張した様子の父さんと気楽な僕の二人は通されるのだった。
「──うん、異常は無さそうだね」
結果から言うと、僕の頭は何ともなかった。
勅使河原先生が予め連絡してくれていたからか、それとも遊佐さんの話の後に僕が現れたからかは分からないが、医者の先生は軽く絆創膏の下の傷を処置しながら、色々と危惧していた父さんにも分かりやすく説明してくれていた。お医者さんからの説明のお陰で父さんも納得して胸を撫で下ろしてくれたのだが、待ち時間の十分の一以下の時間で僕の処置が済んだことだけは、なんだか釈然としなかった。
何事も無かったことを喜ぶべきなのに、せっかく病院にまで来て何事も無かったのか、という謎の勿体ない精神が顔を出す僕が居る中、病院を出た父さんは心配事が一つ消え去ってすっかり晴れやかな顔に戻っていた。
それから間もなくしてスマホで数件連絡を取った父さんは、「心配する父親」から「仕事に没頭する一人の男」へと様変わりを果たすかのように様子を変え、この後再び仕事に戻らなければならない、と言って僕をタクシーで学校に送ったあと、そのまま仕事に向かうと口にした。
話すべきタイミングを失っていた進路の話は、結局タクシーの車内で中途半端に行われ、父さんは耳だけを傾ける形で大した反応を見せることないまま、「結月のやりたいようにやればいい」という言葉だけを残して僕を学校にまで送り届けてくれた。
「……そうじゃないんだけどなぁ」
欲しかったのは、背中を押す言葉なんかではなくて、父さんの意見。
僕のことを見ている。そう思わせてくれるような、父さんの意見が欲しかった。
父さんは冷たい人なんかじゃないんだと、誤解している先生に言いたかったのに言えなかったのは、仕事をする父さんの姿を知っていたからだ。
あの人は悲しい程に、仕事人間。母さんの件で学んでないわけじゃない。ひめ姉にも言われて、僕を気に掛けるようになってくれた。それだけなら母さんもきっと離婚することは無かったかもしれないけれど、離婚した。それは今の父さんの姿を知っていたからだろう。父さんは、仕事にしか熱意を向けられない人間なのだ。それが悪いことなのか良いことなのか、働いたこともない僕にはわからない。だがそれでも、母さんはそんな父さんの姿に嫌気が差した、というのは子供の僕でも容易に想像がつく。
だからと言って、父さんが僕を愛していないわけではない。
沖縄から仕事を放り出してでも駆け付けてくれたのがその最たる証拠と言えるだろう。
だが、父さんの中で、僕の一件はもう済んだこと。
こなすべきタスクが一つ終われば、次のタスクに取り掛かる。
仕事をする上で真っ当な取り組む姿勢と言えるべきそれを、父さんは家にまで持ち込む。
つまりは、父さんの中で家族というのは一つの『仕事』なのだ。
誰かが言った「子育てに終わりはない」という言葉が指し示すように、子育てというものは、家事というものは、一生終わりが来ないものだと言う。
父さんなりに言うのであれば、家には仕事以上のタスクが待っている。子育てをしているというのなら尚更。
一つ終われば終わりじゃない。その先に、いくつも続く終わりの見えない生活こそが、家庭なのだと。
「……なんて、僕が言ったところで、説得力は微塵もないんだけどさ」
校門の前で去って行くタクシーの後ろ姿を見送りながら、僕は誰かの答えを望むわけでもなく、情けない独り言を零す。
養われている身である以上、僕には父さんのやり方に口を出す資格など、ない。
母さんと同じ、置いて行かれる身として実態を把握していたとしても、僕は所詮、父さんが働いたお金で生きていられるだけの身分では、父さんのその姿勢に、文句の一つも、ケチの一つも付ける資格はないのだ。
「……それでも、いつかは向き合わなきゃいけない、か」
生まれてからこの方、一生の全てを懸けても父さんの興味を惹けたことなど一度もないと豪語できる僕としては、今日初めて会っただけで父さんの興味を惹き付けることができた遊佐さんのことが、羨ましく思えて仕方が無かった。
どうすればあんな風になれるのか、とまで考えたところで、染み付いた陰気を振り払うことのできない僕には到底無理な話、という結論しか出てこない。
父さんが一度僕のことで動いてくれた後、次に僕のことで動いてくれるのは一体いつになるのか。
そんなことを考えながら、午後の授業の開始の合図が校舎中に鳴り響く中を、僕は颯爽と教室に向かって歩いて行く。
楠木さんとの、約束を果たすために。
「……お昼、食べ損ねたなぁ」
空腹を訴える腹を、擦りながら。
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