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父。


 翌朝。学校を休めるとあって、予約した病院の時間までぬくぬくとベッドの上で夢うつつを繰り返してから目を覚ました。

 時計の針は、既に十時を回っている。

 となると半日近く眠った計算になるのだが、お陰で寝起きの時点で頭はシャッキリポン、である。

 最近の高校生にしては珍しく、僕の平均入眠時間は十一時なのである。


 重役出勤とはまさにこのこと、と思ったものの、周りの皆が朝早く起きて仕事に勉強にとあくせく働いている中で僕一人だけがのんびりとしている、というのはなんだか世界から切り離されてしまったかのようで心細さを感じてしまう。


 そんな器の小さないわゆるしがない小市民でしかない僕には偉い身分なんてのは分不相応なんだな、と判明したところでベッドから抜け出して朝の支度をし始めた、そんな時だった。


「──結月ッ!!!」

「わっ!?!?」


 顔を洗って次は歯を磨くぞ、と朝の支度に励んでいると突然、玄関が勢いよく開け放たれて僕の名前が呼ばれる。


 その声はマンション中に響き渡っているのを容易に想像できる声量で、真っ先に近所迷惑が想起されるのだがそれ以上に余りにも突飛な事態に驚いて肩を跳ねさせてしまう。

 近くで爆発でも起こったのかと言わんばかりの声量に驚愕したことで手元の狙いがズレた歯磨き粉がパジャマに落ちてしまったのだが、一度跳ね上がった肩を落とす暇すら与えられぬままズカズカズカと足音を立てて近付いてくる気配に扉の方を向き直る。

 振り返った先には声の主が、ただでさえ強面の顔付きに鬼気迫る気配を浮かべてより一層険しくなった様子を漂わせた異様な中年男性が立っていた。


「結月ッ!!!!」

「ちょ、歯磨き、は、歯磨き粉が……! ……はぁ、お帰り、父さん」


 父さんは寝起きの僕の姿を確認するや否や、玄関からでもはっきりと聞こえてきた爆音のような声量で僕の名前を呼ぶと、僕の構えなんて知ったことかと言わんばかりに僕の体を抱き締める。

 その余りにも力強い圧迫は僕のパジャマに付着した歯磨き粉が父さんの一目見て分かるような高級なスーツを汚すのだが、父さんはそんなこと一切気にせずに僕の体をキツく抱き締めるのだった。


 平々凡々、中肉中背の男子高校生である僕とは違って、威武堂々にして筋骨隆々な父さんに抱き締められた僕は、背中に回された父さんの腕を振り解くような真似など物理的にも心理的にも出来るはずがなく、繰り返し息子である僕の名前を口にする父さんにしばらくの間抱き締められるのであった。

 父さんの体からは清涼さを感じさせる香水の匂いに混じって汗の匂いがしてくる。

 いつもきっちりかっちりしているはずの父さんにしては無精髭もあるし、髪の毛もボサボサだ。それだけ急いで駆け付けてくれたのかと思えば嬉しく思う反面、ひめ姉のみならず父さんの仕事にまでも支障をきたすような心配をかけたことへの罪悪感が湧いてくる。


 もしも父さんが引き取ったのが僕ではなく、優秀なひめ姉だったなら。


 両親が離婚した時から繰り返し何度も過る思考だ。

 もしもそうなっていたら、きっとこんな不器用で後先も考えない真似をひめ姉はしなかっただろう。

 父親の仕事の邪魔をするような要らない心配を掛けさせている僕とは、きっと全く違う未来を歩んでいたに違いない。だけれども、そうなると今度は僕を引き取った母さんが不幸になる。

 そう考えると、僕は僕に関わった人をみんな、不幸にしているのではないかという錯覚にすら陥ってしまえるようで。


 ひめ姉からは、青春を奪った。父さんからは、母さんを。母さんからは、父さんとひめ姉を奪った。正紀さんからは、ひめ姉との時間を奪っている。

 全て、僕がいたから。僕は、関わった人をみんな、不幸にしている。過去も、現在も含めて。

 そんな風に考えること自体、僕にあらゆるものを捧げてくれたひめ姉達の苦労が無駄になると分かっているため、これは僕の単なる妄想に過ぎない話だ。誰かが僕にそう言った訳でも無いから。


 それでも僕は、僕自身に価値を感じられない。


 ひめ姉が、父さんが、どれだけ愛を注いでくれたとしても、穴の開いた僕の器は決して愛では満たされず、歪な形をした不安ばかりが積み上げられていくような気がしてならない。

 こんな僕のままでは、誰かを幸せにすることなんて出来やしない。ひめ姉も、父さんも、母さんも、正紀さんも。そして、楠木さんも。……どうしてそこで『楠木さん』が出てきたのか。友達だからか。それともそれ以外の思惑があるのか。

 僕は、僕自身のことなのに、僕自身のことが分からない。

 誰であろうとも、今のままではきっと、僕は誰かを幸せにすることは叶わないだろう。


 今の、ままでは。


「……父さん、進路のことで、話したいことがあるんだ」

「そうか……。だが、その前に怪我のことも含め、病院だ」

「ぅぐ……。でも、父さんも先に、シャワー浴びてよね」

「ぐ……そんなに、臭うか?」

「僕は気にならないけど、ひめ姉がいたら、怒られるくらい」

「そんなにか」


 意を決して口に出してみたものの、遠い将来よりも近くの現実。

 むしろ父さんの目的が僕の怪我であるならば優先されるべきは僕の頭の怪我であり、ここで「どうしても」と引き下がるわけにはいかない。

 わざわざ出張先の沖縄から飛行機とタクシーで帰ってきてくれた父さんに、主目的を捨てろ、なんて心配をかけた分際で言えるはずがなかった。


 それでも、今までの僕なら進路のことなんて言い出せなかった。

 高校に上がる時も、進路を決めかねていた僕に父さんが持ってきた高校のパンフレットから選んで決めるくらい、主体性がなかったからこそ、ここで口火を切れたのは大きな進歩といえるのではないだろうか。


「……いや、まだまだ人並みには遠いか」


 クラスメイト達はみんな、自分の意思で自分の将来を決めている。自分のやりたいことも、理想の姿も、彼らの目には見えているのだ。

 そんな中で僕だけが何も見えていなかった。僕は今、ようやく将来を見据えるための望遠鏡を覗き込んだ程度。他の皆はもう、目的を見つけて歩み始めているのだから、僕は出遅れも甚だしい所だった。


「待たせたな。それで、怪我の具合だが……」


 父さんがシャワーを浴びている間に制服に着替えた僕がリビングでボーっとしていると、髭も髪も肌ケアまでもを済ませた父さんが、戻って来て早々に本題へと移った。


「『ゆーちゃんが頭を打った。大怪我かもしれない』って、肝心な所全部端折ってるね……。しかもその後のことは何にも書いてないし」

「そうだ。この連絡を受けてから最終便を取ろうと思ったのだが、取れたのは翌朝の一番の便だった、というわけだ。夜の間も姫和とは連絡がつかなくてな。結月にも送ったんだが、返ってこなくてさらに不安になったものだ」

「えっ、嘘。あ、本当だ」


 言われてスマホを覗いてみると、そこには夜遅くと朝早くに二件、父さんからのメッセージが表示されていた。

 連絡手段用にスマホを持たされているが、僕は滅多に使わない。連絡先として登録してあるのも、父さんとひめ姉の二人のみ。母さんの連絡先は、知らないまま。

 ひめ姉が連絡を寄越す時は決まって電話をしてくるため充電だけはしておくようにしているが、天気やニュースを調べる以外に使わないので、僕にとっては無用の長物に近しいものだった。正に猫に小判、豚に真珠に並ぶ、涼村結月にスマホ、という諺が新しく出来てもおかしくはないものだった。


 SNSが猛威を振るう現代社会ではその時点で置いて行かれているのだろうが、人と面と向かった状態ですらまともな会話を出来ない自分が、顔の見えない相手とやり取りするだなんてもっと無理な話である以上、僕はSNSには向いていない。


「いつでも連絡がつくように、と持たせたんだ。……朝起きた時と寝る前だけでもいい。チェックするようにしてくれ」


 父さんのその言葉に僕が頷き返すと、父さんはどうしてか悲しそうな顔をする。

 けれども、すぐに表情を切り替えて話の続きに戻ろうとしたところで、そろそろ病院に向かわなければならない時間になる。


「続きは病院に向かいながら聞かせてくれ」


 この町唯一の総合病院に向かうタクシーの車内で、僕は今回の一件についての経緯を父さんに話した。

 その為には、楠木さんのことも含め、僕が補習を受けていることも包み隠さず話さなければならなかったのだが、父さんは何か言いたげな様子でありながらも途中で口を挟むことなく最後まで話を聞いてくれた。


 口下手な僕が話し終えるまでに僕と父さんは病院に到着して、待合室の前で呼ばれるのを待つ頃までかかってしまった。


「……そうか。つまり結月は、その遊佐さん、という生徒に対して、罰を望まないんだな? 頭の怪我が、どんな傷であったとしても」

「父さんもひめ姉も大袈裟だよ。僕はぐっすり眠れたし、今も立って歩けてたでしょ。吐き気も無いし、なんでもないってば」

「まだ精密検査するまでは分からないだろう。脳は第二の心臓とも呼ばれる程に人間の部位として重視される場所で、人の手が触れて良い領域ではないとすら言われているんだ。もしも万が一、結月の脳の血管が切れていたりしたら、俺はその子達は疎か、同じ被害者の彼女まで恨んでしまうかもしれない」

「く、楠木さんは関係ないよ!」

「だが、お前の言う通り結月がただ首を突っ込んだのであれば、それは楠木さんがきっかけだったことは間違いない。直接的な原因は彼女に嫉妬したクラスメイトによるものだったとしても、結月はそれに巻き込まれたのだ。恨まざるを得ない。叶うのならば、昨夜のうちにでも病院に行くべきだった。何かあってからでは、遅いのだから」


 椅子に腰かけたまま、なかなか動かない待合室の患者たちに目を向ける父さんが放つ言葉に、僕はぐうの音も出せずに口ごもる。

 楠木さんは関係ない。そう言えたはいいものの、父さんの言うように僕に何かあった時に彼女に恨みが向くのを避ける方法が、僕には思い付かない。

 父さんの口にした対応策は、人の親としてきっと間違いのない対応なのだろう。自分の身を案じて貰って「過保護」だなんて口が裂けても言えないが、それでも僕の身に何があったとしても楠木さんが恨まれるような事態だけはどうしても避けなければならない。そんなもの、望んでなんかいないから。


 ようやくできた唯一の友達すら守れないだなんて、死んでも死にきれないだろう。


「……なんて言っても、今更駆け付けた俺には、結月を責める筋合いも無ければ、その楠木さんを恨むだなんてお門違いも甚だしいものだ」


 なんて、冗談でも言うものではないようなことを頭の中で考えていると、肩の力が抜けたような父さんの言葉に、僕は下を向いていた顔を跳ね上げるに至る。


「だから、俺から言えるのは一つだけだ。好きな女を守るために身体を張ったんだろ? よく頑張ったな、結月」

「……」


 髪を梳くような手軽さで僕の頭を撫でて褒め言葉を送ってくれた父さんに、僕は思わず放心状態の如く呆けてしまう。


 今、父さんは何と言った? 褒めてくれたのか?

 父親に褒められる、という経験をしたことがあったかどうかすらも危うい僕にとっては完全に不意打ちのような言葉で、僕はしばらく父さんの言葉を噛み締める。

 しかし、看護師さんが別の誰かを呼ぶ声にようやく我に返って、突っ込まざるを得ない父さんの言葉を選んで食って掛かる。


「好きな女って……! 楠木さんは別に、そういうんじゃ……」

「そ、そうか。そうだったか……。まぁいい。そのうち俺にも会わせてくれ。姫和には会わせているんだろう?」

「う、うん。偶然だったけど」

「とりあえず、さっきは脅すようなことを言ったが、俺の気持ちはそういうものだと思ってくれ、という話だ。実際はただの経過観察に過ぎない。頭に異常がないかを見てもらうだけの、気楽な検査だ」


 気楽な検査。

 勅使河原先生も言っていたが、恐らく異常は無いはず。

 そんな検査に父親が付いてくる、というのは些か過保護気味かと思えるのだが、父さんがこうして僕に対して過保護気味になったのは、父さんと母さんが離婚してしばらくしてからのことだったのを今でもはっきりと覚えている。


 離婚の理由にあった両親の不仲の原因は、父さんにあった。

 父さんはいわゆる仕事一筋の人間であり、家庭を顧みなかった。

 ひめ姉が高校を卒業する間近で、そんな夫婦生活に対して母さんは限界が訪れたのだろう。


 離婚して僕を引き取った後、父さんはさらに仕事に没頭するようになった。まるで母さんとの別れを忘れようとするかのように仕事に没頭していたのは、離婚した影響がないとは到底思えなかった。

 しかし、ひめ姉が来るようになってからしばらくして、父さんは相変わらず仕事熱心ではあったものの、少しずつとは言え僕を気に掛けるようになった。あの時が、僕が生まれてから初めて父さんと目が合ったと感じた日だった。

 そしてその切っ掛けが何だったのかは、ある程度予想が付く。恐らくひめ姉から何か言われたのだろう。それが分かっていたからこそ、僕は父さんにこう言った。


『僕のことはいいから、お仕事頑張って』


 と。

 父はその半生を捧げた仕事が功を結んで、会社の常務だか、専務だかに昇進した、という話を遠い過去の記憶になりつつある両親との会話で出ていたのを覚えていたが、それがどれだけ偉いのかは分からない。

 だがそれでも、そんな父さんのお陰で生きて行けているのは事実であるため、週に一、二回しか帰ってこない父さんにその言葉を選んで向けた途端、父さんは泣き出しそうな顔になって僕を抱き締め、「なんでも好きな物を言え。俺が、父さんが買ってあげるから」と言った。


 果たしてそれが正解なのか間違いなのかは、僕と父さんのこれからにかかっている。家庭環境なんてものは人の数だけあるし、その数だけ正解も不正解もある。

 その日から、父さんが家に帰ってくるのが月に三、四回だったのが、週に一、二回に増え、僕の近況を探ろうとするようになったのを覚えている。朝早くに出て夜遅くに帰ってくるとしても、それが嬉しかったことも、僕は覚えている。


 中学、高校と、父さんは仕事の関係上一切行事には参加できていない。

 そのほとんどをひめ姉が代わりに来ているせいで、先生方からは盛大な勘違いをされており、何度か児童相談所にも相談を持ち掛けられたこともあったが、その度に僕は自分の意思で父さんの元にいることを選んできた。それくらい、僕は父さんに感謝しているし、尊敬もしているし、嫌いではなかった。

 ただ、父さんは僕の進路については放任主義というか、あまり関心を持たない。関心を持つのは、僕が健康かどうか。ただそれだけで、話し終えた今も、進路の話には一切興味を持とうとはしない。


「今どきの子は、難しいな」


 だけれどもそれは、父さんが僕に興味がないわけではないことを知っている。

 父さんはきっと、分からないんだと思う。

 触れてこなかったから。関わってこなかったから。

 僕は父さんの分までひめ姉に触れられてきたから、関わってきてくれたから問題は無いけれど、父さんは分からないまま。それを解決する方法は、今の所目途の一つも立っていなかった。


 苦笑いしながら自分の顎を触る父さんの首には、今も母さんとの結婚指輪をネックレスにして首から下がっている。父さんは父さんなりに、母さんを本気で愛していたのだろうが、結局愛はすれ違ったまま、終末を迎えてしまった。

 離婚した母さんがすぐに再婚した事を、父さんがどう思っているかは分からない。

 ただ、僕はできることならもう一度、父さんと母さんとひめ姉と僕。その四人で、食事がしたい。だけれども、それはきっと叶わないことも分かっている。

 母さんは父さんを、それから僕を、恨んでいるみたいだから。


「あれ……」


 長い時間をかけて前の人が呼ばれていく中、反対に出てくる人に僕は目を奪われる。

 彼女は僕と同じ制服に袖を通していて、中に居るであろうお医者様に礼儀正しくお辞儀までしている。

 知っている人だろうか、と目線で追っていると、彼女は僕の知っている人で間違いなく、彼女もまた僕の視線に気が付いたようで「げっ」と表情を歪めた様子が確認できた。


「遊佐さん」

「……よぅ、涼村」


 しかも僕は、彼女のことを昨日知ったばかりの覚えたてほやほやであり、見間違えるはずもなかった。

 気の所為ではない、というレベルで視線を送り続けていると、彼女は観念した様子で僕らの前に足を運んできて、苦虫を噛み潰したような顔で挨拶するのだった。


「結月。彼女は?」

「遊佐さん。さっき説明した、楠木さんを襲っていた人」

「っ、あんた、言い方ってもんが……、いや、間違ってないけどさ……。は、はじめまして」

「結月の父。涼村桔平です。よろしく」


 僕の怪我に直結する人物とあってか、父さんは椅子から立ち上がって威厳溢れる物々しい顔付きで、遊佐さんを見下ろして手を差し出すのだが、遊佐さんはすっかり怯えた様子を見せるのだった。


「父さん、怖いって」


 他人に迷惑が掛かるくらいの過保護は、やっぱりちょっとばかし遠慮願いたいところだ、と痛感するのだった。









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