15
宝物。
「お父さんには繋がらなかったから、お姉さんが迎えに来るそうだ。それまで安静にしていろよ。……ったく、何があったらこうなるのか」
「あはは。こ、転んじゃって……」
「……事のあらましは既に楠木から聞いてる。誤魔化しても無駄だ。明日以降、遊佐達には呼び出しを掛けるつもりだ。始末については、三年の春ということもあって、学校側としても大きくしたくないんだと。楠木と遊佐達の二者間で済ませて欲しい、というのが本音らしい。まったくもって、くそったれだ」
いてぇよぉいてぇよぉ、と情けない結果を出した状態で楠木さんに肩を借りて辿り着いた保健室では、とんぼ返りの如きスピードで戻って来たかと思えば、頭から流血する僕を見てまず最初に勅使河原先生の切羽詰まったような声が聞こえて僕は処置に当たられた。
意識もはっきりしていること、血が流れ出たこと、歩けていること。
その二点が幸いしてか、勅使河原先生の見立てでは問題無いと言うが、万が一を考慮して僕は今保健室のベッドで寝かされていた。
他にも体の節々が痛むが、軽い打ち身で済んだよう。見てくれだけは痛々しいものだが、目立つ傷は額の傷だけのようであった。
そこで僕に迫られたのは、今ここで救急車を呼ばれて病院に運び込まれるか、明日病院での精密検査を受けるかの二択であり、後者を選んだのはきっと間違いでは無いはず。
まだまだ部活で残っている生徒が多くいる中で救急車にて緊急搬送なんてされた日には、様々な噂が飛び交うに違いない。せっかくあのトラブルを穏便に収めたというのに、ここで目立っては僕の努力も水の泡になってしまうではないか。
ただし、勅使河原先生曰く僕の目の上はぱっくりと割れていたらしく、精密検査など関係なく病院には行けとのことだった。ガーゼを貼られた下の傷口を見るのが今からでも恐ろしくて堪らない。
その間、楠木さんは勅使河原先生に言われて宮野先生を呼びに保健室を飛び出して行った。宮野先生はその時に今回の一件の経緯を聞いたのだろう。
僕としては、目立つクラスメイトこと遊佐さん達の将来を邪魔する意図はなく、彼女たちの進路に傷をつけるという意味合いで怪我をしたかった訳ではない。そもそも、初めから怪我をする計画なんて杜撰としか言えず、計画として破綻しているだろう。
僕はただ、少し派手に転んで今回のことはお互いに無かったことにしましょうね、という折り合いをつけさせたかったのだが、思いの外僕が大怪我を負ったことで楠木さんが正直に打ち明けてしまったらしかった。
「……ただ、今回の一件。どう始末をつけるかは楠木はお前に決めて欲しいそうだ。楠木曰く、涼村が一番の被害者、だそうだからな」
「えっ!? ち、違いますよ、僕は……痛っ」
「動いちゃ、駄目」
反論しようと上体を起こした途端、頭が揺れるような頭痛が襲って顔を顰めると、話題の中心にいる人物である楠木さんがベッドの横から出した手に支えられて、僕は再び枕に頭を戻す。
「えっと、僕はただ自分から首を突っ込んで自分で怪我をしただけなんです。遊佐さん達から傷付けられたわけじゃないので、その申し出は、受け入れられないです……。直接的な被害なら、楠木さんの方こそ……」
「だ、そうだが?」
「……分かりました。でも、涼村くんは関係者です。彼の意見は、尊重させてください」
「初めからそのつもりだ。だが、事の始末はお前達だけでは決めさせられない。落としどころは先生達の方で考えさせてもらうが、それでいいか? もちろん、意見は参考にさせてもらうが」
僕としては、子供の喧嘩程度で済ませられればそれが一番だったのだが、まさか僕の怪我のせいでここまで発展することになるとは思ってもみなかった。
そう考えると僕の行動は余りにも浅はかだったと言えるだろう。
昨日の軽はずみな発言に加えて、僕は何をしても事を荒立てるばかりで碌なことにはならないと、己の不甲斐なさに打ちひしがれるばかりだった。
「……あの、退学とか、素行不良とかの扱いには、ならないですよね?」
「お前達は被害者側だろうが」
「い、いえ。遊佐さん達が、です」
僕の言葉に先生と楠木さんが困ったような表情で目を合わせる。
「……私は、涼村くんがそういうのなら、それでいいです」
「まぁ、学校側からすれば助かる話だが……本当にいいのか? 楠木は、怖い思いをしたんだ。自主退学は無理だが、謹慎くらいなら求めても罰は当たらないと思うけどな。それに、ただ許すだけじゃあいつらの為にもならん」
「いえ、私は……。涼村くんは、どうしたいの」
「じゃ、じゃあ、一つだけ。遊佐さん達には、楠木さんにきちんと謝罪してもらいます。僕は、それだけで十分です」
「だ、そうです」
僕達の返しに、宮野先生は「本当にそれでいいのか」といった風に苦笑を浮かべて首筋を指先でかく。
それでも、楠木さんまでもがそれで納得しているのだから、その意見を受け入れざるを得ない様子で立ち上がり、先生は僕の肩口に手を置いた。
「よく頑張ったな、涼村。先生は一人の男として、お前を誇りに思うぞ」
「宮野先生?」
そんなに褒められるようなことをしただろうか。
自覚はないが先生が言うのだからそうなのだろう、と一人の大人として尊敬できる宮野先生の言葉を受け取った後、保健室は僕と楠木さんの二人きりの静寂に包まれる。
勅使河原先生は宮野先生と一緒に出て行ってしまっているため、僕達は正真正銘、二人きりであった。
昼間、あんなにも楠木さんと会話するためにはどうすればいいか、とひたすらに頭を捻ったものの、いざこうして場を設けられるとなると却って頭の中は真っ白になってしまう。
僕が悪かった。その一言が口から出てきてくれない。
「涼村くん」
しかし、思い返してみれば部室でも常に二人きりだったがために、この時点で緊張する要素も無いかと思って一周回って冷静さを取り戻していると、薬の匂いが漂う保健室で、楠木さんがおずおずといった様子で口を開いた。
「その……、ありがとう。助けてくれて」
「いやいや、僕は何もしてないよ。本当に。それよりも、手首、赤くなってるよ。大丈夫?」
「氷のう貰ってるから、私は大丈夫」
「なら冷やしておかないと」
「固定しておくのって、意外と面倒なの。それとも何。支えてくれるの?」
「僕の頼りない手でよければ」
「……頼りなくなんて、ない」
「それは嬉しいことを言ってくれるね」
「聞こえなかったふりくらいしなさいよ。あんたは相変わらず、デリカシーがない」
「なんか、前もこんなことあったような気がするね」
「あの時は、あんたが私の手首を掴んで……って、そうじゃない。……あの人達から私の、私の大切な宝物を取り返してくれて、本当に嬉しかったの。だから、ありがとう。気持ちだけでも、受け取ってほしいの」
仰向けになって、ベッドから手だけを出した僕は彼女の氷のうを支える形で手を差し出したのだが、何故だか熱いのと冷たいのが二つ重なる感触にドキり、と胸を高鳴らせる。
それでも、楠木さんが何でもないような様子のままであるため、友達であればこれくらいは普通のことなのかと思い込むようにしてそれ以上考えることを放棄する。
これ以上考えてはいけないと感じ取ったから。
僕達は友達。と、自分に必死で言い聞かせていると、二人きりの空間で一切緊張せずに楠木さんと軽口の応酬なんて真似ができるようになっていることに気付いて、思わず笑みが零れる。
これこそ正しく、友情の証。と僕が一方的に思い込んでいるだけであるがそれができることに感動を覚えていると、彼女は思い出したかのように話題を元の道へと戻していってしまう。
もう少しの間だけ、友達としての彼女との時間を堪能していたいという本音を胸に秘め、今度は照れ隠しで言葉を選んで口にする。
「宝物、って?」
「とぼけないで。聞いてたんでしょ。私は、本当に嬉しかったんだから」
「はい、すみません。ばっちり聞いてました」
扉の陰から覗くことしか出来なかった、立ち入る勇気が出せなかった僕の竦んだ身体に、勇気を与えてくれた彼女の言葉。
忘れるわけがない。
忘れられる、わけがなかった。
僕の足が動いたのは、その一言がきっかけだったのだから。
「僕は、ファンでいいの?」
「……友達、でしょ」
「そっか、うん。そうだね。僕達は、友達だ」
改めてその言葉を口にするとなると、途端に気恥ずかしさが湧いてくるようで、僕は楠木さんの顔を見れなくなってしまう。
「私は、もっと前から思ってたけど」
「僕のことを? 友達だ、って?」
「わ、悪い!? だって、あんなに仲良くなったのは高校に入ってから初めてだから……」
「いやぁ、お恥ずかしながら僕も小学校以来だよ。誰かと一週間も仲良くできたのは」
「……そ、そうなの」
そう思うと、明らかに僕は人間として何かが欠落しているように思えてしまい、自分で言ってて悲しくなる。
だが、その言葉に一切の嘘はない。
両親が離婚する前までは確かに存在した、友達という関係なだけの他人。そんな化石の如き記憶しか持ち得ない僕は、約十年ぶりにできた友達を前にしてどのように振舞えばいいのかが分からなくなっていた。
「……えぇと」
気まずくは、ない。
だが、なんと言えば良いのか。そう、もどかしい。
友達付き合いにブランクがある者同士で友人関係を結ぶと、長い時間孤独にさらされることによって研ぎ澄まされた一種のプライドのようなものが邪魔をして、お互いに鏡合わせみたいに耳まで赤くさせて顔を背けてしまう。
けれどもこれは決して恥ずかしいとかではなく、改めて友人だと認識した僕の意識が不慣れであるがゆえの反応。だがそれも裏を返せば気恥ずかしいということになるのだが。
楠木さんと二人きりの時間は、今までいくら沈黙が続いても苦ではなかった。
お互いの息遣いが聞こえ、ペンが走る音に耳を傾けていても緊張が走ることは無かった。
だというのに、今だけはどうしてか彼女の息遣いから触れた指先の感触でさえも気にかかって仕方が無い。
今まで感じたことのない緊張感に包まれ、全身にじんわりと汗が滲むような感覚を味わっていると、僕と楠木さんの間に流れる微妙な空気を裂くようにして保健室に彗星が如く降り立つ影が一つ。
「ゆーちゃんッ!!!」
「「っ!!?」」
カーテン越しに聞こえてきた声に、僕と楠木さんは思わず肩をビクン、と大きく跳ねると同時に、同じ極の磁力が弾き合うかのように互いの手を引いて何事もなかったかのように姿勢を取り繕う。
その直後、迷うことのない足音がカーテンを開け放つのだが、声の主は僕の姿を確認すると同時に、飛び込んでくるのだった。
「ゆーちゃんゆーちゃんゆーちゃんゆーちゃん、ゆーちゃん!! 頭打ったって本当? 大丈夫だった? あぁ、痛そう。痛かったよね。ゆーちゃんをこんな目に逢わせたやつらはお姉ちゃんが許さないからね。だから安心して──」
「ひめ……ね、姉さん! 大丈夫だから……! い、一旦、落ち着いて!」
僕を「ゆーちゃん」なんて呼ぶのはひめ姉以外にいない。
扉の開く音、駆け込んでくる足音でひめ姉がどれくらい焦っているのかも分かって、ひめ姉をどうにか受け止めるべく身構えていたのだが、ひめ姉の心配を感じさせる熱烈な愛のハグの前に僕は為す術なく取り込まれてしまうのだった。
「あぁっ! ごめんねゆーちゃん! 苦しかったね、痛かったね」
僕のギブアップの合図にようやく解放してくれたひめ姉の姿は見慣れたスーツ姿で、仕事から直行してくれたのが一目で分かる。
却って申し訳ない気持ちが湧いてくるが、これ以上ひめ姉に気を遣わせる訳にもいかないためこの思いは胸に秘めたまま、ひめ姉の体を引き剥がす。
「あ、陽葵ちゃん。陽葵ちゃんも怪我してるのね!? 安心して。二人に手を出した奴らには私が──」
「だからひめ姉、落ち着いてってば。先生から、話聞いていないの?」
「ん? 聞いてないけど。だってゆーちゃんが頭に怪我したって来たら、話なんて聞いてる余裕なんて無かったから!」
ひめ姉の後ろで案内の役を買って出た宮野先生と勅使河原先生がひめ姉の言葉を肯定するように頷いているのが見える。うちの姉がすみません。
その後、きちんと先生から事の経緯について話を聞き、宮野先生は担任として、勅使河原先生は部活の顧問としてひめ姉に頭を下げた後、僕と楠木さんは保護者であるひめ姉と共に帰路につくことになった。
部活の活動時間。
即ち放課後である以上、早退のような得した気分にもなれなければ、楠木さんの補習が進んでいないことも気がかりな状態。
そんな中でぼんやりとひめ姉と楠木さんの三人で駅までの道程をいつものように自転車を押して歩いて帰る。
楠木さんは当初「私のせいで」と頻りに謝罪の言葉を口にしていたが、経緯を知って状況を判断したひめ姉は彼女の謝罪を受け取るつもりは無い、ときっぱりと言い放った。
先生が言うように楠木さんも僕と同じ被害者であることも理解しているからこそ、謝罪の言葉なんて必要ない、と彼女が気に病む必要は無いと繰り返し、ひめ姉は楠木さんの心にその想いを刻み込むのであった。
そのお陰か、それとも日曜日の時からそうなのか分からないが、帰り道ではすっかり仲良くなった様子で自転車を押す僕の前を二人で楽しそうに話ながら歩いていた。
「それじゃあ、また、明日」
「うん。また明日」
いつもなら僕の方を振り向かずにそれだけを言い放って改札に向かって行くはずの楠木さんだったが、友達になった影響なのか、彼女は少しだけ恥ずかしそうにしながら振り返って小さく手を振ると、ひめ姉にはぺこりと頭を下げて改札へと消えていく。
友達効果ってすげぇ、なんて思いながら、たったそれだけで心が熱を持ったように満たされるのを感じているとひめ姉がニヤニヤしながら腕に絡んでくる。
「ひめ姉、歩きづらいよ」
「いいの。心配したんだから」
「心配かけて、ごめん」
「それもいいの。そもそも、ゆーちゃんは心配かけなさすぎなの。でも、こんな心配はもう二度としたくなんかないから、これはゆーちゃんへの罰です。ここで言うべき言葉は何か、分かってるでしょ?」
「……うん。心配してくれて、ありがとう」
「そう、それでいいの」
本当に僕を心の底から心配してくれていたのが伝わってくるようで、少しの歩きづらさもひめ姉の優しさの前では一切気にならない。
「ゆーちゃんの中では、もう答えは出てるの?」
「遊佐さんたちのこと?」
「名前までは、知らないけど。そう。陽葵ちゃんに襲い掛かった子達」
「答えも何も、僕の怪我は僕が自分で首を突っ込んだだけだから、遊佐さん達が罰を受けるのはお門違いだし、僕が彼女たちに何かを要求するのも違うからね。彼女たちには、楠木さんへの態度に関してだけ謝って貰えれば、それで十分だよ」
「……ゆーちゃんがそう言うなら、納得するけど」
「全然納得した顔してないじゃん」
「そりゃあそうだよ! ゆーちゃんの顔に傷が付いたんだよ!? 連絡がきたとき、心臓が止まるかと思ったんだからね!?」
「……父さんは?」
「お父さんには一応メッセージは送っておいたから、明日は大変になるんじゃない? 今頃飛行機ですっ飛んで帰ってきてるんじゃないかしら?」
「今、どこにいるんだっけ」
「確か、沖縄だったかしら。はーぁ、私も仕事がなかったらゆーちゃんの病院にも入院にも付きっ切りでいられるのにな~」
「入院する程じゃないよ……」
その後、家に帰ってきた僕はひめ姉の献身的すぎる看病に襲われる羽目になったものの、正紀さんの迎えがやって来てなんとか平穏無事にその日を終わることができた。
食事ならまだしも、着替えや風呂に至るまで僕の四肢に取って代わろうと働こうとするのには困ったものだ。なんとか阻止することができたのは成長と言えるだろう。中学生までは押し切られていたから。
迎えに来た正紀さんにまで心配されてしまったのだが、今では勅使河原先生に貰った大きめの絆創膏一枚で事足りているため、見た目ほど重くはないと僕の口から伝えると、胸を撫で下ろしてひめ姉を回収していってくれた。
「……明日は、病院かぁ」
学校を休める、と言えば聞こえは良いが、出来ることなら午後からでも行きたいところだ。
ただでさえも補習を受けるくらい授業に遅れてしまっているし、何よりも今日進められるはずだった楠木さんの補習課題がさらに遅れてしまう可能性が出てきてしまっている以上、提出期限の金曜までに終わらせられるか不安になってきているからだ。
「でも、父さんがなぁ……」
ひめ姉曰く、出張先から飛行機ですっ飛んで来ている父さんの気配を知って、僕の要望が叶うのか否かを考えあぐねていると、僕はいつの間にか布団の中で眠りに落ちているのだった。
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