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また明日。
「お前だけだぞ、涼村。まだ進路が決まっていないのは」
高校三年の、春。
金の名前が付く割には金色要素が皆無な気がする連休明け初日に、僕は二年次より継続される担任に呼び出しを食らって職員室の真ん中で無様にもお叱りを受ける。
所在無さげに立たされた僕と、椅子に腰を据えた教師。
まるで罪過を犯した僕が判決を待つかのような空気を漂わせて待っていると、困った様子で眉を顰めた教師から告げられたのはそんな叱責だった。
いや、それは叱責と言うよりかは僕の将来を不安視するような忠告であり、担任の教師として相応しい助言と叱責の丁度中間に位置するような声だった。
「はぁ」
先生が僕を心配して言ってくれているというのが分かっていながら、僕は目を逸らしながらイエスともノーとも取れない不躾な溜め息を吐くばかり。いつもそうだ。
「涼村お前なあ。先生はお前の将来のためを思って言っているんだ。何もお前のことが嫌いだから言ってるんじゃない。それに涼村、お前この前の中間考査一気に成績落としただろ。クラスから二人も補習対象者を出して、先生は悲しいよ。ここ最近のお前の授業態度も他の先生方から報告を受けているし──」
始まってしまった。
今までは助言と叱責の間で揺れていた針の先が、僕の態度一つでお説教にまで振り切れてしまったようで、目の前の男性教諭はくどくどと小言のように不満を垂れ流し始める。
何も全てが僕の責任、という訳ではあるまいに。
なんて冗談のつもりでも言えれば少しは空気が和らぐのだろうが、僕にできるのはこうして頭の中でぐちぐちと誰にも聞こえることのない言い訳を並べることだけ。
この高校が進学校だからか、受け持ったクラスの成績に応じて教師の成績が上下でもするのか、と中身のない説教を聞き流しながら、先生の言った通りすっかり成績を落とした僕の頭は余計な事ばかり考えてしまう。馬の耳に念仏ならぬ、僕に説教である。
果てには教頭先生の薄毛がどうの、と言った愚痴にまで発展した先生の説教をボケ~っと聞き流していると、思わぬところから救いの手が差し伸べられてきた。
「まぁまぁ宮野先生。コーヒーでも飲んで落ち着いて下さい。涼村くんに教頭の愚痴を言っても伝わりませんよ」
僕の前に垂らされた一本の蜘蛛の糸。それを垂らした釈迦の正体は可愛らしいエプロンを身に付けたこの学校の養護教諭である、勅使河原ゆかり。彼女はこの高校の生き字引と噂される程に長い勤続年数と、てっしーやてしゆか、と言った愛称で呼ばれる程に親しみやすい雰囲気が特徴のおばちゃん先生。もちろん、こんな僕のようないてもいなくても変わらないような生徒ともかかわりがあって。
そんな勅使河原先生の救いの手によって差し出されたコーヒーのお陰で宮野先生の説教は中断され、熱々のコーヒーによって頭を冷やした担任は深い溜め息を吐いた後に書類の山から一枚の紙を僕に向けて差し出してくる。
「進路希望調査だ。もう一回、提出し直しだ。第一希望が無くてもいいから、何かやりたいこと、興味があることがあったら備考欄に書いて来週の月曜までに持ってこい。涼村が何をしたいのか、何になりたいのかが少しでも分かれば、先生も出来る限りのことはしてやれるから」
「はい……」
「分かったらさっさと教室戻って補習課題に取り掛かれ。期限までに必ず終わらせるように、ってもう一人にも伝えておいてくれよ。先生は一杯やってから行くから」
「うふふ、コーヒーはお酒ではありませんよ、宮野先生」
「飲まずにはやってられないんですよ、勅使河原先生ぇ!!」
進路希望調査の紙を受け取った僕は一礼した後、勅使河原先生の微笑みを背中に受けながら職員室を後にする。
先日までの試験の影響で出されていた部活動禁止令によって抑えつけられていた鬱憤を晴らすかのように聞こえてくる部活動に励む声。
その声が入り混じる廊下を、一人緩やかな歩幅で教室を目指す。急いだところで、課題が終わっていようがいまいが最終下校の時間が迫れば否応なしに帰らざるを得なくなるのだ。補習仲間が一人で奮闘しているかどうかなんて、僕には関係のない話。時間を潰すという名目もかねて、校舎から大半の生徒が消える放課後の特別な時間を味わいながら教室に向かうとしよう。
結局補習なんてものは己との闘い。自分の手を動かさない限り終わる事はない。であれば、今から始めたところで補習課題が終わることなどまず有り得ないのだから、僕はただ時間を潰すことだけを考えていればいい。
そう思って、わざわざ遠回りの道で夕暮れの茜差す校舎を鼻歌交じりで徘徊する。
「~~~♪」
担任の宮野先生は、僕をストレスの捌け口のように愚痴をこぼすくらい教師と生徒の間に壁を作らない人であり、クラス担任も二年目となった今ではクラスメイトからの評判は好評らしい。
らしい、と言うのは噂をただ耳にしただけで僕が直接聞いた訳では無いことに起因する。ただ、そんなクラスの下馬評に反して、僕はあの先生がどことなく苦手だった。
苦手、と言うと少なくない語弊が生まれてしまうのだが、僕は昔から先生のみならず、人と関わるのが苦手だった。
嫌い、ではなく苦手と評したのは、単純に嫌ではないから。むしろ人恋しくなるくらい関わりがないと苦しくなるくらいには寂しがり屋を自称できるのが僕であり、人と関わるのは好きな方であった。ただ、好きだから得意、と言えればこんな僕の性格も肯定できたのだけれども、必ずしも好きと得意は等号で結ばれる訳ではないことは僕自身で実証済みであった。
我ながら難儀な性格をしていると思う。
「……言葉が、出てこないんだから」
担任の宮村先生に問われた時も、本当なら言いたいことがあった。
迷惑をかけてごめんなさい、って謝ることも、気を遣ってもらったことへの感謝だって本当ならするべきだった。
それを分かっているというのに、僕の口は頭で考えたことを率直に言葉を口にしてくれない。頭の中や心の中ではこうしていくらでも考えごとが出来るし、いくらでもフレーズが湧いてくるのだが、いざ話を振られると一瞬にして頭が真っ白になってしまうのだ。これを人は『コミュ障』と呼ぶのだろうが、人と会話をすれば期待外れと落胆され、落胆される謂れも責任も全て理解した上で、後になって頭の中で反省会を開く僕はどれだけ惨めなことか。
そんな風に誰かに理解してもらいたいと御託を並べてみた所で、結局は何もかも言葉にしなければ伝わらないし、反省したところで悪かったところを実戦で治すこともできないのが僕であった。
結局はこのコミュ障とも付き合って行くしか無い、と割り切って前を向くしかないのだ。
……なんて張り切ってみたところで、そんな惨めな僕自身のことを僕が一番嫌っている、という事実は変わらない。
「後ろ向きに前向きで行こう、ってね」
とは言え、自分のことばかり考えても居られず、いつの間にか目の前に迫った教室の扉の向こうで待ち受ける補習にも向き合わなければならなかった。
僕が説教を受けている間にも補習を進めているはずの、本来であれば自主的に勉強する人たちの集まりであるはずの進学校において珍しい補習仲間と絆を深めようではないか、と違う意味で意気込んで扉を開く。
第一声は決めてある。事前に台本を用意しておけば、僕だってきっと話せるはずなのだ。
「今日もいい天気だね――って、あれ、いない?」
僕が持ち得る会話デッキから表示したるは、無難な会話ネタとして殿堂入りを果たした導入に最も適していると言われる【天気の話題】。
だがしかし、そのカードを表側表示でスタンバイしたところで相手が不在であれば意味を成すはずもなく、『オレのターン、ドロー!』と意気込んだ僕は、ただ誰もいない教室に向かって笑顔を振り撒くイタいやつになっただけで終わるのであった。
「……。補習のプリントは、っと」
気を取り直して教卓に乗せられた補習のプリントの束を手に取った僕は、唯一人の座っていたであろう痕跡の残る教卓の前の席を避けて自分の席に腰を下ろす。
何もイタいやつで終わったことを気に病んで、補習仲間と手を取り合う事を諦めたわけではない。先にも述べたように、補習とはつまり自己との対話。己との闘いという個人競技なのである。ゆえに、誰かと慣れ合う必要などない。
とは言え補習の中身がどのようなものかは気になるため、教室には誰もいないと分かっていながら誰もいないことを再確認し、内容が進んでいるであろうプリントを覗き見る。
これは何もカンニングしているわけではない。言うなれば、先人の知恵を借りようとしているだけ。これまでも人類はそうやって進歩してきたのだから、これは決して悪いことではないはず。そう言い聞かせてプリントに視線を落としたところで、僕は後悔するのだった。
「……全部、間違ってる?」
補習を受けているとは言え、僕だって進学校の一員。
進路希望調査に気を取られてテストで赤点を取ってしまったとは言え、補習の内容は去年の振り返りのようなもので、一度通ってきた道ならば簡単に解ける。そしてそれは同じ補習仲間にも言える事で、本来であれば補習のプリントなんて言うものは既に通った道を歩き直すだけで、敵は量が多いということだけであるはずが、補習仲間は本来の敵以前に課題の中身に苦戦しているようだった。
僕は参考に出来そうにないことを無念がって肩を落とす。
カンニングに時間を使うまでもなかった、と思ったよりも長くなってしまった時間の無駄遣いに後悔して席に向かおうとした、その時だった。
「──ねぇ」
「はひぃっ!!!?」
僕が振り返るのと声が掛かるのはほぼ同時で、僕は足元にきゅうりを見つけた猫みたいにその場で飛び跳ねて後ずさる。当然、跳ねたのは肩だけだけれども。
「何してんの?」
驚いたのは、いないはずの人がいたことに対して。
それともう一つ。振り返った先で目と鼻の先にあった、見慣れないクラスメイトの同年代とは思えないような大人びた美貌を誇る少女に対しても驚きを隠せなかった。
「驚きすぎでしょ」
「えっと、いや、あー、その」
「そこ、私の席なんだけど。邪魔」
クラスメイトの顔に『見慣れる・見慣れない』の項目があること自体おかしいのだが、僕の言う見慣れない顔、というのは世間一般でいうところの見慣れない、という意味合いが込められている。
例えるなら、ソフビ人形の中に雛人形が紛れていた、といった感じか。
そんな雛人形の彼女は、明らかに警戒心を露わにした様子。
相手も僕の存在に驚いてはいるのだろうが、それ以上に訝しむような視線が突き刺さる。
言葉が出ないのはいつものこととはいえ、僕の事情は目の前の少女には関係ない。
ただでさえ関係の薄いクラスメイトの中でもとびきり関わったことのない、巷で噂になるようなクラスメイトを前にした僕は、あまりの衝撃でとち狂ったような言葉を口走ってしまう。
「じ、字も、綺麗なんだね……」
「は? 何、勝手に見たの?」
「い、いや、その……。こ、答えを写させてもらうかと思って覗いたけど、全部間違ってたからまだ何も写してません。ご、ごめんなさい」
「は? 全部間違ってるって何? ちゃんと解いたんだけど」
新手のナンパか気持ち悪い、と自分の心の中で突っ込みつつ、相手の怒りが全くと言っていい程治まっていないどころか、むしろ相手の警戒度が余計に上がったような空気を感じ取った僕はすかさず正直に打ち明けて謝罪を口にする。こうすれば相手の怒りがこれ以上になることはないということをこれまでの失敗という名の経験値によって学んでいるため、その経験に倣って正直に打ち明けた途端、話題のクラスメイトは僕を押し退けて補習課題に噛み付いていく。
「ねぇ、何が、どう違うの。あんたのも見せてよ」
「えっ、あ、いや、その……。僕のは、何と言うか」
「は? 真っ白じゃん。こんなので私のが全部間違ってるって言うの? 私の一時間を馬鹿にしないで。ふざけないでよ」
「あ、はい……ごめんなさい……」
一時間かけて補習課題一枚分か、という感想と、美人が怒ると腰が抜けそうになるくらい怖い、という二つの感想を抱きつつ、未だ手付かずの僕の課題を机に叩き付けた彼女の余りの癇癪っぷりに目を合わせることも出来なくなった僕は、黙って頷き繰り返して謝罪を口にするばかり。
間違っているのは事実だが、それを再度指摘すれば次はどれくらい爆発するのか分からない以上、ここは静観が正解。そして諦めが肝心だと理解して引き下がろうとした時、コーヒーを一杯ひっかけ終わったのか宮野先生が教室に顔を出しにやって来た。
「おーおー、元気だなお前ら。あれ、二人は仲良かったか?」
「仲良くなんてないです」
「即答かよ。どんまい、涼村。まぁいいや、先生は忘れ物取りに来ただけだから」
「先生、待ってください。課題プリント、一枚終わったので採点してもらっても良いですか? あいつが、私の答えが全部間違ってるとか言うので」
「えぇ……。一枚だけだぞ?」
あからさまに面倒くさそうな顔をした宮野先生はそう言って胸元からサインペンを取り出すと、課題プリントの模範解答が記入されたものとクラスメイトの彼女が自信満々の様子で差し出した課題プリントを見比べて答え合わせをしていく。
その最中で噂のクラスメイトが「見てなさい」とでも言わんばかりに胸を張って見せるのだが、その自信が砂上の楼閣であることを僕は知っている。
「あー……、自信満々なところ悪いけどな、確かに涼村の言う通り、全部間違ってるみたいだ」
「そんなっ!? どこが、どう違っているんですか!? 教えてください!」
「解き方というか、なんというか……。あー悪い、先生この後職員会議があるんだ。終わったらまた様子見に来るから、分からないところがあれば涼村に聞いてくれ。間違っていることが分かるってんなら、涼村は分かるんだろ?」
「はぁ……、まぁ、多少は」
「よし、涼村。お前には楠木の補習課題を見る役目を授けよう。では、後は若い二人でよろしくな!!」
「ちょっ、先生!!? 私は、まだ──」
去って行く先生の背を追って教室から身を乗り出すも、先生が足を止める気配すら見せずに去って行くものだからクラスメイトの彼女は諦めた様子で戻ってくる。しかし、先程まで職員室にいた僕は知っている。この後に職員会議なんて無いということを。宮野先生は英語担当であり、補習課題の数学が専門外であるから逃げた、ということを。
それにしても、ローマ数字が横に付く高校数学でも簡単な部類に入る課題を見る否や顔色を変えて生徒に押し付けて逃げていくというのは、余りにも情けなくはないだろうか。
残された僕と、気が滅入るような溜め息を吐く彼女の間に漂う空気は最悪なんてものではなく、今にも補習課題を放り出して逃げ帰りたいとすら思える程のもの。それでも逃げられないのは、何故か彼女がやる気を見せているから。さっきまでの警戒心どこ行った?
「……早く教えてよ。どこが違うの」
「……い、意外だ」
「何? 私が勉強してるのが似合わないって言いたいの?」
「い、いや、そうじゃなくて……。楠木さんはもっとこう……なんでも出来るイメージだったから。補習受けてる姿も、真面目に取り組んでる姿も、意外、というか……様になってる、というか」
「は? 馬鹿にしてるの? あんたが私をどう思おうが知ったこっちゃないけど、このことを言い触らしたら、ただじゃおかないからね」
「このこと?」
「補修を受けてること!! 今日だって、一回帰る振りして戻って来たんだから……」
「やっぱり、意外だ」
「うるさい。いいから、早く教えて。分かるんでしょ? あれだけ御託並べたくせに、教えられないとか言ったらぶっ殺すから」
「い、意外と、口も悪い……!」
「口、も?」
「あ、あんまり睨まないで……! 美人に睨まれるのって、想像以上に怖いから……!」
「は? キモ」
人気の、噂の、モテるクラスメイトこと楠木さんは、僕を隣の席に座らせると不服そうに深い溜め息を吐いて顔を逸らす。あからさまに嫌われている、と言うか警戒されている状態のまま、僕は楠木さんが分からない、と言う箇所を一つずつ丁寧に教えていく。
一か所ずつ、というかほぼ全てなんだけど、彼女は一体どうやってこの学校に入学したんだろうか。
こう見えても二年次は一度だけとは言え学年順位二桁に入ったこともある実績を持っているため、課題の中身は問題無く解けるし解説だって出来る。まぁ、それ以降は右肩下がりに順位は下降していくばかりなのだが。
それに、教えるのが嫌いじゃなかった僕は彼女が少しずつ解けるようになっていく過程を楽しく感じていた。これが教える喜びなのか。
ただ、彼女の分からない箇所は多岐に渡るがゆえに補習課題一枚を理解させて解かせるだけでも残りの時間全てを使ってようやくといったところで、最終下校時刻を知らせる鐘が鳴り響くまでかかってしまった。結局、宮野先生が戻ってきたのは僕達が帰りの支度を始めた頃だった。
「お前たち二人とも、課題全部終わるまで毎日居残りな。サボってもいいが、その分課題が増えると思えよ~」
最後にそれだけ告げるために顔を見せたかと思うと、「早く帰れよ」と一瞬にして矛盾してみせる宮野先生は流石の一言に尽きる。先生のやり方はまるで闇金の取り立てのようである。流石宮野先生、汚い。
戦法が汚い先生の一声に楠木さんは案の定顔を青くさせたのだが、手早く荷物をまとめた彼女は「明日もよろしく」という僕の想像だにしていなかった言葉を残して教室から去っていってしまう。
「……今日だけじゃ、なかったの?」
ポツリと零した僕の問いに答えてくれる人は誰もおらず、こうして僕はひょんなことから学校一の美人とも噂される楠木陽葵に勉強を教える役目を担う羽目になってしまうのであった。
「明日は、流石に先生もいるよね……」