なな
主催である王妃からの挨拶も終わり、滑るようにファーストダンスのためのワルツが流れ始まる。
王族に連なる高貴な人たちが優雅に踊るダンスホールに、オルヴィアがいる光景は本当に夢のように綺麗だったけれど、ひどく現実味がないものに見えた。
このまま本当にオルヴィアは殿下と結婚してしまうのだろうか。
どんなに思い返しても私が知る妹は、一日のほとんどをベッドの上で過ごす病弱な少女だ。
外の世界に相応の憧れを持っていて、無茶をして夜会に出ては体調を崩して。
「どこもつらくはない時なんてないもの。それなら無理してでもしたいことをして具合が悪くなることなんて、私ちっともつらくはないと思うの。お父様はおおげさなのよ」
ともするとわがままとも取れる言葉だけれど、私には自由を求める妹の気持ちも痛いほどわかっていた。
でも王子様に見初められて、きらびやかなダンスホールで踊ることが、本当にオルヴィアの望んでいたことだったのだろうか。
もやもやと考えているうちに音楽が終わる。
周りに合わせて拍手をしていると、隣にいたサディアスの体がすっと動く。
「アマーリエ、その、僕は体調を抜きにしても実は出不精で、本当に長いこと人前で踊っていないから、もしかしたら下手くそで君に恥をかかせてしまうかもしれないのだけれど……」
随分と長い前置きを一気に言い切り、サディアスは本人の言葉とは裏腹に滑らかな動作で手を差し出す。
「一曲踊っていただけませんか?」
もちろん、答えは決まっている。
「はい。喜んで」
華やかな弦楽器の響きとともに、私は導かれるままにダンスホールへ踏み出した。
銀色の髪がシャンデリアの光を反射して、絹糸のようだ。
デビュタントの時よりも緊張しているかもしれない。
「あの、サディアス様……」
「なに?」
「私のほうこそ、下手で恥をかかせてしまうかも」
「なんでもそつなくこなせるのに?」
「だって、私、ダンスのことは義務としか思っていなかったから、上手になろうとしたこともなくて……」
きゅっとサディアスの眉が寄せられる。
「ダンスは嫌い?」
「……わかりません」
素直にそう答えると、ふわりと体が浮いた。
サディアスが私の腰を抱いて、音楽に合わせて半回転したのだ。
「きゃ……!」
視界がぐるりと回って、力強いサディアスの腕を感じる。
そっと床に下ろされ、再び手を引かれる。
私の足はほぼ無意識にステップを踏んで、彼の動きにぴったりとついていた。
それから私たちは何も語らず、無邪気に踊りを楽しんだ。
サディアスが私にこの時を楽しんでほしいと思っていることが、繋いだ手のひらを通して伝わってくる。
まるで一つの生き物になったかのように、何も考えなくとも相手の動きがわかるし、自分がどう動けばいいのかもわかる。
とても不思議で、幸福な時間だった。
幸福のあとには、不幸が訪れる。
などという迷信を信じているわけではないが、現実は案外そうなるらしい。
サディアスとのダンスが終わり、夢見心地でダンスホールから下がった私を待っていたのは、硬い表情の父だった。
「お父様……」
冷水を浴びせかけられたかのように、染みついた恐怖が足元から駆け上がる。
とっさに叱られると思ったのだ。
腰に添えられたサディアスの手が私の緊張を読み取り、強張るのがわかった。
しかし父は穏やかな笑みを浮かべ、サディアスに挨拶と私のエスコートをしてくれたことへの感謝を述べる。
「アマーリエ、今日のお前も一段と綺麗だよ」
「ありがとう、ございます」
「オルヴィアとは違うお前の美しさに、今夜は誰もが気が付いたことだろう」
そうだ。
父はこういう人だ。
外面良く、いかにもいい父親らしいことをすらすらと言う人なのだ。
「トラレス公爵もまるで別人のようだ。先日お会いした時はなんとも痛ましいお姿でしたが、今夜のあなたは女性たちの噂の的ですよ」
「アマーリエ嬢のおかげです」
「娘がお役にたてて、父として光栄です。ところで」
父の視線がこちらに向く。
それだけで私の体はいとも簡単に強張ってしまう。
どうして、私はこんなに意気地がないの。
「娘を紹介したい方々がいるので、お借りしてもいいかな?」
お前は婚約者でもなんでもないだろう。というサディアスへの嫌味がこめられた言葉に、私には聞こえた。
サディアスはしばらくの間、父とにらみ合っていたが、さすがに分が悪かったのだろう。
渋々といった調子で頷いた。
「……もちろんです」
父の手が伸びてきて、私をサディアスから奪い取った。
名残惜しげにサディアスの手は、ぎりぎりまで私の手を掴んでいたが、なすすべもなく離れていく。
私を心配して見つめる金色の瞳に、大丈夫だと微笑んでみせたけれど、彼は不安に顔を曇らせたままだった。
「大勢からお前がトラレス公爵と婚約しているのかと聞かれたが、していないとちゃんと答えておいたからな」
父はあくまで娘を気遣う優しい声で言う。
「公爵もお人が悪い。自分の体のために未婚の娘を呼びつけ、こんな大きな夜会でエスコートするなんて。悪い噂がたったらどうするおつもりなんだ」
「公爵様はそんな人ではありません」
「お前は世間知らずだから、そう思うんだ」
お父様こそサディアスの人柄を何も知らないくせに、どうしてそんなひどいことを言うのだろう。
そう思うけども、口にしたところで父の耳には届かないのだと諦めた。
とにかく今は、大人しくやり過ごしてしまおう。
いつも通り。
これまでと同じように。
息をひそめて、嵐が通り過ぎるのを待つように。
そうして私は父に連れられて、何人もの貴族と顔を合わせた。親戚筋だったり、初めて見る顔だったりと様々だ。
「姉のアマーリエは我が娘ながら賢く、妹の世話も進んでしてくれる子なのです。そのせいか自分のことにはどうにも疎くて、親としてはなんとか良い縁を結んでやらねばと」
オルヴィアのこともあってか、呼び止められて話し込むことも多々あった。
「オルヴィアは妻によく似ているでしょう。ですがかわいそうに姉のアマーリエは私に似てしまって……いやいや、私は見られない顔ではないという程度ですからな」
私は言葉を発する必要がないので、父の横でひたすらニコニコしていた。
「アマーリエには婿をとって、アドラー家を引き継いでほしいと考えております。我々が残してやれるものは、できる限りこの子に継がせてやりたいのです。そして優しい夫と可愛い子供を得て暮らす。それが幸せというものでしょう」
時間が引き延ばされたように長く、退屈で、本当に気が狂いそうだ。
「妻やオルヴィアに比べると素直さが足りなくて……私の言うことに反発することもあるのですよ。年頃の娘らしいと喜ぶべきなのでしょうが」
「アドラー家でもそうなのですか!いやいや、うちの娘など新しいドレスやら宝石にばかりうつつを抜かして、少し注意しただけで口答えする始末!」
「それくらいが良いかもしれまんせよ。うちのアマーリエなど美意識が足りていないようで、同じドレスばかり着るものですから私たちが良いものを与えて、磨いてやらねば……」
「おや、伯爵、彼女のドレスがどうかしましたか?栗色の髪とよく似あっていると先ほど私も褒めていたのですが」
父と親戚の会話に、彼の声が割って入った時。
私ははっと我に返った。
不快な音楽を聞き流していたら、思いがけず美しい鐘の音が響いて目が醒めた。まさにそんな感じ。
「ト、トラレス公爵……いえ、たいした話をしていたわけでは」
会話の内容が決して私を褒める内容ではなかったからか、父は気まずそうに目をそらす。
「ああ、歓談中に割り込んでしまって、申し訳ありません。せっかくアマーリエ嬢をエスコートできたものですから、少しでもそばにいたくて迎えにきてしまいました」
「それはそれは、ええ、光栄なことですが……」
「では、アマーリエ嬢を借りても?」
今度はサディアスに軍配があがったようだった。
彼はまるでかっさらうみたいに私を父から奪い取ると、ずんずん歩いていく。
その横顔は明らかに怒っていた。
「まったく、君の父親ときたらなんて失礼な人なんだ!アマーリエは素直だし、こんな美人の娘を前にして美意識が育っていないのは自分だろうに!」
急なことに気が抜けたからか、サディアスが怒る様子がおかしかったからか、ふいに笑いがこみあげてきて私はうつむいた。
彼は急にうつむいた私に気が付き、立ち止まった。そしておろおろした様子で覗き込んでくる。
「ごめん、アマーリエ。気を悪くした?」
「どうして?笑いをこらえるのが大変なくらいなのに?」
口元を押さえて、ただ笑いをこらえていたことがわかり、サディアスはほっと息をはく。
「いくら失礼な人でも君の父上だし……できるだけ敬意ははらうつもりだったんだけど、あまりに目に余ったから我慢できなかった」
「いいえ、サディアス様がきてくれなかったら延々と続いていたことでしょう」
「いつもああなのかい?」
言いにくそうに尋ねられ、私はあいまいに微笑んだ。
「君はずっとあんな目にあってきて、それでも怒りを飲み込んで我慢してきたんだね」
「聞き流しているから、大丈夫です」
そうでもしなければ、いつまでも言われた言葉を思い出して、そのたびに傷つくはめになる。
人の言葉に傷つきやすい自覚はある。
だから意味のない音として聞き流すのだ。
だから大丈夫だと言っているのに、サディアスはなぜか悲しそうな顔をする。
「サディアス様?」
「……ごめん、少し自己嫌悪に陥っていた」
自己嫌悪?
どうしてサディアス様が自己嫌悪なんて感じる必要があるのだろう。
もしかして私が何かしてしまったのだろうか。
サディアスに嫌われるのは、想像するだけでつらい。
焦る私が彼の服の裾を掴んだ瞬間だった。
わぁと声にならない歓声が、ホールの中央から湧き上がった。
何事かと人々が注目する方へ顔を向けると、いままさにぽっかりと開いた空間でギルバート殿下がオルヴィアにひざまずいている。
こんな衆目の場で、あんな体勢ですることといったら一つしかない。
プロポーズだ。
だというのに、オルヴィアの顔には戸惑いしか見えなかった。
「オルヴィア」
殿下の言葉に、ホールから一切のざわめきが消えた。
誰もが息をのんで、プロポーズの行方を見守る。
「一目見た時から、君を守りたいと思った。どうか私の妻となり、一生そばで君を守る権利を私にくれないだろうか」
さぁ、はいと頷いて。
熱に浮かされた瞳で、殿下はオルヴィアを見上げる。
けれど、オルヴィアは……。
とてつもなく嫌な予感がした。
「殿下にはとても優しくしていただき、本当に感謝しています」
桃色の貝殻のような、可憐な唇がゆっくりと言葉を紡ぐ。
消え入りそうな小さな声だというのに、静まり返ったホールにオルヴィアの声はよく響いた。
「でも私……お気持ちには答えられません。私は殿下の妻にふさわしい女ではありません」
あちこちから驚きに息をのむ音がする。
言われた言葉が理解できないと、ポカンとする殿下に勢いよくオルヴィアは頭を下げた。
「ごめんなさい!」
ほとんど叫ぶようにそう言って、オルヴィアは身をひるがえす。
そして彼女はその場から逃げ出してしまった。