ろく
父とは冷戦状態が続いていた。
トラレス公爵家に私が手伝いとして通っていることは相変わらず気に入らないようだが、公爵家からの頼みだし、つながりが持てるのは悪いことではないと合理的な頭もあるようで、結局お互い無視しあっている状態だ。
いつもなら私が悪かろうと悪くなかろうと謝って「仲直り」をするのだが、もうそんなことはしたくなくて、いまだに謝っていない。
というか娘が勝手に公爵と仲良くなって怒る意味がわからない。
とにかく自分がいないところで大きな物事がきまったりするのが、嫌いなんだろうな。
だからこそ、今度は謝る気分になれない。
そのうち心がなくなれば、いくらでも謝るし言うことを聞くから、最後くらい好きなように過ごしたってバチはあたるまい。
なんだか私、いつの間にか随分と図太くなったみたい。
他の家族はどうかというと、二人ともほぼノータッチだ。
母はオルヴィアのことで忙しそうで、わざわざ首を突っ込んで面倒なことになるのが嫌みたい。
オルヴィアも殿下に外に連れて行ってもらっては疲れて帰ってくるから、よくわかってないみたい。
いくら元気になったからといっても、少し心配だ。
この間話して思ったけれど、ギルバート殿下って結構強引な人っぽいし。
そうなると家にいるより、公爵家で過ごすほうが心地よくなってくる。
サディアスはいつも私を大事にしてくれるし、使用人の人たちも皆、気持ちのいい人たちばかりだ。代々仕えている使用人が多いのは、家の気風が良い証拠だと聞いたことがある。
メイド長のマーサも、私のためにいつもミントティーと甘いお菓子を用意して、言葉はないけど歓迎されているのを感じるのだ。
だから私もできるかぎりサディアスの食事に協力している。
相変わらず仕事だからと訪ねてくる人々の感情を食べて、サディアスは顔色と胃を悪くしている。心がぽっかりとするまで感情を食べられるのは少し怖いけど、そのあと彼がありがとうと微笑んでくれるとすぐに心の穴が喜びで埋まるのだ。
だから少しも嫌じゃないし、やりがいすら感じている。
そのかいあってか、サディアスはみるみる回復した。
「もうかなり元気になったのでは?」
肉がつき、精悍さを取り戻しつつある顔を眺めて言うと、サディアスは慌てた様子で首を横に振った。
「いいえ!まだです!あなたをエスコートする男として、まだふさわしくありません!」
「私なんかのエスコートにそこまで気負わなくても……」
「そんな、アマーリエは僕にエスコートされるのが本当は嫌……」
「そんなこと言っていません」
「じゃあどんなに気合をいれても僕の自由だね」
健康さを取り戻した顔でいたずらっぽく微笑まれると、さすがにドキドキしてしまう。
本当はかなり美形なのではと思っていたが、案の定というか、予想以上の気配を感じるというか。
栄養がいきわたり始め、銀色の輝きを取り戻した髪は、もう白髪になんて見えない。
どうしてこんな綺麗な人をお爺さんだなんて勘違いしたのかしら。
過去に戻って、自分にお説教したい気持ちだ。
そうして家庭内冷戦は継続したまま、王家主催の夜会が催される日になった。
先にオルヴィアたちが、次に私たちが入場する予定だ。
待機している馬車の中で、オルヴィアは不安に可憐な顔を曇らせていた。
「お姉様以外と一緒に入るなんて初めて。すごく変な感じだわ」
「オルヴィア、そんな顔しないで。殿下がぜひあなたと一緒にと言ってくださったのよ」
「そうよね。そうなんだけど……」
「大丈夫。あなたはこの世で一番かわいい私の妹だもの。本当に怖くなったら、私の後ろに隠れちゃえばいいのよ」
前髪を指先で整えてやると、ようやく笑顔が現れる。
王子様に見初められて、なんだか遠い存在になってしまったように感じていたけど、オルヴィアはオルヴィアなんだ。
「今日のお姉様も、本当に素敵」
「あなたもね、オルヴィア」
扉がコンコンとノックされる。
オルヴィアはほんの少し不安げに目を伏せ、馬車から降り立った。
彼女の歩く先に着飾ったギルバート殿下がいる。
白と紫を基調とした装束の殿下と、紫のドレスで合わせたオルヴィアが並ぶと、まるで御伽噺の王子と姫が抜け出してきたかのようだった。
殿下が耳元で何かを囁き、オルヴィアが照れた様子で俯く。
呆然と二人の後姿が会場の眩い光の中へ進んでいくのを見送っていると、再びノックをする音がした。
はっと我に返ると、青みがかった銀髪の美しい青年が私を見上げていた。
琥珀色の瞳が会場から漏れ出す光にゆらゆらと光って、まるで黄金を溶かし入れたようだ。
彼は、サディアスは、苦笑しつつ手を差し出してくれる。
いつまでも私が出てこないから、馬車まで迎えにきてくれたんだ。
「ご、ごめんなさい」
いそいそと手を取り、馬車から降りる。
骨っぽくて節くれだっていた手は、今やしっかりと硬い男性の手だ。
もともと色白だったが、血色がよくなったおかげで幽鬼めいた雰囲気はない。むしろ月の光が集まって生まれたかのような美しさだ。
サディアスは私の全身をさっと見て、とろけるような笑みを浮かべた。
「凄く綺麗だ」
「サディアス様も素敵です」
「君に釣り合う男になれているといいけど」
「私こそ、釣り合っているのか……」
「お互い不安なのは相変わらずだね」
ふふふと笑いあうと、肩の力が少し抜ける。
「お手をどうぞ、アマーリエ」
差し出された肘に、そっと手を乗せ、私たちは歩き出した。
最初、私たちに向けられていた視線はそう多くなかったように思う。
みんな殿下とオルヴィアに夢中だったから。
まず声をあげたのは女性たちだった。
照明にまばゆく輝くサディアスの存在に気が付いて、あの殿方は誰なの?とあんな素敵な方いたかしら?と囁きあう。
その囁きは水面に広がる波紋のように、どんどんと広がっていく。
人々は興味を惹かれ、一人また一人とこちらを見た。
「あれは……」
誰かが囁く。
「トラレス公爵ではないか?」
「トラレス公爵って、まさか悪食公爵!?」
「嘘!あんな美しい方でしたの?」
「息子が継いだが、体が弱くて社交界には出られないと聞いていたのだが」
「なんて素敵な方なの……」
この人がここまで元気になったのは、実は私のおかげなんです!と自慢して回りたい気分だ。私のおかげというか、ちゃんと食事が取れれば治るものだったから、自慢するのも変な話かもしれないけど。
それでもようやく本来のサディアス様の魅力に、人々が気が付いて、驚愕しているのが面白くてしかたない。
「みんなサディアス様の話をしてますね」
笑みが抑えられずニコニコと話しかける私に、サディアスは柔らかい笑みを返してくれる。
「アマーリエのおかげだ」
いざ本人から言われると、ちょっとどころではなく恥ずかしいし嬉しい。
「でもアマーリエを見ている男たちもかなりいるみたいだ」
「まさか」
「嘘じゃないんだけどな」
私なんか見慣れているだろうに。
主にオルヴィアの横にくっついている小うるさい姉として。
それともついに夜会の妖精姫が王子にさらわれてしまって、お前は何をしていたんだとお門違いな気持ちをぶつけてきているのかも。
「緊張してる?」
「本当はわかっていて聞いてらっしゃるんでしょ?」
「どうかな。何もかもはわからないよ。だってアマーリエの心はアマーリエだけのものだから」
サディアスは何でもないことのように言うけれど、今なら彼の言葉にどうして泣きそうになってしまうのかわかる。
私は私が自分のものだと思えたことがなかった。
私の人生も心も、私の自由にはできないものだと思っていた。
だからサディアスの言葉が嬉しかった。
存在を認めてもらえた気がした。
目の表面がうるむのを必死に我慢して、私は凛と顔をあげた。
きっとどこかから両親も見ているだろう。
いつも目立たず、言いつけ通りにしか動けないつまらない女だと思っていた連中も。
彼らに宣言するように、私は微笑む。
サディアスの隣にいること。
これだけは私が自分で選んで、掴んだものなのだと。