よん
場所を変えようと案内されたのは、日当たりのいいバルコニーだった。
横になって休まなくていいのかと尋ねたが、だいぶ良くなったから大丈夫と言われてしまった。確かに見た目からもかなり良くなったことがうかがえるので、誘われるままサディアスの横に腰かける。
もう名乗ってしまったことだし、顔を隠すのも馬鹿らしくなって、私はうっとうしいヴェールを外してしまうことにした。
視界を遮るものがなくなり、ふうっと息をつく。
ほつれた髪を軽くなでつけ顔をあげると、なぜか赤くなったサディアスと目があった。
「サディアス様?」
「あぁ、すまない。君があまりに美人だったからつい」
お世辞で言っているのかと思ったが、心から感心したふうに言うのでどぎまぎしてしまう。
オルヴィアが横にいることが多いから、ここまでドストレートに容姿を褒められたのははじめてかもしれない。
「あ、ありがとうございます」
サディアスもちゃんと静養して、肉をつければ、きっと誰もが目をひかれる美男子だろうに。
公爵の身分でも王宮の治癒師に診てもらうのは難しいのだろうか。
そう考えると、オルヴィアの身の上に起こったことは本当に奇跡的としか言いようがない。
ガラスのカップにミントティーがそそがれる。
うっすらと色づいたお茶の上に、青いミントがちょこなんと最後に添えられる。
「ミントティーは普段から好んで飲むの?」
「一時期、我が家でハーブのお茶を試していた時期があって、その時にのんでいました」
オルヴィアの体にいいかもしれないからと、ハーブやら東の国から仕入れた生薬やらに両親が凝っていた時期だ。
家族の妙な連帯感というか、なぜかオルヴィアだけではなく、みんなで同じお茶を飲むことになったのだが、私以外の全員がすぐに挫折した。
生薬とやらのお茶は確かに癖が強くて苦手なものもあったが、ハーブティーとくにミントティーは好きだった。
スッとする香りが鼻から抜けて、ささくれだった気持ちが落ち着くのだ。
「ミントティーは胃腸の働きを整える効果もあるんですよ」
「へぇ。それはいい」
興味深そうに相槌を打ち、サディアスはカップに口をつけた。
そして渋いような苦いような、微妙な顔をした。
「嫌い、ではない」
「無理なさらないでください」
「せめて一杯は飲むよ。もうわかっているかもしれないが、恥ずかしいことに僕は生まれつき胃が弱くて、人の悪感情を食べると具合が悪くなってしまうんだ」
「悪感情というと憎しみとか?」
「そうだよ」
衝撃的なことを言っているわりには、なんでもないことのように彼は頷いた。
「じゃあ、今まで無理をして食べていたということですか?」
「仕事だからね」
「そんな……」
いくら仕事だからって、体を壊してまでやるなんて本末転倒だ。
そこで私は自分もまた彼に憎しみを食べてもらおうと思って訪ねてきたことを思い出した。
「ごめんなさい、私……」
「謝る必要はない。むしろこちらこそ、謝るべきだ」
「どうしてですか?」
「勇気を出してここまで来たんだろう?」
サディアスの声が優しくて、私はとっさに言葉につまってしまう。
だって、こんなふうに労わってもらったことなんてない。
「……勇気だなんて、そんなものではないんです。私が、弱いから、本当はただただ楽になりたかっただけで」
「逃げ出したいほどつらいことがあったんだね」
「いいえ、いいえ。私は本当は家族を憎むべきではないんです。誰も私を苦しめようなんて思っていなくて、ただ私が勝手に苦しんでいるから、だから消してしまいたいと思ったんです。それに私よりも苦しんでいる人は、きっとたくさん……」
「君の苦しみは君だけのものだろ」
「私、だけの……」
「他人の苦しみも他人だけのものだ。それを君が勝手に決めて、比べることができるのかい?苦しみが軽いものは苦しいと言う権利もないのかい?」
なんだか痛いところを突かれたような気持ちで、私は押し黙った。
それと同時に目の奥がじんわりと熱を持つ。
どうして、私泣きそうになっているんだろう。
ちょっと優しい言葉をかけられただけで泣きそうになるなんて、そんな弱い人間じゃないはずなのに。
「偉そうなことをいったけど、僕は君自身に君のことを軽んじてほしくないだけなんだ」
「……サディアス様もご自身のことを軽んじているように見えます」
「それを言われると痛いな」
ふふふと上品に笑って、サディアスは深く椅子にもたれる。
そしてゆったりと目だけで私を見る。
「自分を大事にしない者同士だからこそ、遠慮なく言えるのかもしれないね」
「それは、つまり……お友達?」
「ではお友達から」
「はぁ」
「僕は偽物の悪食公爵なんだ」
ぽつりと呟くような声だった。
「本物の悪食公爵は僕の父でね。一昨年、亡くなってしまった。一族の感情を食べる体質は受け継いでいたけど、父と違ってどうにも僕は胃が弱くてね」
「感情もやっぱり胃で消化するんですか?」
「ほとんど普通の食事と同じ感覚だよ。味だってするし、匂いもする。腐りかけたものを食べれば体調を崩す」
「それでも食べなくてはならないのですね」
「ああ。そういう契約を祖先が国と結んだから。僕たちの祖先は魔物だったって話だけど、さすがに眉唾だよね」
でも信じる人は少なからずいるのだろう。
そうでなかったら、公爵に悪食なんてあだ名をつけて怖がったりなんかしない。
「父は普通の食事のほうが体になじむタイプだったから、どんな感情を食べてもそこまで影響を受けなかったけれど、僕は祖先の血が濃いみたいでどうにも駄目だ。好き嫌いが激しいんだな。それでも一族の仕事だからと割り切ってきたけど、あのざまさ」
「家のために頑張られたのですね」
「そうかな……できる限り努力はしたつもりだけど」
君の苦しみは君のものだと諭した時とは打って変わって、サディアスは自信なさげにうつむいた。
自分のこととなると途端に自信がなくなり、弱気になってしまう感覚はよくわかる。
彼の言ったとおり、私たちは似た者同士なのかもしれない。
「やっぱり、君はいい匂いがする」
「それって、もしかして食欲的な意味で言っています?」
「そう。僕は好き嫌いが激しいから」
テーブル越しにサディアスの手が伸びてきて、私の手をとった。
彼はプロポーズでもするみたいに私の手を両手でうやうやしく包み、真摯な目で言う。
「さっき、君が僕を心配してくれた思いを食べて、このとおり体調もよくなった。だからしばらく、僕の食事に協力してくれないだろうか?もちろんお礼はする」
「私が?」
「たぶん君じゃないと駄目だ」
「たぶん、なんですね」
「じゃあ、絶対」
こけた頬に愉快な笑みが浮かぶ。
君じゃなきゃ駄目だ、なんて、そんなことを言われたら断れないじゃない。
でも私はこの人が苦しんでいるのを見た時から、なんとかしてあげたいと思っていたのかもしれない。
「私でよければお手伝いいたします」
「ありがとう!アマーリエ!」
今にも飛び上がらんばかりに喜ぶサディアスに、その代わりと釘をさす。
「サディアス様が元気になったら、私の心をすべて食べてください」
ぴたりと体の動きすべてを停止させ、彼は静かに尋ねた。
「それが君の望み?」
「はい」
最後にせめて誰かに感謝されたい。
それが元気になった彼であるならば、それ以上のものはない。
「……そうか。うん。わかった」
だからサディアスが頷いてくれて、真剣な瞳で終わりを約束してくれて、私は本当にうれしかったのだ。