オルヴィアと堅物神官 中
まだ鳥も眠っているような夜明けに、ブレイクは出張先へと出発していった。見送りがてら簡単な朝食を渡しに行くと、彼は一瞬惚けた顔をした。まるで見送りという文化を知らなかったみたいな様子に、苦笑してしまったのは言うまでもない。
そうしてブレイクのいない三日間が始まった。
三日間お世話になる先生は、オリバーという老治癒師であった。
とにかく怪我の治療をするのが好きで、出世とは無縁の変わり者。私の祖父母くらいの歳で、普通なら隠居しているのだが、とにかく元気。なのだとか。これは一緒に働くうちに仲良くなった先輩から聞いた話だ。
なんだかとても元気なおじいちゃん先生だと聞いて、私はきっと見た目からしてさぞ快活な人なのだろうと思っていた。しかし実際に天幕に入って挨拶すると、オリバー先生はカクカクと骨ばった小さな老人であった。
「オルヴィアです。三日間よろしくおねがいします」
「ん。手、見せて」
挨拶もそこそこにオリバー先生は両手を差し出す。その手は老いからかプルプル震えていた。
意図がわからないけれど言われた通りに手を見せる。
オリバー先生は私の手のひらをみて、それからひっくり返して、また手のひらを上にする。
「入ってよかろう」
「あ、ありがとうございます」
よくわからないが合格ということだろうか。
先生は私の手を握ったまま、ニコニコしている。
「あの……?」
「若い子の手はいいねぇ」
「あはは……」
ひとしきりニギニギされて解放される。
いやらしい感じの触り方ではなかったので嫌ではなかったが、噂通り変わった人のようだ。
「それじゃ、よろしく」
「はい!」
オリバー先生の手伝いは、私含めて四人。
それでも彼の天幕は信じられない忙しさだった。
次から次に怪我人が入って治って出ていく。
病気の治癒が専門のブレイクとは違い、オリバー先生は外傷の治癒が得意な治癒師だ。そのためいつもと勝手が違い、初日は言われたことをこなすので精一杯だった。
地元の治癒院で応急処置を受けてから来る怪我人、古傷の快癒を求めてくる人が大半を占めていたが、もちろんまだ血も止まっていない緊急の怪我人もいた。多少は血も見慣れたとはいえ、普段対応する機会の少ない酷い外傷を直視して、正直気分が悪くなったりもした。そのあと、ひとしきり反省して落ち込みもした。
自分では結構まともに働けるようになったと思っていたけれど、まだまだ知らないこと、対応できないことがたくさんあるのだと目の前に突き付けられたようで、その晩はちょっと泣いてしまった。疲れ果ていたから、すぐに眠ってしまったけれど。
一晩寝て起きて、今日も頑張ろうと気持ちを切り替えたのに、二日目は散々な始まり方をした。
朝食の時に他の見習いの子にぶつかられて服をお茶で汚されるし、干して寝たエプロンも私のだけびちょびちょだった。つまるところ、いやがらせである。
わかりやすく笑っていたので、いやがらせの首謀者が以前もめた貴族出身の見習いの子たちだというのはすぐにわかった。
普段からあからさまに無視されたり、聞こえるように悪口を言われているのは知っていたけれど、ここまで明確ないやがらせをされるのは初めてだった。
たぶんブレイクが出張でいないから、だと思う。
服は着替えればいいし、エプロンも予備があったのでそう困りはしなかったが、明日もされるのかと思うと憂鬱だし、純粋に腹が立つ。
あなたたちのいやがらせに構ってる暇はないの!と一人一人に言って回りたい気分だ。
そもそもどうして私に嫌がらせするのだろう?
私は彼女たちに何もしていないのに。
放って置いてくれたら、私だって彼女たちと関わることもないし、なんなら彼女たちがサボっている分、私は働いているのに。
これまで病気のために家族としかまともに関わりをもったことのない私にとって、女の子たちの世界というのは複雑怪奇だ。
それどそれについて深く考える暇もなく、今日の診察が始まる。
特に午後に来た、脚を折った患者さんは大変だった。
激痛のあまり患者さんが振り回した腕が頭に直撃してしまった。
人の腕って、骨もあるし、肉も詰まっているから、当たると目の前が一瞬飛ぶのね。なんて、額をおさえて冷静に思ったものだ。
さすがにそのあと長めに休憩をもらったけれど、ため息の数はいつもの数倍だった。
なんだか一瞬一瞬は長いのに、一日が短い。
自分でも何を言っているかわからないけれど、本当にそう感じて仕方がない。
これで夕食の時も、いやがらせされたらどうしよう。
「思わず相手に平手打ちをしてしまうかもしれないわ……」
自分でも驚くほどの暴力心が湧いてきて、私は両手を胸の前でぎゅっと握りしめた。
さすがに手をあげるのは駄目だ。
嫌がらせに正当な理由があろうとなかろうと、治療にたずさわる者として、それ以前に人として、暴力はいちばんダメなことのはず。でも、ごめんなさい。正直引っ叩いてやりたいわ。私って意外と暴力的な人間なのかしら。
結局二日目は寒いけれど窓を開けて部屋に洗濯物を干して眠った。
やっとというべきか、あっという間にというべきか、三日目の朝が来た。
翌朝、案の定、気温が低すぎたのか乾燥で喉がカサカサになっていた。
それでも今日の夜まで頑張れば、ブレイクも帰ってくるし、明日は休みだ。
食堂では、ここに来た時から色々おそわっている先輩に声をかけてもらったので、同席させてもらった。
他愛無い会話をして、味気ないスープでパンを流し込んだのち、先輩は一つにくくった赤毛を振り回すようにして振り返る。
「オルヴィアちゃん、頼れるものはなんでも頼るのよ!」
嫌がらせされたなんて一言も言っていないのに、彼女は少し怒ったような、けれど親しみのこもった力強い笑みを浮かべていた。
その言葉を聞いた瞬間、なんだか急に視界が開けた気がした。
「ありがとうございます!」
周りがぎょっとするくらい大きな声を出した私に、先輩はにかっと歯を見せる。
そうして私も先輩も、怒涛の午前へと臨んだのだった。
早朝から並んでいた人たちをさばき終えると、オリバー先生の天幕は不思議なほどに暇になった。
「たまにあるんだよね、こういう日」
退屈だなぁと先生は背伸びをする。バキボキと心配になるほどの音が、小柄な体から鳴った。
「内病のほうはまだ忙しいみたいです」
天幕の隙間から外を伺うと、いつも自分がいる方にはまだまだ人がたくさん待っているのが見える。
今朝声をかけてくれた先輩が、赤毛を乱してどこかへ走っていった。
「天幕閉めちゃって。たまには老体を労わらないと、くたばっちゃうよ」
「いいんですか?」
「老人一人休んだって大丈夫でしょう。ほら、なんだっけ、いつも女の子たちにキャーキャー言われてる良い男の治癒師」
「アランさんですか?」
「そうそう。アラン君。軽傷なら彼のところに回しちゃって」
回しちゃってといいつつ、オリバー先生は自分の腰も勢いよく捻る。またすごい音がした。
先生の指示を外に伝え、ついでにお茶をもらって戻ると、せっかくだから一緒に少し休憩しようと誘われた。
二日間世間話をする暇もなかったので、ありがたくお誘いを受けることにする。
「昨日、おへそ出して寝た?」
「いいえ、そんなことしてませんけれど……」
「空咳してたでしょ。体が資本なんだから、まだまだあったかくして寝なきゃ」
言われてみれば、喉が乾燥しているからか何度か咳をした気がする。
「頑張り屋ほど自分のことを疎かにしちゃうからね。みんな、僕を見習ってほどほどに怠けるがいい」
「先生は誰よりも働いてらっしゃると思います」
「だから今こうして休んでるのよ」
頭蓋骨を揺らすように笑い、先生はお茶を啜った。
「そういえばブレイクにいろいろ教わっているんだってね」
「はい。見習いになってからずっとお世話になっています。いつかブレイク先生みたいな治癒師になりたくて……」
なれるのだろうか。
急に不安がこみ上げ、私はカップを両手で包むように握った。
先生は私の不安を見抜いてか、遠いところを眺める目つきになってこう言った。
「ブレイクはねぇ、いまこそ堅物ぶってるけど、来たばかりの頃はそれは生意気なガキだったよ」
「えぇ!?」
驚いた手の中で、お茶が大きく波打つ。
「酷く無口で目つきが悪いのもあってね、態度が気に食わないと同じ下働きや見習いたちによく意地悪をされては、二倍にして返す。それでまた叱られる。いつも何かに怒りを抱えている子だったよ」
「怒り……」
「村の生き残りっていう罪悪感を拗らせていたのかなぁ」
以前、ブレイクが教えてくれた彼の過去を思い出す。
村が病で全滅した中、自分一人だけ生き残ってしまった。
だから治癒師になって、地方でも十分な治癒が行き届くようにしたいと思った。
そう往診の帰りに教えてくれたのだ。
「わからんでもないと思って一度話したら、能力もないのに偉そうにしているやつが気に食わないだけだと答えよった。そういうことは自分が偉くなってから言え、と拳骨を落としてやったら、じゃあ偉くなりたいから教えてくれと。いやぁ、あの時は笑った!」
いい加減背骨が折れるのではというほどにのけぞり、先生は大笑いする。
普段は冷たいと思うほどに淡々と治癒を施していくが、素は愉快な人のようだ。
「いつの間にか下働きから見習いになって、今となってはいっぱしの治癒師として、患者のために駆けずり回っているんだからなぁ……本当によくやる」
「オリバー先生だって患者さんのために頑張ってらっしゃるじゃないですか」
「僕は怪我を治すのが好きなだけで、患者自身にはまったく興味はない!むしろうるさい患者は好かん!」
「ええ……」
あまりに言い切るので困惑する私に、先生は急に優しい目つきになった。
しわとシミだらけの眠たげな瞼の奥から、薄い茶色の瞳が真っすぐに私を見つめる。
「君とブレイクは少し似ている。根っこの愚直さとでも言うかな……要領のいい奴ばかりが良い思いをする世の中だが、お前さんたちみたいな若者がいると思うと救われる心地になる」
「オリバー先生……」
「だから二人とも早く偉くなって、僕に別荘でも贈ってくれ!」
しんみりとした空気は苦手なのか、冗談を言って茶化す先生に苦笑がこぼれた。
本当に別荘をもらったらもらったで、勝手に診療所を始めそうだ。
それから少しおしゃべりをして、先生は本当に家に帰ってしまったので、私は補充の仕事を手伝い、比較的のんびりと三日目の午後は過ぎていった。
辛いことも多いし、時には忙しさのあまり殺伐とすることだってあるけれど、それでもここに来なければ出会えない人たちがいたのだと、なぜか急に涙が出そうになる。
そっと目尻にたまったものを拭い、私は大量のガーゼの入った籠を抱えなおしたのだった。
なかなか書き進むことができず、更新が遅くなってしまったうえに、前後編予定だったものが前中後になってしまいました。びっくり。
いつも読んでくださっている方、ブクマ、評価、感想、ありがとうございます!
 




