オルヴィアと堅物神官 前
メレヴの厳しい冬も終わり。
朝晩はまだまだ冷え込むが、日中の日差しは少しずつ暖かさを増していた。
「よし、終わり!」
最後の洗濯物を縄にかけ、ぐーんと私は背伸びをした。
「これだけ晴れていれば、さすがに乾くかしら?」
薄青い空に輝く太陽はまだ低い位置にある。
冬の間は曇りがちなうえに風も冷たいから、なかなか洗濯物が乾かない、というかひどいときは凍って苦労したが、今日は雲も少ない快晴だ。風は冷たいけれど、これなら乾きそうだ。
暖炉のそばで乾かせる物の量には限りがあるし、自然に乾くならそれが一番だろう。
張った縄にかけられた布がハタハタとなびく。
治療用の器具を拭くための白い布たちが、行儀よく風に身を任せている光景は何度見ても気持ちがいいものだった。
一つ奥の縄に傷口に当てる布を干している見習いの子に先に行くと声をかけ、私は空になった洗濯物かごを持ち上げた。
「いたっ」
ピリリとした痛みが指先に走る。
痛みの原因を確認しようと人差し指の側面を見ると、かさついた皮膚が割れて血が出ていた。
「はぁ……またやっちゃった」
見事なあかぎれに、清々しい気持ちが一気に消えていく。
初めてあかぎれになった時は、痛くて痛くてたまらなくて、それこそ一日中集中できなかったものだけれど、今となっては慣れた痛みだ。
昨日寝る時に軟膏を塗るのをさぼっちゃったからかな。
見習いとしてまともに動けるようになればなるほど、洗濯や洗い物が増えて、手荒れ、あかぎれは当たり前の光景になっている。
服などに血がついてはいけないので、ひとまず持っていたハンカチで傷口を縛った。
きゅっと強めに縛ると、ズキンとひと際強く痛むが、だんだんと痛みが和らぐ。
空気に触れて乾燥すると痛むのだと、以前ブレイクが教えてくれた言葉が蘇った。
水仕事で荒れた手をじっと見ていても仕方ないので、さっさと痛みを頭の外に追いやって仕事に戻る。手荒れはつらいけれど、それだけ自分がちゃんと仕事をしている証拠だ。
治癒院で手が荒れていない人間がいたら、それはだいたい仕事をさぼっているということなのだから。
午前の診察が終わると、治癒院は一旦その門を閉めることになっている。そうしないと早く治療しろと騒いだり、天幕の中に押しかけてくる人がいるからだ。
緊急の患者は専用の入り口があるし、治癒師だってちゃんと休憩を取らないと午後からを乗り切れない。
ゴミをまとめ終えても、ブレイクはまだ書き物の途中だった。
「ブレイク様、お昼休みが終わっちゃいますよ」
傍らに立つ私を見上げることもなく、ブレイクはあーと返事のような呻きのような声をあげて、ペンのお尻で頭をポリポリ掻いた。かと思えば、ぱっと頭をあげて私を見上げる。
「そういえば、あなた指を怪我しているでしょう?診せてください」
ちょっとびっくりして後退っちゃった。
だってすごい勢いで頭を上げるんだもの。
ブレイクは完全に治療時の顔つきになって、患者用の丸い椅子に座るよう指示した。
「ただのあかぎれですよ」
「午前中痛そうにしていたでしょうに。いいから」
そこまで言われると診せないわけにもいかない。
些細な怪我でも、彼が気が付いてくれたことを嬉しく感じながら、私は椅子に腰かけた。
促されるままブレイクの手に自らの手を重ねる。
人差し指の側面にできた傷口は、表面こそ乾いていたが、正直言うとずっとズキズキと傷んでいる。
ブレイクは傷口の乾いた表面を指で撫で、荒れていますね、と言った。
急激に荒れた手を彼に見せていることが恥ずかしくなり、私はうつむいた。
「ごめんなさい」
「なぜ謝るのですか」
「だって見苦しい手ですし……」
「働き者の証拠です。それを見苦しいなどと言う人間は少なくともここにはいません」
慰めているにしては、強い口調できっぱりと言い切るブレイクに思わず苦笑してしまう。
こういう言い方ばかりしているから、冷血神官とか言われるのだ。本当は優しい人だって、私は知っているけれど。
傷口に触れるブレイクの指から温かなものが流れ込んでくる。痛みはすぐに無くなって、裂けた皮膚もあっという間に塞がった。カサカサと白い鱗のような皮膚は相変わらずだが、赤みを帯びていたあかぎれ予備軍も綺麗に治っていた。
「私にはここまでしか治せないので、手入れは怠らないように」
「はい、先生」
からかわれていると感じたのか、ブレイクは眼鏡越しに咎めるような目つきになった。
それをニコニコ笑って見つめ返すと、今度はふいっとそっぽを向いてしまう。
彼は私に見つめられるのが苦手だと言うが、本当のところは照れているらしかった。なぜならちょっと顔が赤いので。
照れた顔を隠すようにブレイクは手をそそくさと引っ込めた。そして書類に向き直り、サラサラとペンを走らせる。
「そうだ。食堂に行くなら、ついでに何か持ってきてもらえますか?黒パンとかでいいので」
「いいですけど……そんなに急ぎの書類なんて珍しいですね」
ブレイクのことなので、提出の期限を忘れていたとかではないだろう。
さっさと終わらせてしまう人が、急ぎだなんて、どんな書類なのかしら。
気になって覗き込むと、近い、と呟いて彼は椅子ごと離れた。
「明日から出張なので今日中にやってしまわないといけないんです。だから邪魔しな……」
「出張!?」
予想外の単語に、私は思わず叫んでいた。
「聞いてません!」
正式に決まっているわけではないけれど、私はブレイク担当の見習いだし、他の治癒師の手伝いもほぼしたことないのに、しゅ、出張!?
私の剣幕にたじろぎながらブレイクは続ける。
「ええ、今朝決まったので」
「今朝!?わ、私も付いていきます!」
「あなたは自分の仕事があるでしょう」
「でも……」
そこそこ仕事はできるようになったと自分でも思っているけれど、それはブレイクが担当だからであって、彼以外の治癒師のもとでもちゃんとできるかはまだ正直自信がない。それに……。
自信なくもじもじする私をちらりと横目で見て、ブレイクはペンを置き、こちらへ向き直った。
「大丈夫です。あなたは私のサポートがなくても十分立派に働ける」
「それは……もちろん頑張りますけれど……」
「私がいない間の担当はすでに相談済みです。あなたも仲のいい方にお願いしていますから」
「ありがとうございます。……あの、出張って何日ですか?」
「三日くらいです」
三日、か。
思ったより短くてほっと胸を撫でおろす。
いくら治癒院での生活に慣れてきたとはいえ、長い間ブレイクがいないのは不安だし、やっぱり寂しい。
なんだか実家を離れる時を思い出す。
あの時もお母様やお姉様と離れ離れになることが、たまらなく不安で寂しかった。それからの日々を過ごせたのは、ここにいるブレイクのおかげなのだ。
「不安とかじゃなくて、ブレイク様に会えないのは寂しいです」
「がっ」
謎の声を上げて、ブレイクは思いっきり机に突っ伏した。
び、びっくりしたぁ……。
「……オルヴィアさん、そういうのはやめてください」
「そ、そういうの?」
結構痛そうな音がしたけど、大丈夫かしら。
ブレイクは机に額をつけたまま、もにょもにょとよく聞き取れない言葉を発していたが、のっそりと顔だけ上げてこう言った。
「私はあなたに想っていただけるような立派な人間ではないですし、第一身分も年齢もふさわしくない人間なので……その、そういう勘違いするようなことは言わないでいただきたい……」
「勘違いも何も、私はブレイク様のこと好きですから」
「す……!どうしてそういうことを平然と言えるんですか!?」
だって事実ですもの。
恥ずかしがって言葉にしないでいたら、ブレイクみたいな人はいつまで経ってもわかってくれなさそうだし。
「というか治癒師に平民も貴族も関係ないのでは?」
「表向きは、です」
「歳だって十個くらいでしょう?それくらいの差、普通です」
「まったくもって、それくらい、ではありません」
世の中には二十歳差で結婚した人だっているじゃないか。
貴族間では歳の差なんてよく聞く話だし、お姉様とサディアス様だって十はいかないけど、ちょっと離れていたはず。
御託ばかり並べるブレイクに、私はわかりやすく悲しい顔をしてみせた。
「ブレイク様は迷惑ですか?」
「そういうわけでは……」
「じゃあ、私のことを女性として見れない?一緒に治癒院を変えようって約束しただけの仲間ですか?」
「そ、れは」
真っ赤になって風船みたいに言葉につまるブレイク。
「とにかく、常識的に考えて駄目です!」
常識とかそういうことは聞いてないのだけれど。
一緒に治癒院を変えていこうって約束したのに、恋人になるのは駄目だなんて。しかも理由が好きじゃないからとかではなく、常識とか良識とか……こういうのなんていうんだっけ?堅物?
「あなたこそ早くいかないと休憩が終わりますよ!」
「はーい」
ちょっとチャンスかもと思って畳みかけてみたけど、これ以上は本当に嫌われそうなのでやめておこう。
プリプリ怒っているブレイクに追い出されるようにして、私は天幕を出て食堂へ向かった。
「三日かぁ……」
人の気配で満ちた食堂で、座れるところを探しながら呟く。
不安だし、寂しいけれど、ブレイクはお仕事だものね。私も私で頑張らなきゃ。
よし!と気持ちを切り替え、私はむんと胸を張った。
今日のお昼は塩漬け肉のスープと豆だ。冬の間は備蓄のこともあるからお粥が多かったので、ちょっと贅沢な気分になる。
「ブレイク様のサンドウィッチにもお肉を挟んでもらえるようお願いしてみよう」
ちょうど目の前で空いた席に滑り込み、手早く食事を済ませるべく、私はスプーンを手に取ったのだった。
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