アマーリエと嘘つきたちの宴8
「きゃあああああ!」
絹を裂くような悲鳴が上がる。
私は手の中のグラスを取り落とそうになりながら、悲鳴の聞こえた方へ慌てて視線を向けた。
床に砕けたグラスの破片が散らばり、キラキラと光を反射する。
グラスを落とした人物はよたよたとたたらを踏み、その場に崩れ落ちた。
「侯爵夫人様!」
周囲が倒れた侯爵夫人から遠ざかる中、一人駆け寄る姿があった。
シェイラだ。
彼女は泣き叫びながら夫人の名を呼び、体をゆする。
シェイラは広間のすべての視線を一身に受けて、これ以上なく憐れに涙を流し、夫人に縋りついた。
夫人は体を丸めて、苦しそうにえずきつづけている。その姿に怯えきった取り巻きたちは、石になったかのように夫人とシェイラを囲んで立ち尽くす。
「誰か……!お医者様を……!」
涙で頬を濡らし、シェイラは助けを求めた。
しかし、それに応えるものはいなかった。
しん、と静まり返った空気と、自身へそそがれる冷たい視線にシェイラもようやく気が付いたらしい。
「なんなの……どうして誰も助けてくれないの?」
理由は簡単だ。
なぜならば私もサディアスも、エルネスト公爵もエマも、そして彼女たち以外の披露宴の客人はこれが茶番だと知っているからだ。
サディアスが私の手を引いて、歩き出す。
私たちは奇妙な緊張感の漂う広間を突っ切り、うずくまり呻く夫人と、夫人に縋りつくシェイラの前に立った。
「ダングラール侯爵夫人なら、心配いりません」
「サディアス様……?」
サディアスは私を少し下がらせ、自身はその場に跪いた。
何を勘違いしたのか、シェイラの顔はにわかに輝いた。
しかしサディアスはシェイラではなく、いまだに苦しげな夫人へと声をかける。
「夫人もまだ苦しいようですが、命のご心配はありませんよ」
「サディアス様、侯爵夫人様を助けてください……!」
「なぜ?」
「えっ?」
予想外の返答に、シェイラはぽかんと口を開けたまま固まった。
サディアスは無表情に、恐ろしいほどに平坦な声で続けた。
「あなたがダングラール侯爵夫人の飲み物に毒を入れたからか?シェイラ・バンズ」
その問いかけはまるで雷のようにシェイラの体をうった。
彼女はぶるぶると体を震わせ、こぼれそうなほどに目を見開く。
「ち、ちがいます。私は、毒なんて」
「僕の前で嘘をつくことは不可能だ。今のあなたからは、激しい焦燥の感情の匂いしかしない」
「匂い?匂いって、なんですか?」
「僕は人の感情を食べる悪食公爵だ。食べなくても、匂いで人が抱いている感情がわかる。それにこちらには証人もいる」
私が目配せすると、エマの後ろにいつもくっついていた給仕の青年が歩み出てくる。
彼はサディアスの隣に立ち、ずっとうつむけていた顔をあげた。
「あっ!?」
彼の顔を見た瞬間、シェイラの顔が明らかに青ざめた。
「この者に見覚えがあるはずだ。あなたは彼から毒を購入した。そうだろう?」
「……知りません」
「本当か?」
「いいえ。私は確かにこの方に毒を売って欲しいと頼まれました。気づかれにくく、すぐに効き目がでるような毒が欲しいと」
静かに見守っていた客人の間から、なんて恐ろしいという囁きが漏れる。
「それで君はどうしたんだ?」
「不審に思い、毒ではなく生薬の一種を売り、たまたま親交のあったエルネスト公爵様にご相談いたしました」
「そしてエルネスト公爵から僕へ話が伝わり、この茶番を演じることになったというわけだ」
シェイラは床に座り込んだまま、ずりずりと後退りした。
彼女が夫人から離れたのを見計らい、私は夫人を助け起こした。
苦みと酸味と甘みが見事な調和をうむ生薬のすさまじい味に、かわいそうに夫人は涙とえずきがとまらないようだ。水を渡すと一気にコップは空になった。
その元気そうな姿に、シェイラの目がすんと据わったように見えた。
彼女は生気のない顔で、こうまくしたてた。
「サディアス様は何をおっしゃっているのですか?どうして私にそんな酷いことをおっしゃるのですか?アマーリエ様に何か言われたのですか?それともエマ様ですか?私が酷い女だと、人に毒を盛るような女だと吹き込まれたのですか?私はそんな人間ではありません。そんな恐ろしいことできません。サディアス様ならわかってくださるでしょう?婚約者が死んで私がどんなに悲しんでいたか、誰よりもご存知ではないですか。きっと私のことをうとましく思う誰かが、私を貶めようとしているんだわ。いつもそう。私ばかりがいつも不幸。それこそ酷い話じゃありません?私のようなか弱い女を非難する前に、本当に犯人を捜すべきです。そうだわ、侯爵夫人のことを嫌っている人はたくさんいるもの。私もたくさん意地悪を言われてきて耐えていたんです。だから、ええ、そうです。きっと真犯人がいるんです」
ここまできて、自分の無実を信じているようなシェイラの言い分に、ぞっと鳥肌が立った。
聞いたときはまさかと思ったが、彼女が自身の婚約者を殺したかもしれない、というのももしかしたら本当なのかもしれない。
「真犯人などここにはいない」
「どうして?」
「言ったはずだ。これは茶番だと。あなたが毒を入手しようとしたことはわかっても、誰が標的なのか絞れても確証が持てなかったし、本当に実行するかもわからなかった。だからこの偽の婚約披露宴をひらいた」
「偽の……?」
「本当の婚約披露宴は来週に行われる。今夜集まった客人は、侯爵夫人と夫人に連れてこられた人間、つまりシェイラ・バンズ、あなたたち以外、これが偽の婚約披露宴だと知っていて来てくれた方々だ」
そう、本当の婚約披露宴は一週間後。
これはシェイラが毒を入手したと聞き、彼女の暴走を止めるためにわざわざ開かれた偽の婚約披露宴なのだ。
そして今夜集まってくれた客人は皆、悪食公爵に恩があり、サディアスの頼みならばと本来の目的をわかったうえで快く協力してくれた人たちなのだ。
そんな人たちの中に真犯人などいるわけがない。
シェイラはゆっくりと周囲を見回し、サディアスの言葉が嘘でないことを理解したようだった。
そして一言。
「なにそれ」
と、呟いた。
シェイラは床を這いつくばって割れたグラスの破片を手に取った。
「サディアス様!」
とっさにシェイラがサディアスに襲い掛かるのではないかと思い、私は叫んだ。
しかし彼女の狙いは自分自身だった。
自分の首に破片を突き刺そうとするシェイラを、証人の青年が目にもとまらぬ早業で組み伏せた。
「離してよ!」
床に押し付けられ、シェイラはもがきながら叫ぶ。
ストロベリーブロンドの髪が床の上に散らばり、生き物のようにもがいた。
「袖の中に小瓶が入っていました」
器用に片手と膝でシェイラを押さえつけながら、青年は小瓶を掲げた。
侯爵夫人の飲み物に入れられた毒、もといすさまじい味の生薬が入っていることは想像に難くない。
「シェイラ・バンズ。あなたは僕とアマーリエの婚約披露宴でダングラール侯爵夫人を害そうとし、婚約披露宴すらも台無しにしようとした。そうまでして憐憫と注目が欲しかったのだろうが、それももう終わりだ」
サディアスの手がシェイラの後頭部を掴んだ。
彼の瞳が黄金に輝く。
「よって悪食公爵として、あなたのその欲望もらいうける」
シェイラの体からドロドロとした黒い霧が現れた。
それは細くたなびく煙となり、サディアスの口へ吸い込まれていく。
吸い取られていくほどに抵抗は弱まり、静かなすすり泣きとなり、それもついには聞こえなくなった。
同時にサディアスは口を閉じ、手も離す。
「もう離していい」
怪訝そうな表情で青年はゆっくりとシェイラの拘束を解いた。
「もう、今の彼女には、自分がどうしてこんなことをしたのかすらわからないよ」
そう呟き立ちあがったサディアスの横顔は、ひどく悲しそうだった。