アマーリエと嘘つきたちの宴2
私の膝を枕にして、サディアスは真っ青な顔で呻いている。
もう次の予約の方が来るからと、ダングラール侯爵夫人たちをお見送り、もとい追い返したのはつい先ほどのこと。
最後の一人が馬車に乗り込み、走り出すのを見届けるまで、私の体は緊張したままだった。
それはサディアスもだったのだろう。
私がほっと胸をなでおろし、見上げるのとほぼ同時に彼は呟いた。
「まずい。吐きそう」
「エッ」
彼はぎゅっと目をつむり、まさにこみあげる吐き気を飲み込んでいるといったふうだ。
「ワーッ!?マーサ!ターナーさん!だ、誰かー!」
私の悲鳴に皆駆けつけてくれて、現在は居間で休ませているところである。
最初は普通に横になっていたのだが、頭が低いと余計に吐きそうだとサディアスが言うので、膝を貸している。
気分を少しでもスッキリさせるためにミントの葉を揉んで嗅がせると、少しだけ顔色が良くなった。
「ごめんなさい。私、自分のことで精一杯で、サディアス様の具合が悪いことに気づけませんでした」
猛省しつつ謝る私に、サディアスは大丈夫だとまだ青い顔で首をかすかに振った。
さらさらと銀色の髪が私の膝の上を滑り、ミントの香りが広がる。
「夫人たちに悟らせたくなくて、僕も隠していたから仕方ないさ。アマーリエに膝枕もしてもらえたし」
「膝枕くらいいくらでもするのに」
「本当?じゃあもっと気軽にお願いしようかな」
声は元気を装っているが、彼はしんどそうに目をゆっくりと瞬かせる。そしてコンコンと胸元の花瓶を叩いた。
サディアスが吐きそうと呟いたときに、もしも本当に吐いてしまったらと考えてとっさに飾ってあったのを渡したやつを、なぜかサディアスはずっと抱えたままだ。いわく、ひんやりしていて意外と気持ちいいとのことだ。
コンコン、とリズミカルに花瓶を叩きながら、サディアスは私の名を呼んだ。
「本気でお茶会に行く気?」
「……行くと返事をしてしまったので」
勢いだけで行くと返事をしてしまったから、本気かと尋ねられると急に心細くなってくる。
「僕もついていければいいんだけど。なんとかできないかな……」
女性だけが招待されるお茶会だからそれは無理だよね、と目だけでお互い会話する。
お茶会には、シェイラも来るのだろう。
向こうも私には好意的とは言い難かったし、夫人は私と彼女が争う姿を期待しているのだとしたら最悪だ。
でも誘いを断っていたら、侯爵夫人はああもあっさり帰ってはくれなかっただろう。
それに必ずしもいさかいが起きるわけではない。
夫人が退屈だと思えば、私に興味も無くすだろうし。
なにより。
「サディアス様、これは負けられない戦いなんです。サディアス様の婚約者としてふさわしいと、私、示してみせます!」
オルヴィアがギルバート殿下を大勢の前で盛大に振った事件は、公開処刑とすら陰ではささやかれ、我がアドラー伯爵家の評判は一部で大暴落している。
さらにサディアスの本来の格好良さに気が付いて、アプローチしてくる女性たちもいる。
私という婚約者がいると知ったうえで、だ。
つまり、下品な言い方をしてしまうけれど、そう、完全になめられている。
「それにああいう権威的で感じの悪い人には慣れていますから」
父に比べればダングラール侯爵夫人なんて可愛いものだ。
だって面白いと思うから嫌がらせをしてくる人ならば、面白くないと思わせればいいのだ。
拳を握りしめてみせる私に、サディアスは眉尻を下げて苦笑した。
「頼もしいのが、嬉しいような悲しいような」
サディアスは抱えていた花瓶を床に置いて、ゆっくりと起き上がった。
「もう大丈夫ですか?」
「だいぶマシになった」
「今日はやっぱりもうお休みにしましょう。憂鬱な感情でここまで具合が悪くなるなんて……」
憂鬱さを取り除いて欲しいという相談は、そこそこに多い。
それが今日に限って吐きそうになるほど具合が悪くなんて。
「いや、大丈夫。確かに侯爵夫人の感情は不味かったけれど、あのストロベリーブロンドの令嬢……」
「シェイラ・バンズ?」
「そうそう。そういう名前の」
「もう忘れたんですか?」
「名前を覚えるのは得意じゃないんだ。興味ないから」
たぶんまだ気分が悪いのだろう。
いつもより辛辣だ。
「確か結婚式の前日に婚約者が急死して、後を追わないように悲しみを軽くしてやってくれと両親に頼まれたんだったかな……」
「酷く落ち込んでいたんですね」
「それなりに悲しみは深かったみたいだけど、僕が彼女を覚えている理由はそれじゃないんだ」
「違う?」
「味だ」
サディアスはぼんやりと宙を見上げ、きゅっと眉間にしわをよせた。
「彼女の悲しみは腐りきった果物みたいな、とにかく酷い味がした。あれは純粋な悲しみじゃない。あれは……」
似ている感情を思い出そうと言葉を切ったサディアスの顔色が、みるみる青くなる。
「おぇ……」
「ああ、思い出そうとするから……!」
右手で背中をさすりつつ、ミントの匂いがついた左手でパタパタと仰ぐ。
サディアスはすーっと息を細く吐き出して、私の肩に寄り掛かった。
「ありがとう。……ごめん、こんな婚約者じゃ情けないよね」
弱々しく囁き、サディアスはため息をついた。
私は彼の冷えた手に、自分の手を重ねて優しく握りしめる。
「そんなことありません。侯爵夫人に対して怒ってくださったでしょう?頼もしかったですよ」
「相手はけろっとしていたけどね」
「怒ってくれただけで十分です」
彼の感覚に直接伝わるように、嬉しかった気持ちを思い出すと、サディアスはくすぐったそうに身をよじる。
サディアスの喉がゴクンと上下し、私の嬉しい気持ちが食べられたのがわかった。
「食欲戻りました?」
「ちょっとだけ」
次の予約の客人が来るまで、まだ少し時間がある。
互いに気まずいわけでもなく、リラックスした状態で黙っていると、すぅすぅと寝息が聞こえ始めた。
つかの間の眠りに落ちたサディアスが起きないように、私はぼんやりとお茶会をどう乗り切ろうか考えるのだった。
四時から予約していたエルネスト公爵とは、いつもの客間で会うことにした。
彼は前トラレス公爵、サディアスの父の時代から通っている、サディアス自身も付き合いの長い人物だ。
政治の中枢に長く身を置き、今も第一線で活躍していると聞く。
そしてエルネスト公爵といえば、どこであろうと手袋を外さないことで有名な老公爵でもある。
手袋を外さない理由は、シンプルだ。
彼の両手には酷い火傷の痕があるのである。
十年前の火事で息子夫婦を失い、自身もその時に両腕に酷い火傷をおった。治癒師たちの必死の手当てにより、手は動かせるようになったが痕はのこってしまったという。
オルヴィアの体を治せる治癒師がいないかさんざん調べた時に、エルネスト公爵の火傷の治癒の話は聞いたが、実際に彼の黒い手袋を見ると痛ましい気持ちになってしまった。
「具合が悪いのにすまないね」
エルネスト公爵がしゃべると、綺麗にたくわえた白い口髭がふよふよと動くので、まるで不思議な生き物が口の上に乗っているようだ。背中に棒でも入っているかのようにまっすぐな背筋は、彼を高潔で威厳ある老公爵に見せていた。
まだ体調が回復しないサディアスの横に付き添いながら、私は公爵の口髭をぼんやりと観察する。
「いいえ。それより最近はどうですか?」
「うむ、そうだな……」
「やはり思い出してしまいますか」
サディアスの問いかけに、公爵は憂鬱げにどっと息を吐いた。
たちまち彼の背は丸まり、痩せ気味の体躯は威厳ある老公爵から頼りない老人のものへと早変わりした。
「夏の間は比較的よかったんだが、この間、少し冷える夜があっただろう?暖炉に火を入れたんだが、やはり駄目だった。また眠っているうちに火事になったらと考えてしまって、一晩中何度も起きては火元を見て回ってしまったよ。十年もたつというのに……」
「欲望や執着と違い、悲しみや特に恐怖は僕にも完全になくすことはできません。記憶がある限り何度でも生まれるし、日々新たになってしまうものです。これまで通り、根気強く付き合っていきましょう」
公爵はあいまいに頷き、よろしく頼むと両手を出した。
黒い手袋に包まれた老公爵の手を取り、サディアスは目を閉じて集中する。
傍目には手を取り合っているようにしか見えないが、徐々に公爵の顔は穏やかなものへと変化していった。
威厳ある老公爵でも、疲れ果てた老人でもない、程よく力の抜けた肩をほっとおろし、エルネスト公爵はありがとうと感謝を述べた。
「しかしサディアス、随分と男前になったな。見違えたぞ」
やっと人心地ついたエルネスト公爵はリラックスした様子で、にこにことサディアスの容姿の変化について言及した。
「噂では婚約者殿のおかげだとか」
「ええ、全部アマーリエのおかげです」
全部とまで言い切られると遠慮したくなるが、控えめに微笑むくらいにとどめた。だって私が彼の健康面を大きく変えたことは、いちおう事実なのだし。
「アドラー伯爵の二人の娘はどちらも器量よしだと聞いていたが。うむ、素敵なお嬢さんだ。予約の日時を決めるさいに手間をとらせてしまってすまなかったね」
「いいえ、お気になさらないでください。こちらこそ急にやり方を変えることにしてしまって……」
「トラレス公爵家には長いこと女主人がいなかったから、新しい女主人を迎えるにあたって変化が訪れることはむしろ喜ばしいことだろう。しっかりサディアスを尻に敷いてやってくれ」
ほっほっほと軽やかに冗談を飛ばし、公爵は白い口髭をふよふよさせた。
公爵も私たちもこの後の予定がなかったので、のんびりと世間話をしているうちに自然と先ほどのダングラール侯爵夫人来襲事件に話題は移っていった。
「ダングラール侯爵夫人か。夫が愛人の家に入り浸りで、ますます夫人も好き放題していると聞いたなぁ」
「へぇ、意外と情報通なんですね」
「うちにそういう話を仕入れるのが趣味みたいなのがいるんだ。どうしても孫娘のそばにおいて欲しいというから、拾って育ててみたものの根が性悪でいかん。まぁ恩を仇で返すことだけはないだろうが」
孫娘というと、火事で亡くなった息子夫婦の娘だろうか。
公爵は心なしか口髭もしょんぼりさせて、マーサが持ってきた焼き菓子をぽりぽりかじった。
「悩みがつきませんね」
「まったくだ。それで?アマーリエ嬢は勇敢にもダングラール侯爵夫人のお茶会に行くと答えてしまったのだったかな?」
頭の痛い点に話が向いて、ぐっと喉の奥から変な音がなった。
「はい……」
「ご婦人同士の付き合いは男の我々とは違う苦労があるとは聞くが、まぁなに、取って食われはせんだろう」
そんな他人事みたいに。
いやまぁ、公爵にとっては本当に他人事なのだけど。
「友人についてきてくれないか聞いてみようと思っています。ただ私の友人は大人しい人が多いので、こういったことに巻き込むのは気が引けます」
ただでさえ今の私は、一緒にいるというだけで好奇の視線を向けられてしまう存在なのだ。
面倒ごとになるとわかっているお茶会に連れて行ってもいい、という言い方をするとあれなのだが、あの侯爵夫人たちの前に立って耐えられそうな子は残念ながら思い浮かばない。
すると唐突にサディアスが覚悟を決めた顔をあげ、こう言った。
「こうなったら、僕が女装してついて行くしか……」
「えっ!?そ、それは、ちょっと見てみたいですけど、駄目です!私のためにそんなことさせられません!」
「見てみたいんだ……」
「サディアス様は女装してもお似合いになるだろうなと思って」
「じゃあ問題は身長か」
「いやいや、だから駄目ですって」
真剣に言い合いをする私たちにエルネスト公爵はひとしきり笑っていたが、お二人さんとある提案をしてくれた。
「うちの孫娘と一緒に行くのはどうだい?招待状が来ているかは知らないが、そこはどうとでもなる」
「公爵様のお孫さんとですか?」
「名前は、エマという。アマーリエ嬢の妹と同い年だったはずだ」
オルヴィアと同い年ならば、おそらく会ったことがあるはずだ。
そう思って記憶をたどるが、一向に思い出せない。
「オルヴィアと同じ年なら、お会いしたことがあるはずなのですけど……ごめんなさい」
「ああ、思い出せなくて当然だ。あの子は生粋のひねくれ者で、夜会なんてくだらないとデビュタント以来ほとんど社交界に顔をだしていない」
「じゃあ、ご迷惑になってしまうのでは?」
「ひねくれ者だが、根はお人よしなのさ。変わった子だが、アマーリエ嬢ならうまくやれる。何といっても、サディアスが惚れ込んだお嬢さんだ」
惚れ込んだ、だなんて恥ずかしいことを言われ、ちょっと顔が熱くなる。
先代から付き合いのあるエルネスト公爵にも婚約者として認めてもらえたと思うと、やはり安心するし何より嬉しい。
「エマにとってもアマーリエ嬢と親交を持つことは、良い転機になると思うのだよ。どうか連れて行ってみないかい?」
などと言われて、じゃあお願いしますと頷いた数時間後。
私もサディアスも、もしかして上手いことエルネスト公爵に孫娘を外に引きずり出す口実にされたのではと気が付いたのはすっかり夜も更けた頃だった。




