貴族の男と謎の女 1-4
メイドは、
昼間の出来事を頭の中で反芻していた。
子供は感性が鋭いと聞く。
あの時あの赤子が強く泣きわめいたのは、
果たして母親から離れたからなのだろうか。
赤子が泣き出したのは、
ユグリフ様の目が合った途端だった。
もしかしたらあの赤子は、
ユグリフ様のなにかに気がついたのかもしれない。
寝巻きに着替え終えたメイドは、
自室のベッドに腰を下ろすと深く息をついた。
まったくもって神経がすり減る。
ユグリフと共に過ごし始め、
メイドは少しやつれていた。
赤子の母親を叱責したあの瞬間、
本当に気にかけていたのは
その無礼な行いではなく、
ユグリフ自体のその後の反応だった。
決して、
ユグリフの行動におかしな所がある訳では無い。
メイド本人から見ても、
ユグリフは紳士そのものだ。
自分以外の人のためになる判断ができ、
そこから生まれる結果も
領民にとって良いものでしかない。
まさに、
愛される領主の典型だとすら思う。
しかし、
何かがおかしかった。
ユグリフからは、
言葉に表せない何かを感じていた。
まるで触れただけで肉も骨も溶かしてしまう、
しかしその見た目は
世界のどこを探しても見つからないような
美しい色をした劇薬で、
それがたっぷり入ったグラスを
素手で持っているような危うさ。
そしてそれはふとした拍子に
簡単にこぼれ落ちてしまいそうで、
もし少しでも持つ手が揺らげば、
グラスの中の劇薬は周りにも飛び散ってしまう。
ユグリフの中には
そんな負のスイッチがどこかにあって、
ひとたびそのスイッチが入ってしまったら
どうなってしまうか想像もつかない。
メイドもメイド長同様、
ユグリフからそんな狂気を感じていた。
一際強くそれを感じる瞬間が、
地下牢のあの女に会っている時だ。
ユグリフは自分以外に
あの女の世話をさせることなく、
毎日甲斐甲斐しく食事を届けていた。
前領主である父を好いていないことは、
以前から知っていた。
直接口にしたわけではないが、
ユグリフの行動は明らかに
父親の意思と反するものばかりだった。
しかし、
死んで欲しいと思うほど嫌っていたのかというと
それも疑問だった。
父親殺しを感謝しているのだとしたら、
女に対する行動も理解出来る。
しかしユグリフが帰ってきた時の様子は、
当時在籍していたメイド達が目撃している。
あんなに無関心な目は、初めてだった。
メイド全員の総意だった。
ユグリフにとって、
父親はどうでもいい存在だったのでは無いかと
メイドは考えていた。
でなければ、
実の父親の死体を見て
あんなにも冷たい目を出来るはずもない。
「こんなこと、考えていても仕方がない」
自分の顔を両手でグイッと引き伸ばしてから、
よしっと小さく意気込んだ。
自分は自分の出来ることをやろう、
自分の世界は自分で守らないと。
メイドは頭の中で自分を鼓舞すると、
頭からすっぽりとシーツにくるまった。
メイドは疲れきっていたのか、
目を閉じてからほんの数瞬の間に
眠りについてしまったのだった。
なぜこうも、
あの男は律儀に食事を運んでくるのだろう。
囚われの女は、
ぼうっと薄暗い牢屋を眺めながら考えていた。
領主殺しなど、
この世界のどこでだって死罪に決まっている。
そのはずなのに、
なぜ自分は今も生かされているのか。
自分のような学の少ない頭では、
優秀な人間の考えなど到底分からない。
女は深く息をついた。
しかし、退屈だ。
ガチャガチャと、
気まぐれに自分の両手を繋ぐ鎖を動かす。
いくら食事をとっていても、
こう何日も同じ体制でいたら体が壊れてしまう。
最低限腕が壊死しないよう、
筋肉の硬直を避けつつ血液を循環させる。
さっさと殺して貰いたいと
心の底から思っているのに、
本能が生きようと勝手な行動を取る。
生きる術を女に植え付けたあの男が、
女の自害を否が応でも阻止しているようだった。
とは言っても、
やはり退屈だ。
それに、
あれがそろそろ来る頃合いだ。
囚われの女は自分の体を一瞥した。
どうせ使われないというのに、
本当に自分には必要のない物だなと
昔から思っていた。
なんならいっそ無かった方が、
不幸になる人間が
増える可能性をなくせたかもしれないのに。
あの領主は、
自分をどうするつもりなのだろうか。
囚われの女は、
ことある事にそれを思考していた。
領主曰く、
この枷の鍵が見つかるまではと
顔を出す度言い続けている。
何度も殺せと言っているのに、
未だ自分を生かそうとする
その理由はなんなのだろうか。
慰み物にでもしたいのならば、
わざわざ枷を外さなくても良いはずだ。
いやいっそ、
このままの状態だからこそ
悦んでことに及ぶ輩が多いのが、
貴族という生き物なのではないかとすら
女は考えていた。
しかしそうしないのはなぜなのだろうか。
そもそも、
領主が自分の屋敷にある
枷の鍵の場所が分からないなんてことがあるのか。
そんな事、普通ならばありえない。
「あぁ、そういうことか」
囚われの女は、
合点がいったようにそう呟いた。
あの領主も、
所詮はクズの息子だったということか。
物心ついた頃から、
自分の人生を呪ったことは1度もなかった。
地獄を生きる意味、
自分が生まれてきた意味を
幼い頃から植え付けられたからだ。
しかし、
それは自分一人で充分だったのに。
また一人、
地獄を生きる運命を背負った子供が
うまれてしまうのか。
囚われの女は、
ここに繋がれて初めて
悔しさで歯を食いしばった。
そして改めて、
自分の人生を呪った。
その考え埋め尽くされた頭の中と、
それに影響されたようで目頭が熱くなる。
うっすらと違和感を現す下腹部に、
女はさらに悔しさを増大させていった。