終章
京は既に復興を始め、そして人々は義朝の名も忘れ始めていた。
大津の街にも活気が戻り、商売の声には前以上の張りがある。
義朝追討で共同戦線を張ったこと。平家も延暦寺もこの度のことでそれなりの損害を出したこと。それらのお陰で大津の封鎖も解かれ、平家と延暦寺の間に発生していた対立はうやむやになっていた。
だが、それも長くは続かないだろう。私も今回のことで長き渡り続いてきた武士と僧兵の間の対立が終焉を迎えるなどとは考えていなかった。そして何よりも、今度こそ私は隠居の身となる。今回の協働が歴史の気まぐれだったのか、それとも新たな時代の来訪を告げるものなのかを決めるのは私ではない。
呉葉の存在はもうすっかり経房や郎党の間でも受け入れられていた。もはや護衛の一人に化ける必要もない。呉葉は当然のような顔をして頭に角を見せたまま私の部屋に寝転がっていた。
そして落ち着いてきたこともあり、保留の状態のままのびのびとなっていた私の大津滞在も終わりを迎えようとしていた。清盛からも正式に命令が下り、私は改めて伊豆に出立する運びとなる。
「のお、頼朝。結局この度の出来事は何だったのだ?」
呉葉は折り紙のようなものを手で折りながら、口を開いた。
「ん? 何のことだ?」
呉葉は手で瞬時に折った鶴を投げた。それは飛ぶような形状でもないはずなのに、不思議と綺麗に舞い上がる。
呉葉は最初に会ったときよりも頻繁に、戯れで妖力を使うようになっていた。
「この度の出来事。一見すれば延暦寺が騒ぎはじめ、そこに義平の怨霊が現れて、おまけにお主の身体に義朝を憑依させようとした。だが、それは頓挫して代わりに憑依された儂の身体を使って義朝が暴れた。そして最終的にはお主が振るう鬼の力と僧兵、平家方の兵によってそれは追討された。と、このようなものになるじゃろう。じゃが、どうにも腑に落ちん」
「どの辺がだ?」
「まずは僧兵が出現した時期が絶妙過ぎるではないか。その蜂起によって大津は封鎖されお主はここに留め置かれた。お主が姿を見せることで牽制したのじゃから、延暦寺もお主の所在は掴んだ上で動いたのじゃろうが、それは結局義平の怨霊に有利に働いておる。そしてそもそも義朝の魂が込められた矢などあの義平に作れたのかの?」
「それだけか?」
私がそう言うと呉葉は首を横に振った。視線はまだ宙を彷徨う折り鶴へと向いている。そのままの状態で、呉葉は言葉を続けた。
「他にもある。そなたが大津を出発しようとした日。あの時に丁度大津に向かって平家方の一部が逃げてくるというのも変な話じゃ。そして何よりもそなたが最後に放った矢。そもそもどこで手に入れたんじゃ?」
私は沈黙した。
今日の私は久しぶりに机の前に座っていて写経の続きを行っていた。その筆の動きを止めて振り返る。
「呉葉はそのような話には興味がないと思っていたのだがな」
「仮にも儂が関わっておるのだ。無関心という訳にもいくまい」
私は筆を置いた。そして呉葉に向き直る。
「確かにお前の言う通りだ。最初は不自然なくらい兄や父に都合よく事態が進んでいたのに、いつの間にか私に有利な状況になっていた。それに違和感を抱くというのは分かる」
「そして忘れていたが、そなたこの地に来た最初の日。得体の知れない式神に誘拐されそうになっていたしの。そなたの助命が成ったのも、その式神が現れたのも始めから義朝の憑依するための身体の用意だった思えば納得がいくしの」
そして呉葉は黙ると、それから何かに気づいたように言った。
とっくに気づいていて、それから話し始めているだろうに呉葉の話し方は芝居がかっていた。
「なるほど。背後にいるのは貴族ども。いやひょっとすると後白河あたりの上皇・・・」
私はそこで呉葉を遮った。
「呉葉。私はもう隠居する身なのだ。彼らがどのような権謀術数を巡らせて武士の力を削ごうとしたところで私には関係のない話だ。今の私にできることと言えば精々静かな余生を過ごして波風を立てぬことなのだから」
「だがな、頼朝。もしそれが事実ならば、そなたは経房をもたばかったのか? あの日平家方の一部が大津に向かったのは、そなたにあの矢を届けるため。もしやその武士団を率いていたのも式神か?」
私はそれには直接答えなかった。
代わりにこう言う。
「あの時の私には目的があったのだ。そしてそのために使える駒を使っただけのこと。そしてこの策謀を巡らせた者にとってもあの時の義朝は強すぎたのだ。平家を弱めるどころかそれを破り、その上御所に火を放ったのだからな」
すると呉葉は笑みを浮かべた。
「なるほどの。頼朝。そなたはやはり源氏の棟梁なのじゃな。ひょっとするとそなたの父よりも」
呉葉は折り鶴を私の方に飛ばした。
それはゆったりと中空を舞い、そして私の手元へと舞い降りる。
それを確認すると呉葉は言った。
「何にせよ、お主が儂のためにそれを為したというならば、儂がとやかく言う筋はないのじゃがな」
それを最後に呉葉は再び自分の手元へと意識を向けた。
出立の時は近い。
頼朝という男が、平家の世の影でひっそりと朽ちていくのか、それとも野に放たれた虎となるのか。それを知る者はまだない。
ここまで目を通して頂き、ありがとうございました。
伊豆流刑から挙兵までの源頼朝空白の二十年と言いながら、まだ伊豆にも到着しておりません。
その上京から伊豆までの道のりの一割も進んでいないということですが、とりあえずは一段落致しました。
次の投稿が先となりそうですが、またその機会があればよろしくお願いします。