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頼朝異伝  作者: 風前灯火
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第四章


そして出立の日がやってきた。

荷物は皆まとめ終えていて、後は東を目指していくだけであった。

私はまだ微妙に痛みも残るわき腹を庇いながら馬に乗り込んだ。経房が隣を行き、そして考えていたよりも遥かに長居することになってしまった宿を見上げた。

「では、行こうか」

経房のその声と共に皆が進み始めた。

既に大津は閑散とし始めていた。この前までまだ活気があったというのに、今ではもう商売の声も聞こえてこない。人出も少なく、歩く者も皆急ぎ足だった。

京で起きていることはここの人々にももう伝わっているのだろう。皆が避難し始めているのは当然の事態だった。

そしてこちらもその避難する人々に紛れて東へと移動する。それが経房が昨日示した指針だった。

もしこのまま何も起きなければ私はこの避難民に紛れて美濃国へと向かっているはずだった。だが、ことはそう簡単には運ばなかった。

「鬼の軍勢が来るぞ!」

そんな不穏な声が京の方面から聞こえてきた。

そんな警告を発しながら走っている街の者が一人。だが、それを皮切りに次々と逃げている様子の人々がやってきた。

「義朝は京の都にいるのではなかったのか?」

郎党の一人がそう口にした。聞くところによれば義朝の軍勢は六条河原に現れ鴨川を渡って京に入ったという。六条河原から見れば大津と京はまるっきり逆の方面である。

それに京に入った義朝軍は京を放棄した清盛とも向き合っているはずだった。大津に兵を回せばその分京の都は手薄になる。

経房はそれで近くを走る町人の一人を呼び止めた。

「すまぬ。義朝の軍勢がここに迫っているというのは本当なのか?」

呼び止められた町人は煩げにこちらを見た。だが、無愛想なりにも答えてくれる。

「ああ。本当だ。平家方の一部がこちらに逃げているらしいな。それを追う鬼の一部がこちらに迫っているらしい。率いるのはあの悪源太義平だっていうからな。このままじゃこの街が巻き込まれるのも時間の問題だ」

人々の間ではすっかり鬼と定着しているようだった。確かに私の夢で見た義朝軍の様子を思い出せばその言葉は正しいように思えた。

「あんたたちも早く逃げた方がいいぞ。いくら武士とはいっても鬼相手では分が悪いだろうからな」

それだけ言うと町人は再び走り始めた。こちらが礼を言う間もなく走り去ってしまう。

「平家方の一部がこちらに逃げているだと? 馬鹿め! せっかく京だけでとどまっている被害を広げてどうするというのだ?」

経房は悪態をついた。

だが、実際経房の言うことは正しいように思えた。下手に逃げたりすれば被害が大津にまで及んでしまうだけなのだ。

「どうしましょうか? 今からでも避難する者たちに紛れますか?」

郎党の一人がそう問うが経房は首を横に振った。

「それでもし本当に義平がこちらまでやってきたらどうなる? 恐慌状態になった避難民の動きに巻き込まれれば、戦うことすらおぼつかなくなる」

「ですが、座してここで待つわけにもいきますまい」

その郎党の言葉に経房は考え込むようになった。

主人のその様子を見て郎党の間でも次々に意見が飛び交った。多少の違いはあれど、彼らの意見はいかにして逃げるか。そこに絞られていた。だが、どの意見も結局は義平と鉢合わせた時点で詰むという点は変わらなかった。

どう動いてもそれなりの危険と隣り合わせになる。逃げれば義平に追いつかれたときに打つ手が無くなる。かと言って留まっても同じことだ。

だが、私の頭の中には一つだけいくぶんかましに思える考えがあった。

「一つ、考えを申し上げても良いだろうか?」

私がそう言うと喧々諤々となっていた周囲の郎党が一気に沈黙した。経房もこちらを見て頷いた。

「お聞かせ願いましょう。今は一つでも多くの知恵が欲しい」

「では」

そう言って私はある方向を指さした。その方向を見て郎党たちは驚きを顔に浮かべ、それから呆れたような表情になった。

「頼朝殿。そちらは京の方角ですぞ。自分から義平に近づくとはどのようなお考えか?」

同時に彼らの表情に猜疑心が宿ったのも私は見逃さなかった。彼らは私がこの事態を利用して逃走するのではないかと疑っているのだ。

私は彼らのそのような視線と正面から向き合った。

そして口を開く。

「どの方向に逃げたところで同じこと。追いつかれればこちらに打つ手はない。だが、もし今京の方向に向かえば活路はある。逃げるのではなく戦うのだ」

 それを聞いて郎党の一人が声を上げた。

「戦うですと? 頼朝殿も義平めの強さは知っておられるだろう。それに今の義平は軍勢を率いているのです。ここにいる我らだけでは到底太刀打ちできませんぞ」

「それはその通りだ。だが、今向かえばあちらには戦力がある」

 私がそう言うと、経房は返した。

「撤退中の軍勢のことですかな? 頼朝殿。平家の末席に名を連ねる者としてこのようなことは言うのは心苦しいが、おそらく撤退中というのは潰走を意味している。到底戦力と呼べるような代物ではありますまい」

だが、私は首を振った。

「経房殿。私の言う戦力とは撤退中の軍勢のことではない」

すると経房の表情が虚を突かれたものになった。

「では、何のことなのです? この辺りに他に戦力など・・・」

私は少し息を深く吸って、それから言った。

「戦力ならあるではないか。千にも迫る戦力が」

経房や他の郎党は一瞬何を言っているのか分からないという表情を浮かべそれから徐々に顔を青くしていった。

「頼朝殿。まさかとは思うがそれは僧兵のことを言っているのですかな?」

「ああ。そうだ」

すると経房は首を横に振りながら言った。

「それはいけませぬぞ。頼朝殿。僧兵と我ら武士とはいわば宿敵です。元々我らは僧兵に対抗することが始まり。そのことはご存じでありましょう」

「確かにその通りだろう。だが、今は共通の敵を前にしているとは考えられないか?」

 確かに武士と僧兵は宿敵なのかもしれない。

 だが、彼らは兵士である以前に僧なのだ。それが建前だということは分かっている。だが、もし彼らの中に僧として矜持があるならば、第六天魔王の力を借りる義朝もまた宿敵に違いないのだ。

「しかし・・・」

 私は逡巡を見せる経房を前に少し間をおいた。僧兵と協同する。どのような状況であれ、それは実現するとは到底思えないような事態だった。

 だが、それでもこの状況でなら賭ける価値があるのだ。

「無論私も他にまともな手段があるならそちらを取る。だが、どう逃げても義平の追撃を受けた時点で詰みということは変わらない。ならば戦うしかないのだ。そして戦うなら戦力が必要だ。そして今期待できる戦力といえば、自ずと結論は見えてくる」

 そこまで聞いて郎党たちの顔が次第に変化していった。

 固定観念を捨てて考えたとき、それが一番ましな選択肢なのかもしれない。彼らもそう考え始めているのが分かった。

 だが、経房はその流れに流されることなく冷静だった。

「だが、勝てるのですかな? 僧兵が五千とはいえ、六条河原で義朝軍がどれほどの力を見せたか、頼朝殿もご存知でしょう? そして勝てないならば、我らはどの方角に向かうにせよ逃げるべきなのです。義平の追撃を受けないという可能性に賭けて」

沈黙が降りた。

どちらが確実に正しいということは言えない。

そこで私は馬から降りた。そして自分の荷物の入った包みを開くとそこから木刀を取り出した。

そして口を開く。

「勝算ならある。義朝軍の強さは見たところ二つだ。一つは一切弓矢の攻撃を受け付けない義平の風の結界。そしてもう一つは第六天魔王の力による圧倒的な一騎打ちの強さ。この二つを無力化する方法があるとしたら?」

「あるのですかな? そのような都合の良い方法が」

「ああ。この木太刀には呉葉が残してくれた霊力が宿っている。もしその霊力を矢に載せることができたなら風の結界を破れるかもしれない。そして弓矢で仕留められるなら、もう刀を切り結ぶ必要はない。義朝側の一騎打ちの圧倒的な強さを発揮させずに済むのだ」

それで沈黙が降りた。

経房も郎党たちも考え込むように俯いていた。

そして時間にして三十秒ほど経った頃だった。経房が呟いた。

「それに僧兵ならば、こういう敵には強いかもしれぬしな・・・」

その言葉が意味するところは明白だった。

反射的に郎党の一人が言った。

「しかし。経房様・・・」

だが経房はそれを手で遮って言った。

「分かっている。無謀なやり方だ。だが、今頼朝殿が言われたことを聞いた上で、この策以上の策を思いついたという者はいるか?」

それに答える者はなかった。

そしてそれを合図とばかりに経房は私の方に振り返った。

「ではその霊力とやら、どうにかして頂けますな?」

「やれるだけのことをしよう」

そう言ってから私は再び包みを閉じると馬に乗った。やはりまだわき腹には痛みが残る。

経房は馬を京の方向へと向けた。

皆が緊張の面持ちを浮かべていた。この策。もし成功すれば言うことはないが、失敗すれば義平の前に僧兵に討たれかねない。だが、それしか活路がないという現状を前にすればどうしようもなかった。

馬を使えばのんびり歩いていても大津の東端まではそう時間はかからなかった。皮肉にもそこは先日私が姿を現して僧兵を牽制した地でもあった。

そこに私は経房らと共に歩みを進めていく。いくら彼らの仕事が大津の封鎖と言っても彼らにも義平の動きは伝わっているはずだった。彼らの視線もどことなく京の方へ向いている。

だが、それでも馬の蹄の音は鋭く響いた。

誰かが気づき声を上げ始める。それを受けて次第に京の方向に向いていた僧兵たちの視線がこちらへ向くようになった。

だが、私は止まらない。ただ黙って歩みを進めた。

「何をしている?」

それを見て僧兵の一人が声を上げた。その手には薙刀が握られている。

だが、私はそれを無視した。後ろに同じく歩みを進める経房やその郎党たちに睨みつけられ、その僧兵は一歩退いた。だが、騒ぎを聞きつけて次第に各所から集まってくる。

私は京の方向を見つめた。噂が真実であるならばそろそろ潰走中に平家方が見えてくるはずだった。

私はそうやって明らかに封鎖に食い込んだ位置に止まるとそこで舞台が整うのを待った。観客たる僧兵が集まってくる。そしてその中に一人地位の高そうな者が混じっていた。

「武器を持って立ち入ってくるとは随分と乱暴ですな」

その僧兵が口を開いた。その目はこちらの真意を窺うとでもいうように鋭い。

私はその目を正面から見つめ返した。そして口を開く。

「そちらこそ、なぜこちらの進むのを阻もうとする?」

「阻む? あなた方は今の京に向かうつもりなのですかな? 今京の都がどのような状況になっているか、知らない訳はありますまい」

私は深く息を吸った。そして半分は自らに言い聞かせるように言う。

「無論知っている。私は我が兄義平と我が父義朝を討つためにここを進もうとしているのだからな」

空気がざわつき始めた。

相手の僧兵の男も眉を顰めるようになる。そしてそれから探るように言葉を発しようとしたときだった。

私は機先を制するように言葉を続ける。

「そなたらは今どこにいる?」

「何ですと?」

「そなたらは今どこにいるのだ? まさかこの地にいるとは言うまい。京に近き地に居て、京で何が起きているのかも知っている。その上で何もしないというのは腑に落ちぬ。おそらくこの地にあるのは木偶で、魂はどこか別の場所を彷徨っているのであろう」

沈黙が降りた。

だが、僧兵の男は口を開く。

「もしやあなたは我らに戦えと言っているのですかな?」

「そう聞こえたか? ならばそれもいいだろう」

 すると男は肩をすくめた。そして口を開く。その答えには怒りすら近い物も混じっていた。

「それは逃げているだけの武士は置いておいて、我らには矢面に立てとそういうことですかな?」

「私は言ったはずだ。少なくとも私は父と兄を討ちに向かう。それにいずれ撤退中の平家方の軍勢も到着するだろう」

すると男は信じられないものでも見るような表情を浮かべた。

「まさか、あなたは我らに武士と共闘せよとおっしゃるのか?」

「そう聞こえたなら、それもいいだろう」

するとあっけにとられたという様子を見せて、それから男は首を横に振った。

「あなたも武士であるなら知っておりましょう。我ら僧兵とあなた方武士との間にどのような歴史が横たわっているか。その溝は今この場でどうにかなるような代物ではないのですよ」

そう言う男の顔には深いしわが刻まれていた。それは確かに部外者でしかない私がどうこう言ったところでどうしようもないように思えた。

そのときだった。

京の方角から何か音が聞こえてきた。義平の起こす嵐の起こす音だった。次々と雷が降り注ぎそしてこの空にも暗雲が立ち込め始めている。

追われてきた平家方の軍勢とそれを追撃する義平の軍勢。じきに視界にも入ってくるはずだった。

私は口を開いた。

「私は源氏が嫡男、源頼朝である」

 淡々と言葉を紡いでいく。

「この嵐は義平兄上が起こしたものだ。数知れぬ雷が放たれ、今も平家方の武士を討っていることだろう。兄や父の無念も晴らされるかもしれん。だが、それが私にとって喜ばしいことだと思うか?」

男は沈黙した。

私は続ける。

「そなたも知っておろう。我ら源氏は平治合戦に敗れ、そして父や兄や無数の郎党が命を落とした。それらは全て平家によってもたらされたものだ。恨みが無いと言えば嘘になる。だがな、私は笑えぬ。平家の武士をことごとく滅ぼそうと鬼神の力を振るう父や兄の姿を見ても、決してこの心に喜びがもたらされることはない。何故か分かるか?」

私は息を吸った。

そして周りにいる僧兵に向かって叫んだ。

「私は源氏の嫡男である! 故に私は平家の敵であった! そして私は武士である! 故に私はそなたら僧兵の敵であった!」

私は目をつぶった。そして最後の一言を発した。

「だが、私は生者である! 故に私は父や兄の敵なのだ! そしてここに居る者もまた生者ではないのか!」

誰も口を開かなかった。

誰もが誰かが動くのを待っているように思えた。

そして、最初に動いたのは私と話していた僧兵の男だった。

「頼朝殿。一つだけお尋ねしたい。ここで我らが手を結び、義朝義平を討ったと致しましょう。だが、その後はどうなります? 所詮武士と僧兵の溝は変わりませぬ。あなたと平家の禍根も消えることはないでしょう」

男の眼光は鋭かった。

その顔に刻まれたしわ一つ一つが一切の誤魔化しは許さないと、そう言っているようだった。そして、私も誤魔化したりするつもりはなかった。

「それは私には分からぬ。水に流せる禍根もあれば、決して消えることのない禍根もある。私風情にそれら一つ一つを断じることなどできるはずもない。だが、」

「だが?」

「私は禍根に生きるつもりはない。清盛殿が禍根に囚われなかったからこそ、私は今ここに生者として立っているのだから」

 男はそれで沈黙した。

「そうですか。ならば我らも僧を名乗る者としての矜持、示すことにいたしましょう」

その言葉を受けて、僧兵たちは一斉に動き出した。彼らの持つ刃の向く先は今や私でもなければ平家でもなく、武士でもない。それは一つの目的に向けて寸分違わず揃っていた。


僧兵たちが布陣を終えると経房がこちらに向かって歩いてきた。

「まさか本当に僧兵の協力を取り付けることが出来るとは。この経房、未だに信じられる思いですよ」

「だが、本番はこれから。ここから我らはは向かってくる義平を討ち、そして義朝も討たねば意味はない」

「ええ、ですからこの経房に一つ仕事を任せては頂けませぬか?」

「仕事?」

「頼朝殿もお分かりのはずです。この戦は弓矢の働きが勝敗を決する。故に弓矢を使える者は一人でも多く後方に配置したい。そして武士は全員が弓を使えるが、僧兵は使えない。となれば武士は全員後方に配置するが吉となる。ですがそれでは僧兵は納得しますまい。誰か一人最前線に向かわねばなりません」

「経房殿が行ってくれるというのか?」

「はい。他の郎党たちは置いていきます。何かあったときは彼らが何とかしてくれるでしょう」

「だが、経房殿の姿を見れば、兄上はまっさきに襲いかかるかもしれない。そうなれば」

「頼朝殿。私は死ぬつもりなどありませんぞ。ですからもし私を生かすつもりならば、兄君の風の結界をお破りください。弓矢が目障りになれば兄君もそちらに向かいましょう」

経房は本気であるようだった。私は頭を下げた。

「かたじけない。経房殿」

 すると経房は馬を進めながら言った。

「頼朝殿。昨日話した日記の続きの話は覚えていらっしゃいますかな?」

「もちろん覚えている」

「では私は頼朝殿にも満足のいく結末を期待しておりますということをどうかお心にお留め下さい。どうか悔い無きように」

私は頷いた。

「重ね重ねかたじけない。経房殿が賛同してくださったからこそ私はここにいる」

「私は協力してるいるだけでございます。ではしばしのお別れを」

「ああ」

経房は去っていった。彼の郎党たちがこちらに近づいてくる。彼らも経房から事情は聞かされているのだろう。

「既に大津の代官の元に援軍の派遣を要請しています。せいぜい十騎といったところでしょうが、足しにはなりましょう」

十と言ってもその随伴も加えれば兵の数は五十ほどにはなる。全員が弓を持てばそれなりの数にはなるはずだった。騎兵でなくても遠くから放つだけなら弓は使えるのだ。

そうして、準備は着々と進んでいった。

義平軍がやってきたのは経房が去ってから一時間ほど経ってからのことだった。辛うじて陣を敷き終えた僧兵約千。

そしてこちらの前に追撃を受ける平家方の兵が見えてくる。遠目でも分かるほどに平家方は潰走状態だった。

そして同時に彼らの動きに合わせてこちらへ向かってくる嵐。間違いなく義平だった。ときおり落ちる雷と腹の底から響くような音、そして何よりもじりじりと強さを増してくる風がこちらの緊張を誘った。

「総員、構え!」

先ほど私と話した僧兵の男の声が響いた。その声を受けて、僧兵たちは思い思いの武器を手に取る。

いよいよ風の結界を破らなければならない。

私は木太刀を右手に握りしめると意識を集中させた。目をつぶり、それから木太刀に眠る力の塊に意識の糸を伸ばしていく。

それは異質な作業だった。自分のものでもない鬼の力に小童風情が触れようというのだ。制御できるなどと思う方が間違っている。

私は頭の中に呉葉の姿を思い描いた。写経をしていた私の元に忽然と現れた呉葉。将棋盤を虚空から取り出し、楽しそうに将棋を指していた呉葉。

そして何よりも清盛に流刑を言い渡され呆然として私に喝を入れたあの鬼としての呉葉。

これから始めようとしている戦いが義平を討って終わりという訳にはいかないのは分かっていた。もし首尾よく義平の怨霊を討つことができたとしても、その先には呉葉の身体に憑依した父義朝が待っている。

(今の私にこれからの戦いの結末は分からない。だが、もし呉葉の力だというなら、どうか今この一瞬力を貸してはもらえないか。呉葉を救うために・・・)

そこまで考えた瞬間だった。私の中に何かが入り込んできた。

それは力に触れようと伸ばした意識の糸を逆流するようにして私の中に流れ込んでくる。それは今木太刀に宿る力の源に触れるものだった。

それは決して明るいものではない。むしろその本質は今こちらに迫ってくる嵐に近い物があった。

(この昏さ。これが第六天魔王の影なのか・・・)

呉葉は自分を生み出した存在を第六天魔王と言っていた。呉葉はこのような力の本質を持ちながらもあれだけ明るくその力を振るっていたのだ。

(呉葉にはこの力はどう映っていたんだろうな)

そんなにべもない思考が頭の中を駆け巡っていく。


その時だった。

突然右手が熱を帯び始めた。それは次第に強くなっていく。

そして頭に声が響いた。

(貴様か。鬼の力に触れようという人の子は)

(誰だ?)

(私に名などない。人と妖の間に立つ者。それだけだ)

(その者が私に何用だ?)

(貴様は今鬼の力を使おうとしている。だが、そのことの意味、分かっているのか?)

(それでも私は今この力を振るわなければならない)

 私は自分の決意を思い浮かべた。

 すると相手にもそれが伝わったのか、相手の声色が変わったのが分かった。

(それでは問おう。人の子よ。鬼とは死者か?)

(否)

(では鬼とは生者か?)

(否)

(では鬼とは人か?)

(否)

(では鬼とは天魔か?)

私はすぐに答えようとした。だが、この問いは簡単ではなかった。

呉葉を生んだのも、父や兄に力を与えたのもおそらくは第六天魔王、天魔の仕業だ。その意味では鬼とは天魔なのかもしれない。

だが、呉葉は天魔たろうとしていたのだろうか?

呉葉は鬼だ。そのことは自負していた。そしてその振るう力は間違いなく第六天魔王のものだった。だが、それでも呉葉に天魔という言葉は似合わなかった。

だから私は答えた。

(否)

(では鬼とは何ぞ?)

私は自らの中に問うた。

鬼とは何か? 

それは答えがありそうでしかし無い問いだった。

呉葉は何故鬼か? 

そして私は何故鬼ではないのか? それは自分の頭に呉葉が持っていたような角が無いからか?

そこまで考えて私ははっとした。

木太刀を持つ自分の手。加熱したこの手。それは何を得ようとしている? そしてそれをしている私は・・・

(鬼とは鬼の力を振るう者)

 気づけば私はそんな言葉を口にしていた。

 答えになっていない。鬼の力を振るう者が鬼などというのは何の意味も持たないはずだった。だが、私は何故かその答えに満足していた。

 そしてこの語りかけてきている存在も満足しているようだった。

(最後に問う? そなたは何ぞ?)

(私は、鬼たらんとする者。源義朝が三男。源頼朝なり)

(良かろう。悔いはないな?)

(悔いるならば構わぬ。どの道ここで踏み込まねば必ず私は悔いることになるのだ)

(ならば行くが良い。新たなる鬼たらんとする者よ)

そこで声は響くのをやめた。近くに感じていた気配が急速に遠ざかっていく。

私は木太刀から手を離した。木太刀を握り締めていた右手はまだ熱を残している。そして木太刀から何かが流れ込んでくるのが分かった。


「頼朝殿。弓の準備は整いました」

隣にいた郎党が私に言った。

「分かった。私の矢が結界を破ったら、一斉に放て」

郎党は頷いた。

「弓、構え!」

それを合図に丘の上に並んだ武者五十人強が一斉に弓を構えた。

郎党は続ける。

「これより結界破りの一矢を放つ。それが通ったならば他の者も一斉に放て」

私は矢筒から一本の矢を取り出した。そしてその矢に力を籠めるようにする。木太刀に込められていた力が私の右手を通して矢に流れ込んでいくのが分かった。

(呉葉。力を借りるぞ)

私は矢を放った。それは綺麗な軌道で義平軍へと向かっていく。これまでであればその矢は風に吹き飛ばされて何の効果もないはずだった。

矢は義平軍に近づいてくとそのまま落下していく。そしてそれは風の結界に近づくと動きを止めるようにした。流されることもなく、しかし進むこともなく、そこに留まっていた。矢に込められた力と結界の力がぶつかり合っているのが分かる。

どちらも簡単には譲らなかった。そして結界を支える義平の気配が私にも感じられるようになる。

(頼朝か! 貴様はまたしても・・・)

義平の怒りが伝わってきていた。だが、その怒りとは裏腹に次第に結界は押されていく。

(何故だ? 何故貴様のような腰抜けに)

私が勝算があると考えたのは理由があった。呉葉の力を使うと言っても矢を放つのは所詮青二才の私なのだ。だが、義平がこの結界を多用していることは想像に難くなかった。六条河原の攻防に始まり、撤退した清盛率いる平家方主力との小競り合い、そして今回の追撃戦。その消耗が義平の結界を脆くしている。

そして・・・

「矢が通ったぞ!」

前線で誰かが叫び声を上げた。それを受けて前線の方で歓声が上がる。そして逆に義平軍の方は目に見えて動揺しているのが分かった。遠くから見ても分かるほどに突撃の勢いが減退している。

「放てぇ!」

私の横で郎党が叫んだ。その声を受けて次々と矢が放たれる。一度破られた結界はそう簡単には修復されなかった。それらの矢は風に進路をゆがめられることなく、次々と義平軍に襲い掛かる。

義平軍はそれで完全に混乱状態に陥った。

だが、それでもなおも義平軍は突撃を敢行する。それでもさすが経房の残した郎党は冷静だった。焦りを見せることなく第二射をつがえる。それを見て周りもすぐにそれに倣った。

皆が第二射の用意ができたことを確認すると郎党は叫んだ。

「第二射、放てぇ!」

畳みかけるように第二射が放たれる。だが、それでもなお義平軍は突撃を敢行した。展開している僧兵と激突する。だが、矢による混乱はそう簡単には収まらない。いくら鬼神の力を受けた一騎当千の兵ばかりといってもこの状況では限界があった。次第に義平軍は押されていく。

そして現状突撃している義平軍の第一陣に第二陣はなかなか合流できない。それは弓矢の成果だった。

「次、放てぇ!」

もはや数えることも止めるほどに放たれた矢は義平軍の第二陣第三陣を一方的に打ちのめしていた。それが前線に上手く合流できないことで、義平軍の第一陣は孤立しつつある。通常の戦いであればこれで決着だろう。だが、私はこの戦闘にまだあと一山あることを確信していた。

そしてそれを裏付けるように嵐の様子に変化が生じた。

そして、暗雲は急速にこちらに向かってくる。標的がこちらの弓矢隊なのは明らかだった。

「義平が来るぞ!」

その叫び声を受けて弓矢を構えていた兵たちの動きが変化した。そしてそれとほぼ時を同じくして雷が降り注ぐ。

「兄上! 私はここだ!」

嵐の一部が収束して人の形を取った。見間違いもしない。それは義平の姿だった。異様な姿の馬に乗り、嵐の合間から地上へと降りてくる。

「頼朝! 私は貴様を許さぬ! 源氏に名を連ねる者としてこのような所業、許すものか!」

その声と共に義平は弓を構えた。躊躇いもせずに矢は放たれる。私は馬に鞭うった。間一髪で義平の一撃を避ける。

割けた矢が命中した箇所に雷が降り注ぐ。

「前のように行くと思うなよ! 頼朝。今日の私は本気だ!」

私は馬首を返すと義平に向き合った。弓に矢をつがえる。

「私も今日、あなたを討つためにここにいるのです!」

そして矢を放った。

「そのような一撃。この私に当たるものか! 頼朝! 矢とはこう使うのだ! 冥土の土産に見せてやる。必殺必中の一撃をな!」

言いながら義平は矢を三本一斉につがえた。

そして躊躇うことなくそれを放つ。一斉に三本の矢が放たれ、そしてそのどれもが必殺の一撃だった。

それは巧妙に逃げ道を塞ぐように展開している。だが、そこで乗っていた馬が何か毛躓くように体勢を崩した。結果として一瞬の間私は矢の軌道から外れる。

矢は三本とも私の後方に突き刺さり、轟音と共に三本の稲妻が降り注いだ。

「運の良い奴! だが二度目はないぞ!」

義平はこちらに立て直す隙は与えぬとばかりに次々と矢を放った。

私は義平の動きを観察した。空すら駆ける馬に乗り込み稲妻を呼び込む矢を放つその姿はまさしく無敵という言葉がちょうど当てはまるように思えた。

だが、一つだけ疑問があった。義平は例の三本一斉射を躊躇っているように見えたのだ。あれを放ち続ければいいものをそうしていない。矢の残りと気にしている様子もない。

(ならば試してみるしかあるまい!)

「先ほどの勢いはどこへ行ったのです。自信があるならあの三本つがえ、やってみせろ!」

「吠えたな! 望み通り放ってやる!」

義平はぴたりと私の心臓に狙いを定めた。そして一想いに矢を放つ。

「これで終わりだ! 頼朝!」

だが、私は兄の腕を信じていた。信じていたからこそ弓をしまい木太刀を手に取った。それを瞬時に私の心臓と義平の弓の間に持っていく。

矢は見事に私の心臓に向かい、そしてそれは木太刀に弾かれる。他の二本は真ん中の一本とは異なる軌道を描いている。無視しても私には当たらない。

そして私は義平の動きを見逃さなかった。乗っている馬が一瞬体勢を崩したのだ。そして体勢を立て直すように反対側へと移動した。

(反動か)

義平の放つ矢は威力が高すぎるのだ。だから三本も一斉に放ったりすれば馬の方が支えきれない。

そして私はもう一度あれを放たせる方法を心得ていた。

そして馬も私の腕ももう限界を迎えていた。あと一度受け止めれば、もう次はない。次が最初で最後の機会。

兄義平はよくも悪くも素直で武士であった。故にこそ、挑発されればそれに応じ正面から食い破ろうとする質の人間であった。

だからこそ、私は言った。

「必殺必中。二度も外してはもうそう名乗れますまいな! 兄上!」

「ぬかせ!」

義平は再び矢を三本つがえた。そしてそれを一斉に放つ。私は姿勢を低くしながら木太刀を構えた。矢は木太刀に命中し、そして弾かれる。重い衝撃だった。そして私は木太刀を宙へ放った。そして弓を構える。そしてそれを馬が体勢を立て直すために移動するであろう場所に向けた。

「当たれぇ!」

その声と共に矢を放つ。義平には避けることなど叶わなかった。矢は馬の腹へと吸い込まれていき、その直撃を受けて馬は跳ね上がった。義平もこの状況では馬に振り回される他ない。

私は弓を捨てた。そして投げた木太刀が落ちてくるのを掴むと全速力で全身した。

「兄上! 覚悟!」

その声と共に私は木太刀を前に突き出した。それは避けるべくもない義平へと一直線に吸い込まれていった。

「ぐっ!」

呉葉の身体を乗っ取った義朝とは違う。義平の身体は霊体だった。故にその身体は霊力を持った木太刀を前に無力だった。

「頼朝!」

義平は私を睨みつけた。だが、それも一瞬のことだった。

力を抜いたようにして義平はこちらを見つめた。それはいつ見たかも忘れてしまった兄の顔だった。

「私を破ったか。頼朝。その木太刀の力。そなたも鬼の力を借りたのだな」

「はい。兄上」

「だが鬼の力はただ使われてなどくれぬぞ。確実にそなたを取り込んでいく」

「分かっております。鬼とは鬼の力を振るう者。そう覚悟を決めています」

 すると義平は少し笑ったように見えた。

「そうか。ならばもう言うこともない。父上とそなた。先に来た方と地獄で酒を酌み湧かすことにしよう・・・」

そして義平はじりじりと虚空へとその身体を溶かしていった。それに伴って嵐も晴れていく。

そして最後に義平の声が響いた。

「この馬は私とも父上とも関係のない馬だ。餞別だ。受け取っておけ」

その声を最後に義平は今度こそ消滅した。

それを受けて周囲の弓矢隊の武者たちも歓声を上げた。それは頼朝にとって人生初の勝鬨だった。


―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―


「父上! 報告がございます!」

慌てた様子で陣幕に踏み込んできた男がいた。一目で一級品と分かる鎧兜で覆うそのいで立ちからはその男の地位の高さが伺えた。

そして陣幕の中に居た男はそれに対して振り返った。そして落ち着いた口ぶりで言った。

「その前に落ち着け。重盛。将来の平家総帥ともあろう者がそんなことでどうする」

それで重盛は父である平家の総帥―平清盛の表情を見つめた。

今の言葉を体で表すように父の態度は至極平静だった。

突如現れた義朝、義平の怨霊を筆頭とする源氏の軍勢。そして六条河原での敗戦。京からの撤退。

これだけのことが重なっているというのに清盛の態度は平治合戦に勝利したときとも寸分も変わっていない。

それで重盛も自分の立場を思い起こすことになった。重盛もまた次期総帥として動揺を見せるようなことがあってはならないのだ。

「失礼しました。父上」

「うむ。それで報告を聞こうか」

「はい。今斥候の者が戻って参りました。どうやら義朝の軍勢が移動の準備をしているようです」

「移動? 我らの軍勢を前にして移動だと? 行き先はどこだ?」

「分かりませぬ。ですが、一つ噂のようなものが流れておりまして」

「どんな噂だ?」

「それが信じがたいのですが、義平の怨霊が討たれたと」

「何? それはどこでだ?」

「それが大津近くにて延暦寺の僧兵によって討たれたということです」

それでも清盛は驚きを表に出したりはしなかった。

だが、重盛は長いときを共にしてきた息子として、父の驚愕がどれほどのものか肌で感じていた。

そしてそれから陣幕の中央に置かれた京周辺の地図を眺めた。

そのまましばらく考え込むようにした。それから決断したように顔を上げた。

「全軍に移動準備を通達しろ。そして重盛」

「はい」

「五百騎を預ける。今すぐ出撃の準備をしろ」

「目的地はどこでございますか?」

「目的地は・・・」

平清盛という男はどこまでも現実的な男だった。

直情的である意味武士らしい義朝とは対照的に、武士として以上に政治家としての素質に秀でた男だった。

そして時代はその才を持つ者をその漕ぎ手に選んだのである。

それは武士の時代の始まりと告げる者として皮肉な特質であったかもしれない。


―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―


勝鬨が上がる中、私は木太刀をしまって次の戦場に思いをめぐらせていた。

何かを察しているのかこちらに歩み寄ってきた馬に手を当てる。確認するまでもなく天下一の名馬だった。

漆黒の毛にたくましい体躯は共にいるだけで頼もしさすら感じさせてくれる。

「よろしく頼むぞ」

私がそう呟くとその馬は任せろと言わんばかりにいななきを上げた。やはり普通の馬ではないのか、私が放った矢による傷も、矢を抜いてやるともはや何でもないという風である。

この戦はまだ終わりではない。

むしろ義朝を相手にすることを考えればこれからが本番だった。

だが、そこへ顔を少しほころばせた郎党がやってきた。

「頼朝殿。撤退してきた軍勢を率いていた者が頼朝殿にお会いしたいと」

私は顔を上げた。そして言う。

「分かった。その方はどこにいる?」

「もういらっしゃっています」

その声とほとんど同時だった。こちらにやってきた者がいた。

「まずは感謝申し上げる」

その男は開口一番そう言うと、こちらに近づいてくる。

「あの援護がなければこちらは壊滅していた」

「感謝ならば見事な弓の腕前を振るって頂いたここに居る者たちと義平勢を押し留めて頂いた延暦寺の僧兵たちに」

「それはもちろんのこと。ですが、ぜひ受け取っていただきたき物があるのです」

言いながら男は背中に背負った矢筒を降ろした。

「どうかこの矢筒を受け取って頂きたい。これは我らの感謝の気持ち故」

私は矢筒の中身を見た。

よく見る矢がある中で、一本だけ異色の輝きを持つ矢がある。

私は頭を下げてその矢筒を受け取った。

「かたじけない。非才の身だが、できる限り役立ててみせよう」

すると男は再び頭を下げて離れていった。

私を男が去っていくのを見送ると再び京の方を見つめた。

そろっていない駒はあと一つ。

「今度こそ決戦となるか」

私は呟いた。そして戦勝に喜ぶこちらの元に義朝率いる敵の本体が迫っているという報告が入ったのはそれからすぐのことだった。


「第一射、放てぇ!」

もはや義平の風の結界はない。その声と共に放たれた大量の矢は義朝軍の兵たちを次々と打ち倒していった。

だがそれでも義朝軍の攻撃は止まらない。隣で味方が倒れても止まらずに突き進んだ。

そして前線の僧兵と義朝軍の先鋒が激突した。

「矢が足りぬか・・・」

隣でここを指揮する経房の郎党が呟く。

先ほどの義平軍は所詮別働隊に過ぎなかった。今相対している義朝軍はいわば総大将率いる主力。数も先ほどの三倍は優に上回っていた。

その突撃を止めるのにこちらの弓は明らかに不足していた。

そしてさらに悪いことに前方の戦場は乱戦の様相を呈しつつあった。

深く切り込んだ義朝軍と僧兵の間で激しい攻防が繰り広げられている。そしてそこに対しては矢はもはや放てなかった。

近く切り結べばこちらが不利。それは六条河原の戦闘の教訓である。だが、義朝軍はその勢いを持って既に戦場の推移を自らの土俵に持っていきつつあった。

このままでは敗北する。

それは誰の目にも明らかだったが、同時に現状を打開する術を持つ者もまた存在しなかった。

(今はまだよい。僧兵もまだ粘っている上に、まだ切り込み切れていない義朝軍には矢も放てる。だが、一度崩れれば後はない)

私は戦場を見守りながら、一つの希望のみを待っていた。

(もう義平が討たれたという噂は飛び交っているはずだ。あの清盛殿なら・・・)

私は強くこぶしを握り締めていた。

義平を迎え撃ったのは勝算があった。だが義朝率いる本体を打ち破るのに必要な駒はまだ一つ揃っていない。

そしてその駒がやってくるかは賭けだった。

そしてそれはかつて平治の乱で見事に父義朝を誘き出してみせたあの男に対する期待だった。父を討つために平家総帥に期待するとは源氏の嫡男として如何なものかという指摘はあるかもしれない。だが、今の私にとってそれはもはや別問題だった、

そしてじりじりと待つこと一時間。目に見えてこちらの防御線が限界を迎えつつある瞬間の出来事だった。

「あれを見ろ!」

誰かが叫んだ。それは遥か京の方向を向いている。

そしてその先を見た私は心の中で快哉を上げた。

(やはり清盛殿は・・・)

そこにはかつては敵を示すと恐れた平氏の赤旗が閃いていた。

「援軍が来たぞ!」

「後少し持ちこたえるのだ!」

押される一方だったこちらが息を吹き返したように盛り返し始めた。

そして平家五百騎がとうとう義朝軍の背後へと突入する。彼らは突入前に次々と弓を放った。彼らの放つ弓は後方に展開しているこちらと違い、最前線で目の前に向かって放つものだった。乱戦にも構わず次々と矢が放たれる。それが五百騎によって実行される。一気に義朝軍の背後は乱れ始めた。そこへ最精鋭の武者達が突入する。予期せず背後から強襲を受けた上に、戦場全体では完全に挟み撃ちの様相を呈していた。

戦局は決定的だった。

私はそれで手元の木太刀を握り締めた。

私にとってはこれからが本当の決戦なのだ。

義朝は必ずこちらを突破して東国へと向かおうとする。そして呉葉の身体を手に入れて第六天魔王の力を駆る今の義朝を止めるのは容易ではない。義朝は必ず突破してくる。

そしてその時こそ、私がこの手で義朝を討たねばならないのだ。呉葉を取り戻すために。

私のそんな様子を察したのか馬が口を震わせた。

そして私のその予測は的中した。義朝とその周りの一部の武者がこちらの戦列を突破する。そのまま義朝は大津へと直進した。

「義朝に大津を越えさせてはいかん!」

私は馬に鞭打った。さすがに義平が残してくれた馬だった。驚くべき加速を見せて私は義朝に追いついていった。

だが、ことはそう単純には運ばなかった。

義朝の周囲を固める一部の武者達。彼らは追ってくるこちらを見定めると次々と矢を放った。このままでは義朝に逃げられてしまうのは明白だった。

私は弓に矢をつがえると、それを次々に放った。だが、数が違う。次第に追撃どころかこちらが追い詰められることになった。

(ここまで来て、届かないのか・・・)

そう私が思ったときだった。どこからか矢が放たれ私に矢を射かける武者の一人が打ち倒された。

「頼朝殿! 加勢に参ったぞ!」

それは経房の郎党たちだった。それぞれが弓を構えている。彼らは追撃を阻む武者へと躊躇なく切り込んでいった。

「先へ向かわれよ! 今ここで義朝を討てる、いや呉葉殿を救えるのは頼朝殿だけです!」

 私は一瞬耳を疑った。

 すると郎党の一人は笑みを見せながら言う。

「我らとて経房様からお話は聞いておりますよ。父を討つというのならば信用できませんが、救いたい女子がいるというならば分かりやすいというものですからな」 

 私は一瞬言葉に詰まって、それから頭を下げた。

「かたじけない!」

私は義朝の向かった道を駆けた。ここから先に義朝以外の敵はなく、そして私以外の味方もいない。

一騎打ちが最後の決着となるのだ。


私が義朝に追いついたのは大津のもはや東端。瀬田の地だった。橋を越えればもう大津を越えるぎりぎりの場所だった。

私は弓に矢をつがえるとそれを放った。当たりはしない。だが、義朝は足を止めた。

そしてこちらに振り返る。

私の顔を見た瞬間に義朝は表情を険しくした。

「頼朝。義平を討ったのは貴様か」

「そうです。そして父上。あなたもまた敗れたのです」

 私はもはや父に対する態度を取らなかった。

 ここにいるのは討つべき敵。そう覚悟を決めている。

「それがどうした? 勝てるまで続けるまでのことだ」

だが、義朝は敗れたと言われても動じなかった。何でもないことのように続けると言い切った。彼にとっていくら犠牲を出すかなど問題ではないのだ。

「木太刀の一本もあれば、父上は最期そう口にしたと聞いています」

言いながら私は木太刀を取り出した。

「私は木太刀一本でここまで来ました。そして父上は兄上の力を借り、第六天魔王の力を借り、そして呉葉の身体をも使った。その上で敗れたのです。天命とそうは思いませんか?」

 義朝は沈黙した。

 そして十秒ほど経ってから、口を開く。

「その言葉に私が首を縦に振ると思っているのか? 頼朝」

 そして私は義朝の目を見つめ返して言った。

「思っていません。父上」

「そうであろう。互いに譲らぬならば刀でもって押し通る。それが武士の道だ!」

その声が合図となった。

ここに決戦となる一騎打ちの火蓋が切って落とされた。


義朝は例の不可視の力を振るった。

殺意の塊がこちらの喉元に一直線に迫ってくる。だが、鬼の力を振るった私にはそれが見えていた。正面から木太刀でそれを弾く。

「ほう。頼朝。貴様も鬼となったか!」

「地獄行き程度なら覚悟の上! だが、その前に返してもらいます!」

「返す? もしやこの身体のことか? ならばもう手遅れだ。あの日に貴様が取った愚かな行動。その結果は永久に戻ることはない!」

「それは押し通ってから確かめること!」

私は木太刀を義朝に振り下ろした。だが、それも正面から受け止められる。

「兄を討って自信をつけたか。だがな、その程度の力では押し通れぬぞ! 頼朝!」

こちらの刀は押し戻される。そして今度は義朝が反撃を始める。

一度距離を取った義朝は刀を振り上げ向かってくる。

「貴様は所詮人の身よ。鬼の身体を持つ私には勝てぬ!」

私は木太刀で義朝の振り下ろす刀を受け止めた。猛烈な力がかかり、私を追い込めようとする。両手で受け止めているというのにじりじりと押し込められた。

「確かに所詮私は人の身。半端者です。ですが、生者として鬼を力を振るう。それこそが今の私の自負なのです!」

その声に応えるように馬はいななき、そして木太刀からは力が流れ込んできた。

(この私を食らうならば食らってみよ! だが、鬼の力は見せてもらうぞ!)

じりじりと私の木太刀は義朝の刀を押し戻した。

「むうっ。調子に乗りおって! この父相手に押し通るなどと!」

打ち合わせられた刃は一進一退を繰り返した。

互いに押しては返し、剣先は常に震えている。

私は足で馬に合図を送った。強制的に距離を取って立て直す。

そして今度は私から仕掛けた。だが、それは見切られていてあっさりと弾かれる。そしてまた義朝の反撃は重い。再び鍔迫り合いの恰好となるが、どちらも決めてに欠けていた。

それが何度も繰り返された。何十合と打ち合い、合間には不可視の攻撃が飛んできた。

それらをいなし、こちらの攻撃を叩きつける。私は既に腕とそして先日負傷したわき腹が限界を迎えつつあるのを悟っていた。兄の弓を二度も受け止めた代償が今さら襲ってくる。

いつの間にか私の居る位置も瀬田へと繋がる橋の上となっていた。ここを突破されれば追撃は難しくなる。退くこともできなくなった私の位置取りは完全に追い詰められているもののそれだった。

(このままでは押し負ける、か。だがな・・・)

「どうした頼朝。もう剣裁きが鈍くなっているぞ。もう終わりか?」

義朝の言葉はこちらが追いこまれていることを見抜かれているということを示していた。

打ち合っているのだ。相手にもこちらの息遣いは悟られてしまう。

「次で最後の打ち合いとなるか。案外呆気ないものではないか。地獄で会ったら酒の一杯くらい共にしてやろう」

その声と共に義朝はこちらに迫った。私も木太刀を握り締める。

両者の刀が激突した。そして、私の木太刀は私の手を離れて舞い上がった。

「貴様の鬼の力。由来はこの木太刀であることは既に見抜いている! 終わりだ! 頼朝!」

その言葉と共に義朝はとどめを刺そうとこちらに迫った。

私は背中の矢筒から一本の矢を取り出すとそれを義朝に向けた。

義朝は刀を構えると同時に前面に妖気の塊を展開させた。それは義平の風の結界をも超える強度でもって矢を阻むだろう。義朝にとって、それは必勝の構えだった。

義朝の勝利。だれもがそう確信するはずの状況だった。だが、私はそこで笑みを漏らしていた。このような絶体絶命のはずの状況で私が浮かべていた笑み。それは傍から見ればこう映ったかもしれない。

勝利を確信した者の笑い、と。


私は矢を放った。

そして、それはしかし義朝の展開した妖気の壁に一瞬たりとも動きを止められることはなかった。何もなかったかのように突き抜けていく。

「な?」

義朝は声を上げた。だが、間に合わない。私に留めを刺すべく走り出した義朝の動きはもはや止まらなかった。

「私の勝ちです。父上」

その言葉と同時だったか、それよりも後だったか。それとも前だったか。ともかく結果は明らかだった。矢は深々と義朝の胸に刺さる。

「このような矢一つ。鬼の身体に効くと思った・・・」

言いながら義朝は動きを止めた。

そして胸元に手をやると、矢を引き抜こうとした。だが、それは叶わない。そして同時に義朝の顔に焦りとすら呼べる感情が浮き彫りになった。

そしてその焦りに合わせるかのように新たに異変が起こっていた。突き刺さった矢に何かが吸い込まれていくのだ。

「何だ? これは?」

 義朝は初めてその顔に恐怖を浮かべた。

 私は淡々と告げる。

「これは父上が呉葉の身体に憑依したときと同じ矢です。この矢はちょうどあなたの魂を収めるように作られている。過不足なくあなたの魂だけを」

 それで義朝も状況を悟ったのだろう。その顔からは恐怖や戸惑いの色は消え、代わりに怒りが表出する。

 そして口を開いた。

「認めよう。私は負けた。だがな、貴様の勝ちにはさせん。貴様も道ずれにしてくれる!」

 義朝はこちらに向かって馬を駆った。あの矢は一本のみ。木太刀から離れた状態では他の矢は役に立たなかった。

 構えるように見せたこちらの弓は一瞬で義朝の刀に斬られる。私はそれを投げ捨てると馬首を反転させた。目指す先には先ほど跳ね飛ばされた木太刀がある。

 それは清々しいほどにしっかりと地面に突き立っていた。そして木だというのに金属のそれすら圧倒するような輝きを放っている。

 走る私の背後に無数の妖気が迫る。それらは全て一直線に私の心臓を狙っていた。

「私は生者たる故にこの刃を振るう!」

私は振り返った。既に手には木太刀が握られている。

「なればこそ、鬼の力はただ生きるために!」

私の持つ刃が輝きを増したように見えた。そしてその輝きはこちらに迫る殺気の尽くを呑み尽くしていく。

「父上。いや義朝! 返してもらうぞ!」

木太刀は妖気を貫くと、義朝の持つ刀と激突した。

「頼朝おおおぉ!」

もうとっくに限界を迎えたと思っていた腕もわき腹も、不思議と全く痛まなかった。

両者とも分かっている。これが最後の鍔迫り合い。

そして私の持つ木太刀の輝きが増していき・・・そして・・・

びきっ

何かが割れるような鋭い音が響いた。

それは義朝の持つ刀が折れる音だった。

「刀が先に負けたか。だがな、我らのいる場所を忘れるなよ!」

その声と共に義朝は私に組み付いた。

「このまま下の川まで道ずれよ。鎧を被った武者の重さ、最後に味わえ!」

避けようがなかった。組み付いた義朝はそのまま私に抱き着く恰好のまま橋の欄干を乗り越える。

一瞬の浮遊感があってそれから衝撃があり、そして水独特の冷たさがあった。

私の身体は深く深く川底へと沈んでいった。

それは呆気ないほどに一瞬の出来事だった。

(これで終わるのか・・・)

悔いはない。だが、残念だと思う、残念だと思える自分がいた。

私は身体の力を抜いた。その道今の私には身体を動かすような力は残っていない。文字通り精も根も尽き果てたのだから。

口から少しずつ漏れる泡も次第に少なくなっていく。川底も見えてきた。私が再び浮かび上がる瞬間は二度と訪れないだろう。

(地獄へは私もすぐに向かうことになりそうです・・・ 兄上)

いつの間にか義朝の気配は消えている。あの矢は仕事を果たしたようだった。

私は目を閉じた。

だが、その瞬間だった。奇妙な浮遊感があってそれから私の身体が急速に浮かび上がった。

「全く。詰めが甘いの。頼朝。最後の最後で義朝の巻き添えとは。生きるため力などと吠えておったくせに」

気づけば私は空気の泡の中に居た。そしてそこには呉葉が浮いている。

「呉葉!」

 すると呉葉ひどくなつかしいような気がする笑みを浮かべて言った。

「まさかお主と再び言葉を交わせる日が来ようとはな」

呉葉は自らの力を弄んでいる。

彼女の手からは幾分もの妖気が放たれ、そしてそれは美しく輝いていた。

「呉葉・・・」

私が口を開こうとすると呉葉はそれを押し留めた。そして代わりに口を開く。

「お主が言おうとしていることは大体見当がつく。だがな、もう終わったことじゃ。それもそなたの手によってな。ならばもう言うことはない」

そして呉葉は満面の笑みを浮かべながら続けた。

「そして、儂からは一つ言わせてもらおう。面白いものを見せてもらった。私の持つ力も捨てたものではないと思える程度にはな」

そう話す彼女の姿はどこまでも輝いて見えた。



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