第三章
私が宿を移し、適度に外に姿を晒すということを繰り返すこと十日。
事態は皮肉にも私の居る宿から動き始めた。だがそれは僧兵の仕業でもなければ、平氏の仕業でもなかった。
その日はそれらしく嵐であり、経房もその日は警戒していた。私のところにもわざわざやってきて、立て付けを確認していたくらいであった。
「経房殿。それほど激しい嵐なのか?」
「それは分かりませんが、陰陽師によるとかつてないほどの嵐になるかもしれぬとのこと。気が乱れているとのことです」
「そうか。気が乱れていると」
そして経房は無事に戸締りを終えると特に問題はなかったようで去っていく。
経房が去ると、呉葉が部屋に入ってきた。
「呉葉。そんなに激しい嵐になるのか?」
すると呉葉は外を見ながら目を細めた。彼女にしては珍しく返答に詰まっている。
「う~む。確かに気は乱れているが、これはただの嵐ではないの。どうも見えにくい」
「お前の返事がはっきりしないというのは珍しいな」
だが、呉葉は私の返事には応じなかった。警戒したようなまなざしで北の方角を見ている。
そして、呟くように言った。
「こういう時こそ、街の外にいるような坊主が仕事をするべきだと思うのだがな」
それで私は身を引き締めた。ただの嵐ならば引きこもっているだけだが、呉葉がこうも言うならば警戒する必要があるだろう。
そして、十分な前兆を経て事態は進んでいく。
ちょうど嵐が近づいて来たという気配がした時だった。
嵐らしく雷が落ちる。
襖越しに光が見えたかと思うと、すぐに雷鳴が鳴り響いた。
「近いか」
「そうじゃな」
そして雷はこの宿の近くに落ちるようになってから、なかなか移動しなかった。
次々と雷光がきらめき、直後に雷鳴が鳴り響く。
「どうやら、この嵐。厄介なものが取りついているようじゃ」
「厄介なもの?」
「怨霊の類だとは思うが誰かは分からん。だが、いよいよただの嵐という訳にはいかぬようじゃ」
心なしか呉葉の言葉には不安のようなものが混じっていた。
そして宿の中もどことなく慌ただしくなる。この辺りだけ、雷が落ちる頻度が異常なのだ。不穏な気はもはや陰陽師の類でなくても明らかに分かる。
「怨霊がここに恨みを持っているとして、果たして狙いは誰なのだろうな」
「順当に考えればお主が一番の候補ということになるかの? 源氏の係累に恨みを持つ者ならば、この機会に根絶やしにという腹づもりかもしれん」
呉葉は試すようにこちらを見つめた。
だが、私は呉葉がそんな余裕を見せたからこそ、逆に落ち着いていた。
そのままに言う。
「源氏の係累に対する恨み、か。ならば時機を逸している気もしないでもないが。怨霊に時を待つなどという見境があるとも思えん」
「そうじゃな。だが、時期を逸していないような怨霊だとしても、この力は異常じゃ。よほど偶然が重なったか、それともこの世におる何者かが手助けをしておるのか」
呉葉の口にした推測は不穏極まりないものだった。私のような人間は常に悪い方、警戒するべき方を第一に想定するものだ。
今のような言葉があって、偶然などという方に賭けたりはしない。
「怨霊の手助けをする者がいるとはな。穏やかではないが、あり得ぬ話ではない。問題はそれが誰の手によるものかということだ」
「それこそ、怨霊の正体によるかの」
「もちろんそうだが、おそらく平家の者ではあるまい」
私は先日、街で話しかけてきた式神の主の言葉を思い出していた。
太平な世とはすなわち敵、か。なればこそ隆盛を極める者たちにとって太平な世に勝る味方もないだろう。
そして、何度目か分からぬ雷光がきらめいた時だった。呉葉が突然立ち上がった。
「残念ながらやり過ごすという訳にはいかないらしい。来るぞ!」
その言葉とほぼ同時に雷鳴がほとんど頭上から響き渡った。そして何かが割けるような音がする。
宿のどこかから声が上がった。
「難波様のお部屋だ! 急げ!」
雷は経房の部屋に落ちたらしい。そして今更不運などという偶然に思いをはせるつもりはなかった。
「経房殿に恨みを持つ怨霊という訳か。これは決まったのではないか?」
呉葉が言おうとしていることは分かった。
「そうだな。認めたくはないが、十中八九、我が兄上の義平か」
「自分の首をはねた者に恨みを晴らすという訳か。全く分かりやすいことじゃ。それで、どうする?」
「決まっている。分かっていて経房が討たれるのを見過ごすわけにはいかん」
私は部屋を飛び出した。
「良いのか? 仮にも相手は兄だぞ」
「だからこそだ。ここで逃げれば私は生涯にわたって兄の影に追われることになる」
「そうか。ならば仕方あるまい」
そう言うと呉葉は護衛の姿に戻った。
「儂が先導するということにしよう。だが監視役として姿を晒す以上、助けはできんぞ」
「分かっている」
私と呉葉は駆けた。経房の部屋がどこかは知らなかったが、人の流れを見ればいやでも分かった。そこは私の居る部屋ろ三つほど部屋を隔てた先にあった。私は呉葉を隣にその部屋に入った。
瞬間に外の嵐の雨風が襲ってくる。
風が吹きすさび、先ほどとは比べ物にならないほどの雷鳴が鳴り響いた。そして風は気を抜けば安定を崩してしまいそうなほどに強い。日の光が遮られて中で降り注ぐ雨はただでさえ良くはない視界を絶望的にしていた。
そして、そのような雨風は差し置いて、最大の問題は雷の直撃によって大破した宿のふすまの先から覗く何者かの気配だった。
「経房殿! ご無事か?」
私はこの部屋にいるであろう者の名を叫んだ。
それを聞いて雨風に遮られながらも辛うじて声が響く。
「頼朝殿か! 下がっていてくだされ!」
声をした方向を見て私はようやく剣を握った武者の姿を捉えることができていた。声からしてもその者は難波経房に間違いなかった。
ここにいる誰もがもはや分かっているはずだった。この嵐はただの自然現象などではない。義朝が長男にして悪源太の異名を持つ豪傑。そして難波経房の手によって首をはねられた者。この嵐はその怨念が己が仇を求めてやってきたのに違いないのだ。
だが、私はそのような益の無い敵討ちなど認める気はなかった。
「呉葉。どうだ? あれは本当に源義平か?」
「お主の兄のことはよく知らぬが、確かにお主の兄と言われて違うという気はせんな」
私はそれで取るものもとりあえず駆けつけるなか、それでも手放さずに持って来た自分の右手に握られたものを見た。
それが木刀であったのは義平にとっては皮肉なのかもしれない。そして義平や私の父であった義朝などからすれば、それはさらに許しがたいことなのかもしれなかった。
だが、持つものがそれしかないならば使うまでなのだ。
私がそれを握って飛び出そうとした瞬間だった。私の袖を呉葉が掴んだ。
「まさかお主、あれの前に飛び出すつもりか?」
「ああ。我が兄なればこそ止めなければならん」
だが、呉葉は首を振った。
「だめじゃ。あれはお主の兄などではない。あれはお主の兄の形をした力の塊に過ぎぬ」
「お前はさっき誰かが手引きしていると言ったな?」
私は呉葉の方に振り返ると口を開いた。
それを見て呉葉もこちらの目を見返す。そして答えた。
「・・・ああ。確かにそう言ったの」
「ならばこそ、あそこにいる怨霊はどこまでいっても兄などではない。言葉が通じるとも思っていない」
「本気でそう思っておるならば、分かっておろう。百年を超えて久しい寿命を持つ儂でも警戒するような力の塊。それと正面から向き合うことが何を意味するのか」
呉葉の表情は真剣だった。
その表情だけで冗談抜きで死を覚悟しなければあの怪物の前に立つことはできないということを感じさせる。だが、それでも私は退くわけにはいかなかった。
「だが、源氏の嫡男としてあのような兄の姿を認める訳にはいかないのだ。ましてそれが平家の者を、それもただ沙汰のままに刀を振るっただけの者の命を奪うなど、断じて認める訳にはいかない」
「頼朝!」
呉葉の制止の声を振り払うようにして私は部屋の中に飛び込んだ。
「経房殿! どこにいる?」
私は木刀を持ったまま先ほど経房が見えた場所に向かって走った。瞬間、頭上で雷光が閃き、ほぼ同時に轟音が鳴り響く。
ほぼ頭上に落ちた雷は見事に宿の天井を打ち砕いた。いよいよ部屋全体に雨風が容赦なく吹き付け、そして宿の外にいた怨霊の影ははっきりと見えるようになる。
そして外にいる怨霊が初めて言葉を発した。
「難波経房よ。私を覚えているか?」
「ああ、覚えているとも、悪源太義平よ」
嵐の中でも経房の声は淀みなかった。恐れも見えない。
「ならば、私が最期に何と言ったか、それも覚えているであろうな?」
怨霊―今となっては悪源太義平と明らかになった存在だがーは表情を見せないまま口を開いた。怨霊は全体的に黒く覆われていて、その奥に潜むものはよく見えなかった。
そして経房はやはり淀みなく答えた。
「もちろん覚えているとも。雷に成り代わり私を討つと言ったな! 私は逃げも隠れもせぬ。全力を持ってかかってくるが良い!」
経房にどこまで相手の力量が見えているのかは分からない。だが、少なくともこれほどの嵐をもたらす存在だというのは分かっているはずだった。普通に考えると経房に太刀打ちできるとは思えない。
そして、経房にそのことが分かっていないはずもなかった。だが、それでも経房は覚悟を固めているのだ。
そして、義平もそれに応じるように声を発した。
「その意気や良し。望み通り我が雷の餌食にしてくれよう」
動くならこれが最後の機会だった。一旦義平が力を振るえば、おそらく経房は一撃で討たれてしまう。そうなってからでは遅いのだ。
私がそうやって義平と経房の間に割って入ろうとした時だった。再び私の袖を掴む者がいた。
「止めよ。頼朝! 今のお主ではどうすることもできぬ」
それはいつの間にか普段の子供のような姿に戻った呉葉だった。彼女が小さく何かの力の場のようなものを発しているのがこちらからでも分かった。その顔に浮かぶ必死さも、そして変化を解いていることも、何もかもが呉葉の今までにないものだった。
だが、もちろん私も相手が自分のどうにかできる力量をとうに上回る実力を持っていることは分かっていた。それが分かった上でも、私は動かないわけにはいかなかったのだ。
「呉葉。これは出来る出来ないとは別の話なのだ」
「無駄死にするかもしれんのだぞ」
「そうかもしれない。だが、怨霊となっていたとしても、あそこにいるのは我が兄なのだ」
「怨霊は怨霊だ。気持ちを通わせることなどできはしない。例え肉親であっても、それは変わらないのだ」
「そんなことは期待していない。だが、源氏の嫡男としても、義平の弟としても、そして生き残ってしまった身としても、ここで黙って見ていることなどできはしない」
「お主も父と同じ過ちを繰り返すのか? お主がここで無駄死にして何の意味がある?」
「私は自分の生き方に拘って動いているのではない。経房殿を犠牲にしないために動こうとしているのだ」
私は再び呉葉の手を振り払った。
既に経房は抜き身の刀を構えて久しく、義平も弓を引く仕草をしているのが輪郭から察せられた。その弓につがえられた矢が放たれたとき、再び落雷が起こるであろうことは明らかなように思えた。
私はそのまま一直線に義平と経房の間に割って入った。
「義平兄上!」
両者の動きが固まる。
「頼朝殿。下がっていてくだされと・・・」
だが、その続きを遮るように義平の声が響いた。
「頼朝か。先ほど声が聞こえたと思ったが。このような場所で何をしている?」
その声からはどこか人間性というものが欠けていた。
確かに兄義平の声だというのに、それを発する魂から何かが抜け落ちてしまったというような感覚だった。その感覚が雷以上に私に恐怖を与える。
だが、もう私は飛び出してしまったのだ。賽は投げられた。もう引くことなどできはしない。雨風だけではない。別の感覚によって冷え切ってしまった体に鞭打つように私は一歩前に踏み出した。
「私は兄上を止めに来たのでございます」
私がそう言った瞬間だった。目の前の義平から今までとは明らかに異なる気が発せられた。声にも明らかに険が混じる。
「ほう。私を止めにきたと申すか。頼朝よ。何故だ?」
「無益だからでございます。もう決着はつきました。今更新たに道連れを増やして何になりましょう?」
「無益だと? 今、貴様は無益と言ったか。なるほど。それが生き延びた源氏の嫡男の言葉という訳だ。なるほど父上の懸念もあながち間違いではなかったようだ」
義平はこちらへ弓を向けた。
「協力せぬ味方は、敵よりも鬱陶しいものだ。経房の前に貴様から片付けるとしよう」
その声とほとんど同時だった。義平は何のためらいもなくつがえた矢をこちらへ放った。矢は一直線にこちらに向かってくる。私は慌ててかわした。見てからでは間に合わない。直観に任せた動きだった。
「兄上!」
「平家の郎党を庇い、あまつさえ兄の敵討ちを無益と断じるとは。源氏の一族に名を連ねる者として断じて許すわけにはいかん!」
直後、避けた弓が刺さった場所に雷が落ちた。宿の屋根を貫き、今度は床を割いてしまう。私は自分の右手に握られた木刀を握り締めた。
だが、その時には既に義平は二の矢をつがえている。今度は言葉を発することさえしなかった。義平の矢は再び一直線にこちらに向かってくる。もはや木刀など何の役にも立たなかった。今度の矢は紙一重で私の首の横を掠っていった。再び私の背後の床に突き刺さった矢めがけて雷が落下する。
そして、その時には義平は既に三本目をつがえている。こちらが予備動作を取る間もなく、それは放たれた。私はまたも紙一重で避ける。それが繰り返された。それは永遠に続くかと思われるような時間だった。
だが、一撃放たれるたびに落ちる雷は、いつの間にかこの部屋の床を削っていた。次第に足場が減らされていき、回避するのも難しくなっていく。義平が有利。だが、こちらも何とか決め手だけは回避していく。それは私にとって一方的に不利な危うい均衡だった。
何撃目かも分からない矢が放たれた。私は避けるべく一歩後ろに下がった。そしてその瞬間こそがこれまで危うく保たれていた均衡を崩していく。
足を下げた先の床は既に雷に貫かれていた。気づいた時にはもう遅い。雨でよく滑るという事情も相まって体勢が崩れるのは止めようがなかった。
(しまった・・・ これでは次の一撃が避けられない・・・)
そして黒い輪郭からでも義平が笑ったのが見えた気がした。同時に言葉を発する。
「これぞ必中の一撃。源氏の棟梁たる資格を持たぬ貴様には、ふさわしい最期を与えてやろうではないか」
その言葉と共に義平は矢を放った。もはや避けることがかなわないのは誰の目にも明らかだった。私は目をつぶる。
(なるほど。これでは本当に無駄死にだな。そのつもりはなかったが、同じことか)
私はこれから訪れるであろう痛みとそして雷鳴の衝撃を待った。
だが・・・
「ぐっ、ぐはっ」
それは自分の口から漏れた声ではなかった。そして同時に、それは決して聞きなれていない声でもなかった。
私は想像している光景が勘違いであることを願って、目を開いた。
そこには私と義平の間に割って入った小さな影があった。
「呉、葉?」
「この、馬鹿者が・・・」
そう言いながらこちらに振り向いた彼女の胸にははっきりと矢が突き刺さっていた。
そして、彼女は今度は義平に向き合った。
「一撃程度ならば耐えられるかと思ったのじゃがな。全く。やってくれる」
すると義平は呉葉を見返しながら口を開いた。
「貴様・・・ よくも邪魔を」
「体を張ってでも邪魔をして正解だったよ。このようなやり方。人も鬼も妖もない。この地に生きる者として認める訳にはいかんからの」
義平とそして矢を受けた呉葉は何かを知っているようだった。そして私も何かがおかしいということには当然気づいていた。
(雷が落ちない・・・?)
そして義平はいつの間にか余裕を取り戻していた。その声にはいつの間にか喜びすら宿っている。だが、それは決して明るい類のものではないかった。むしろ昏い笑いだった。
「だが、貴様。呉葉と言ったな。鬼風情では器として役不足かと思ったが、むしろこれ以上は望むべくもない器ではないか。少なくともそこの腰抜けよりはよほど役に立つ」
そして呉葉は義平の言葉を否定しなかった。そのことが無性に嫌な感覚を与えてくる。
「悔しいが、これは相性が良すぎた、いや悪すぎたようじゃの」
そして何よりも、呉葉の声はいかにも弱弱しかった。
だが、それでも呉葉はやはり呉葉だった。
「じゃがそれでも、まだやれることはある。ならばやらぬわけにもいくまい!」
その声とほぼ同時だった。呉葉は矢傷など存在しないかのように軽々と飛び上がった。瞬時に義平の前へと躍り出る。矢をつがえる間など与えない必殺の一撃。
だが、それは弓矢を捨て薙刀を手に取った義平にあえなく弾かれた。
「やはり弓矢だけではないようじゃの」
「この悪源太義平、手負いの鬼ごときにどうにかできると思ったか」
直後義平の構える薙刀が反撃に転じた。防御姿勢を取った呉葉の手をはじくと、そのまま薙刀は呉葉の懐に吸い込まれていった。
「ぐっ」
「器風情が!」
義平は容赦しなかった。懐に一撃が刺さり地面に吹っ飛ばされた呉葉に追撃を仕掛ける。呉葉は慌てて防御態勢を取ろうとするが、間に合わない。再び一撃が呉葉の防御を貫いた。
そこからは、いやそこからも、一方的な展開だった。
「哀れな。鬼がこそこそと生き延び、その果ては贄か! 鬼ゆえの業だな!」
もはや防御態勢すらあやふやとなった呉葉のみぞおちに義平の薙刀の棒が吸い込まれていった。
「ぐふっ」
その声と同時に呉葉は床に倒れこんだ。嵐の中、朧げに見える輪郭だけでも、先ほどまでその小さな身体にみなぎっていた力が失われつつあるのが分かる。
そして義平はそこへ追撃をかけようとした。
「呉葉!」
私は思わず声を上げていた。そしてもはや義平にすら構わずに駆け寄っていく。
それを見て義平は何故か静止した。もはや目的は達したとばかりに昏い笑いを浮かべ続けている。
「兄上!」
そんな私の声を義平は一顧だにしなかったように見えた。だが、静止した義平はこちらを見降ろすと告げた。
「何だ? 頼朝。そこの鬼に用でもあるのか? 鬼をいたぶる機会というのも珍しかろう。欲しいというなら、腕の一本くらいならくれてやってもいいぞ」
そこに居たのは紛れもなく鬼だった。嗜虐に身を震わせ、昏い笑いを浮かべるその姿にそれ以外のものなど当てはめられるはずもなかった。
かたや呉葉はもう立つこともできぬほどに痛めつけられていた。
駆け寄ってきた私に呉葉は弱弱しい笑みを向ける。
「すまんな。もう少しは共にいられるかと思っていたのだが」
「何を言っているのだ。たかが矢一本で何を弱気になっている。お前は鬼だろう!」
だが、その言葉とは裏腹に私は矢からあふれ出る禍々しい気のようなものを感じていた。そしてそれは矢を通して呉葉の中へと入りこんでいく。それが着実に呉葉を侵食しているような感覚を私は感じていた。矢を抜こうにも、義平の放った矢は深く呉葉の身体を射抜いている。無理に引き抜いたりすれば、それが致命傷になりかねないことは戦場に一度しか居たことのない私でも分かった。
すると呉葉は遠い目をした。それはどこか寂しそうでそして恐れすら見え隠れしていた。それは初めて呉葉が見せた弱さのようなものかもしれなかった。
「所詮は人の怨念と甘く見たのが間違いじゃったよ。お主の父上はどうやら私の父に気に入られてしまったらしいからの」
「お前の、父?」
「前も言ったであろう? 第六天が魔王、波旬。仏敵の名を恣にする我が創造主じゃ」
私だけではない。この場にいる全員の身体が強張ったように見えた。
今、彼女が発した存在がどういう存在なのか。知らない者はいない。
そして、そう言い切ってしまうと呉葉はさらに力を失ったかのようにぐったりとした。そして最後の力を振り絞るかのように口を開く
「頼朝。逃げよ」
「・・・分かっている」
私は今や私に体重を預けるままになっている呉葉の身体を強く握りしめた。
「分かっているならば、私から手を離せ。そしてこの場から離れるのだ」
「・・・」
「今の儂が言うのも何とも言えぬがな、この世とは生者のためにあるのじゃ。じゃから、生きよ」
それを言い切った時、呉葉の声はもはや掠れていた。
その直後だった。突如呉葉の身体から今までとは明らかに違う何か禍々しい気があふれ出た。弱り切った呉葉の気配を押しつぶすように強くなっていくその気は瞬く間に膨張して気づくと私の身体は吹き飛ばされていた。
転がった私の体躯はこの部屋の扉まで吹き飛ばされる。
私は起き上がろうとしてふとわき腹に違和感を覚えた、直後に激痛が襲ってくる。直観で分かった。あばらが数本折れている。
だが、そんなこと構わなかった。
「呉葉!」
私は上半身を必死で起こそうとしながら叫んだ。だが、もはや答える者はない。彼女の身体は確かに私が声を浴びせた方向に存在していた。
だが、そこに居るのが呉葉と呼ばれる存在でないというのは、誰の目にも明らかだった。
私を跳ね飛ばした禍々しい強烈な気を発しながら、呉葉の身体は浮いていく。その目はしばらくあてどなくさ迷っていたかと思うと、ふと私に視線を合わせた。
「久しいな。頼朝」
「・・・お前は」
すると呉葉の姿をしてそいつは不機嫌そうに声を発した。
「お前、とは。いつの間にそんなに偉くなった? 頼朝」
もう私にも目の前に誰がいるのが分かり始めていた。
だが、それは認めたい事実ではなかった。だというのに、このやり取りだけで私の脳髄から、毛の一本一本に至るまで、あらゆるものが目の前の存在にある者を重ねていた。
気づくと、私はその名を口にしていた。
「父、上?」
「そうだ。ここにいるのは父だ。源氏が棟梁、源義朝だ」
なぜ、生きている? 死んだはずだ。そのような疑問はもはや浮かばなかった。さっき呉葉と義平が口にしていた言葉が急速に結びついていく。
器、贄、生者、第六天魔王・・・
そして義朝はこちらのそんな思考には構いもせずに口を開いた。
「さて、頼朝。貴様が私の器になっていないということは、身を粉にして私に尽くすということであろう。近うよれ」
だが、そこで義平が口を開いた。
平服するような姿勢になりながら言葉を発する。
「父上。私は一つ父上に申し上げなければならないことがございます」
「ん。何だ?」
「今、父上がその器に収まっておりますのは、ひとえに私の不徳の致すところ。結果として不甲斐ない弟などよりはるかに良質な器でございましたが、この失態は私の命をもってしても償えぬものにございます」
すると義朝は自分の身体を見つめた。
「なるほど。確かにこのような器とは聞いていなかったな。だが、確かにこの器は現世で手に入る中でも最上級の類と見て間違いないだろう」
そういう父義朝の声はどこか満足そうですらあった。
そのことが私には受け入れられなかった。あそこにいるのは確かに父の魂なのかもしれない。だが、それは呉葉の魂とそして肉体を踏み台としているのだ。
そして義朝は言葉を続けた。
「義平の失態については後に聞くことにするとして、問題なのは頼朝だ。今の義平の言葉には頼朝に翻意があるという含意があるように聞こえたが」
すると義平は頭を下げたまま言葉を発した。
「はっ。その通りにございます」
瞬間だった。父から今までのものをはるかに上回るような邪気が発せられた。先ほどですら隠しようがないほどに溢れていたというのに、それが部屋の端に居ても身動きが取れなくなりそうなほどの邪気に転じている。
その義朝がこちらに振り向きながら言った。
「頼朝よ。今の義平の言葉。まことか?」
下手なことを言えば確実に命を失うことになる。そのことは分かっていた。だが、それでも私は確かめなければならなかった。
「父上、その前に伺いたきことがございます」
私の言葉を聞いて義朝が眉をひそめたのが分かった。だが、結局義朝は頷いた。
「よかろう。許す」
私は深く息を吸い込んだ。未だに部屋は吹きすさぶ嵐でカタカタと音を立てていた。
これほど覚悟などという心持ちになったのは初めてかもしれなかった。つい先日清盛に呼ばれたときもこれほどの緊張はなかった。
それはある意味生かされた者、生きることが出来る者、それ故の恐怖かもしれなかった。
「父上が、第六天魔王の助けを借りているというのはまことにございますか?」
すると義朝は何でもないことのように頷いた。
「どこで聞いたかは知らぬが、隠すことでもあるまい。確かにその通りだ。この身体もどうやら第六天魔王の係累らしいからな。それで相性が良いのだろう」
義朝は本当に何でもないことのようにそれを口にしていた。私は信じられないような気持ちだった。
確かに先の平治の乱において、父の取ったやり方は賢いと言えるものではなかったのかもしれない。だが、それでも超えてはならない一線というものを忘れる人ではなかった。
それに、今父が何でもないことのように操っているその身体は・・・
「何故、なのです?」
「何の話だ?」
「何故、第六天魔王の力など借りるのです? それではまるで鬼の所業ではございませんか!」
瞬間だった。義朝の纏う空気がさらに鋭さを帯びていった。
「頼朝。もう細かい話は良い。これだけ答えよ。そなたは私を、この父を肯定するか?」
それは有無を言わさぬ問いだった。もはや問いを返すことは許されはしない。
そして否と答えれば待つのは死。それまで含めて私は確信していた。
だが、私は認める訳にはいかなかった。第六天魔王もその力を借りてよみがえろうとしている父も。
いや、そんなことは本当はどうでもいいのかもしれない。
呉葉を踏み台にして昏い笑いを受かべる兄と父の姿が単に許せなかった。
いやそれすら違うだろう。
警告を無視して飛び出した挙句、呉葉にその身を盾とさせた自分。その上、父義朝に乗っとられつつある呉葉を前にして何もできなかったのだ。
「否、でございます」
気づけば私はそう言っていた。
「私の聞き違いか? 頼朝よ。もう一度問う。頼朝よ。そなたは私を」
私は最後まで言わせなかった。
「否、と言ったのです。父上」
それは別に格好つけでもなければ、逃げでもなかった。
こんな状況になっても自分の冷静な部分が語り掛けてくるのだ。否と答えれば死ぬ。死は怖いだろう。と。これはそれを押し殺すための儀式のようなものだった。
「ふむ。そうか。頼朝よ。私の息子にして源氏の嫡男たるそなたは、この父を否定するか」
答える義朝の声はいたって冷静だった。
しかし、それが嵐の前の静けさに過ぎぬというのは誰の目にも明らかだった。
そして義朝はごくごく自然な調子で続けた。
「そうか。そうか。ならば死ね」
直後、義朝が動いた。膨大な気が発せられるのとほぼ同時に得体の知れない力の塊が迫ってくる。
私は反射的に木刀を杖にして立ち上がった。直後に力の塊が私の木太刀と激突し全身に衝撃が走る。立っているだけでもやっとな身体をその衝撃が揺さぶった。
「その木太刀。良い物を持っているではないか。だが、その動きではな」
その言葉と共に義朝は二撃目を放った。辛うじて木太刀がそれを受けるが、次も耐えきれるとは思えなかった。
そして義朝は三撃目を放つ。その攻撃は間違いなく必殺の一撃だった。
そして私にはもはや避けることなどできるはずもなかった。殺気の塊が迫ってくるのを肌で感じる。
だが、私は目をつぶったりしなかった。目だけはしっかりと義朝から離さない。それは意地のようなものだった。
義朝もそれを見てわずかに表情を険しくさせる。それが呉葉の顔を通して現れているというのはどうしても納得できなかった。
そして・・・
「む?」
その義朝の言葉とほぼ同時だった。
突如、こちらに向かって来ていた気がその速度を落としていく。そしてそれはとうとう私の元まで達することなく、消滅してしまった。
「父上? どうされたのです?」
義平が口を開いた。
義朝は怪訝そうな表情を浮かべて言う。
「どうやらこの器が邪魔をしているらしい。木太刀の力も私の気の弱体化もどうやらこの器が原因らしい。そうでもなければ、まだ頼朝が息をしている説明がつかぬ」
「まだ抵抗していると?」
「そのようだな。だが、問題はない。義平。そなたの刀を渡せ」
「は」
義平は黙って刀を差しだした。その刀を受け取ると義朝はこちらに顔を向けて言った。その顔には不吉な笑みが浮かんでいた。
「頼朝よ。そなたに要らぬ心持が宿ってしまったようだが、その元凶はこの器であろう。この器もそなたのことは憎からず思っているようだしな」
私は義朝が何をしようとしているのか、分かり始めていた。だからこそ私はそれが気のせいであってくれと願うような気持ちで応じた。
「何をする、つもりです?」
「そなたも私の息子だ。分かっているのではないか?」
義朝は笑っていた。そして、唐突に義平に渡された刀で自らの肉体に、呉葉の身体にその刀を突きさした。
「っ」
僅かの間、呉葉の表情が戻ったような気がした。その顔は苦痛に歪んでいる。そしてすぐにその表情は義朝の昏い笑みに塗りつぶされた。
「ふははは。よほどの痛みらしいな。一瞬、顔の制御だけ取り戻しおった」
義朝は笑っていた。昏い笑いだった。
そして笑いながら自らに突き立てた刃を引き抜いた。傷口から血があふれ出す。
「私にとってこの肉体は器に過ぎん。どれだけ傷つこうが私にとっては物が壊れるに同義。だがな、この肉体の持ち主はそうはいかん。この肉体が傷つけば傷つくほど、その所有者の魂も傷つけられることになる」
「自分がしていることの意味を分かっているのですか?」
「分かっているとも。さあ、今度こそ最後の一撃だ」
そう言うと再び気が発せられた。だが、それもやはり速度を失って木太刀に当たる前に消滅する。
「ほう。まだ抵抗するか。ならば仕方あるまい」
その言葉と共に義朝は再び呉葉の身体に刀を突きさした。新たに血があふれだす。
「父上!」
私は思わず叫んでいた。この時私は紛れもなく父の名を敵として叫んでいた。
「心を痛めるか? だがな真にこの身体の主を思うならばそなたが首を差し出せばいい話なのだぞ。頼朝!」
同時に再び気が溢れる。、はりそれも木太刀と当たる前に威力を失っていた。だが、今度は無傷という訳にはいかない。わずかに消えずこちらに向かってきた力の塊に吹き飛ばされる。
だが、それでもなお私はまだ息をしていた。それは呉葉が未だ抵抗を続けている証だった。
義朝にもそのことは分かっているのだろう。苦々しい表情を浮かべながら義朝は口を開いた。
「義平。一度立て直すぞ。万全を期さねばならぬ」
「頼朝めは?」
義平は再び弓を手にしていた。今の私にあの矢を避けるような器用な真似はできない。義朝がやれと命じれば、私の命はないはずだった。
だが、義朝は首を縦に振らなかった。
「放っておけ。どうせ何もできはせぬ。生者であることにしがみつく腰抜けなど結局は我らにとって脅威たりえるはずもないのだ」
そう言いながら義朝は私を一瞥した。その目にはどこまでも昏い輝きがあるだけだった。そしてその声を最後に呉葉の身体を乗っ取った義朝は義平の近くへと身を寄せた。それを確認すると義平は急速に離れていく。
すると嵐は一気にその勢いを失った。先ほどまでの嵐などまるでなかったかのように穏やかな風が吹くばかり。
だが、雷で徹底的に破壊された宿の床はここであったことの凄絶さを物語っていた。そして当たり前のように私の隣にいた影はぽっかりと開いた穴のようにその存在感を失っていた。
私は何を思ったか、また立ち上がろうとした。もし義平の去った方角に向かおうとしていたなら、それは愚かとしか言いようのない行動なのかもしれなかった。自分の頭で考えていることのはずなのにどこかぼんやりとして掴みどころがない。思考は霞がかかったように輪郭を失っていて、そして急速に視界が狭くなっていった。
それから先のことはよく覚えていない。
最期に見えた気がしたのは消滅しつつある嵐の隙間からわずかに覗く晴天だった。
・・・
それから何日か経ってからのことだろう。私は布団の上で目覚めた。
起き上がろうと腹に力を入れると鋭い痛みが走った。それで私は起き上がることを諦めるとそのまま周囲を見回した。
「呉葉・・・?」
まだぼんやりとした意識の中で最初に発したのはその名だった。
だが、答える者はない。
そして、直後急速にさきほどまでの記憶が呼び起こされた。呉葉はもういないのだ。呉葉の身体は義朝に乗っ取られ、そして彼女の魂もまたそこに囚われている。
私は横に開いた窓を見つめた。そこは完全に開け放たれていて、外の景色は良く見える。
(不用心だな・・・)
そこまで考えて、私はそれが自分が提案したことが元であったことを思い出した。まだ行われているということは僧兵による大津の封鎖も解かれていないということなのだろう。
私は他にすることもなく景色を見つめていた。
そうしているうちにだんだんと意識もはっきりしてきていた。
それから数時間ほど経って、扉の向こうから気配が近づいて来た。既に日は落ち始めていて、経基も手燭を持っているのが分かる。
その気配は扉越しに声を発した。
「頼朝殿。お目覚めですかな?」
「ああ」
「では、失礼」
その声と共に扉が開けられた。そこには声の主難波経房が立っていた。その顔には厳しい表情が浮かんでいる。
「お加減はいかかですかな、頼朝殿」
「まだ起き上がれないが、それ以外は特に」
「そうですか。では、さっそくで申し訳ないのだが、お目覚めになった今、早急に尋ねておかねばならないことがありましてな」
何となく彼が訊きたいであろうことの見当はついていた。
義平の怨霊、義朝の憑依。それに加えて呉葉の件もある。そのどれをとっても平家や常房からすれば一大事に違いなかった。
私は頷く。すると経房は問いを発した。
「では最初にお尋ねしたい。頼朝殿は義平殿や義朝殿があのように復活していることをご存じだったのか?」
「いや。私は関与していないし、知りもしなかった」
「では、彼らの黒幕などについても、ご存じないと?」
「ああ」
経房は特に疑っている様子を見せなかった。
そして次からが本番だとばかりに私を見つめた。
「では、先日あなたを救った呉葉というあの鬼の話をお聞かせ願いたい」
「では、知る限りのことは」
そう言って話しはじめようとして私は気づいた。
呉葉という存在についてちゃんと考えたのは、実は初めてなのかもしれない。
そんなことを言ってみたり考えてみたりしたところで、今となっては自己満足に過ぎないのかもしれない。だが・・・
私は経房に知る限りの話をした。
経房はその話を聞いている間も表情を変えることなく、じっとこちらの目を見つめていた。何かを窺うような目は私の心の中の後悔や不甲斐なさ、悲しみそのどれもはっきりと見抜いているように見えた。
話は長いようでもあったが短いようにも感じた。常房がやってきたときには既に落ち始めていた日はすっかり落ちて、空は暗い色を浮かべつつある。
最後まで聞き終えると、常房は再び姿勢を正した。そして口を開いた。
「話は分かりました。にわかには信じがたいが、確かに鬼でもなければ、あそこで義平に立ち向かって見せたあの力を説明できませんからな」
そして経房は間を設けた。
その視線は先ほどから変わらず、こちらにしっかりと定まっている。
それから経房は口を開いた。
「では、最後にお尋ねしたい。頼朝殿。今のあなたは我ら平家の敵かそれとも味方か?」
一気に空気が張り詰めた。
それはある意味、このやり取りを通して私に問われていたことの要旨なのかもしれなかった。
呉葉の件、常房ら監視役からすれば、私が彼らを騙していたという風にとれなくもない。むしろ平治の乱も記憶に新しく、僧兵も動き出しているこの状況では、そう考える方が自然だ。その状況に義平や義朝の件も加わった今、経房が問答無用で斬るという選択をしたとしても、身から出た錆という他ないのだ。
私は経房をまっすぐに見つめ返した。
ここで意味の無い駆け引きなどするつもりはなかった。こうなった以上、正直に自分の想いを口にするしかないのだ。
「敵ではない。だが、味方ということもできないだろうな。所詮私は平家の者ではないのだから」
緊張が高まったように思えた。
私の立場は危うい。それは誰の目にも明らかだった。その中で今私が口にしたことは火に油を注ぐような行為だったのかもしれない。
だが、一瞬鋭い表情を見せた後、常房は表情を緩めた。
「なるほど。正直ですな。頼朝殿は。清盛様にもそのように向き合ったという訳ですか」
「そうだったかもしれない。あの時は生かされるなどと思っていなかった故、よく覚えてもいないが」
「そうですか。では頼朝殿。これで訊きたいことは聞き終えました。望むと望まざるとここにはまだしばらく留まることになるでしょう。どうぞお休みください」
経房はそう言うと立ち上がった。
彼は手燭を手に立ち上がった。ゆったりとした足取りで扉に向かうと廊下へ出て行く。外にいる監視役の武士と二三言交わすと、常房は去っていった。
それを完全に確認してしまうと再び急速に眠気が襲ってくる。睡魔に誘導されるままに布団に入ってしまうと、意識がなくなるのに瞬きの間もかからなかった。
翌朝目覚めても何も状況は変わらなかった。
大津の封鎖は相変わらずで、私の元に何か沙汰が降りることもない。おそらく京の方では僧兵に加え、義朝や義平の問題も浮上して大騒ぎとなっているのだろう。
そして、もし、それ故に沙汰が降りないのだとすれば、私はそんな京が上へ下への大騒ぎとなっているが故に手持無沙汰ということだった。ある意味皮肉である。
「果たしてどうなるのか・・・?」
ある意味そのような歴史の大事に関わらぬことこそがそれからの私に求められていることなのだろう。今回のことはある意味その最初の一歩なのかもしれない。そう思えば多少は気が楽になるというものだった。
私は外の景色を見つめた。つい先日あったばかりの嵐は嘘のように晴天だった。見渡す限りの晴天はむしろ不穏であるかのような錯覚を覚える。
「なあ、呉葉」
私は無意識にそう口にして、直後に後悔した。
そして、だからこそ意識しないようにしていた胸にぽっかりと穴が開いたような感覚を私は意識させられることになった。
「だが、私は関わってならぬのだろうな。もし生者であろうとするならば」
そう言う私の声は自分でも情けなくなるほどに空しく響いた。これほど自らの無力さを嘆いたことはなく、また不自由な身を恨んだこともなかったかもしれない。
結局私は保身に走っているだけなのだ。私にはそれが分かっていた。敗軍の将の身でありながら生き延びるというのはつまるところそういうことなのだ。
今まではそのことに正面から向き合ったことはなかった。呉葉とのやり取りのお陰で誤魔化されていたのかもしれない。死んだという兄や父のことも目を逸らしてきた。どこかで現実味がなかったのかもしれない。
それらの逃げてきた物事が一緒くたになったのが今回の事態なのだ。
全てから逃げてきて、そのことに気づいてすらいない身の上で飛び出して、そして呉葉を犠牲にしてただ生き延びる。私が今やっているのは結局そういうことなのだ。
私は京の方を見つめてただ布団の中に身を埋めていた。
一度起きても睡魔というものは寄せては返す波のようなものだった。
負傷した身体は休息を求めているのか、気づけば私はまた目をつぶっていた。
そして、今度は私は夢の中にいた。
―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―
「重盛様!」
平家の者らしき郎党がそう叫んでいる。呼ばれた者は堂々としていた。
「来たか」
「はっ」
重盛と言えばおそらく清盛の嫡男。平重盛のことだろう。先の平治の乱でも別動隊を率いていた。
鎧兜に身を包んだ重盛は声を張り上げる。
「防御態勢に入れ!」
重盛が見つめる先はまだ平治の乱の爪痕も残る六条河原だった。重盛の陽動によって誘き出された源氏が追い詰められた地。
混乱収まらぬうちに僧兵が動き出したからか六条河原は未だに戦場としての面持ちを残していた。
その六条河原に今や再び二つの軍勢が向き合っていた。
六条河原を貫く鴨川を挟んで京側には重盛率いる平氏の軍勢。平家の象徴たる赤い旗がいくつも掲げられていた。その数は千騎ばかりか。
一方それに向き合うのは源氏のものと思わしき軍勢だった。源氏の象徴たる白い旗を掲げている。数は四百騎ほどか。だが、そちらは何か様子がおかしかった。兵一人一人に生気がない。そしてその異様な様相の中心にいるのは二つの影だった。
もはや確認するまでもない。それは呉葉の身体を持つ義朝と怨霊たる義平だった。二人とも昏い笑みを浮かべている。彼らはまさしく鬼だった。そしてその彼らが率いる軍勢がまともな軍勢であるはずもなかった。それは死者の軍勢。義朝は馬のような何かにまたがっているがその馬すらも生きた存在ではない。
その義朝が手を持ち上げた。それが突撃の合図を出す直前であることは考えるまでもなく分かった。
そしてとうとうその手が振り下ろされる。同時に義朝は叫んだ。
「突撃!」
その声を受けて死者の軍勢は続々と鴨川に入っていく。
それを見て平家方総大将の重盛が叫んだ。
「弓矢、構え!」
水流に足を取られて動きの鈍っている源氏勢にとって弓矢は大きな脅威となるはずであった。重盛も敵の異様さに惑わされずに冷静な対処をしている。
だが、すぐにそんな楽観的な予想は裏切られた。一瞬のうちに空に暗雲が垂れ込めると嵐が現れる。先ほどまで晴天であった天気を考えれば明らかに不自然なその変化は、義平が起こしたものに違いなかった。
それまで風一つなかった六条河原は今や雨風の吹きすさぶ、嵐の中心と化していた。
だが、平家方も今さら退くわけにはいかなかった。源氏勢の半分ほどが川に入ったとき、重盛が声を張り上げる。
「弓矢、放てぇ!」
その声を合図にして、平家方から一斉に矢が放たれた。
いくら風で狙いが逸れるといっても、数は力のはずだった。多少なりとも敵の勢いを挫くくらいのことは期待しても罰は当たらない。
だが、そんな期待を裏切るかのように嵐の生み出す風はほとんど結界と化して平家方の矢をことごとく無意味なものへと変えてしまった。そして源氏勢の勢いは牽制されることなく鴨川を乗り越えようとしていた。
重盛はさすがに立ち直りが早かった。いくら風に守られているとは言っても敵の総勢は四百騎。平家方の半分にも満たない。
弓矢が効かぬならば上陸してきたところを刀や薙刀で討てばよい。
「弓矢は役に立たぬ。刀を持て!」
その声を受けて、各々が武器を手に取った。
そして源氏勢も黙々と川を渡っていく。数にして五十騎ほどが上陸したときだった。重盛が声を上げる。
「今だ! かかれぇ!」
その声と共に平家方千騎が一斉に襲い掛かった。勝負は決したかに見えた。勝負の行方を追うまでもなく、兵力差は明らかだった。
平家方の武者は勢いをつけて上陸したばかりの源氏勢へと襲い掛かる。迫りくる平家方に対し源氏勢は冷静に応戦した。
最初の一騎打ちは源氏勢の武者の勝利となり、それが二番目三番目の一騎打ちとなっても繰り返される。しまいには源氏勢が一方的に十勝を収め、平家方に動揺が広がった。
そしてそれに追い打ちをかけるように義平が上陸を果たした。
意気揚々とした様子で六条河原に降り立った義平は昏い笑みを浮かべた。
「さあ、死にたい者はかかってくるが良い!」
その声と共に雷が五、動揺する平家方に降り注いだ。それで平家方の第一陣は本格的に打ち崩され始める。そこへ源氏の武者が襲い掛かった。
兵力は平家方が勝るはずだった。だというのに、この戦場で強者たるはずの平家方は一方的に打ちのめされていた。
それはひとえに源氏勢の兵の圧倒的な強さに理由があった。雷を操り怨霊として力を振るう義平を筆頭に、源氏勢に生者はいないのだ。死を恐れず、怨念のままに力を振るう源氏勢は圧倒的だった。
そして義平を含む第一陣が一方的に進撃を続けている間にも義朝を含む本隊が上陸しつつあった。
「さあ、清盛! 声を上げるが良い。どこに居ようとこの義朝がその首を上げてくれよう!」
鬼たる呉葉の姿を惜しげもなく晒しながら義朝は進撃した。行く手を阻もうと展開した平家方の武者は次々と無形の攻撃を浴びて倒れていく。
先日も宿で見せていたあの邪気による攻撃だった。
そうして兵力において圧倒しているはずの平家方はじりじりと崩されていった。
まだ辛うじて戦場では戦闘と呼べる状況が成立している。だが、このままではそれが一方的な殺戮へと姿を変えるのは時間の問題に思われた。
「重盛様。撤退を」
そう具申する郎党が一人また一人と増えていく。そして重盛の目にも目に見えて押され始めた自軍が見えていた。
その苛立ちを重盛をつぶやいていた。
「何故だ? 敵は正面から上陸してきているだけではないか」
「敵の一人一人が強すぎます。まるで鬼神の軍勢を相手にしているのではないかというほど。それに・・・」
その言葉の続きが発せられる前に、轟音が鳴り響いた。その音と時を同じくして雷が落ちる。それは平家方の中でも立て直そうと陣を整えている部分に突き刺さった。それで立て直しは大幅に遅れることになる。
「今ならば、まだ総崩れとなることなく撤退できます。このままでは手遅れになりますぞ!」
「しかし、倍を超える兵を持ちながらこの体たらく。私は父上に何とお詫びすればよいのだ」
「相手が人ならばいざ知らず鬼神であればどうにもなりますまい。清盛様も分かってくださいます。ご決断を」
沈黙が降りた。嵐の中降り注ぐ雨は鎧兜の表面を流れていき、湿った兜の緒は水を吸ってすっかり固くなっていた。
重盛はこぶしを握り締めながらしばし逡巡し、それから口を開いた。
「全軍撤退する。急げ!」
「はっ!」
重盛の下知を受けて郎党たちは動き始めた。彼らが各々の位置に戻っても、重盛はひたすらこぶしを握り締めていた。
―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―
私が夢で見たのはそこまでだった。
(ひどく真に迫った夢だったな)
寝起きの頭でそんなことを考えてから私はすぐにそれを否定した。どういう絡繰りかは知らない。だが、今見た夢が現実で起きていることだという確信が私にはあった。
(六条河原で平家は敗れたか。ということは京も既に父上の手に落ちて・・・)
それから経房がやってきたのはすぐのことだった。
私が夢で見た通り、重盛の軍勢は辛うじて潰走には至らないというほどに打ちのめされ京の御所も火が放たれたとのことだった。清盛や重盛などを含め平家方は京を放棄し奈良方面へ撤退した。大津も現在は僧兵によって封鎖されているだろうがじきに解かれるだろうからそれに備えてこちらも東へ移動するという内容だった。
思っていたよりも急な展開だった。
そして明日にはもう大津を出立し、美濃国に向かうとのことだった。
だが、急な出立といっても私は特にすることもない。自分の荷物と言えば一時間もかからずまとめることができるだろう。
私は見納めと思って、大津の景色を眺めていた。
いつも通り空には美しく月が輝いている。山を一つ越えた先の京が火に包まれているなど構いもしないとばかりにその光景はいつも通りだった。
(このまま、私は京から遠く離れた地に向かい、そしてそのうちに父と兄の怨霊が討たれたということを聞くのであろうな)
私はぼんやりとそんなことを考えていた。
それはどこか他人事のようだった。
(そしてその時、呉葉も討たれるのか。私以外の者からすれば父上も呉葉も大きな違いはないのだろうからな)
そこまで淡々と考えて、私はそんな自分を心底憎む気になっていた。
生きろという言葉だけを言い訳にして、ここまで人間は醜くなれるのか。それを見せつけられているような気分だった。しかも自分が当事者だというのだから笑えない。
だが、結局どれだけ自分を憎もうが、現状を悲しもうが私にできることはない。それはよく分かっていた。
そう思って苦虫を嚙み潰したような顔をしているときだった。こんこんと音がして声が響いた。
「頼朝殿。よろしいか?」
それは経房の声だった。
「どうぞ」
そう言ってから私は少し体に力を入れると起き上がった。
経房は扉を開けると私の顔を見て少し苦笑いをした。
「これはまた、酷いお顔をなさいますな。頼朝殿」
経房は先ほどとは違って落ち着いていた。もう出立の準備も整っているのかゆったりとした雰囲気すら感じさせる。
「そんな顔をしていたか。私は」
「心当たりがないのですかな?」
「いや。経房殿がそうおっしゃるならばそうなのだろう。私としても笑っているような気分ではないのでな」
すると経房は私の部屋の窓の方を見つめた。空に浮かぶ月を眺めながら経房は口を開いた。
「私は少し安心しているのです。頼朝殿」
「安心? それは大津を離れることができるからか?」
「いえいえ、それとは関係なく、頼朝殿のことですよ」
「私のこと? どういうことだ?」
すると経房は少し笑ったように見えた。それから口を開く。
「私はこの通りただの武辺者でしてな。清盛様や重盛様のような平家一門の方々はもちろんのことですが、あなた方源氏の棟梁にしても遠くの存在だったわけです」
「・・・」
「それが時代に恵まれたのでしょうな。私は源氏の棟梁の一族たるあなたの兄をこの手にかけ、そして今度はあなたを配流先に送り届けることになった。ですから少し不安だったのですよ。たまたま時代の波に乗せてもらえただけの男の手に負える相手なのかと」
「そんなことはない。私など所詮は無力な敗軍の将に過ぎぬ」
私がそう言うと経房は首を横に振った。
「いえいえ。そういうことではございません。勝敗は時の運。平治合戦で敗れたのも采配を振るったのはあなたではなくあなたの父や兄だったのですから」
「では、どういうことなのだ?」
「昨日、呉葉殿の話を聞かせて頂きましたな。その内容については一応報告もしたためたのですが、この状況では届きますまいと書面はまだ私の懐にございます」
経房はそう前置きしてから続けた。
「故に今のところ私がただ頼朝殿の話を聞いただけということになっているのですが、その結果として、自分が書き記したことを反芻するなどという柄にもないことをすることになりました。そうしたらふと急に馬鹿らしくなったのですよ」
「馬鹿らしい?」
私がそう言うと経房は笑みをたたえたまま返した。
「ご無礼を承知で申し上げます。ここに私が書いたことは実に凡庸なことだったのですよ」
「・・・」
「あなたが源氏の嫡男である、鬼が登場する、あなたの父や兄が復活した。並べれば確かに一波乱も二波乱もありそうな取り合わせです。ですが、あなたの言葉を信じるならばそのどれもがあなたが自らの意思で起こしたことではないということになります」
私はようやく凡庸という言葉に込められた意味を悟った。
それに気づいているのかいないのか経房は続ける。
「それでふと私は悪戯心を思い出しましてな。試みにそれらの物事を除いてみたのでございます。そうしましたらな、そこにはありふれた少年の物語があったのですよ。それこそ主語を私にすれば生涯誰にも見せられないような日記になりましょう」
言いながら経房は遠い目をした。
それは今までの経房の目には決して見えなかった柔らかさがあった。
「ありふれた少年、か」
私は思わず呟いていた。口に出してみるとそれは妙にしっくりくるものがあった。
すると経房は突然はっとしたようになった。
「これは失礼致しました。やはり柄にもないことはするものではありませんな」
そう言うと経房は立ち上がる。このまま部屋を去るつもりなようだった。
私は慌てて経房を呼び止めた。
「経房殿。一つだけ尋ねてもよろしいか?」
立ち上がった経房はその姿勢のままこちらに振り向いた。
「何でございましょう?」
「もし経房殿の日記があったとして、その結末はどのようなものか、聞いてもいいか?」
すると経房は苦笑した。
そしてまた先ほどの遠い目をしたかと思うと口を開く。
「そんなものありはしませぬが・・・ もしあったとするならば、実につまらない結末でしょうな。哀愁とすら呼べないような諦念に溢れた」
経房の目に少しの悲しみが宿ったように見えた。
それで私は重ねて尋ねた。
「では、もし結末が変えられるとしたら、変えたいと思うか?」
経房は私の目を見つめた。
そしてしばらく間を置いてから答えた。
「私の結末はもはや変わりますまい。今さら変えたいとも思いませんな」
そして経房は扉に向かっていった。そして扉に手をかけるとまた口を開いた。
「ですが、もし誰かの結末が私のものとは違うというならば、見てみたい気持ちはありましょう。そういうものが見れたなら、分不相応に名を上げてしまった甲斐もあるというものですからな」
そう言い残すと経房は去っていった。片手に手燭を持ち廊下を歩いていく。
私は再び月を見上げた。
不思議とそこにある月は先ほどまでとは全く違った輝きを秘めているように見えた。