第二章
そのまま大津に留め置かれること三日。これだけ経てば、私もそしておそらく監視の者たちも、事態が早々の鎮静化するという望みを捨てなければならなかった。
焦ったところで仕方がないのだが、苛立ちを抱く者が多いのはそうだった。それに私がここにいることを知るのは何も監視の者たちだけではない。一日の逗留で済めばそれで良かったのだが、長丁場となれば大津の代官にも知らせておく必要があった。
そして当然私は泊まった宿から一歩も出ることを許されず厳重な監視に置かれることになった。故に代官が私の逗留に対しどのような反応を返したか直接見ることは叶わなかった。だが、少なからず動揺したことは風の噂からも伝わってきた。そもそも聞かずともそういう反応が返ってくるというのは想像に難くない。
私は話し相手もなく再び写経を続ける身に戻った。
これでは場所を変えただけで、京の都での生活と何も変わらなかった。
「まさか、こんなに早く写経の生活に戻るとはな」
そう呟いたときだった。
「写経はつまらぬか? なかなか含蓄のありそうな言葉も多いのだがな。お主の年では分からんか」
一月前と同じ。やはり彼女の来訪は突然だった。
「呉葉か?」
鬼が経典を含蓄あるとは皮肉すら感じたが、さらりと言ってのけるあたりが、ある意味呉葉の呉葉たるかもしれなかった。
「そうだとも。寂しかったか? 頼朝よ」
呉葉は例の笑みを浮かべ続けている。
そこには子供のような無邪気さと鬼らしい底知れなさが混じり合っていた。
「何をしてたんだ? この刀だけ置いていって一月。こちらとしては扱いに困ったぞ」
だが、私の言葉に呉葉はさらに笑みを深くした。
「そうは言うがな。お主がそれを使ったが故に儂はここに居られるのだぞ」
「どういう意味だ?」
「お主。昨日その刀で式神を切ったじゃろう? 儂がここ一月留守にしていたのはそいつが原因だったのだ」
私はそれで初めて昨日切った式神が一月以上も自分の傍にいたことを知った。
「お前はあの式神の正体を知っているのか?」
「正体? どういう意味じゃ? 式神は式神であろうに」
「いや。誰が放ったものとかそういうことだ」
「さあてな。貴族も坊主もそしてお主のような武士さえもそういうことを妙に気にするがな、儂からすればそんなものは些事に過ぎぬ。脅威があれば避ける。それだけの話じゃ」
「そうか」
おそらくあの式神を送った者の正体が判明することはないだろう。だが、式神というならばそれは朝廷に連なる何かということ。おそらく延暦寺とはまた別の勢力ということになる。
ともかくこれで私を囲む勢力は主に三つという訳だ。平氏、延暦寺、そして京の朝廷の何者か。どれ一つとっても相手の仕方を間違えれば軽く命が飛ぶような相手だ。
「それで、どうやらお主はしばらく暇をしているようじゃの。どうじゃ。写経がつまらぬというならここの暇な鬼の相手をせんか?」
「いきなり監視が入ってきたらどうする? 鬼かどうか以前に勝手に誰かと会ってる時点でまずいのだぞ」
「それこそ、鬼の力の見せどころじゃな。何も金棒を振り回すだけが鬼ではない。幻術の一つや二つ。何の問題もないわ」
そう言うと呉葉はまたどこからか将棋盤を取り出した。
前回とは違う。これは純粋な技術の差で散々な結果になりそうだった。
パチッ。駒音を立てながら互いが駒を進めていく。
私が長考して、呉葉は瞬時に手を返す。どうせこちらの考えなど全て読めているであろうに呉葉は楽しそうにしていた。
「ずっと付いてくるつもりなのか?」
「ふむ。少なくとも飽きるまではそのつもりじゃ」
「だが、このままいくとしばらくは何も変化がなさそうだぞ」
私はまた盤面に集中しながら言った。
こんなことを話していても、現実のことを悶々と考えたりせずに済むという点で、将棋というのは非常にありがたかった。
「例の僧兵どもか。あのような者ども、いくら数をそろえようと所詮は烏合の衆。平家相手にどうこうできるとは思えんがな」
「それはそうだ。今の平家は都に三千騎は集まっている。戦力的には話にならんだろうな。だが寺社というのは特別だ。われら源氏の武士団を戦力差に任せて叩いたときとは話が違う」
「経典の価値なら理解もできる。徳の高い僧がいることも認めよう。だが、今この街を囲んでいる者どもにそのようなものは感じんぞ。お主らの愛してやまない政治やら権力やらの臭いがするだけじゃ」
「だからこそ私も動けない訳だ。それこそ政治に興味がないというならば、私などただの流刑となった罪人に過ぎないのだからな」
「本当にそう思って通してくれたりはせんのかのう。少なくとも街の者は比較的自由に動いているように見えるぞ」
「私がここに来た丁度その日に偶々この街を囲んだという理屈を信じるほど私も監視役も楽観主義ではないからな」
私がそう言うとふと呉葉は差し手を止めて口を開いた。
「嬉しいか?」
私はそれまで盤面に向けていた視線を呉葉に戻した。
顔を上げるとそこには呉葉がいる。その目はただ笑っているだけのようにも、何かを試しているかのようにも見えた。
「どういう意味だ?」
「少なくともこの事態が終わるまではお主の行動は歴史の一部となろう。隠居までの期間が伸びたわけだ」
私はしばらく自分に問うた。だが、やはり嬉しいという思いは湧き上がってこない。
「別に後世に語り継がれたくて生きている訳ではない。単純に厄介なだけだ。その上下手な転び方をすれば私の命も危うくなる」
私は言ったあとで自然の自分の命を危うんでいる自分に気づいていた。一月前に流刑を言い渡されたばかりの自分とは随分変化したものである。
それに気づいているのか気づいていないのか、呉葉はただうんうんと頷いた。
「なるほど。利用されるくらいなら斬れとなるかもしれんというわけか」
「だからこそ何もしていないと示しておく必要があるのだがな」
「鬼と将棋では不服か?」
「もしお前の幻術が見破られたら大問題だな」
「それはそうに違いない」
呉葉は声を上げて笑った。それから一手進める。
また私は長考に入った。
そんなことをしている日々が三日続いた。
やはり大津の封鎖は解かれず、私も宿から出ることはなかった。そして将棋の結果も当然変わらない。毎回完敗だった。
「お主はどうも玉の守りが薄いの。かといって攻撃が鋭い訳でもない」
「これはまた手厳しい感想だな」
「いや、まあそれで不思議なのは、何故かそこまで悪い差し回しではないということだが。急に悪くなるということがない。刺さる攻めは刺さっている。結局いつも守りの固さで儂が押し勝つという展開だがな」
「だが、私の玉が引き付けているからこそ、そちらの守りも緩くなっているのではないか?これで固め合ったりすればそれこそ勝ち目がない展開になる」
「その辺はお主の性格の問題か。あまり見ない指し方だがな」
毎回完勝するというのに呉葉が飽きずにやってくるのはそれが理由なのかもしれなかった。良いことなのかは分からないが私は変わっているらしい。
呉葉はいつも見切ったように早く指してしまう。だが、それでも私が長考を重ねる結果、時間だけはかかっていた。夕方前に始まる将棋も終わるころにはすっかり夜の帳が降りて、灯が必要な時刻になってから数時間かかることも珍しくない。
「では今日はこれで去るとしようか」
決着が着くといつも通り呉葉は立ち上がった。将棋盤と駒はいつの間にか消えている。
「私も寝るとしよう。明日も何も無いであろうが、何かが起きる可能性も消えてはいないからな」
「そうじゃな。気を付けておけ。すぐには行動に出ることもあるまいが、じりじりとお主の監視役の雰囲気も変わりつつある」
「有事の際には斬るというわけか」
「どうじゃ? せっかく拾った命だが、やはり失うことに恐れはないのかの?」
「無いな。だが、黙って状況を放置するのも性に合わない気がしてきたよ」
呉葉は私がそう言うのを聞くと少し満足そうな表情になった。そして彼女にしては珍しい純粋な助言が彼女の口の端に上っていた。
「そうか。ならば早めに手を打った方がいいかもしれんぞ。この街の外も騒がしくなってきたからの」
その言葉を最後に彼女は消えてしまった。相変わらず扉を開くでもなく、そしてそれらしい動作や文言を唱えることもなく、彼女は一瞬で消えてしまう。
私は一人部屋に残されて、考え込んだ。
確かにこのままではまずいというのは分かっていた。封鎖が長引いて周囲の空気が張り詰めたものへと変化しているのは察していたからである。
(確かにこのままでは私を処分という展開にもなりうるか。街全体の雰囲気も悪化しつつある。護衛が動かんでも、この街の代官が動くかもしれんしな)
だが、どう動けばいい? 下手な行動をとれば、むしろそれが致命的な結果を招くことにもなってしまう。僧兵と繋がっている、混乱に乗じて逃げ出そうとしている。その辺りを疑われることは十分にあり得る話だった。監視役もそれを警戒しているからこそ苛立ちを募らせているに違いなかった。
(この強訴は明らかに政治的なものだ。政治には政治をというのが常道なのであろうが、今の私が政治に関わろうとすればそれがさらなる警戒を招きかねん。かといって何もしなくても状況は悪化していくだけだろう。はたまたどうしたものか)
だが、考えれば考えるほど八方ふさがりだった。
(政治をやるか、下手なことをせずに沈黙しているか。どちらにせよ常道では難しいな)
そこまで考えたときだった。私はふと呉葉との将棋を思い出していた。
あまり見ない指し方。彼女はそう言っていたのだ。常道で無理ならば私らしい手を考えるしかない。
私の指し方とはどう表現できるだろうか?
所詮は素人の指し方というだけかもしれない。だが敢えて言うなら、玉形を薄くし引き付けて、その間に攻める。
(玉を薄く。この身を固めずに動くということか?)
瞬間だった。私の中に一つの考えが浮かんだ。
普通に考えれば危険なだけにも見える。だが、考えれば考えるほどそれしかないような気がしてきていた。
(鬼とだとしても、確かに呉葉は私を私以上に知っていると見える。このような考えが浮かぶとはな)
私は久々に未来のことに思いを巡らせながら瞼を閉じた。
翌朝、起き上がると私は廊下に繋がる扉を開けた。外にはいつも通り監視の者が立っている。私はその者に声をかけた。
「すまぬが経房殿を呼んではくれんか?」
「経房様に何の用だ?」
男は露骨に警戒心を見せた。
私はそれにもひるまずに続ける。
「一つこの状況を打開できないかと思ってな。一つ相談があるのだ」
それを聞いて男の顔に期待のようなものが浮かんだのを私は見逃さなかった。同じくらい警戒も浮かんでいたが、確かに彼もこの大津に留め置かれた状態に飽き飽きしているに違いなかった。
「分かった。しばし待っておれ。交代の者が来たら、経房様に伝えておく」
「かたじけない」
私はそう言うと扉を閉めた。呉葉も朝からいる訳ではない。私は机の上に経典を広げると再び写経を始めた。難波経房がやってきたのはそれから一時間ほど経ってからのことだった。
「私に用があると聞いたのだが、何用かな?」
経房はさすがと言うべきか、他の郎党ほど苛立ちを表に出してはいなかった。少なくとも表面上物腰は穏やかである。
私はそれで自分の提案を口にすることを決意した。もし相手が冷静さを失っているようなら危険な提案に受け取られかねないと思っていたからである。
「経房殿は現状をどう捉えている?」
「少なくとも強訴が一段落するまでは動けないでしょうな。我らに解決できる問題ではない以上、待つしかないとそう考えておりますが」
「それはそうだな。だが、私がこの大津に泊まった丁度この日に大津が封鎖されたことについてはどう考えている?」
経房のまぶたがぴくりと動いたのが分かった。
「憶測で物を語るのは危険でしょう」
私は焦らなかった。
「では、大津の代官と僧兵の間で緊張が高まっているというのは?」
「なぜそれを知っているのですかな?」
「別に調べたりせずとも聞こえてきます。この街に入れるよう要求する僧兵とそれを拒否する平家方とで緊張が高まっていると」
私がそう言ったのを聞いて、経房は腕組みをした。
段々とこちらを探るような面持ちになっていく。だが、ここまで踏み込んだのだ。今更引くつもりはなかった。
さらに続けていく。
「ここで私は思ったのです。もし私の憶測が正しいなら、少なくともこの街の代官と僧兵の間の緊張は緩められるのではないかと」
経房が興味をひかれているのが分かった。
経房が定期的に代官に呼び出されているのも、監視役同士の会話から聞こえていた。私がここに逗留し続けていることについて散々言われているに違いなかった。
そして経房は口を開く。
「話を聞きましょう」
「かたじけない。経房殿」
私は昨日思いついたことを口にした、常房は一瞬虚を突かれたような表情になり、そして身を乗り出した。
それから数時間後。経房は自らも馬に乗りながらもう一頭の馬を引いて宿の前に現れた。
当然私はその目的を知っている。だが、他の郎党たちは首をかしげていた。
「頼朝殿。準備はよろしいですかな?」
「はい。いつでも」
「それでは行きましょう」
その声と共に経房が私を連れてきた馬に乗せたとき、郎党たちが慌てたように声を上げた。
「何をなさっているのです。経房様」
だが、その血相を変えた様子の郎党とは対照的に常房は平然としていた。
「何をと言われても、これから頼朝殿に大津を案内するのだ。どうやらここでの宿泊も長丁場になりそうだからな」
郎党たちは理解できないという表情を浮かべた。なぜこんなに緊迫した情勢で火に油を注ぐような真似をするのかと、彼らの表情には書いてある。
だが、それを見ても経房は行動を変えようとはしなかった。
「何をそんなに慌てておる? 街の中を出歩くだけではないか」
だが、当たり前というべきか他の郎党たちは納得しなかった。むしろ納得するどころか必死に止めようとしているようにも見える。
「経房様。そんなことをなさっては街の外の僧兵どもを刺激します。どうかご再考を」
「そうか。そうか。そなたらはそう思うか。ならばここで待っているが良い。自ずと結果は見えてこよう」
その言葉を最後に経房は私の馬を促した。私はゆっくりと馬を進めていく。経房もそれでそのすぐ後を歩いていった。
そのまま私は京の方へと向かった。向かう先は京と大津を結ぶ街道に繋がっている。つまりは最も僧兵が集結しているところであった。
「では経房殿。行きますぞ」
「ご心配なく。頼朝殿の背後にはしっかりと私が付いております」
それを合図に私はゆっくりと馬を進めた。すると次第に街道を歩く人々が反応を示し始めたのが分かった。
まだ平治の乱集結から一月と経っていない。街の者の中には私つまり源頼朝の顔を知っている者が混じっているはずだった。そういう者たちが声を上げ始める。
「おい。あれはひょっとして頼朝様じゃないか?」
「あの伊豆に配流になったっていう源氏の嫡男か?」
「まだこんなところに居たのか」
「それより背後にいる武士、難波経房様か? あの源義平を斬ったっていう」
ざわざわとしながら瞬時に噂は広がっていった。ゆっくりと進んだ効果か、次第に街のあちこちから人が集まってきたのが分かる。
私は強いてその街の人々と眼を合わせないようにした。あぶみに載せた足に必要以上の力がかかっているのが分かる。だが、堂々と進むためにはそうやって震えを押さえるしかなかった。
弱みを見せる訳にはいかないのだ。大津の人々にも、背後を進む経房にも。
露骨に近づくことはせず遠巻きに囲まれる形で私は大津の街道付近まで進んだ。そこには代官配下の武士と僧兵がにらみ合っている。まさに一触即発という言葉似合っていた。
私はそれが見えてくると一瞬馬の歩みを止めた。そこで深く息を吸い込むと、行く先を見つめる。それからまた軽く馬を動かし始めた。馬は状況を知ってか知らずか、単調でゆっくりとした歩みを続けている。
そのまま私が進んでいくと、段々と向かう先の雰囲気に変化が生じてきたのが分かった。
野次馬で集まってきた人々を引き連れながらやってきた私に僧兵が気づかない訳がない。彼らも私の顔が見えるようになった途端、僧兵の間で動揺が広がっていくのは遠目でも分かった。
背後にいる経房が背後から私の耳にささやいた。
「どうやら奴らも気づいたようですな」
私はそれで先ほどの会話を思い出していた。
この提案をしたとき、経房が見せた反応は先ほど他の監視役の郎党が見せたものと全く同じだった。
「本気でおっしゃっているのか? それでは僧兵どもを刺激するだけ。事態を収めるどころか本格的な衝突のきっかけになりかねませんぞ!」
「私の姿を見て、僧兵がなだれ込んでくると、経房殿はおっしゃるのか?」
「それは当然・・・」
そこまで言ったときだった。経房は何かに気づいた表情になった。
「なだれ込んでは来まい。この大津が封鎖されている理由が私ということは明らかにできぬからな。それでは平家に口実を与えてしまう」
「・・・」
「あくまで私がここにいるのは偶然。そういう体で彼らは事を進めているはず。だが、ここで私の存在が明らかになればどうなる?」
経房は沈黙したりはしなかった。
そして次第にその表情が変わっていく。先ほどまでの警戒と驚きだけで埋め尽くされていた表情が急速に納得の色を帯びていった。
「もはや内密に頼朝殿を確保するということはできなくなる。それに大津に突入してどさくさ紛れにあなたを確保することも」
「だが、もちろんこの方法は僧兵どもにとっても利点がある。これで奴らは私がもう大津から消えているという可能性を警戒しなくて済むのだ。いつでも捉えられる籠の鳥だと思えば、彼らも焦って強硬手段に出ることはなくなろう」
経房は一層深く腕を組みなおした。
しばらく沈黙があり、そして経房が口を開く。
「・・・おっしゃりたいことは分かり申した。だが、護衛としては看過できませんな。万が一にもあなたが延暦寺に確保されるような事態にだけはさせられん」
もちろん、この危うさは分かっていた。だが、それは問題ないのだ。
私は最後の要素を口にした。
「それは問題ないだろう。あなたがいれば。経房殿」
「む?」
「我が兄を斬ったあなたが私の背後にいれば良い。いざとなればいつでも私を切り捨てられる位置に。その状況ならば彼らもまず手を出すことはないだろう。彼らからすればせっかくの源氏の嫡男も死んでしまっては元も子もないというものだ」
一瞬の沈黙があった。それから経房が口を開く。
「本気ですかな? 頼朝殿」
その目は私を正面から見つめている。私も見つめ返すことは躊躇わなかった。
そして経房は何かに納得したように頷いた。
「よいでしょう。あなたにその覚悟があるというならば悪くはない。座して状況の悪化を待つくらいなら、何かした方がましというものですからな」
私は回想から目覚めて僧兵の大軍を見つめた。
予想通り彼らは向かってこない。そして同時に彼らは間違いなく私を認識していた。
色々考えたことは多い。だが、この策は彼らが私をその目で認識してなおかつ手を出せない。それが全てなのだ。だからこそ、今この瞬間、策が成功したのは明らかだった。
「さて経房殿。戻るとしようか」
私はそう言うと馬首を返した。常房も頷くと馬首を返す。私は宿に向かって戻って行った。
これでも私は緊張していたらしい。先ほどまで異様に力をかけていたあぶみ。その上に載せられた足の筋肉が弛緩したようになって一気に疲労が襲ってくる。
先ほど通ったばかりだったはずの道は、まるで初めて通ったかのようだった。
そうやって私はようやく大津の街を見回していると、突然背後から経房が口を開いた。
「頼朝殿。せっかくですから茶屋の一つくらい寄っていきませんかな? せっかくの大津見物だというのに見たものがあれだけでは何とも味気ない」
そう言うと彼はこちらの返事も待たずに私を茶屋まで案内してしまった。
いつの間にか茶屋の席に私を座らせてしまうと、経房は茶屋の奥に向かっていった。
「団子と茶を二人前頼む」
それだけ言って、経房は私の隣に座った。
「かたじけない」
私がそう言うと常房は遠慮するなとでも言うように手を振った。
「ただの気まぐれですよ。今日は気分がいいですからな」
そう言う経房の横に茶を持った店の者が現れた。そして私の横にも一人の店の者がやってくる。それは普通の服装をした茶屋の娘らしい顔立ちをした女性だった。
だが、その者は私の横に立ってお茶を団子を置いた瞬間だった。先ほどまで笑っていた表情が凍り付き、その固まったような表情のまま突然口を開いた。
「全く面白いやり方をしてくれる。毎日比叡山の連中に姿を見せつけるという訳か。そのようなやり方はこちらとしても盲点だったな」
その声と共に突然周りが結界で覆われたようになったのが分かる。周囲の声がくぐもり、同時に経房の姿も見えなくなった。回りの世界グレーになったような感覚がする。
「何者だ?」
私はその茶屋の娘の姿をした何者かを睨みつけた。だが、相手はただ凍り付いた笑顔を向け続けるだけ。そして声だけは落ち着いていた。
「なに。貴様に切られた式神の代わりだよ」
私はまた腰回りを無意識に探っていた。だが、探った手は空しく空を切る。当然だった。経房の同行があるとはいえ宿から出るのだ。木太刀だとしてもそう持ち歩けるはずがない。
今の私は武士としても丸腰だったが、式神や鬼妖怪の類に対しても丸腰だった。
「何用だ? また連れ去りに来たのか?」
「そうしてもいいのだがな。隅に置けぬ奴だ。まさか鬼の類と手を結ぶとは」
私は黙っていた。
だが、相手は勝手に納得したようでそれ以上何も聞くことはない。代わりにこう言った。
「まあ良い。こうなった以上、貴様は放っておいた方が楽しみがありそうだ。だが、言っておくぞ。貴様のような滅びかけの一族にとって太平な世とはすなわち敵だ。形勢をひっくり返すには、まず盤面が乱れなければならないのだからな」
それが最後だった。
式神はそのまま何もすることなく消えていく。結界のようなものが消えたときには何も残っていなかった。
団子と茶だけは残されていて、そして店員も経房も娘が一人いなくなったことになど気づいている様子はない。
(太平な世とはすなわち敵、か)
結局何も解決してはいない。
大津を囲う僧兵も消えたわけではない。あの式神の主の正体も不明のままだ。ついでに言うなら自分を監視する者たちもいつ私を斬れという命を受け取るとも限らない。
できたことといえば大津を覆う緊張感を多少解いたことぐらい。
私は団子を口に運びながら、先行きに漂う暗雲を感じていた。
そこからは寄り道もすることはなく、宿に戻ってくる。そこには肝を冷やしていたであろう平家の家臣たちがいた。
「経房様!」
戻ってくるなり郎党の一人が胸を撫で下ろしたような表情で駆け寄ってくる。
「何をそんな表情をしておるのだ。言ったではないか」
「しかし・・・」
「この通り私は五体満足で、頼朝殿もちゃんとおる」
「はあ。しかし」
「言っておくが明日以降も同じことをするぞ。今日ほど街の端に近づくわけではないが」
「何をおっしゃいます?」
「お前たちも今日の出来事の意味。よく考えてみるが良い。そのうちにも代官から使者がやってくるぞ。感謝の令状を添えてな」
その言葉を最後に経房は宿に戻って行く。
馬から降りた私もそれで慌てて駆け寄ってきた武士に案内されて自分の部屋に戻った。おそらくこの者が今日の監視担当だったのだろう。特に気をもんでいたに違いない。
それでその武士の顔をみた私は驚いた。その顔は確かに男だったのに、その顔に浮かぶ笑みにはよく見覚えがあったのだ。
部屋に戻ると、その武士はすぐに姿を良く見慣れたものへと変えた。
やはりその姿は呉葉だった。
「呉葉か。いつの間に潜り込んだ?」
「いや。今日は護衛の者どもがそろいもそろって気が外に向いていたのでな。珍しく隙だらけだったという訳だ。それで儂の幻術にやられて護衛の人数が増えていることになど気づいていない」
「なるほど。どうやら今日やったことは色々と意味があったようだな」
「儂も街の噂を聞いて驚いたものだ。確かにお主の将棋のやり方によく似てはいるが、危険とは思わなかったのか? お主はいつもそうやって危うく攻めては、その危うさが故に負けているではないか」
そう言いながら、呉葉はどこからか団子を取り出した。
それを見つめていたかと思うと一口に串についた団子を口に入れてしまう。口から出てきた串は綺麗に団子が消えていて、まるで新品のようだった。
「お前はちゃんと見ていたのか。今日の茶屋で出てきた式神・・・」
「ああ。さすがに同じ術相手に二度も遅れをとりはしない。向こうもそれは承知の上だったのだろうからな。お主に釘をさすための使い捨てといったところか」
言いながら呉葉はこちらに視線を向けた。
そして手に持っていた串を投げつける。それは目にもとまらぬ速さでこちらに向かってきたかと思うと座る私のすぐ手前に刺さった。
「だが、相手が本気になっていたら分からんぞ。お主は丸腰だったんじゃ。仮に儂がお主を助けようとしたとしても、間に合わぬことはあり得た」
私は自分の目の前に刺さった串を見つめた。それは確かに目にもとまらぬという表現が最も合うような動きをしていた。呉葉が本気で私を狙っていたら避けることは難しかっただろう。
だが、別に私は自分の命を懸けて博打を打ったつもりはなかった。
「盤上ならともかく、現世において最善手はかならずしもできるものではないからな」
「どういう意味じゃ?」
「攻めるということは守れないということだ。だから最善手が攻めのとき、最善手はリスクと隣り合わせになる」
「だが、分かっておろう。攻められるときに攻めねばそれは隙も同じじゃ」
「そうだな。対局相手が一人しかいないなら、そうだろう。だが、平家も比叡山もそしてあの式神の主も、皆が皆私ではない他の対局相手を見ている。裸玉に等しい私と違って駒の揃った他の対局相手をな」
私は立ち上がると、燈台に灯をつけた。のんびりとした灯が部屋全体を照らした。ぼうっと呉葉の顔が浮かび上がる。おそらく私もそうなのだろう。
「だからこそ、失う物のないお主を攻めることに意味はないと?」
「ああ、いつでも狩れるのだ。わざわざ貧乏くじを引きにいくような愚か者はおるまい。儚い燈台の火も消し損ねれば街を焼くこともある」
すると呉葉は嬉しそうにすら見える表情で笑った。
「そうか。そうか。儂には人の世のことは分からぬからな。お主がそう言うならそうなんじゃろう」
「お前は私よりはるかにものが見えていそうだがな。呉葉」
「そうかもしれん。だが、根本的にお主ら人間と儂では見ているものがずれてくるものだろう? 五十年程度の生しか持たぬ人間にとっての最善手が鬼と同じはずはあるまい」
そう言うと呉葉はまた虚空から将棋盤を取り出した。
「さて、今日も一局指すとしようか。頼朝」
いつも通りに私には勝てない将棋が始まった。
夜は更けていく。
「これで儂の勝ちか」
その声と共に呉葉が駒音を響かせた。
一直線の詰みがある。こちらの負けだった。
「そうだな」
私がそう言うと呉葉は突然寝転がった。いつもであれば将棋盤を持って立ち上がるのに、脱力したように床に寝転がっている。
「どうした?」
私がそう言うと呉葉は逆に怪訝な表情を浮かべた。
「どうした、とはなんじゃ? 何か変なものでも付いているか?」
呉葉は寝転がったまま言う。長い髪の間から覗く角と口調さえなければ、それは子供にしか見えない。だが、これでも彼女はれっきとした鬼なのだ。それもそこら辺の鬼などより遥かに格上だろう。
「いつもならこれで帰るだろう?」
「お主。儂が何のたまに護衛に紛れ込んだと思っておる?」
「まさかずっと潜り込んでいるつもりか?」
「それはそうじゃ。こういう術というのは一度当てればずっと効果が続く類のもの。儂が突然いなくなったりすれば、それこそ護衛が一人消えたと騒ぎ出すことになるぞ」
どうやら本当に護衛に紛れ込むつもりらしい。
「鬼が混じる護衛というのは心強いと思うべきか」
「そうじゃ。そうじゃ。鬼がいるとなれば、少なくとも妖怪の類はやってくることはないだろうからな」
そう言うと、呉葉はふと思いついたように起き上がった。
「そういえば、一つやってみたいことがあったのじゃ」
「ん? 何だ?」
すると呉葉は部屋の隅に置かれていた布団を取り出した。
「普段、山に住んでいる分には使うこともないからの。せっかくだから使ってみようと思ってな」
「それは一応私のためのものなのだが」
「この程度、武士の心得の範疇であろう。鬼にくらい譲ってみせよ」
そう言うと呉葉は布団に潜り込んでしまった。
「鬼にくらい、とはな」
「何じゃ? そんなに布団が名残惜しいなら入ってきても構わんぞ。儂にとってはどちらも珍しきことに変わりはないからの」
布団から顔だけ出して呉葉はいたずらっぽく笑った。私が入るなどということはないのはお見通し済みなのだろう。
「分かったよ。偶には床も悪くない」
「ふむ。素直さは美徳じゃぞ」
図々しく呉葉言うと布団を頭まで被って呉葉はその姿を隠れさせてしまった。
翌日、私は床の固い感触を味わいながら起き上がった。体のあちこちが微妙に痛む。
私は起き上がると体のあちこちをさすった。
「意外と痛むものだな」
「体が鈍っているのではないか? 情けないの」
私に言葉ににやにやと笑いながら近づいて来たのはもう布団から出ていた呉葉だった。生気がみなぎったような明るい表情はこちらを煽っているようにすら見える。
「お前は元気そうだ。布団の感想はどうだった?」
「悪くない。快適過ぎるのも問題だったがな」
呉葉がそう言ったときだった。何者かがこちらに近づいてくる音がした。
「この足音は、経房か。またお主に用があるようじゃぞ。頼朝」
「そうみたいだな。昨日の件か?」
私は少し目を細めた。目立ち過ぎたのかもしれないという不安がよぎったのだ。清盛の不興を買った可能性もある。
だが、私の顔を見て呉葉は口を開いた。
「安心せい。私の感じる限り殺気はない。悪い知らせではなかろう」
そう言うと呉葉は私の目の前で変化した。昨日私を部屋まで案内した郎党の姿そのものになっている。その姿に変わったことを確認すると呉葉はのんびり部屋からでた。そして何でもないような顔をして部屋の外に立つ。
経房は特に何か違和感を覚えた様子もなく部屋の扉に近づいた。
「頼朝殿。入って問題ないですかな?」
「どうぞ」
私がそう答えると経房は扉を開ける。
「頼朝殿。この宿の泊まり心地はいかがですかな?」
「特に不満もないが、何かあったのか?」
すると経房は頷いた。
「先日文が届きましてな。宿を変えることになりました。元々長期の宿泊は予定外ですしな」
「どこに変える?」
「それはついてからのお楽しみと致しましょう。清盛様の御裁可ですので、ご心配なく」
元々毎日の移動が前提の荷物である。特に買い溜めたようなものもないから、移動の準備に時間はかからなかった。昼頃にはもう出立の準備は整っている。
私は昨日乗せられた馬に乗ると移動を始めた。この前と違って経房以外の監視の者も同行している。私は宿を出て早速、清盛の裁可という言葉の意味を噛みしめることになった。
「経房殿。これは京の都の方ではないか」
別に京の都に向かっていることそのものは問題ない。
大津から出たりしないのであれば、問題にならないだろう。だが、問題はそちらは昨日私が向かった僧兵の集まっているところに近いということであった。僧兵は大津と京の間に集結し、そこから広がって大津や京の街道の一部を封鎖しているのだ。
だが、経房は涼しい表情だった。
「ええ。そうでございます。毎日歩き回って示すくらいなら、宿泊先を見せた方が分かりやすいという次第でして。偶に扉を開けて姿を示せばいいでしょう」
なるほど。清盛は私が目立ったことに対して怒りを見せるのではなく、むしろ利用しようという心づもりになったらしい。
(さすがは平家の棟梁と言ったところか。使えるものは使うとそう言っているのか?)
私は一度だけ会ったときの清盛を思い出していた。
私に流罪を言い渡した時の清盛には余裕があった。勝者としてあるべき威厳を示すかのように。そして平治の乱を制した直後の強訴。厄介な状況が立て続けに起きても、清盛という人物の采配には揺るぎが無い。
「それに次の移動先は景色で有名な名所でございまして。非常時でなければ長期滞在などそうそう出来るものではないらしいですからな。私も楽しみにしております」
そう続ける経房はどこか上機嫌にすら見えた。
だが、冷静に考えてみれば、上機嫌というのも凄い話なのだ。牽制する方法が出てきたといっても所詮は付け焼刃。いつ効果がなくなるともしれない。だというのに経房は落ち着いていた。
ある意味、その経房が見せる余裕こそが平家の世となったことの証なのかもしれなかった。
「そうか。移動前の宿の景色もなかなかであったが、次はもっと期待できると」
「武士とはいえ我らも京に住まう者。風情というものがあるなら味わってみたいものです」
そう会話をしているうちに一行は目的の宿にたどり着いた。
到着すると経房が先行し、宿の者と打ち合わせをした。無論事前に清盛とのやり取りは済んでいるのだろう。打ち合わせは滞りなく進んだようで、私はすぐに部屋へと案内された。案内役が誰になったかは、もちろん語るまでもない。
部屋に着くと、宿の者が自慢げにふすまを開けた。既に夕方も迫り、光の量が減りつつある時刻のことだった。段々と赤みを帯び始めた日の光は琵琶湖に反射し、その鏡のような水面を際立たせる。
「見事なものだ」
隣で監視の武者―つまり呉葉だがーが呟く。私もそれを見て、目の前の光景を見つめた。
「・・・」
私も敢えて感想を口にすることはない。黙って景色を見つめていた。
こちらの反応を見て宿の者も満足したようである。ただ静かに一礼すると去っていった。ここに来る客にはいつもそうしているのだろう。
宿の者が去ってから十秒ほど経つと、呉葉は元の姿に戻った。
そしてこちらを向くと口を開く。
「ふむ。経房めが期待を口にしていただけのことはあるな。前の宿の景色もなかなかだったが、ここもさすがと言うべきか」
「そうだな。だが、」
私は自分の中に生じた反発のようなものに気づいて自分でも戸惑っていた。
「ん? なんじゃ?」
「上手く言葉にできないのだが、そうだな。この美しさに埋もれてはいけない。そのような気がするのだ」
「景色を堪能することに罪があるというのか? お主は」
「分からぬ」
すると呉葉は興味深そうにこちらを見た。だが、私にすら何を思っているのか分かっていないのだ。私の顔を見たところで何も分かるはずがなかった。呉葉はそれを見て取ると床に腰を下ろした。そのまま前を見つめると、じりじりと夕日へと変化していく日の光を浴びながら口を開いた。
「お主の顔は心を動かされたと言っているだけだがの。素直にそう思ってはいかんというなら、やはり人の世は儂には分からん」
「そんなもの、私にも分からぬ。かの清盛公も分かってはいないだろう」
「そうに違いない」
呉葉は隣で頷いた。
それから私はしばらく沈黙した。
そして口を開く。
「そうだな。できればこう言いたいと思ったのかもしれん。誰か、この景色を私の居る所まで持ってまいれ、とな」
「ほう? 景色を持ってまいれとは、また鬼の儂にも無理難題じゃな」
「ああ。だが私は思うのだ。この景色が美しい。だからそれが見えるここに居る。そう考えていては武士は生きていけないのではないかとな」
「生きていけない?」
「ああ、動けるだけ動き回り、そして行き着いた先ならばどこであろうと躊躇わぬ。そして自らがいるところこそを拠点と作り変える。そのような傲慢さと奔放さを失えば、武士など風情を知らぬ貴族にも劣る存在となるのではないか。どうもそのような気がしてならぬ」
すると、呉葉は声を上げて笑った。
「ははは。なるほど。やはり源氏の嫡男殿は言うことが違う。だが、景色を楽しめぬのでは本末転倒ではないか。鬼の儂にはその程度にしか思えぬ」
呉葉は目の前の景色から目を離すと寝転がった。
私はある意味無邪気にすら見える呉葉を見て、和む思いだった。
そして最後に少し脳裏をよぎった思いを口にする。
「それはそうなのだろう。景色を楽しめぬというなら、確かに面白みも何もあるまい。そして、考えてこのようなことを言うのでは足りないのだ。ごく自然にそのような言葉が現れる。もしそのような武士が頂点に立ったのなら・・・」
すると呉葉は私の言葉を引き継いだ。
「武士の世がやってくるというのか」
「何の根拠もない戯言だがな」
私がそう言うと呉葉は言った。
「お主がそれを生きて見ることはあるまい。だが、儂ならば、そのようなものを見ることができるかもしれんな」
そこで私の頭に一つの問いが浮かんだ。考えてみれば聞けそうで聞けない話だ。私は聞いてみることにした。
「なあ、不躾な問いをしてもいいか?」
「答える気がなければ答えんよ。聞いてみるがいい」
「お前はあと何年生きる?」
すると呉葉は遠い目をした。そして口を開く。
「本当に不躾な問いじゃの。だが、儂にもそれはよく分からぬ。だが、敢えて考えるなら第六天魔王がこの世に現れるまでか」
「第六天魔王?」
私は思いもよらない名詞に訊き返してしまった。
だが、呉葉は頷く。
「ああ。第六天魔王じゃ。元々何であったかも分からぬが、今は仏敵。その者が私をこの世に産み落とした。その者が待ちきれなくなってこの世に現れたなら、それが私の最期になろう」
そう重い言葉で告げた後、彼女は茶化すように言った。
「まあ、何にせよ先の話だ。お主が生きている間にそのようなことは起こるまい。それに生ある者は死ぬのだ。色々言っておいて、儂とてその顕現を見ることはないかもしれんのだぞ」
言いながら彼女は私の腰を叩くようにした。意外と力強いその手はあまり動かしてこなかった身体には意外と響く。
「おっ? この程度で痛むのか?」
それを察したのか、呉葉はいたずらっぽくこちらを見た。
「分かっているならやるな。鬼などと自称するならなおさらだ」
「ほう。これだけ語らせておいてまだ自称と抜かすか。全く、先祖の顔が浮かぶ」
呉葉はまた楽しそうに笑みを浮かべた。