第一章
するべきこともない。したいこともない。
こんな日々は久しぶりだった。源氏の嫡男としての自分はもう死んだようなものだからだろうか。それを取り去って何が残るかと言われれば何も無いというのが実情ではあるのだが。
私はそれで筆を手に取った。意味が分かるようになる日はついぞ来ないであろうことを想像しながら私は巻物の文字を写し取っていく。それに疲れると今度は手を合わせて文字を読み上げた。
私は今、私を捉えた平宗清の屋敷に預けられている。追って沙汰が下るまでの一時的な措置だ。といってもその沙汰の内容は自明であるように思われた。こうしているうちにきっと平家の者がやってきて、首をはねられるのだろう。
私はそんな未来を思い浮かべながら机に向かっていた。するべきこともなければしたいこともない。仮にあったとしても意味はないのだ。
そうやっているときだった。彼女が現れたのは。
「読経に写経。源氏の嫡男と聞いて来たがつまらぬものだな」
突然だった。
この部屋は最低限の出入りしかないはず。今のような声の主には心当たりがなかった。
「何者だ?」
私は筆を止めると声を上げた。すると目の前に角を生やした少女が現れた。この部屋の入口ははるか後ろだ。何もないところに突然現れたとしか思えなかった。
「何者とは、また随分な挨拶だが。まあ名乗ってやろう。我が名は呉葉。聞いたことくらいはあろう」
私はその名を聞いて、それで無意識に左の方に手をやった。だが、つい数日前まではそこにあった刀は当然あるはずもない。
「その反応。期待通りで何よりだ」
そう言って彼女は角を見せつけるようにしながら机を挟んで真正面に舞い降りた。一度降り立ってみるとその姿は小さい。こちらもまだ元服して間もないくらいなのだ。体は大きいとは言えないが、それでも私より小さかった。
だが、そんな体の大きさとは裏腹に目の前の存在がとんでもない力を持っているのは察することができた。機嫌を損ねればこちらの命はないだろう。
だが、そこで私は心の中で笑った。命がない、とは。どの道先の短い命なのだ。今更恐れることではないだろう。
それで私は口を開いた。
「百年も昔に討たれた鬼の名を名乗るとはな。どのような妖かは知らないが、何用だ?」
すると彼女は小さく笑った。
「百年も前に討たれた、か。なるほど。お主らの間ではそういうことになっておったのか。道理で儂の名を聞かぬと思ったわ」
くくく、とひとしきり笑うと彼女はいかにも楽しそうな表情でこちらに向き合った。
そしてまるでこちらを試すように見つめながら口を開く。
「さて、さきほどお主は何用かと聞いたな。残念ながらこれといって用はないのだ。何となくきたというだけでな。京の都で人と関わるなど随分と久しぶりのことだ」
そう言いながらも彼女がこちらの眼をじっと見つめているのは分かった。
だが、結局そういうことは先がある者にとってしか意味を持たないのだ。別に今、策を巡らせたところで意味はない。
私はそんな気持ちを素直に言葉にしていた。
「それで、いかにも付け入れそうな人を探していたという訳か。残念ながら私はすぐに消える身だ。付けいることはできるのかもしれないが、おそらくお前が私を利用しようというころにはこの首と胴は離れている」
すると彼女はますますその笑みを深くした。
「なるほどなるほど。写経に読経とつまらんかと思ったが、百年経てもお主の子孫は面白く育っているようだぞ。経基よ」
経基というのは清和源氏の初代。源経基のことだろう。呉葉は確かに経基と結ばれていたこともある。最終的には追放されたわけだが。
それで彼女は警戒するこちらにも構わずに身を乗り出してきた。
「まあ、お主の首と胴が明日どうなっているかは、儂にはどうでもよいことだ。どうだ? 少し付き合わんか?」
「鬼の相手をしろというのか?」
「そうつまらぬ返答をせんでくれんかな。それともお主も父のように木太刀の一本もあればと吐く口か?」
「木太刀?」
私は違和感を覚えて反応した。何の話だろうか? 少なくと父から木太刀の話など聞いたことはない。
すると彼女は意外そうな顔になった。
「なんじゃ。知らんのか。自分の父の最期であろうに」
「・・・」
「そうか。大した話ではないが、お主の父義朝が郎党に討たれたという話は知っておろう」
「ああ。入浴中に襲撃されたという話だった」
「その時お主の父は木太刀の一本もあればと口にしたそうだぞ。木太刀さえあれば切り抜けられたとでも思っていたのかの」
そう言うと呉葉はどこからか木太刀を取り出した。その持ち手を右手に握るともてあそんだ。左の手のひらにあてるようにしている。
私は六条河原で見た父の顔を思い出していた。
あの時の父の顔には再起をかけるような希望の光はなかった。もっと武人としての死に納得しようというそんな顔だったのだ。
「いや。せめて武人として死にたかったのだろうな。木太刀の一本もあれば戦いになっただろうから」
「お主の父は再起をかけて逃げたのではなかったのか?」
言いながら呉葉はこちらを見つめた。
その目はやはり面白がっていたが、同時に何かを確かめようとしているような気配もあった。
その確かめようとしているものが、この妖にとってどれほど重要であるかは興味もなかったが。
だから、私は思っていることをそのまま口にしていた。
「再起を図るというのも郎党の言葉があっての話だ。だからこそ父も分かっていただろう。郎党に裏切られた時点で終わっていたのだ。仮に切り抜けたところで兵は集まらん。討たれるのが遅くなるだけのことだ」
「ほう。淡白なことだな。お主の一族のことであろうに」
「どの道、負けてこのまま消えていく身なのだ。恨みなど抱いてもお前のような輩が喜ぶだけだろう」
沈黙が降りた。
そして呉葉は楽しそうな表情を崩さぬまままだこちらを見つめていた。
「なるほど。いっそ恐ろしいまでの落ち着きっぷりだの。ますます興味が湧いてきたの」
そう言うと呉葉は取り出していた木太刀を置いた。
「どうじゃ。儂も暇だし、お主も暇そうだ。一局指さんか?」
そう言って彼女がまたどこかから取り出したのは将棋盤と駒だった。平安将棋の王金銀桂香歩に飛車、角、醉象を加えたものだった。
王を取られたら負け。ただし、醉象が成れば太子となり、太子がいるなら太子と王の両方を取らなければならない。そのようなルールだったか。
「駒の動きは知っておろう。仮にも源氏の嫡男との一局じゃ。腕が鳴るの」
「お前は指し慣れてるんだろう? 悪いが相手にならんと思うぞ」
「まあまあ。儂とて初心者相手に本気を出すような野暮なことはせんよ。これは会話の道具のようなものじゃ。鬼の私には心を開けんでも、駒ならば好きにできるじゃろう?」
そう言うと彼女は駒を並べ始めた。確かに別にやることがあるわけでもない。別に将棋くらい構わないだろう。
私は駒を手に取ると並べ始めた。
定石などもよく知らない。私は何となく指していた。玉を取られないようにとりあえず囲む。端では逃げにくかろうと位置も上げていく。
それからやることは・・・
(攻めなければ始まらないか)
私は醉象を前に進めた。それは玉とは反対側を上がっていく。成れば太子。太子が誕生すれば、相手はこちらの玉が詰ますだけでは勝てなくなる。
「これはまた面白い指し方だ。醉象には突撃させておきながら、守りはしないのか。これでは成れぬぞ」
「・・・」
私は黙っている。それで彼女は再び指した。
そして差し手は進んでいく。手加減をすると言ってもやはり呉葉の差し手は的確だった。あと数手でこちらの詰みが見える。
こちらの醉象はまだ成っていない。醉象の前にはいくつもの駒が立ちはだかり、こちらが成り込むのを阻んでいる。
そこで私は守りには出なかった。こちらの駒を次々と敵陣に切り込ませていく。最後にはこちらの玉まで前へと突き進んだ。
結果は一手差だった。一手間に合わずこちらの詰み。だが一手差といっても先手はこちらだったのだ。勝負としては完敗だった。
だが、私は笑った。そして言う。
「勝った、か」
それで呉葉は不思議そうな顔をした。
「ん? 私が勝ったはずだが」
「ああ。将棋としてはお前の勝ちだ。だが、私はここでもう一度六条河原の決戦をしていたのだ。実際の戦場であれば、父上の勢いがこちらを勝利に導いただろう。この一手差を跳ね返してな。父上はそういう勇猛さには優れていたよ。六条河原でもそうだったのだから」
すると呉葉は頷きながら言った。
「なるほどの。そういうこともあるかもしれん。だが、ならばこの醉象は何だ?」
呉葉が指したのは結局多数の駒に阻まれて、進み切れなかった醉象だった。
私はそれを見て断言した。
「私だ」
「使い方がまずかったのではないか? それこそ棟梁たる玉将と共であれば、成れたかもしれぬのに」
「いや。将来棟梁になるかもしれないなど、味方からすれば甚だ信用できぬ話だよ。今棟梁になれないのであれば価値などありはしない。ただ敵にとっては違う。こちらにとっての醉象の価値をはるかに上回るだけの駒を投入して阻むことだろう。これから私が首をはねられるのと全く同じ理由でな」
醉象に投入された分、相手の玉の守りは薄くなっていた。そしてそれこそが、手練手管に優れる相手を前にして一手差という僅差を形作ったのだ。そして、その僅差は実際の戦場でならこちらに勝利をもたらす。
私は笑っていた。
ずっと考えていたこと。それが今形となって表れているのが素直に面白かったのだ。
そう、父はこうやって私を使えば良かったのだ。自らの強みで勝ちを取りに行くために。
私がしばらくそうやって歓びを噛みしめていると、呉葉は沈黙の後に突然腹を抱えるようにして笑い始めた。
「ふふふ。ふははは。何じゃお主。結局悔しいのではないか。こうすれば勝てたとそう恨み言を言う程度には。自分という駒の使い方を誤らなければ勝てたと、そう言っておるのであろう?」
私は沈黙した。だが、それが無言の肯定と呼ばれるものであるのは明らかだった。
「・・・そうだな。そうかもしれない。だが、意味の無い話だ。戦に敗れ父も兄も死に、郎党も失った我が一族の現状は変わらないのだから」
私がそう言っても、相変わらず呉葉は楽しそうにしていた。
まるで噛みしめるように言葉を紡ぐ。
「だが、それにしても討たれても構わないからと放てば最高の囮となったと言うとはな。全く面白いことをのたまうものだ」
そうやって呉葉はひとしきり嬉しそうにしていた。
追い払う術があるわけでもなく、追い払う必要もないのだ。私は先ほどまでやっていた写経を再開することにした。
私が写経したものなど大した霊力もないのだろう。目の前の鬼を名乗る存在は全く気にしている様子がなかった。そもそもここには仏壇もあったはずなのだが、それすらも気にしていないように見える。
対局には思ったより時間がかかっていたようだった。いつの間にか夜の帳が降りてくる時間となっている。そろそろ燈台が必要な時刻かもしれない。
すると、寝転がっていた呉葉が再び顔を乗り出してきた。
「さて、なかなか楽しませてもらった。これではただ去るという訳にもいかんな。鬼とはいえ、報いる心は持つものだ」
「別に鬼に頼むことなどはありはしない。先ほどの将棋なら私も楽しかったからな。冥土の土産としては悪くないだろう」
すると呉葉はやはり不思議そうな顔をして言った。
「先ほどからずっと思っていたのだが、何故お主はそこまで自分の命を惜しまないのだ?」
「そういう風に教えられてきたからな。父も命より大事なものが多い人だった」
私にとってそれは別に良いことでも悪いことでもなかった。
ただそういうものだったというだけの話だ。
私がそう言うと呉葉は立ち上がった。そうしてどこかに去っていこうとしながら口を開く。
「そうか。ならばお主にとって命とは軽いものにすぎぬのだな・・・ まあ良い。とりあえずは将棋の相手をしてもらった分だ」
そう言うと、呉葉は最後に何かを取り出した。
それをこちらの机の上に放っていく。それを最後に彼女は消えてしまった。闇が深くなっていく中でも彼女の頭にある角だけは不思議と強い存在感を放っていた。
彼女の気配が消えてから私は机の上に彼女が残していったものを見た。それは見慣れた巻物だった。開くと中にはさきほどまで写経していた内容が書かれている。それはそれは見事な筆使いだった。
今の自分では及ぶべくもない見事なものがそこにはあった。
「鬼を名乗りながらこれほど見事な経典を書くとはな」
私は初めて呉葉に興味が湧いている自分に気づいていた。
先ほどの将棋のせいか、頭が覚醒していた私はまだ寝ようとは思わなかった。だから近くに置かれている切燈台に灯をともすと写経を続けた。
やはり自分が映している内容の意味するところはよく分からない。
だが、それでも何かをしていたいというような変な感覚が自分の中に湧き上がっていた。焦燥感とも恐慌とも違うその感覚は先ほどまでは自分の中に存在していなかった思いだった。
その翌日のことだった。
私は背後の庭に誰かが訪れているのを気配で感じていた。片方は一度感じたことのあるものだった。私を助けた平宗清のもの。だがもう一つは知らない気配だった。
こちらに近づこうともせずに何やら語り合っている。
何の話をしているかは知らなかったが、私は写経と読経を続けることにした。
昨日は確かに色々あったが、もうあの鬼は帰ったのだ。今日はいつも通りにするべきこともなければしたいこともない日々である。
そうしているうちに庭にいた二つの気配も消えていき、そしてまた平穏が戻る。
それからしばらくして食事と共に五日後に平清盛の元へと連行されることが告げられた。どうやらその日が最期ということらしい。
別に伸ばされたところで状況が良くなるわけでもない。私は特に絶望も悲しみもしなかった。
だが、夜が近づいてくるとまたあの鬼は現れた。
「また一日暇にしておったか? 右兵衛佐頼朝殿」
「また来たのか? 他にもう少し面白い者はいるだろうに」
「今の京にお主以上に面白い者はなかなかいないと思うがの。何せお主以外に敗者らしい敗者はおらん。皆物言わぬ骸となってしまったからの」
「そうか。なら精々楽しむことだ。そう先は長くないだろうからな」
私は写経を続けながら言った。
すると呉葉は少し面白がるような口調になりながら言った。
「明日、平清盛の元に呼び出されるのだったか。お主今日不審な気配がありはしなかったか?」
私は少しふざけて言った。
「今目の前に」
「儂をからかっておるのか? 度胸は十分と見える」
呉葉の方もやはり楽しそうに返す。
もちろん私は呉葉の言いたいことは分かっていた。今日感じた庭の気配。おそらくそのことだろう。
「冗談だ。もちろん分かっている。今日庭に二人ほど気配があった。片方は平宗清のものだったが、もう一人は知らない者だった。それのことか?」
「ああ、それのことじゃ。別に隠すことでもないからの、言っておくとそれは池禅尼。平清盛の義理の母じゃ」
「清盛の義理の母だと? なぜそのような者がここに来る?」
「気になるか? まあ、それはそのうち分かるだろうから、儂から言うつもりはないがな」
明日といえば清盛の前に引っ立てられる日である。
それが何を意味しているのか。私には全く分からなかった。
「そうか。それはまた。お前にも色々と伏線はあるという訳か」
「まあ、そういうことじゃ。さて、それでは今日はこれの相手をしてもらうとしようかの」
言いながら今日の呉葉が取り出したのは双六だった。
最近貴族の間で流行っていると聞いていたが、一体どこから手に入れてくるのか。
相変わらず入手経路不明のそれで私は呉葉の相手をすることにした。
そして翌日。予告された通りに私の元に迎えがやってきた。
私は言われるがままに清盛の前に引き出される。
そして私が床に腰を下ろすと、目の前の上座に一人の男が現れた。大宰大弐清盛、先日の戦場で響き渡った声が頭の中によみがえる。
現在の平家の棟梁にして、今や日の本一の軍事力を統率する存在。平清盛その人に間違いなかった。
私が正面を見つめると、清盛の視線がこちらを迎えていた。
そのまま両者何も口にすることなく、視線が激突する。それは一瞬のことであるようにも、一時間のことであるようにも思われた。
(これが、平清盛。父を破った平家の棟梁か。そして私の死を決めるであろう存在)
私は目の前の存在の器の大きさに圧倒されていた。だというのに、何故かたじろぎはしなかったのだ。
そして相手もこちらが圧に負けるのを待っているように見えた。だが、私も視線を逸らすことはしない。まっすぐに向き合う。
そして最初に口を開いたのは清盛であった。
「なるほど。そなたが義朝が三男の頼朝か。父とは随分違う目をしている」
「・・・」
「そなたの父は武士の眼をしていた。意地を大切とする武人の眼だ。だというのにそなたの眼には熱がない。透き通ったような目をしておる」
「・・・」
私は沈黙を守った。目だけはそらさなかったが。
周りにいる清盛の一族や郎党の者たちが緊張にあてられてか、動揺している空気が伝わっていた。だが、清盛はそれに構う様子もない。
言葉を続けた。
「答えぬか。まるで早く死を言い渡せとでも言わんばかりだな」
「その覚悟を持って来たつもりだ」
私はただ一言そう告げた。
周りに衝撃が走るのが分かる。そしてそれを確かめるかのように一瞬の間があった。
それが静まるのを待ってから清盛は周りに向かって言った。
「今の言葉。皆は聞いたか? さすがは嫡男として育てられただけのことはある。これは私もこの覚悟に報いなければなるまい」
その意味するところは明らかだった。
私は向き合って清盛の言葉を待つ。
「源義朝が三男頼朝は死罪。執行は二月十三日とする」
清盛はそう告げた。私は目をつぶりそして離席の備えをした。
だが、清盛はそれで止めなかった。
「の予定であった。だが、減刑とする。頼朝は伊豆へ配流。監視役に北条時政と伊藤祐親を付ける。そなたが今示した資質。それを持つそなたの服従をもって平家の繁栄を知らしめるがよかろう」
今まであてどなくさ迷っていた動揺が一気に噴出したのが分かった。
だが表向きは誰も反応を示さなかった。
まさか敵の総大将の嫡男の前で、棟梁に反論などできるはずがない。だが、私が消えた後に議論百出となるのは間違いないように思われた。
私は頭を下げたりはしなかった。
そのまま立ち上がると離席する。
そして半分呆然としたような心持で宗清の屋敷に戻った。
先ほどまで写経をしてきた机の前に座り、私はようやく状況を整理し始めた。
伊豆へ配流? どういうことだ?
これは命が助かったということなのか?
ならば何故生かされた? 自分を生かしておいても危険なだけではないか。
「何故、などということを考えているのか? 頼朝よ」
ある意味予想通りの登場だった。
声のある方を見るとそこにはいつも通りの笑みを浮かべながら呉葉が立っている。
「呉葉。お前が何かしたのか?」
私は思わずそう聞いてしまった。
鬼相手に動揺を隠そうともせず、ただ混乱したまま言葉をぶつけていた。
だが、呉葉の方はそれを平然と受け止める。
「ふむ。何もしなかったといえば嘘になる。だが、直接お主を助けたのは昨日言った池禅尼じゃよ。お主の姿が死んだ息子に似ているとお主の助命を清盛に懇願したのだ。聞き入れられないとなると断食までしてな。義理の母にそこまでされては清盛も首を横には振りにくかろう」
呉葉はいつもそうであるように笑みを見せている。
私は何をしなかったわけではないという言葉を聞き逃しはしなかった。
「お前。池禅尼殿に何をした?」
「いや。何。少しお主の見え方を変えたのと、後は清盛が頼みを無視したときにちょっと呪詛をかけたまで、傍から見れば断食しているようにも見えたかもしれんの」
「っ」
何故か怒りが湧いてきた。
冷静に考えれば今怒る理由などない。鬼が人に呪詛をかけた。確かにそれは大事かもしれないが、怒りを向けるべき出来後でないのは明らかだった。
そしてそれを肯定するように呉葉は口を開く。
「そう怒るな。お陰でお主の命は助かったのだ。池禅尼にもそれ以上の害は及ばしておらぬ」
私は冷静になるのに少し時間をかけなければならなかった。
そしてそれからまだ居座っている呉葉に問うた。
「何が狙いなのだ? 生かしたところで郎党も持たぬ身。何もできはしない」
だが呉葉ははぐらかすようにした。
「それは今のお主には理解できぬだろう。させようとも思わん。まあ、お主は父のように命の使い方を誤らないと信じておるがな」
それは生き延びろということか。生き延びて源氏を再興しろと。
だが、そんなことをして鬼に何の得がある?
思い浮かぶのは一つしかなかった。
「私はお前の傀儡にはならんぞ」
だがそれは呉葉によって一言で否定されてしまった。
「そのようなつまらぬことも期待してはおらん。人の子など操って何になる?」
そう言うと呉葉は立ち上がった。
そしてこちらにいつぞや見た木太刀を投げてよこした。からんと音を立ててそれが転がる。それは立ち上がったこちらの足まで滑ってくるとそこで止まった。
「受け取れ」
「木太刀?」
「そうだ。お主の父が最期の時に欲した木太刀だ。そしてその木太刀はな、ただの木太刀ではない。儂の霊力が宿っているとでもいうべきか。まあ一言で言うなら儂を切れる刀という訳だ」
「何のつもりだ?」
「もちろん儂にはお主の命を奪う手段がある。互いが相手を切れる武器を持っている訳だ。さてこの状況で武士と妖が向き合っている今、起きることは一つしかあるまい」
私は刀を手に取ることはしなかった。それをせずにただ呉葉に向き合う。
「ほう。手に取らぬか。だがな。それでも儂の行動は変わらぬぞ」
その言葉と共に呉葉が動いた。
角が伸び、手の爪の長さが変化していく。そこに居たのはいつの間にか少女から鬼へと姿を変えた呉葉の姿だった。
そしてその影は飛び上がるとこちらに向かってくる。私は避けたりしなかった。瞬間、胸のあたりに熱い感触が湧き上がる。
爪がこちらの心臓を狙った。そのことはすぐに分かった。
「まだ抵抗せぬのか?」
「・・・」
「そうか。ならばもう少し本気になる必要があるようだの」
その声と共に一度引いた呉葉はまた構えの姿勢を取った。そして一直線にこちらに向かってくる。
掛け声などはなかった。ただ爪を振り上げ襲ってくる。今度は本気に違いなかった。避けなければ死ぬ。相手が纏う殺気の強さがそれを語っていた。
先日の六条河原を思い出す。あそこでただ一つ挙げた戦功らしい戦功。その時に相手が向けてきた殺気の感触を思い出す。
私は目をつぶった。より鮮明に殺気が向かってくるのを感じる。どうするべきなのか。避けなければ死ぬことは分かっている。だが私は迷っていた。
(果たして生きることに意味など残されているのか?)
まるで時が止まったかのような感覚だった。殺気が迫ってくるのがひしひしと伝わってくるのにその速度は酷く遅い。目を開けば呉葉の振り上げた爪が迫ってくるのが間延びしたかのように見えることだろう。
そして、
バキッ
何かが割れる音がした。
それで私は初めて目を開く。その時視界に映ったのは笑みを浮かべる呉葉とその爪に砕かれた床と、そして一歩引いてその一撃を避けた私の足だった。
直撃を受けた床の木片が舞い上がる。それが一つ頬を掠った。鋭い淵が私の頬から一筋の血を流させる。
「ほお。避けたか。だが、避けるだけではしのぎ切れんぞ」
床を叩き割った時には呉葉は既に次の行動に移っていた。振り下ろした右手と違いまだ空いている左手を突きだす。
私の身体はまた勝手に避けていた。
「また避けたか。お主、勘が鋭いではないか。仮にも鬼の一撃を見切るとはな」
「なぜこのようなことをする?」
「答えよというならば答えよう。面白いから故よ。こちらの方がな。さあ儂をもっと楽しませるがよい!」
私は自分がさっきまで座っていたところへ目を向けた。そこにはさきほど呉葉がよこした木太刀が転がっている。呉葉は面白いと言った。なればこそあの木太刀の効果は本物だろう。だが、
「私は父とは違う! ただ自分がために武士としての死ぬことなど望まぬ!」
「なればこそ木太刀は要らぬという訳か。愚かなことを」
そう言うと呉葉再びこちらに向き合った
「お主は大きな勘違いをしているのではないか? お主の父の愚者たる由縁は武士としての死を望んだことなどではない」
呉葉が踏み込んだ。今度の回避は間に合わない。呉葉の足がこちらのわき腹に直撃した。体が浮き上がる感覚があって、そのまま部屋の中を私の体躯は転がっていった。
「それが分からぬというならそなたも父と同じ。知恵があっても所詮は変わらぬ。今を生き延びたところで先は長くあるまい」
私はわき腹を押さえながら呉葉の方を見た。視界が少し霞んでいる。幼い頃から武術を叩きこまれた体は自然に受け身の姿勢を取っていた。今確認できる限りでも何かまずい動きをした雰囲気はない。
(だというのに一撃でこの威力か。全く鬼というのもあながち嘘ではないのかもな)
そんなある種傍観したような思考ばかりが頭の中をぐるぐると回った。
「先は長くない、か。ならばお前が私を殺すのか? 清盛の代わりに」
すると呉葉は呆れたかのように言った。
「何か勘違いしているのではないか? 鬼とて生きる気のない者を殺してやるほど暇ではない。そんなに殺してほしいのならばそこの木太刀を取ってみよ。生にせよ死にせよ望むならば勝ち取るものだ」
言いながら呉葉は先ほど私に向かって放ってよこした木太刀を再びこちらに投げた。それはちょうど私の手の前で動きを止める。木太刀は微妙に拍動しているように見えた。
「どうあっても私を戦わせたいのか。呉葉」
「そうでなければつまらぬと言っておるのだよ」
私は木太刀を手に取った。それを見てようやく呉葉の口元にいつもの笑みの片鱗が現れる。余裕を見せつけるかのような動きだったが、同時に隙らしい隙はなかった。
冷静に呉葉の姿を見れば少なくとも見た目においてはこちらが体格に勝る。だからといって鍔迫り合いで押し勝てるとは思わないが、先日のような自分より大きな者しかいない戦場とは何もかもが違った。
私は木太刀を手にとっても自ら攻めに行くようなことはしなかった。相手に脅威を与える武器がこの手にある。それだけでどこかに冷静になっている自分がいた。
少なくとも六条河原では生き延びようと戦っていた。そんなもう消え去ったと思っていた自分が過去から憑依してきたかのような気分だった。
それを見て呉葉は笑みを深くする。その顔は見ているこちらがはっとしてしまうくらいに生気に満ちていた。
「やはり攻めては来ぬか。ではこちらから行くとしよう」
その言葉と共に呉葉が再び動いた。手に伸びた爪を振りかぶりながら距離を詰めてくる。
(正面から受け止めたらこちらが押し負ける)
自然に足が動く。幾度となく郎党や父から叩きこまれてきたものが私の動きを決めていた。まるで自分の身体が自分のものではないような気がした。だが、同時にこれまでで一番自分の身体を自由に操っているという感覚もあった。
血が騒ぐ。そんな表現が似合ってしまっていた。
(結局、私も武士なのだな。父や兄と同じように)
一撃目は避ける、そして二撃目までの間に生じるはずのわずかな隙。そこを攻める。
自然に下げた左足。直後にさっきまで足があった位置を呉葉の一撃がえぐっていく。そして勢いを殺しながら、次の一撃に入ろうとした呉葉の正面。
私は声を上げるようなことはしなかった。これが今の私の紛れもない全身全霊の一撃。
だが、鬼がそれを上回るは必然。面白いというならば、呉葉はその愉悦のままに自分の身を貫く一撃を放つだろう。
(さあ、これを上回って見せるが良い! 呉葉!)
ピシッ
何かが張り詰めるような音がした。
私は自分の構えた木太刀の先を見る。それは呉葉に至る直前で止まっていた。無論私が寸止めなどという気の利いたことをしたのではない。こちらの身体が止まったのだ。まるで金縛りように。
「見事な動きだ。さすがは源氏が嫡男。あの経基の系譜に連なるものであるだけのことはある」
こちらは動けない。話すことすらできなかった。金縛りはあらゆる動きを制止していて指先一つ動かすことはできなかった。
そして呉葉は首筋に木太刀が迫った状態のまま、恐れもせずに言葉を続ける。
「だが、まだまだじゃな。武術の鍛錬は出来ていても魂の方が追いついておらぬ。だが、このまま鍛錬を積めば、かの基経が垣間見た階梯に至ることもできよう」
言いながら呉葉立ち上がった。その動きにもはや殺気は伴っていない。その表情にはただ満足したとでも言うべき笑みが浮かんでいた。
「此度はこれで終いじゃ。将来の楽しみの芽を摘むわけにもいかんからな。その木太刀は儂を楽しませた褒美。受け取っておくが良い」
その言葉と共に金縛りが解ける。そのまま私の木太刀は空しく宙を切った。
「呉葉!」
私は立ち上がった。
だが、その頃には呉葉は立ち去っている。
残されたのはまるで写経でもして心を落ち着けよと言わんばかりに灯された切燈台とそして私の手に残された木太刀だけだった。
翌朝、布団から起き上がった私はいつの間に眠りこけていたのだろうと周囲を見回した。だが、そこで気づく。
(床に何も起きていない。それにあれだけ物音を立てたはずなのに屋敷の者がやってきた様子もない)
私は部屋の中を歩き回ったりして床を確認した。だが、どこを探しても床には傷一つない。昨日の戦闘などなかったかのようだった。だが、私は起きるのと同時に自分の手に木太刀が握られていたことも忘れてはいなかった。
昨日のことは夢かそれとも現か。
私は呉葉の言葉を思い出しながら、その場に座り込んだ。
だが、不思議と昨日清盛の流罪を言い渡されたときの戸惑いのようなものはどこかへ姿を消していた。
そしてそれから一月ほど経って、私も伊豆へ移動をする日が近づいてきた。
監視兼護衛の武士たちに囲まれて都から出て行くことになるだろう。その武士たちを率いるのは難波経房という平家の郎党だった。兄の源義平の首をはねた者らしいというのは風の噂に聞いていた。
人々が私も兄のように斬られると噂しているのは聞いていた。だが、あの清盛がそのようなやり方をするとは思えなかった。斬るつもりならだまし討ちのような真似をする必要はない。堂々と死罪を言い渡せばいいのだ。
そうやって私が荷物をまとめているときのことだった。
ふと外の方が騒がしいことに気づいた。
人々が何となくざわついているのが分かる。そしてその雰囲気はつい先日も感じたものだった。人々が戦を警戒している。そのような雰囲気だった。
だが、源氏が敗れた今、この都の軍事は平家の一手にある。戦というのは分からなかった。
そうやって不穏な空気を感じながらも私は淡々と荷物の整理を進めていた。配流と決めた以上清盛としては私をさっさと厄介払いしたいに違いなかった。行き先への伊豆への通達とそこでの用意。それらを最短で済ましたからこそ一か月などという短期間での実行が可能となったのだ。そこまで急いでおきながら今さら延期になるとは思えなかった。
まあこちらとしても荷物が多い訳ではない。先祖代々の・・・という道具は大半が武具の類。持っていけるものはそう多くない。結局、荷物といっても例の木太刀と写経した経典くらい。それ以外の実務的なものは行き先で用意されているはずだった。
「ご出立の準備はいかがですかな?」
思ったより早く出立の準備を終え、中途半端に手持ち無沙汰となった私の元に平宗清が訪ねてきた。思えば私を捕えたのもこの宗清だが、今まで世話をしてくれたのも宗清なのだ。助命嘆願にも協力してくれたと聞いていた。
「これは宗清殿。出立の準備はこの通りつつがなく」
「そうですか。出立は明日でしたな。この屋敷も寂しくなる」
そう言った宗清は少し遠い目をした。
「宗清様には本当にお世話になり申した。まさか配流という形での出立になるとは思っておりませんでしたが、ここで受けた御恩は一生・・・」
だが宗清はそれを押し留めた。
「いや。私こそ感謝しているのですよ。あなたを捕えたときに思っていたのです。このような身で歴史の大事に関われたのは過ぎた誉れでございました」
後ろに手を組んで空を見上げながら宗清はそう言った。そこには皮肉などではない掛け値なしの本音が感じられた。
「歴史の大事とは。私はこれより伊豆にてひっそりと朽ちて行く身です」
私は正座のまま宗清に顔を向けて言った。
すると宗清は本当に何となくという様子で平家の者らしからぬことを口にした。
「あなたがそう思っていてくださるのは平家の者としては良いことなのでしょうな。ですが、おそらくあなたがどのような生涯を過ごすかは今後の我ら平家の行いが決めること。我らに驕りがあれば必然あなたの生も変わっていくでしょう」
「・・・」
それは危険な言葉だった。
だがそれを口にする宗清にこちらを窺うような様子はない。ただ独り言をつぶやいているだけという様子だった。
沈黙が降りたのを察して宗清ははっとしたようになる。
「これは失礼しました。困らせるようなことを言ってしまいましたな。いえ、また僧兵どもが強訴するかもしれぬという雰囲気でしてな。身を引き締める思いなのでございます」
「強訴? また比叡山の僧兵でしょうか?」
最近は源平の争いに気を取られていたが、確かに寺社の僧兵というのは一大軍事勢力だった。特に比叡山延暦寺などは京に近いこともあって、何か要求がある度に京の都に押しかけてくる。
平家にとってもそしてもちろん源氏にとっても最も警戒すべき相手の一人だった。
「はい。思えば平家にせよ源氏にせよ武士が力を持ったのは、朝廷が寺社の強訴に対抗するための武力を求めたが故。結局今も武士という在り方は何も変わってはいないということを思い出してしまったのですよ」
宗清はまた遠い目をしていた。私にとってはあまり実感のない話だった。だが、宗清のような者からすれば武士が朝廷の道具の一つとしてのし上がっていた時期はそう遠い昔の話ではないのかもしれなかった。
私も呟いていた。
「この度の争乱にしても本質は朝廷内での権力争いだったのですから。武士は結局その道具でしかなかった。武士が道具としてではなく自分のために戦えるような時代を見ることはできればよいのですが」
私の言葉に宗清は頷くようにした。
「そうですな。そのような時代が来ればどんなにいいか」
結局私も宗清も源氏や平氏である前に武士なのだ。朝廷や寺社やその他の力の衝突に巻き込まれて血を流す哀れな存在。今の武士とはそういう存在でしかない。
そして宗清は改めてこちらに顔を向けると口を開いた。
「これは失礼。長話になってしまいましたな」
それを最後に宗清は去っていく。私は深々と頭を下げた。おそらくこれが宗清と話す最後の機会だったであろうことは分かっていた。
結局あの日以来、呉葉がやってくることはなかった。あれだけ色々なことをしておきながら音沙汰一つない。
呉葉にはとうとう会わぬまま私は宗清の屋敷から出ることになった。最後に挨拶をすますと護衛に囲まれて京の都を出立する。
私はまず山城の国から出て東の近江の国に向かうことになった。そこから先は美濃、尾張、三河、遠江、駿河、伊豆へと向かうことになるだろう。
私が囚われた美濃に戻り、父の討たれた尾張を通っていくというのは皮肉なのかもしれないが、私にそのような感傷はなかった。
馬に乗り少しずつ東へと向かっていく。
だが、一つ気がかりなこともあった。例の強訴である。初日はそう長くは移動できない。おそらく大津辺りで止めることになるだろうが、それは延暦寺のお膝元である。
だが、予定通り出立は行われ、そして一日目は大津に泊まることになった。
近江の国といえば琵琶湖の誇る絶景がある。
一日目の宿は景色で有名だということだった。果たして同行している者たちに景色を楽しむような余裕があるのかは疑問だったが、少なくとも私は楽しめるうちに楽しんでおこうと腹をくくっていた。どの道じたばたしても仕方がないのだ。
私は宿から琵琶湖を眺めた。もう時刻は夜になっていたから湖といってもどす黒い底なし沼のようにも見える。それを和らげているのは夜空に浮かぶ月だった。
風もなく波風一つ立っていない水面には月が美しく反射されている。
京の都からは決して見えることのない景色を前にして、ようやく私が生きて都から出たことを実感することになった。
「まさかこのようにのんびりと景色を眺める日が来るとはな」
私は縁側から足を出し、あてどなくぶらぶらさせた。
鬼も来ることはもうなく、世は平家全盛の時代。何故か生き残ってしまった身だが、もう後は静かに生きていくだけとなるだろう。清盛が言っていた「そなたの服従をもって平家の繁栄を知らしめるがよかろう」という言葉。源氏の嫡男としては受け入れがたい言葉なのかもしれなかったが、それも別に良いと思っていた。
別にこの日の本から源氏家系の武士全てが消されたわけではない。生き残ることが許されたというなら、精々身の丈に合う生き方をすればよいというだけの話だ。
(まあ、お主は父のように命の使い方を誤らないと信じておるがな)
呉葉の言葉がよみがえった。
私の中であの出来事は夢のようなものだと思っていた。あの時家の者にそれとなく尋ねてみたが、物音を聞いた者はいないというし、証拠の木太刀にしても怪しいものだ。父の最期が有名ならば、誰かがこっそりと置いていってくれたのかもしれない。尾張で父の供養に使うのも悪くはないだろう。
だが、あれが夢だったのかは別として、確かに私の中で何かが変わったのは間違いなかった。別に何か乱を起こして歴史に名を刻もうと思うのではない。失うと思っていた命を拾ってしまい、曇っていた眼が晴れた思いだという話だった。
「さて。今日はもう寝ることにしよう」
私はそう呟くと縁側から足をひっこめた。扉を閉めると切燈台の灯も吹き消した。
私のその言葉を受けて周りに立っていた武士たちの動きが変わるのも分かる。いくら監視役とは言っても彼らも眠らなくてはならない。もう寝るぞと知らせた方が彼らも動きやすいに決まっている。まあ、彼らとてこちらの言葉をそのまま信用するようなことはしないだろう。交代制で監視がつくのだろうが、それは仕方がない。
そうやって私は布団に入った。これからしばらく移動が続く。体は休ませておかなければならない。
そうやってうとうとし始めたときだった。部屋の外でバタリと何かが倒れるような音がした。それも一度や二度ではない。立て続けに何かが倒れる音がする。そしてその音は次第に近づいてくるように聞こえた。
私は身の危険を感じて、武器になるものを探した。そして都から持って来た例の木太刀を手に取る。他にある持ち物といえば経典くらいなのだ。
「何かあったのか?」
私は内側の廊下に繋がる方の扉を薄く開いた。後ろ手に木太刀も構えている。
だが、私の声に返事はなかった。誰かが動く様子もない。それで私はもう少し大きく扉を開けた。
すると足元からバタリとさきほどと同じ音がする。私はそれで目を凝らした。そこに倒れていたのはやはりというべきか都から私を監視してきた者の一人だった。
口元に手を近づけると空気が出入りしているのが分かる。ただ眠っているだけのようだった。だが、移動初日から監視が寝ているなど考えられなかった。
しかもその者は私の声を聞いても相変わらず寝ている。尋常な眠り方ではなかった。
(眠らされているのか・・・)
そこに小さく声が響く。
「そこにいらっしゃるのは頼朝様か?」
言いながら近づいてきたのは影のようなものに覆われてよく見えない男だった。隠密行動のためか暗い色の布を被っている。
「何者か?」
「佐々木秀義の郎党にございます。六条河原より逃れて潜伏しておりました。折に触れ頼朝様がいらっしゃると聞きまして。お救いに参上いたしました」
佐々木と言えば近江に拠点を置く源氏の一族だ。確かに今回の戦いでも参戦していた。確かに佐々木の者であればこの辺りに潜伏していてもおかしなことはない。
「救いに?」
「そうでございます。監視の者は皆薬で眠らせております。今ならば逃げ出すのは容易でございましょう。ささ。今のうちに」
私は足元に転がっている監視役の者の姿を確認した。その眠りこけている姿は無防備で確かに演技のようには見えない。他の者たちも同じ状態なら確かに逃げ出すのは容易だろう。
だが、逃げ出してどうなる?
そこまで考えて私の頭に浮かんだのはそんな疑問だった。
仮にここを逃げ出すのが上手くいったとしても、明日の朝にはばれてしまうことだろう。そうなればその日の内に追手が放たれることになる。逃げ切るのは至難の業に違いない。そして捕まれば今度こそ命はない。
それに逃げ出して行く宛てがあるわけではないのだ。主だった郎党は討たれ、残っているのは父を討ったような信用できぬ者ばかり。それに今は平家全盛の世なのだ。戦ったところで勝ち目はないだろう。
「いや。私はここに残ろう。そなたはここを去れ。今なら何もなかったことにできる。初日からそろいもそろって眠りこけていたなど報告されるはずがないからな。私が無事に囚われていればそれでお前の存在が表に出ることはない」
「何故でございます? このような好機。そう何度も訪れるものではありませんぞ」
「好機? 何の好機だ? 棟梁である父が討たれた今、逃げたところで潜伏場所もなければ兵も集まるまい。再び捕らえられ今度こそ首をはねられるのが落ちだ」
だが相手はなおも食い下がった。
「これから延暦寺の強訴が起きます。その機に乗じれば追手をまくこともできましょう」
それで私は京で宗清が言っていたことを思い出した。思ったよりも早く事は起こっているらしい。
「延暦寺が動いているのか?」
「は。今眠らせた者たちは朝まで眠っておりましょう。頼朝様がいないことに気づいたときには、延暦寺の神輿が街道を封鎖しております」
寺社の神輿というのは寺にゆかりのある者でなければ触れてはならない決まりとなっている。それを街道や都の道に置かれてしまうとそれがいくら交通の邪魔になっても動かすことができないのだ。
寺の強訴というのはしばしばそれを利用して行われる。
確かにそれで街道が封鎖されれば追手も全速力でこちらを追うことは難しくなる。
部屋に差し込む月明かりが扉の隙間から廊下へと伸びていた。わずかに漏れるその光が監視役の者の顔をうっすらと照らし出していた。何度確認しても、その顔には一切の緊張というものがない。完全に力が抜けてしまっていた。
廊下に漏れる光が照らし出す中にも動くものの気配はない。
私はしばらく廊下を確認すると心を決めた。
「そうか。少し待っておれ。一つ持っておきたいものがある」
「なるべくお急ぎを」
「分かっている」
私は扉を閉じた。そして一度目をつむる。それから深く息を吸い込んだ。そして今度はそれを吐き出す。
持ち出す物などありはしなかった。だが、それでも持ち出す物があると言ったのは呼吸を整えるためだった。
「待たせたな」
私は扉を開けるとそう言った。
扉の外で待っていた者はそれを聞いて頷くと先導していく。そして私の手の木太刀を見ると口を開いた。
「それが探していたものでございますか?」
「父義朝の最期は知っておろう」
すると相手は納得したように頷いた。静かに廊下を進んでいく。歩みを進めるたびに床が軋む音がしたが、やはり起きてくる者はいなかった。
眠らせているのは本当らしい。
私は先導する黒い影に向かって口を開いた。
「それにしても、近江源氏にこのような術を持つ者がいたとはな。知らなかったぞ」
「このような時にしか用いない術ゆえ、内密になっていたのです」
「なるほど。だがな、まさか月明かりに照らされても影を出さぬ術があるとはな」
「え?」
その瞬間だった。私は手に持った木太刀を高く振り上げた。それを一直線に前を歩く影へと振り下ろす。木太刀は驚くほどあっさりと相手を貫いた。
いやむしろ、何も貫いていないという表現の方が正しかったかもしれない。木太刀の振るわれた空間には生身の肉体など存在していなかった。
だが、それでも木太刀は生身の人間とは違う何かを確かに貫いていた。
「その木太刀。ただの木太刀ではありませんな。なるほど。これは一本取られましたぞ」
黒い影はこちらに振り返りながら言った。
「妖ではないな。式神か、それとも幻術の類か」
「それ以上は口になさらない方がよろしいかと存じますが」
影はそう言うと急速に気配を薄くさせていった。少しずつ透けていくと段々と消えていく。そして終いには跡形もなく消え去ってしまった。
何者が自分を連れ去ろうとしたのか。それは分からなかった。だが妖でないならば、それは人の行いということである。
式神ならば陰陽師か。陰陽師を使うということは朝廷の手引きがあったということ。幻術ならば寺社の仕業の可能性すらある。疑いだせばきりが無いが、その候補の誰もが危険極まりな相手だった。
「なるほど。どうやら伊豆に至るのも簡単ではないらしい。さて、清盛はどこまで読んでいるのか」
答える者はない。だが、源平の合戦が終わった今、別の何かが動き始めているのは間違いなかった。
翌日布団から起き上がった私は外が騒がしいことに気づいた。昨日は寝むりこけていた監視役の者たちもどこか慌ただしい。
「出立の刻限はいつだ?」
そう聞いた私に外に立っていた監視役の者の返事は鈍かった。
「少しお待ちください」
護衛の統率をする難波経房がやってきたのは、それからしばらく経ってからのことだった。彼が言うには既に大津は延暦寺の僧兵五千によって溢れていて、移動できる状態ではなくなったということだった。
既に京と大津の境では僧兵と平家方の軍勢がにらみ合っているということである。
先の平治の乱集結からまだ一月程度。また新たな争いの足音がし始めていた。
(それも私が大津に移動した瞬間に事が起こるとは。偶然にしては出来過ぎているか)
私は生涯隠居生活となる覚悟を持って配流を受け入れた。だが、少なくとももうしばらくはそういう訳にはいかないらしかった。