表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

第5話 志摩の神珠〜伝奇『影流』〜後編

作者: 目賀見勝利

短編小説の文字数が6万字を超えたので、前編、後編に別けて投稿しました。本邦初公開の新作をお楽しみください。そして、日本国土の真実に触れてみてください。

          《 志摩の神珠 〜伝奇『影流』〜 》

        後編


      

 影流21

京都市左京区修学院近く 藤原教授邸;2月26日(火)午後1時半ころ


JR参宮線二見浦駅から伊勢市駅に出て、近鉄線に乗り換え、太郎が近鉄京都駅についたのは正午ころであった。キャスター付きの旅行バッグを今日の宿泊先である駅前の京都Tホテルフロントに預け、地下街で昼食を取った後、駅前からタクシーで修学院前まで来たのが午後1時半前であった。


D大学神学部も春休みに入り、授業もないので自宅で4年生の卒業論文に目を通していた藤原教授が大和太郎を応接室に迎えた。

「やあ。いらっしゃい。早速だけど、行方不明者の捜索の進展状況を教えてください。大いに興味がありますよ、今回の事件は。」

「まだ、鹿児島と伊勢志摩にしか行っていませんが、かなりの情報を得ました。鹿児島の住吉山と云う所に住吉神社があり、その山頂に磐座いわくらがありました。その地で愛洲移香斉という剣客が住吉と云う人物と試合したことになっています。」と太郎が言った。

「知っていますよ。確か、宮崎県日向の鵜戸神宮に行く前に京都でも住吉と云う人物と試合して負けているのでしたね、その剣客は。」

「そうです。よく御存じですね。」

「影流の創始者ということで以前どこかで聞いたことがあります。ところで、その住吉山も京都にもありますよ、大和くん。」

「京都にもありますか、住吉が?」

「ああ。右京区御室おむろの仁和寺の北側に住吉山町がある。たぶん、この近くに、住吉なる人物が住んでいたのだろう。しかし、ここで云う住吉とは、人物名ではなく家系の姓を意味していると考えるのが正しい解釈だろう。鹿児島の住吉なる家系と京都の住吉の家系は同一と思われるね。住吉は海神を祀る住吉大社でもわかるように、海人族あまぞくの系統と考えていいだろう。内陸にある京都に何故に海人が住んでいたのかと思うかもしれないが、神武東征のころは、大阪湾、いや当時は茅沼の海と呼んでいたかもしれないが、海は現在の木津川や桂川まで来ていたのだよ。だから、海人族が住んでいた可能性は十分ある訳です。」と教授が言った。

「愛洲一族は志摩地方の豪族ですが、九鬼水軍の一員であった可能性もあるらしいです。」

「そうすると、倭寇(海賊)や貿易商人として東南アジアや中国の近海にも出没している可能性がある訳だね。」

「そうです。中国に影流の指南書が残されていますから、倭寇か、誰か剣術家が持ち込んだと考えられます。移香斉が中国・明の皇帝の前で影流の演武を披露した記録が残っていると薩摩直伝神厳流の住吉館長が申されていました。また、移香斉の子息は平沢と姓をかえて下総(現在の茨城県、千葉県)の佐竹氏の家臣として仕えています。ですから、佐竹や住吉という人物もある意味で同族の親類と云うことになるのではないでしょうか。すなわち香取神宮や鹿島神宮は海神系の神社ではないかと。」と太郎が言った。

「それはあるね。以前、藤原鎌足の足跡を追って香取神宮に調査で参拝したあと、宝物館に寄ってみると海獣鏡という古代の鏡が展示してあった。香取神宮の神職関係の家に保存されていた宝物らしい。鹿島神宮は祭神が建御雷神で雷は雨乞いの龍神を連想させるね。龍は海辺に住むとも謂われているからね。」と教授が言った。


「龍で思い出しました。教授の講義で旧約聖書・ヨブ記に出てくる『リバイアサン』の話がありましたよね。」

「神が創造したリバイアサンは龍の原型で、中国や日本で現在のイメージが定着したと言える。海の怪獣とされるのはユダヤ教の教典に表記されてからだね。リバイアサンが出てくると思いだすのが『ベヒモス』と『ジズ』と言われる怪物だね。はじめ、ベヒモスはリバイアサンと海に住んでいたらしいが、2匹が同時に海に入ると海水が陸に溢れるので、神はベヒモスだけを陸に揚げた。犀や牛、カバを大きくしたような両生類をイメージさせるらしいが、私は両生類の亀を思い起こす。ジズはユダヤ教の伝説に出てくる巨大な怪鳥で太陽を覆い尽くす大きさだと言われているが、私はこの鳥に鶴をイメージするんだ。」

「鶴と亀ですか?何か意味深長ですね。」と太郎が訊いた。

「大和君はカゴメ遊びで歌う『かごめ歌』を知っていますか?私が子供のころは、自宅の近くの広場や空き地で近所の子供たちとよくカゴメ遊びをしましたよ。」

「『♪かあごめ、かごめ、かごの中の鳥は、何時いついつ出やある、夜明けの晩に、鶴と亀がすーべった、後ろの正面だあーれ?♪』と云う、あれですか。」と太郎が言った。

「そう、その歌です。この歌は、江戸時代中期には既に存在していたようですが、発祥年代や発祥地が良くわかっていません。この歌の、夜明けの晩と云うフレーズの意味が、聖書で言う審判の時、最後の時を意味しているとすれば、鶴と亀の意味が重要に成ってくるのですよ。ユダヤ教の伝説では、世界最後の時、ベヒモス、ジズ、リバイアサンが食糧として食卓に並べられることに成っています。両生類のベヒモスが亀、怪鳥ジズが鶴とすると、かごめ歌には登場しないリバイアサンである龍はどのような役割なのか?そして、エレミヤの予言では、終わりの時、モーゼの十戒が書かれた石板の入っている『契約の箱』の在り処が神によって示される。かごの中の鳥とは、どこかの部屋か穴に隠されている契約の箱の蓋に飾られている羽を合わせた二匹のケルビムの事だとすれば、かごめ歌の意味が見えてくるのだよ。」と考え深い表情で藤原教授が言った。

「龍の役割ですか?そして二匹の鳥、ケルビムですか?」と太郎が訊いた。

「六角形をしたカゴメ紋の国がユダヤ人の国イスラエル。大きく羽を広げている鳳のような本州島を持つ日本が鶴。龍の住む国と云われている中国。この三国が世界最後の時、大きく動くとする予言がカゴメ歌とユダヤ伝説であるとするならば、と云う仮定の話だがね。」

「そういえば、倭姫伝説では、垂仁天皇27年秋に稲穂を加えている真名鶴が稲穂の神である大歳神を祀る志摩の佐美長神社近くで発見されたのが日本での稲作の発祥とされていますね。千秋長五百秋之水穂ちあきながいほあきのみずほの国、日本の始まりですね。倭姫の指示で大幡主命おおはたぬしが稲穂の存在を確認したことになっています。そして、志摩の海の王様である大幡主おおはたぬしの娘が乙姫で、清酒を稲から造った姫神。大幡とは大海と云う意味です。大幡主は乙姫の父親だから竜宮の王様ですね。」と太郎が言った。

「なるほど。やはり、鶴は日本国を意味する可能性があるね。それから、六角形をした六芒星のカゴメ紋が伊勢神宮の奥宮である志摩の伊雑宮の神紋であるという人もいますね。私は確認していないので事実かどうか疑問に思っています。五角形をした五芒星のカゴメ紋の間違いではないかと思うのだが。五芒星のカゴメ紋なら伊勢志摩地域の海女が海に潜るときの魔除けのお守りとして呪文を唱えるときに利用していたからね。かの陰陽師・阿部清明の家紋でもあるが。」と教授が言い直した。

「佐美長神社はその伊雑宮から700mくらいの距離にあります。」と太郎が加えて言った。


「ところで、先日の電話で聞いた霧島神宮と富士山本宮浅間大社、鹿島神宮を結ぶ直線の件であるが、もう一つ判った事がります。この直線を霧島神宮から更に南シナ海に伸ばしていくと中国の海南島に到達します。そして、この海南島はベトナム領海のトンキン湾の入口に位置している。中国語のトンキンとは東京と書きます。最近では東京と混同を防ぐために中国では北部ペイプー湾と呼んでいるらしい。この海南島が古代の東京湾に浮かんでいた亀津島、あるいは亀の島と呼ばれた現在の亀戸地域に相当するとなると、藤原鎌足がこの地『亀の島』に香取神宮を勧請した意味がわかってくる。海南島の形を地図で見てみると頭を日本に向けている亀を真上から見た形に似ている。」

「それは、先生。大本教の教祖ひとりである出口王仁三郎が唱えた『日本の地形は世界の地形の縮図』説では、トンキン湾は正しく東京湾に相当する位置にあるのです。マレー半島が伊豆半島に相当します。私が昨日までいた三重県の鳥羽市は中東のドーハに当たります。」と太郎が付け加えて言った。

「藤原鎌足の出生地は千葉県木更津市にある高蔵寺・高倉観音近くと云う説がある。子宝に恵まれなかったこの地方の長官が観音様にお願いして生まれた娘が『鹿島に行って日天を拝め』と云う観音様の夢告に従って生まれた子が藤原鎌足であるらしい。鎌足が中臣の姓であることから、この娘は鹿島神宮で中臣姓の神官と結ばれたのであろう。したがって、中臣鎌足が神霊からの託宣を授かる人物、すなわちシャーマン(霊能者)と知り合いであった可能性がある。このシャーマンが亀津島に霊力ありと鎌足に進言して、香取神宮から経津主ふつぬし神を勧請したのだろう。」

「何ゆえに鹿島神宮の建御雷神ではなく、経津主神であったのでしょう?」

「香取神宮がある森は亀の形に似ており、『亀甲山』と呼ばれているから、亀の島にふさわしいと考えたのだろう。それと、すでに鹿島神宮は霧島から二見浦、富士、鹿島を結ぶ霊的ライン上にある事を知っていて、香取神宮の方がふさわしいと考えたのではないだろうか。この霊的ライン上に中国の海南島があることを知っていた可能性もあるね。と云うのは、神代文字で書かれた富士高天原の宮下文献の漢文訳をおこなった徐福は、中国の秦時代に大船団で日本に来ている。そして、この徐福という人物は神仙術士としての能力を持っていたと謂われている。神仙術士、すなわち霊能者であった可能性があり、霊ラインの存在を感じ取れる人物であったと考えられるのです。鎌足の知人のシャーマンも霊ラインを感じ取っていた可能性があるね。」と教授が言った。

「霊ラインを感じ取れる能力ですか?」

「うん。ある波長の微弱な電磁波を感じ取れる能力と言っていいでしょう。動物は火山噴火を事前に感じ取れる能力を持っています。これは、火山の火口付近から出ているある種の電磁波・地磁気の異常な増大を感じ取っていると考えられます。それで、噴火が近づくと、動物たちは事前に姿を消すのです。」と教授が言った。

「そういえば、爆発噴火直前の火口の映像を見たことがあります。一瞬、火口で雷のようなスパーク光を発した後、爆発噴火が起こっていました。霊能力とはある波長の電磁波・地磁気を感じ取れる能力ですか。なるほど。」と太郎が納得するように言った。

「その通りです。我々のような凡人は可視光線の波長をもつ電磁波を感じ取る目をもっていますが、霊能者や動物はまた違った波長の微弱な電磁波を感じ取れるようです。現在では脳波を感じ取れる電磁波測定器が出来ていますが、将来は霊能者や動物が感じ取っている電磁波を測定できる機械が発明され、それを映像化するための電磁波カメラや霊波カメラも発明されることでしょう。」


「それは楽しみですね、教授。しかし、海南島から鹿島神宮に至る霊ラインは何を意味しているのでしょうかね。」と太郎が言った。

「うん、何だろうね。古代はどうだったか知らないが、現在の海南島は金で作られた牛の像や金の観音像がある島として知られている。」

「金の牛像ですか、先生。」

「うん。モーゼの出エジプトの時代に、シナイ半島でユダヤの民が作った偶像・金の牛の事を思い出すね。しかし、霧島神宮から鹿島神宮を結ぶラインは『霊剣のライン』と云えるね。」

「霊剣ラインですか?」

「そうです。霊域を結ぶ霊力線のことを影向線ようごうせんと言いますが、この霊ラインはその影向線である可能性がありますね。霧島山頂の『天の逆矛』、鹿島神宮・香取神宮の『布都御霊剣ふつのみたまのつるぎ』、富士山本宮浅間大社の祭神は木花之佐久夜毘売命ですが、別名が『桜大刀自さくらだいとうじ神』です。千葉県の香取神宮境内にも末社として祀られていますよ。ところが、伊勢神宮の摂社である朝熊神社の祭神としての桜大刀自神は大歳神の子とされている。大歳神は稲穂の神様だから水田に関係がある。」

「なるほど、そうか。鹿島神宮、亀戸香取神社と富士山本宮浅間大社を結ぶライン上に皇居の桜田門が配置されている訳ですね。木花之佐久夜毘売は桜と田んぼの神様ですか。それでは、千葉県の香取神宮と亀戸香取神社を結ぶ直線上にある皇居・半蔵門の意味は何でしょうか?だれが桜田門や半蔵門の位置を決めたのでしょうか?」と太郎が訊いた。

「昨日の二見浦からの電話で話していた皇居と亀戸香取神社を結ぶラインが道路地図に残されていた件ですね。今日の午前中に調べて置きました。古代史学者が学問上の事を調査する場合、霊能者の経験を参考にして事実関係の証拠探しを行う事が時々あります。ある霊能者の話では服部半蔵は霊能者ではなかったか、と言っています。と云うのは、半蔵門から強力な霊波が出ており、山梨県の山中でも感じ取れるらしいのです。半蔵門を起点に江戸城・皇居にはなんらかの結界が構築されているらしいのです。太平洋戦争でも東京は焼土と化したが、皇居の中はほとんど無傷であったらしいのです。徳川家康に仕えた初代の服部半蔵は影向線を感じ取れる霊能者だったのでしょう。だから、桜田門や半蔵門をその位置に設置して江戸城の安泰を願ったのでしょう。特に、江戸から西にいる豊臣系の各藩主に対し半蔵自身が死後も見張るつもりで半蔵門を造ったのではないでしょうか。香取神宮、亀戸香取神社から半蔵門を結ぶ直線を西に延長していくと三重県の名張市に到達します。名張は飛鳥時代には東国・東海道への起点となっていた。その後、奈良の都が北上するに伴い、起点が北側の伊賀上野に移っていきます。この名張市は半蔵の先祖が住む地であるのかもしれません。江戸城に何かあればいつでも名張から霊ラインに乗って半蔵門に飛んでくるつもりだったのかもしれませんね。そして、このライン上には徳川家康の出生地である岡崎城があります。この岡崎城内には龍城神社が祀られています。家康が生まれるずっと以前、三河の守護代が岡崎城を築いた時、天守楼に柳の五つ衣に紅色の袴を着けた乙女が現れ、『我は、古代よりこの地に住む龍神なり。我を祀れば、この城を末永く守護しよう。』と言った後に、井戸の水が天高くまで吹き出し龍の姿に変わり、天空の黒雲が天守楼まで舞い降りて来て、龍神の姿はかき消えたらしい。そこで、城の名前を龍ヶ城と名付け、城内の井戸を龍の井と呼ばせた。だから、岡崎市と云うのは龍神の住む町でもある。」と藤原教授が太郎に説明した。

「龍神と服部半蔵ですか?」と太郎が訊き直した。

「服部半蔵は伊賀忍者の頭領として戦国時代から徳川家に仕えていました。この服部一族の先祖は古代、第10代崇神天皇の命で日本全国平定に活動した四道将軍の一人である大彦命であるといわれています。四道とは、古代の北陸道、東海道、山陰道、西海道のことです。大彦命は北陸道から新潟、会津、仙台と岩手県の三陸海岸近くまで行き、日本平定に活躍した人物です。引退後は大和に戻り、伊賀上野に住んだとされています。ああ、それから、先ほど話した陰陽師・阿部清明のことだが、阿部と云う家系も大彦命の後裔とされているね。大彦命を祭神とする伊賀上野にある敢国あえくに神社のあえは阿部氏に通じるとされている。とすると、海人がもつ五芒星のカゴメ紋と阿部清明の家紋が同じところから大彦命も海洋系の民族・海人あま族の出身かもしれないね。四道将軍として奈良大和から東北地方まで遠征するには食糧や武器の運搬が重要だから船を利用したはずだ。また、遠征は長期化するから遠征先の基地での食糧確保に現地での稲作も行われただろう。私の推理では、その基地が越後高田、会津高田、陸前高田、豊後高田などの高田と名前が残る地域であると考えられる。大和高田は大彦命が大和朝廷に遠征先の状況報告のために一時帰省した時に住んだ土地と推理できる。」

「真珠の宝剣が大彦命と関係があるのでしょうか?先生。」

「それは判らないですね。失踪した人物がこのライン上の何を追いかけていたのか?それが判明すれば、失踪人の現在の居場所が推定できるでしょう。これからの大和君の調査、探索で明らかになってくるかどうかですね。ただ、大彦命の後裔であるオワケノオミが埼玉県行田市にある『風土記の丘』稲荷山古墳に葬られており、埋葬品の金錯銘鉄剣が発見されています。オワケノオミは雄略天皇に仕えた人物とされています。そして、この近くに前玉さきたま神社が浅間塚と呼ばれる古墳の上にあります。大彦命は伊賀上野にある敢国あえくに神社に祀られています。それから、私見だが、大彦命に関する研究では、大和君も知っている大分県B大学の曽我教授の右に出る人物はいないと思うよ。大彦命に関する事を知りたいなら、曽我教授に訊いてみることだね。」と教授が言った。

「そういえば、曽我教授は奈良県大和高田のご出身でした。大彦命の子孫ですかね?埼玉県東松山の事務所に帰ったら電話でもしてみます。ああ、それから、先生。昨日の電話でお話しました神獣鏡の件ですが、あれは・・・・・。」

「ああ、忘れていました。昨日の電話の時に出てきた三重県志摩市大王町波切村にある塚原古墳出土の画文帯神獣鏡の件ですね。調べておきましたよ。埼玉県稲荷山古墳から出土した画文帯神獣鏡も同型ですが、千葉県夷隅郡大多喜町の大多喜古墳からも同型の神獣鏡が出土しています。更に、同型かどうか未確認ですが、半蔵門霊ライン上にある愛知県岡崎市の亀山二号墳からも画文帯神獣鏡が出土しています。同型だからと言って、これらの古墳が親戚であると判断するにはちょっと強引すぎるがね。」と教授が付け加えた。



 影流22

京都市右京区御室おむろ  仁和寺;2月26日(火)午後4時ころ


藤原教授宅を辞して徒歩で白川通りまで行き、タクシーを拾って、北野白梅町で京福北野線に乗り換え、御室駅に着いたのは午後三時ころであった。

御室駅から北にある仁和寺に向かい、さらにその北側の住吉山町を散策した後、再び仁和寺に戻って来たのが午後4時ころであった。


「何も発見できなかったな、住吉山町では。」と太郎が思いながら仁和寺の境内を歩いていると、後ろから肩を叩く人がいた。振り返って見ると、鮫島姫子であった。


「如何でした仁和寺は?」と姫子が太郎に言った。

「何故、ここに居るのですか?鮫島さん。」と太郎が訊いた。

「学生時代のアルバイトガイドが懐かしくなって、急遽、京都に来ました。こちらの観光客のガイドで京都巡りをしている最中です。」と横にいるアラブ人と思しき女性の二人ずれを紹介しながら姫子が言った。

「これからどちらを巡る予定ですか?」と太郎が姫子に訊いた。

浪切なみきり寺に行ってから、三条蹴上のホテルまでお二人をお送りします。」

「浪切寺ですか?」と大王町や鵜戸神宮にあった波切神社の事を思い出しながら、太郎が姫子に訊いた。

「正式には、浪切不動寺といいます。観光寺もいいのですが、ちょっと趣の異なるお寺も喜ばれますので、いつもコースの最後にご案内しています。特に、弘法大師の荒波退散のお話をすると、外人観光客には喜ばれます。仁和寺裏の住吉山町から徒歩でも行けるのですが、山越えになりますから、お寺の駐車場に停めているレンタカーで衣笠の金閣寺裏から周ります。では、お先に失礼いたします、大和探偵さん。」と言って、姫子は観光客と共に立ち去った。

「浪切不動寺か。荒波退散とか言っていたな。ホテルに帰ってから、インターネットでちょっと調べてみるか。」と太郎は思いながら仁和寺門前のバス停の行列を横目で見つつ休憩目的で御室駅前の喫茶店に向かった。



影流23

京都市左京区三条粟田口『美濃吉 竹茂楼』;2月26日(火)午後6時ころ


太郎は御室駅前の喫茶店で田代幸造の行方を推理して時間をつぶした後、藤原教授宅を辞する前に教授夫人が夕食の予約をして下さった三条粟田口の京懐石料亭 美濃吉みのきちに向かった。

京福北野線・白梅町駅から乗ったタクシーで太郎が美濃吉に到着すると、藤原大造と照子夫人はすでに席に着いていた。

「遅くなり、申し訳ありません。」といいながら太郎は席に座った。

「私共もいましがた到着したばかりですから、大丈夫ですよ。」と、やさしく照子夫人が言った。

ビールで乾杯したあと、熱燗の日本酒や料理が運ばれてくるまでの間、三人は賑やかに談話をした。


「御室の住吉山はいかがでしたか?」と照子夫人が太郎に訊いた。

「折角行ったのですが、あまりいい発見はありませんでした。」と太郎が答えた。

「それは残念でしたわね。じつは、御室は私の実家があったところです。子供のころは仁和寺の境内とか、お寺の周辺でよく遊びましたわ。だいぶ以前に両親もなくなり、実家も他人に売却しましたので、最近はご無沙汰ですが。室町時代までは住吉山と謂う山鉾が祇園祭りで巡幸していたと小学校で学びましたわ。」と照子夫人が言った。

「子供の頃に御室に居らしたのですか。それでは、浪切不動寺をご存じですか?住吉山町の裏山を越えたところにあるらしいのですが。」と太郎が訊いた。

「あら、懐かしいわね。中学校の夏休みの宿題で写生に出かけた場所だわ、浪切不動寺は。上手に画けたと先生に褒められたのを思い出すわね、ほほほほっ。」と夫人が笑った。

「浪切不動寺はどのようなところですか?」

「弘法大師様が唐から帰国する際に、南シナ海で暴風雨に遭われたとき、乗っていた船が沈没しそうになったらしいのですが、携えていた不動明王に祈り、お不動様の持つ独鈷の剣を船の舳先で振るって荒波を鎮めたらしいのです。剣で荒浪を斬り裂いたところから、浪切不動尊の名前が生まれたようですね。本山は伏見にある醍醐寺らしいわ。」と照子夫人が言った。


「そういえば、我々が新婚時代に住んでいた大阪市住吉区帝塚山東五丁目にも波切不動が祀られていたね。照子、知っているか?」と藤原教授が言った。

「住吉大社から500mくらいのところにあった定土じょうど寺のことね、あなた。」と夫人が答えた。

「そう。定土寺の本尊は不動明王で、右手に利剣、左手に索を持ち、腰を右に捻って右足を上げた状態で台座に立っていたな。あの形を波切型と謂うのかな。定土寺は住吉大社の宮司であった津守国基と云う人物が1084年ころ創建したとか言っていたな、そこの住職は。この寺の山門前には『朝日山荘厳そうごん浄土寺』と刻まれた青い石柱や告礒石つげそのいしという青い石がある。創建の時、国基は良い石を求めて紀州に行ったが、風浪のため船で石を運べなかったらしい。そこで、和歌の神様である玉津島神社に参拝して 『年経れども 老もせずして和歌の浦 幾代になりぬ 玉津島姫』と詠んだらしい。国基と云う人物は歌人でもあったらしい。そうすると、夢に唐衣すがたの美女10人が現れて『歌に感動したので、荒波を鎮め、良い石の在り場所を教えよう』といって消えたらしい。その後、海は静まり、珍石、奇石を発見して無事お寺の創建に漕ぎ着けたらしい。その時の石の一つが山門の青い石や告礒石らしい。その後、室町幕府将軍の足利義満がこの寺の奇石を京都の金閣寺に運ばせようしたらしいが、奇妙な異変が多発したのであきらめたという。」と教授が付け加えた。

「そこで、浪切不動尊だけを金閣寺近くの衣笠山に創建したのかしら?」と照子夫人が言った。

「住吉大社と波切不動は関係ある訳ですね。そして、10人の美女ですか。うーん。」と太郎が考える仕草をした。

「住吉大社や住吉山、波切不動、玉津島神社も海を渡って日本に来た海人族あまぞくに関係すると云うことかな。中国の海南島から鹿島灘海中のあるとされる鹿島神宮奥宮に至る霊ライン・影向線ようごうせんを追ってきた海人族だな、たぶん。藤原鎌足も海人族の流れの中にいたと私は推測しているのだが。海人族で思い出したが、富士山本宮浅間大社の浅間あさまと云う文字だが、海洋民族の言葉で『おそろしい・畏れ多い』と云う意味であるらしい。古代では噴火する富士山を霊山として畏敬したのであろう。」と教授が言った。

「影向線と海人族ですか・・・・。」と太郎が呟いた。


その後、京懐石の料理が順次運ばれて来た。教授夫妻は御猪口で熱燗の日本酒、大和太郎はビールを飲みながら京料理、川魚料理の話題を肴にして話が弾んで行った。


京都駅前 京都Tホテル;2月26日(火)午後9時30分ころ


美濃吉から戻った太郎はホテルのパソコンを借りてインターネットで海人族の事を調べていた。


「和歌山市和歌浦の玉津島神社の祭神は、稚日女わかひるめ尊、息長足おきながたらし姫、衣通そとおし姫か。たぶん、津守国基の和歌に出てきた玉島津姫は衣通姫のことだな、唐衣を着ていた美人だから。玉津島は玉出たまで島とも書くのか。ふーん。風光明媚なこの地の霊を聖武天皇が祀るように指示されたころには社殿がなかったのか。霊域である玉津島山頂に小さな社祠でも造ったのだろうが、嵐で飛ばされた可能性もあるな。15世紀には古い松の木が一本、島山の傍に残されていただけか。古い松の木一本か、面白いな。聖武天皇に同行していた山部赤人の万葉歌『若の浦に 潮満ち来れば かたを無み 葦辺あしべをさして 鶴鳴き渡る』は海岸のない島であった玉津島を表現しているのかな。潮が満ちてくれば海面から玉のような頭を出していたから玉出と書くのだろうか?現在の玉津島神社の近くには塩竈しおがま神社があるのか。このネット地図では塩竈神社の中に玉津島神社があるように見えるが、実際はどうかな?この衣通そとおし姫は大王と呼ばれた雄略天皇の姉になるのか。そういえば、藤原教授の話では、三重県志摩市の大王崎の古墳から出土した画文帯神獣鏡と同型のものが埼玉県稲荷山古墳からも出ていたな。稲荷山古墳の埋葬主は雄略天皇の親衛隊長であり、四道将軍である大彦命の八代目の後裔オワケノオミであったな。そして、大彦命は服部半蔵の先祖でもある。藤原教授の話では、大彦命は三陸海岸近くまで遠征していたな。宮城県の塩釜市に塩竈神社があったな。それから、日本民話100選にあった『千人坑オソトキ伝説』は岩手県陸前高田市の民話だったな。民話に出てきた玉御前とは誰のことだろう。そして坑内から金の牛像が出てきたのだったな。ネットで調べるか。」と思いながら、太郎は陸前高田市のホームページの観光課のコーナーにアクセスした。

「何っ!玉御前とは玉山神社のことか。小さな社祠が残されているだけか。祭神の名前がわからないな。千人坑とは玉山の一つの金鉱の名称か。金山きんざんね。伝説では金の牛が金坑内にあった訳だが。現実には加工された金の牛があるとは思えないが・・・、もし現実にあったとすれば、誰かが持ち込んだことになるな。鹿児島県日置市東市来・美山の玉山神社と関係するのかな?うーん、一つの流れがばく然と見えてきたかな。田代氏の日本地図に残されていた直線は大和朝廷に関係する海人族の流れを意味する。とすると、香取神宮、鹿島神宮、鵜戸神宮、霧島神宮、富士山本宮浅間大社、住吉大社、塩釜神社、波切神社と陸前高田との繋がりがあるかどうかがキーポイントになるのかな?そして、愛洲移香斉も海人族か。しかし、田代氏は何を追っていたのだろう?田代幸造氏の友人である大王町波切村の橘幸平氏が影丸で最初に拉致された。橘氏はレントゲン技師だからX線による陰影写真のイメージから影の男、影丸となるな。影丸は二人の間だけでの呼び名になっていたと考えられる。そして、拉致犯は影丸の名を使って真珠の宝剣を盗み、その後、田代氏を誘い出し、拉致した。・・・と考えられるな。なぜ、二人を拉致する必要があったのかだな。橘幸平氏は古墳研究が趣味であったな。古墳資料から何かを発見して田代幸造と古代の何かを追いかけていた。そういえば、大王町の古墳からは鉄剣が発見されていなかったな。古墳発見時にはすでに、誰かの手によって盗み出されていた。たとえば、大王崎を支配し、波切城を創った熊野の九鬼水軍によって。そして、その宝剣が南北朝時代の南朝派の北畠氏に渡り、最後は田代氏の手に入った。まてよ、X線か。稲荷山古墳出土の錆びた鉄剣から金錯文字が確認されたのはX線分析をしたからだったな。真珠の宝剣は錆びてはいないが、笠谷病院でX線撮影して何かを見つけたのか、橘氏と田代氏は。何が判ったかだな。それと美山の薩摩焼陶芸館にあった刺繍の地図との関係は何か?犯人の狙いは何か?刺繍地図と真珠宝剣の関係を知った拉致犯人が二人からその秘密を聞き出そうとして、二人を拉致監禁している可能性が大きいな。うーん、これからどうする?うーん。銀座の田代真珠での宝剣盗難日の監視カメラビデオをチェックしてみるか。盗まれた瞬間の映像が残っていないのは、何か細工さいくがあるはずだな。ビデオから何か判るかも知れないな。警備会社が不信に思うだろうが、止むを得ない選択だな。しかし、ビデオ録画は警備会社で消されているかも知れないな、何せ、三か月前だからな。」と太郎は思った。

「そうだ、美山の玉山神社の位置を確認するのを忘れていた。」と思いながら、手元に持っていた日本列島地図を広げた。

「やはり、霧島神宮と鹿島神宮を結ぶ直線上に乗っているか。ふーん、何故だろう?わからないな。藤原教授の謂う霊ライン上にあると云うことは、美山の玉山神社も霊域であるのかもしれないと云う訳か。と云うことは、島津義弘が連れ帰った当時の朝鮮人の中に服部半蔵のような霊能者がいて、霊域を感じ取ったか? 伝説では、海の彼方から赤く燃える石が飛んできて、その石が落ちたところが玉山神社の場所と謂うことであったな。海の彼方が、霊ライン上にある海南島か?霊ラインは影向線ようごうせんと云うのであったな。影のライン、影の流れか。当時来日したの朝鮮人たちとは如何なる能力を持っていたのかだな。薩摩藩から、あれだけ優遇された扱いを受けていたのだから、奴隷的な地位よりも、義弘が乞うて連れてきた可能性があるな。何等かの技術を持っていた集団か?どんな技術?薩摩焼を開発した人々だったな。陶芸館の展示説明では陶芸用の粘土をつくるためにいろいろな石を砕いて混ぜ合わせるのだったな。そのために山野をあるいて、石を探したと云うことだったな。陸前高田の玉山金山か。当時、豊臣秀吉が玉山金山を直轄していたらしいから、島津義弘も薩摩で金山開発を行うつもりだったか?結局、義弘は多忙のため金山開発には着手していない。だから、放っておかれた朝鮮人たちは薩摩焼を開発した、と展示説明にあったな。それに、一部の人たちは、現在の鹿屋市近くの高隅山地で鉱山開発に従事したとのことであったな。更に、陸前高田の玉山金山に足を伸ばしていたら?玉山金山の由緒を調べる必要があるな。陸前高田か?今日は時間が遅いから、明日、曽我教授に電話して大彦命の事を訊いてみるか。陸前高田の玉山金山のこともご存じであれば良いがな?東松山に帰ったら忙しいぞ、これは。」と太郎は考えを巡らせていた。

 

※作者注記:曽我教授は、以前に行方不明になり家族から大和太郎が捜索依頼を受けた教授。若い時から放浪癖のある古代史研究者であり、大分県のB大学教授。(『豊後の火石』で登場)



 影流24

東京都江東区亀戸  ?日本ケーシング 社長室 ;2月28日(木)午後2時ころ


「私立探偵の大和太郎と申します。杉並区桃井の御自宅に訪問いたしましたら、会社にいらっしゃるとのことでしたので、失礼とは思いましたが参上いたしました。」と太郎が言った。

電話してアポイントを断られたら山川岳雄との接触が困難になるので、あえて電話でのアポイントを取らずに直接訪問する戦術を採用した。S電気の営業時代に、この『飛び込み営業戦術』での面談成功率を上げる手法を実践研究していたのが、探偵になってからも役に立っている。

「ええ。家内から貴方に会社の住所を教えた旨の連絡は入っていますから、よろしいですよ。私も田代社長の事で気に掛ることがありますから。田代真珠社長の田代幸造さんのことですよね?どういったことでしょうか?」と山川社長が確認しながら言った。

「それでは、手身近にお伺いいたします。まず、田代さんとは長い付き合いですか?」と太郎が切り出した。

「いえ、昨年の11月に弊社の鹿児島にある出水工場へ出張するとき、飛行機の中ではじめてお会いしました。座席が隣になり、お互い、亀戸に関係があることがわかって話が弾みました。機内で田代真珠のパンフレットを見せていただきました。そのパンフレットの中にあった真珠の宝剣と似た刺繍絵を鹿児島県日置市美山にある陶芸館で見かけたので、機内で番号聞いていた田代さんの携帯電話にメールしました。私の趣味は陶芸ですので、薩摩川内にある仕事の得意先へ挨拶に行った時、薩摩焼の特別展が美山で行われているのを聞き、陶芸館に寄りました。メールを打ったあとで、田代さんから私の携帯に電話があり、詳しい場所をお教えいたしました。その時、鵜戸神宮へ一緒にお参りする約束をいたしました。お互い社長業ですので、会社の発展を祈願いたしました。その後、二人の帰京日が同じであるのが判り、一緒の飛行機で東京・羽田空港に帰ってきました。日付は、確か、11月22日でした。『いいふうふ(良い夫婦)』と読める日でした。やはり、田代さんは何かの事件の容疑者なのですか?」と山川社長が訊いた。

「と、申されますと?」と太郎が訊き返した。

「羽田空港にわが社の技術課長が社有車で出迎えに来ておりまして、杉並の自宅まで車で私を送る手はずになっていました。経費節減のため社長車はありませんので時間の空いている社員が出迎えることにしています。田代さんもプライベート旅行と云うことで社有車の出迎えがないとのことでした。田代さんは世田谷区松原にお住まいでしたので、杉並区桃井の私の家に向かう経路上にありました。それで、田代さんの自宅に寄ってから私の自宅に回りました。ところが、運転手の課長が会社近くの駐車場に車を戻して会社に戻ろうとした時に二人の刑事が田代氏と私の関係について質問してきたそうです。」

「どのような質問ですか?」

「事件の内容は聴けなかったようですが、ある事件の参考人として田代氏をマークしていると言っていたようです。それで、私も事件の関係者かどうかを刑事は確認したようです。車中での私たちの会話内容を執拗に訊かれた、とその技術課長は申しておりました。技術課長を呼んで話をききますか?」と山川社長が太郎に言った。

「できれば、そう願いたいのですが。」と太郎が控えめに言った。


しばらくして、社内電話で呼び出された技術課長が社長室に入ってきた。

「花山と申します。羽田空港から戻った時の刑事さんの質問内容ですか?」と花山課長が言った。

「ええ。警察の身分証は確認されましたか?」と太郎が訊いた。

「ええ。刑事の名前は忘れましたが、二人とも宮崎県警の身分証だったと記憶しています。」

「宮崎県警ですか。ふーん。その刑事にどのような事をお話しされましたか?」

「社長と田代さんが車中で話されていた刺繍の地図と真珠の宝剣に関する疑問点の話をしました。あとは、社長と田代さんは旅行中にはじめて知り合っただけで、深い関係はないと云うことも申し上げました。私が羽田空港のロビーで社長と田代さんのツーショット写真を、お二人には無断で撮ったのですが、その写真をどこで現像するのか、と聞かれました。写真の事が気にかかるようでした。デジカメだから現像には出さない旨を刑事の方にはお話しました。」と花山課長が言った。

「その写真はこれです。」と言って、山川社長がデスク上のパソコン画面に写っている羽田空港での写真を太郎に見せた。


「あれっ。」と太郎が呟いた。

「どうかしましたか?」と社長が訊いた。

「田代氏と社長の右後方に写っているこの人物は知り合いですか?何か、お二人の話に聞き耳を立てている仕草に見えますが。」と太郎が訊いた。

「いえ、知りません。」と社長が言った。

「ああ、この方は宮崎県警の刑事さんの一人です。私に質問をしてきた、年配の方の刑事さんですね。」と花山課長がパソコン画面のデジカメ写真映像を覗きながら言った。

「そうですか・・・・・。」と太郎が言った。

「殺人事件か、何かですか?田代社長の容疑は何ですか?」と花山課長が訊いた。

「いえ。事件の容疑者ではないでしょう。私が調査していることは、事業上の契約の件で信頼できる人物かどうかと云った事です。私の調査範囲内では田代氏に関する事件性のある事実は出ておりません。」と太郎は適当な話で誤魔化した。


東京都江東区亀戸三丁目  亀戸香取神社 ;2月28日(木)午後2時30分ころ


?日本ケーシングから5分くらい歩くと亀戸香取神社がある。

大和太郎は鳥居横の香取神社由緒書で神社創建時の藤原鎌足の話を確認した後、太い剣のような形をした亀戸大根の石像横にある手水舎で手と口を清めた。そして、拝殿にお参りした。境内にある摂社、末社に参拝したあと、神社参道を歩いていると、突然、左横やや後方から地面と平行に、太郎の頭に向かって飛んでくる黒い影を感じた。

思わず、首をすくめて黒い影を交わした。

「なーんだ。鳩か。しかし、危険な鳩だな。手裏剣でも飛んできたのかと思った。色の黒いのは自動車排気ガスで羽が汚れている所為かな。うーん、違うな、羽自体が黒っぽい色をしているのだ。」と、太郎の歩いている前方5mくらいの処にある木陰の地面に止まった黒っぽい鳩に近づいて、その鳩を見つめた。

「拝殿で、明日に千葉県佐原市の香取神宮へ参拝に行くご挨拶をしたから、香取の神様が鳩の姿で現れたのかな?香取神宮の祭神は経津主ふつぬし神と云うことになっているが、古事記では建御雷神と共に派遣された『天鳥船神』と云う事であったな。この鳩には神様が乗り移っているのかな。りりしい目をしている鳩だな。それに、口にくわえた小さな枝切れは手裏剣をイメージさせるな。空を飛ぶ手裏剣の黒い鳩か。私の思い込み過ぎかな、はっはっは。」と太郎は思った。


太郎はJR亀戸駅に向かって十三間通り商店街を南向きに歩きながら、羽田空港でのデジカメ写真映像に写っていた弾武典のことを考えていた。

「弾武典か。あのデジカメ写真では太い黒ぶち眼鏡を掛けて変装していたが、あれは間違いなく弾武典だな。神武東征伝説殺人事件の後、姿を隠していたが、こんなところに現れたか。宮崎県警の刑事の身分証を偽造しているのか。厄介な奴だな。事務所に戻ったら、山川社長のパソコンからUSBメモリーに複写した写真データを警察長刑事局の半田警視長にメール添付で送信しておくことにするか。半田さんもびっくりするだろうな。だが、警察が変に動いて田代氏に危険が及んでもいけないし、メールは中止するかな?うーん、どうしよう。しかし、田代氏の拉致犯人が弾武典とすれば、K国秘密諜報機関KISSが後ろで動いている可能性があるな。KISSは公文書偽造を得意としているから警察の身分証の偽造なども朝飯前かもしれないな。そうとして、奴らの狙いは何だろう。」



影流25

千葉県香取市(旧佐原市) 香取神宮 ;2月29日(金)午前11時ころ


JR佐原駅前からタクシーに乗り、朱塗の神社大鳥居前から徒歩で『亀甲山』と呼ばれる香取神宮の森の緩やかな坂の参道を、拝殿に向かって大和太郎は登り始めた。朱塗の大鳥居をくぐり、木影の参道を登り始めてすぐ、『要石』と『奥宮』を紹介する案内板を見つけた。


「ふーん。香取・鹿島の大神たちが地中に深い石棒を差し込んで地震を鎮めた時の石棒が要石か。地震源であるナマズの頭と尻尾を押さえる為の石棒か。ナマズとは何を意味するのかな。単なる食用の鯰魚なまずとも思えないが。まあ、昔から、大ナマズが暴れると地震が発生すると謂うからな。香取神宮の大神は地震防止の神様でもあるわけだ。」と考えながら、要石のある場所に向かった。

数十尺の長さがあるとされる石の頭だけ地表に出ている要石の向い側に末社『押手神社(祭神:宇迦之御霊)』の祠がある。

「稲穂の神様が祀られているな。東松山市の箭弓やきゅう神社と同じ祭神だな。」


太郎は本殿に参拝したあと≪宝物殿≫に行き、海獣鏡などを見学した。

鏡の裏面の浮き彫り(レリーフ)の中心に彫られた動物像を見ながら、

「これが海獣か。うーん。聖書に出てくる両生類の『ベヒモス』のイメージに似ているな。説明では、唐獅子となっているが、よく判らないな。周辺の彫り物は葡萄と動物の絵柄がたくさんあるな。尻尾の長い手長猿みたいな動物もいるな。」と、太郎は好きなことを考えながら展示物を楽しんでいた。

「あれっ、手裏剣が展示してあるな。香取剣法は手裏剣術なのか。忍者につながるかな?ふーん。」


太郎は宝物殿を出て、拝殿の裏側や横側にある摂社、末社に参拝し、桜大刀自神社(祭神;木花開耶姫命)、馬場殿神社(祭神;建速須佐之男命)、匝瑳とさ神社(祭神:磐筒男命、磐筒女神)などの確認をした。磐筒男命は香取大神の親神であり、イザナギ大神が火具土の神を十拳剣とつかのつるぎで切った時に現れた石の神である。

摂社・末社の参拝を終え、神社裏の森にある鹿園へ向かう道を歩いていると、横方向から地面と平行に太郎の頭めがけて飛んでくる黒い影を感じた。サーッと頭をすくめた太郎は、それが黒い鳩であるのを確認した。

「また、黒い鳩か。亀戸香取神社と同じ黒い鳩だな。やはり、黒い鳩は祭神と関係あるな。天鳥船神か?それと、手裏剣のような飛び方が香取剣法の由諸を示しているのかな。しかし、油断していると鳩の一撃を喰らうことに成りそうだな。『油断するな!大和太郎』と云う香取の大神様の教えと捉えておこう。」と、何かを予感するように、太郎は思った。



 影流26

警備保障会社・遠隔管理室内ビデオルーム ;3月1日(土)


田代慶子を通じて、銀座の田代真珠ショールームを警備している警備会社の監視カメラの録画ビデオを見せてもらう了解を得た太郎と慶子は新宿にある警備保障会社ビデオ室を訪問していた。


「この映像が12月7日の午後6時から12月8日の午前7時までの真珠の宝剣が展示されている部屋の映像です。管理上、ほのかな室内照明を灯けています。カメラは天井隅に1台設置されています。1秒間に一コマの映像です。本来のテレビ画面の映像と云うのは1秒間に30コマの映像を表示するのですが、監視ビデオカメラでは異常が見つかればいいので、毎秒1コマでビデオ録画しています。ですから、1時間は3600秒ですから30で割ると120秒(2分)で1時間分の映像が早送り動画で視られます。夕方6時から朝7時ですから14時間ありますので、全部見るのに28分かかります。映像信号のデータは映像サーバーと云うコンピューターに記録保存されています。現在のこの映像は、そのサーバーから映像信号を呼び出して見ています。」と録画係りの職員の説明を受けながら、太郎と田代慶子はテレビ画面を覗き込んだ。


28分かけて一通り見たあとで太郎が言った。

「12月8日午前4時過ぎの映像をもう一度映し出してください。」

「はい。しばらくお待ちください。」と言って、職員はパソコンのキーボードを叩いて、年月日時間を入れた。すぐに4時からの映像が再生され、映像を見ていた太郎が言った。

「午前4時3分くらいのところで瞬間ですが展示室内の電気が消えてるような気がするのですが?」

「一コマづつ、ゆっくりと視てみましょう。」と言いながら、職員がパソコンを操作した。

「やはり、電気が消されていますね。4時3分9秒から4時3分18秒までの9コマが真っ暗ですね。そのうち4時3分13秒から15秒までの3秒間分は画面全体が青い色になっていますね。」と太郎が言った。

「青い色の画面はミューティングと云いまして、映像信号が録画サーバーに届いていない時、ザラザラした画面では汚いのでサーバーが自動的に青い画面の置き換えます。」と職員が説明した。「ということは、照明が消えていた9秒間のうち、3秒間はカメラの信号ケーブルが外れていたことになりますね。犯人が何かの目的で一度信号ケーブルをはずした訳ですね。消された時間帯の前後の映像を比較したいので、4時3分5秒の映像と3分20秒の映像を別々のテレビに出してもらえますか?」と太郎が言った。

「左のテレビ映像が4時3分5秒の時点での映像です。右のテレビは4時3分20秒時点の映像ですが、何か違いがありますかね?」と職員が言った。

「真珠の宝剣が無くなっていることを除けば、展示物の配置、映像に移っている物の大きさに変化はなさそうですが・・・。あっ、待ってください。目立たないですが、右の映像にある小さな置時計ですかね、それが左の映像にはありませんね。それに、画枠のサイズも微妙に違いますかね。」と太郎が言った。

「確か、この置時計は12月3日ころに電池切れで2日間ほど展示室から私の副社長室に移してありました。12月5日ころに電池を入れ直して元に戻しました。右の映像にある場所です。ですから、12月7日や8日には置時計があったはずです。」と田代慶子が言った。

「と云うことは、左の映像は12月3日から12月5日までの映像であって、12月7日の映像ではないと云うことになりますね。誰かが細工した?」

「監視映像サーバーは鍵の掛る部屋の中の鍵の掛る機器ラックにいれて厳重に管理されていますし、ネットワークで映像をとりだせるのは私と室長の二人だけです。アクセスのパスワードも毎日、朝に設定変更していますし,指紋認証後にサーバーにアクセスできるよう、2重のセキュリティになっています。セキュリティは万全です。」と職員が言った。

「12月8日からゆっくりと映像を過去に戻していけますか?」

「ええ、簡単にできます。」


巻き戻し画像をみていた太郎が叫んだ。

「ここだ。12月8日の午前0時15分26秒から35秒までの9秒間が同じように照明が消されていますね。そして、ここで置時計のない映像に変わっていますね。と云うことは、真珠の宝剣を盗む作業は12月8日の午前0時15分から午前4時3分の4時間を懸けて行われたと云う事ですね。真珠の宝剣が入れてあるショーケースの安全装置を外し、盗みだすまでに4時間で実行した。そして、12月3日から5日の間のどこかで、差し替え映像を録るために同じような作業が行なわれているはずです。」

「12月3日から12月5日までの信号欠落時間帯を調査してみます。サーバー自身が自動的に信号欠落の判別調査する機能がありますから。」と職員はいいながらパソコンを操作した。

「12月4日の午前0時23分18秒から23分21秒までと0時25分35秒から25分38秒までのそれぞれ3秒間が2回、信号が切れています。」と職員が言った。

「この間に差し替え用の映像を盗んだのだろう。盗む作業に四時間も掛かることを事前に見越して、映像差し替えの準備をしたのだろう。」と太郎が言った。

「たぶん、映像分配器をカメラとサーバーの信号ケーブル間に入れて、自分たちの持ち込んだ映像録画器とサーバーに同時にカメラ映像を送ったのでしょう。」と職員が説明した。

「そして、4時間から5時間の映像つくり出した?」と太郎が言った。

「いえ、監視カメラの静止画1コマの映像信号を連続して送り出すだけでいいですから、静止画再生器に1コマ分の映像信号を移しただけでしょう。その再生器を12月8日の窃盗実行日に監視ビデオカメラから信号ケーブルはずし、その再生器に接続し直して犯行を行ったと考えられます。」と職員が言った。


「確か、展示室の入口、出口にも監視カメラが付いていましたね?」と太郎が言った。

「ええ。出口は部屋の一隅にある展示室監視カメラの下にあり、部屋の出口上外側壁に設置され、廊下方向を監視してます。出口に立っている人はカメラに映りません。入口は出口と対角にある一隅にあり、出口側と同様に監視カメラが設置されています。」と田代慶子が付け加えた。

「なるほど。だから犯人は自分の姿を監視カメラに撮られることなく、出口側の壁スイッチを切ってすぐに監視カメラの信号ケーブルを外せた訳ですね。監視カメラの配置を再検討しないといけませんね。」と職員が言った。


「これらの日時に於ける入口、出口の監視カメラの映像もみせてもらえますか?」と太郎が言った。

出口側の部屋照明を消したあと、同様の操作が行われているのを確認した太郎が更に職員に言った。「この12月4日の昼間の出口側監視カメラ映像を再生してもらえますか?」


そして太郎は、昼間の映像の中に、KISS要員と考えられている弾武則が写っている画面を確認し、出口カメラの映像が昼間に夜間と同様に置き換えられている痕跡も確認した。

「やはり、K国秘密諜報機関KISSが動いているのか。これは厄介なことになったな。田代幸造氏と橘幸平氏が拉致監禁されている可能性が高まったな。KISSの狙いが何かにもよるが、二人が生きていることを祈ろう。二人を案内人にして『真珠の宝剣』と『刺繍の地図』の指し示す謎の地を発見し、目的を達成するまでは、二人は殺されないだろう。いや、目的を達成すれば二人を殺す可能性もあるから、あまり安心はできないな。しかし、謎の地とは何処だろう。そして二人はどこに監禁されているのだろうか?KISSの目的は何か?早く見つけないといけないな。目的が達成されていないことを祈るのみだな。」と推理を巡らせながら、太郎は焦りを感じはじめている自分を確認した。


警備会社を退去しようとして、田代慶子と大和太郎が警備会社の管理部長に挨拶した。

「ところで、宝剣盗難の補償の件ですが、わが社から調査員を明日に伺わせます。」と警備会社の管理部長が田代慶子に言った。

「いえ、この件は事前に申し上げました様に、内密にねがいます。他言しないで下さい。補償も不要です。万一、盗難情報が外部に漏れた場合には、警備契約の解除と守秘義務違反及び警備失敗で損害賠償請求をいたします。よろしいですね。」と強い口調で田代慶子が管理部長に言った。



 影流27;スペクタクル推理

東京銀座八丁目 おでん屋『お田香おたこう』;3月3日(月) 午後6時ころ


大彦命の研究者で知られている、九州大分県のB大学文学部史学科の曽我健三教授の自宅に電話すると、東京有楽町の国際会議場で行われている日本古代史学会総会に出席のために上京しているとの事であった。曽我教授の携帯電話に連絡を取って、有楽町近くの銀座でお酒を飲みながら大彦命の話を聞く約束になった。藤原教授も古代史学会出席で東京に来ていたため、3人での飲み会になっていた。まん中に曽我教授を挟んで、カウンターのガラス越しにおでんが煮詰まるのを眺めながら、大和太郎ら3人が話をしている。

お酒が少し回ってきた曽我教授が饒舌になり始めていた。


「いやあ、関東のおでんでお酒を飲むのは20年ぶりかなあ。いやあ、おでんで飲む酒は格別だなあ。この大吟醸はおいしいね、宮城県の地酒ですか。ササニシキで醸造したのでしょうかね?九州大分県のお酒も美味ですが、東北のお酒もいいですね。大彦命の足跡を追って北陸から東北地方を放浪した20歳代のころを思い出しますね。地酒と野宿と、そしてスルメ。やあ、楽しかったなあ、あの頃は。その後も東北地方はよく行きましたが、お金のなかった野宿時代の青春の思い出は格別ですね。あの頃は松尾芭蕉が奥の細道で歩いた道を逆行して、東京まで来ましてね。その時、上野駅近くの屋台で食べたおでんと日本酒の味が良かったなあ。そうそう、松尾芭蕉ですがね、三重県伊賀上野の出身でしょ。だから、芭蕉は大彦命の子孫ではないかと想像しているのです。大彦命は伊賀上野にある敢国あえくに神社の主祭神ですからね。東北を旅してみたいと云う思いは、大彦命の霊が背後から芭蕉に指示したのではないかと思っています。自分が行なった仕事が、後世でどのように発展したかを大彦は見たかったので、子孫の芭蕉に取り憑いて一緒に旅をした。うーん。ご先祖を背負った芭蕉が羨ましい。」と古代史学会でも酒通と放浪癖で知られる曽我教授が楽しそうに言った。

「うん。ここの関東煮かんとだきはいい味ですね。ところで、その大彦命の甲信越・東北での足跡ですが、影向線との関係は如何ですか?」と藤原教授が訊いた。


関西の昔の人間は『おでん』のことを『かんとうだき(関東炊き)』と呼ぶ。特に、『う』を省いて、『かんとだき』と発音するのは大阪人である。


「霊ライン・影向線ようごうせんと来ましたか。流石ですね、藤原教授は。影向線、古代史の謎を解くにはこの影向線が欠かせませんからね。ありますよ、重要な霊ラインがあります。静岡市の静岡浅間神社か東照宮に始まって、富士宮市の富士山本宮浅間大社、富士山頂最高峰の剣が峰と駒ケ岳の間にある浅間大社奥宮、宮城県塩釜市の塩竈神社、そして、岩手県陸前高田市の冰上ひかみ神社を結ぶ一直線の影向線です。」と曽我教授が目を輝やかせながら言った。

「陸前高田市ですか。」と太郎が呟いた。

「この霊ライン上の話は大変面白いのです。私はこの直線の霊ラインを大彦ラインと命名しています。何故かと云いますと、大彦命の子であるタケヌナカワケの命が古代東海道の開拓、大彦命が古代北陸道の開拓を第10代・崇仁天皇から命令を請けて東北の地をめざします。大彦命は若狭から白山、越後高田、弥彦を通り、タケヌナカワケ命は松坂、熱田、岡崎、静岡、焼津、三浦半島から木更津に渡り、そして、会津の地で二人の親子将軍は合流し、さらに北へ向かいます。そして、食糧や武器を積んだ舟の寄港地が宮城県塩釜市であり、武器・食糧を運ぶ船で太平洋岸沿いに北上する際に武運を祈った鹿島・香取神宮の祭神である建御雷たけみかずち神と経津主ふつぬし神と塩土老翁しおつちのおじ神を祀った宮城県塩釜神社の前身である神祠を建立します。その地は現在の塩釜神社への上り参道のひとつである七曲ななまがり坂の入口であると私は考えています。今は、そこに小さな影向石公園があります。この公園の中に、江戸時代の天保6年に建立された、『猿田彦大神』と彫られた石柱があります。何故に道案内の神様である猿田彦なのかです。私見ですが、塩釜神社の祭神の一柱である塩土老翁しおつちのおじは猿田彦の化身ではないかと思うのです。そらと陸地の案内では猿田彦、海路の案内では塩土老翁となって現われる神様ではないかと。伊勢の二見が浦で貝に咬まれて死んだ猿田彦は塩土老翁に生まれ変ったのではないかと考えるのですが。塩釜神社の『釜』の文字はウかんむりの下に竜と書く『竈』と、亀とかく『竃』の2種類がありますが、塩釜神社の釜の文字はその両方を合体した文字をもちいています。また、竜は建御雷神の鹿島大神であり、亀は経津主の香取大神に相当します。その2神を釜の中に包み込む冠神が塩土老翁ではないかと私は思っています。余談ですが、天保6年は1835年で坂本竜馬が生まれた年です。また、江戸の金座で天保銭の鋳造が始まった年で、鋳造には鋳銭釜いせんがまを用います。その猿田彦の石柱の前に一辺が25cmくらいの六角形をした影向石があります。角が朽ちて六角形と判別しにくいですがね。若い時、この影向石の前で野宿をしましたが、その時、夢の中に鼻の大きな赤目の老人が現れて、『陸前高田のお山に行け』と私に言うのですよ。陸前高田の山といってもね、山の名前は告げられなかったですから、迷いましたよ。地元に行ってはじめて、氷上山がかつては御山おやまと呼ばれていたこと知りました。さらに気仙山から氷上山へと呼び名が変遷されたことも判りました。そして、山上には冰上ひかみ神社の奥宮があること知り、これだなと思いましたよ。


ところで、宇都宮市に半蔵山と呼ばれる、大彦ライン上にある山があります。山名の由来がはっきりしないのですが、服部半蔵の半蔵ではないかと思っています。何故かと言いますと、江戸時代、徳川家康の側近であった本多親子が2代将軍秀忠の側近の讒言でこの地・宇都宮に移封されてきます。その時、戦国時代以来の旧知である霊能者・服部半蔵が宇都宮の北方から霊ラインに乗って侵入してくる敵の霊を防止する為、この山に結界を設けた可能性があります。本多親子のために、北からの攻めに対する防御ラインを敷いたのではないでしょうか?半蔵山の稜線には多数の石祠があります。これは、大谷石に似た徳次郎石を採石した地に設けられたと云う人もありますが、もともとは、半蔵が置いた結界用の磐座である結界石がおかれていたはずです。その証拠が大彦ライン上の半蔵山頂北側にある石祠と大きな結界石です。この結界石より小さめの結界石が、この山の稜線に残されている石祠のある場所にあったはずです。徳次郎石を採石した時に持ち去ったのでしょう。あるいは、徳次郎石そのものが結界石であった可能性もありますがね。徳次郎の徳は徳川家を意味しているのかもしれませんね。徳一郎がこの地を500年間治めた宇都宮家で、2代目の徳川家が徳次郎と云うのは如何でしょう。あっはっはっはー。」と曽我教授が冗談を言って笑った。

「それで、その半蔵山は何なのでしょうか?」と太郎が真顔で訊いた。

「ああ、いや、失礼しました。服部半蔵も三重県伊賀地方の出身と考えられます。服部郷は伊賀上野に近いですが、霊能があった戦国時代の初代半蔵は名張の赤目出身ではないかと思っています。ですから、大彦命の子孫である可能性もあります。名張市には宇流富志禰うるふしね神社があり、建御雷神、経津主神、天照大神、天児屋根命を祭神としています。名張は大和の地から東国へ向かう時に最初に通る街道邑むらであり、大和高田を出た大彦命やその子タケヌナカワの命はこの名張の宇流富志禰神社で無事と成功を祈願し、東北開拓の拠点である陸前高田に向かったことでしょう。陸路は古代東海道、海路は松坂市の櫛田川の河口あたりから出港し太平洋沿岸を北上して塩釜港や陸前高田の広田湾から気仙川を遡って竹駒あたりに上陸したことでしょう。広田湾の海岸には有名な高田松原があります。陸前高田の冰上神社の祭神は衣太手きぬたて神 、理訓許段りくこた神 、登奈孝志となこし神とされていますが、別の解釈で天照大神、素盞嗚神、稲田姫神とも謂われています。また、摂社には稲の神様である手名椎てなづち命と足名椎あしなづち命が祀られています。この二つの神社にはある共通点があります。宇流富志禰は(うるふしみ)と発音する時は水神の役割を果たし、(うるふしね)と発音する時はお米などの穀物神となる。冰上神社も冰神ひかみと書く時は水神になり、氷神と書く時は剣神となり、日神・火神と書く時は稲穂などの穀物神となる。本来は日神であると私は思っています。と云うのは、冰上神社の里宮は陸前高田市の市街北方にありますが、本来は里宮の北にある氷上山頂上の奥宮に鎮座されている神様です。奥宮の西御殿は理訓許段神りくこたのかみで雷神宮と呼ばれています。中御殿は登奈孝志神となこしのかみで稲田姫神とされています。山頂の東御殿は衣太手神きぬたてのかみです。


山頂奥宮のあった場所には磐座いわくらを囲んだ磐境いわさかと思える石などが転がっています。里宮の冰上神社境内には山上にあった元宮の古い社殿があり、その向い側に六角形をした大きな影向石風の2段重ねになった石台があります。最初は石灯楼の台石かと思ったのですが、一つしかないこの石は灯楼の台石ではないと感じました。下側の台石は同じ形の6個の石組みで六角形を構成しています。上側の台石は六角形の中心線で二つに割れています。下側の石はかなり古いと思います。上側の台石はやや新しいと感じました。私は何かの祭祀に用いられた祭石ではないかと思っています。例えば、日嗣ひつぎ神事とか、雨乞い神事とか、もっと他の霊的な何かですかね。この台石の横には小さい池があり、その池の中央には小さな祠のある浮島があります。たぶん、弁天様を祀ってあるのでしょう。ああ、弁天様は市杵島比売命のことです。元宮もとみやの横には、古峯こぶ山、富士浅間山、山神と彫られた石柱が三体並んで置かれています。霊域を感じた修験道の行者が置いたのでしょうね。」と曽我教授が自説を唱えた。


「今の先生のお話で見えてきました。『大彦ライン』と『半蔵門ライン』の交点が富士山頂の浅間大社奥宮。『大彦ライン』と『天の逆矛ライン』との交点が富士宮市にある富士山本宮浅間大社になります。」と太郎が言った。

「何ですか、その半蔵門ラインと天の逆矛ラインとは?」と曽我教授が訊いた。

「半蔵門ラインは千葉県の香取神宮と亀戸香取神社、皇居の半蔵門、富士山の浅間大社奥宮、岡崎市、名張の宇流富志禰神社、そして中国の南寧なんねい市を結ぶ霊ラインです。天の逆矛ラインとは中国の海南島、霧島神宮、二見輿玉神社、富士山本宮浅間大社、桜田門、亀戸香取神社、鹿島神宮を結ぶ霊ラインです。」と太郎が説明した。

「なるほど、それは面白いですね。その霊ラインが何かの事件に関係しているのですか?」と曽我教授が訊いた。

「ええ。この話はオフレコでお願いしますが、真珠の宝剣の秘密に関係するのです。」

「真珠の宝剣とは、田代真珠のシンボルである古代の直刀のことですか?」

「そうです。ちょっと、この写真を見ていただけますか?」と言いながら、太郎はデジカメ写真からプリントアウトした刺繍の地図のA4サイズの写真を背広の内ポケットから取り出して曽我教授にみせた。

その写真をしばらく眺めていた曽我教授が口を開いた。

「ああー。この川や山、それに海岸線の配置から見て、これは陸前高田の地図ですね。気仙川、氷上山、高田松原の海岸の位置関係にそっくりですよ。それに、穴の中の牛は玉山金山のオソトキ民話に出てくる金の牛ですね。あっはー、これは驚いた。氷上山頂に立っている刀が真珠の宝剣に似ていますね。それで、真珠の宝剣と陸前高田が関係するのですか?」

「いえ、関係があるかどうかはまだ、分かりません。先生に何かこころ当たりでもあれば、と思いまして、写真を見ていただいたのですが?」

「先ほど話した、塩釜神社・影向石公園の猿田彦大神の石柱前での夢の件ですが、続きがあります。夢に出てきた赤目の老人が更に言うには、近い将来、この日本国に危険が訪れる。その時、その神社が重要な役割を果たす。お前は、その神社の事をしっかり研究しておけ、良いな。そして日本国を守るのだ。と言って、老人は夢から消えたのですが、日本国の危険が何なのか判らないからどのような研究をすればいいのか判らなかったですね。とりあえず、大彦ラインの研究を行った訳だがね。それから、地元のお寺や神社とかも調べておいたが、今だに、役立っていないですね。何だったんでしょうね、あの夢は。あはははー。」と笑いながら、曽我教授は日本酒の入ったコップを握って、グビリと飲んだ。


「私も、鵜戸神宮の蜘蛛に『玉山に行け』といわれましてね、鹿児島県日置市の玉山神社に行きましたが何もありませんでした。強いて言えば美山の陶芸館でこの刺繍の地図を見つけたことくらいですね。陸前高田の玉山に行けと云うことだったのでしょうかね。」と言いながら、太郎はこんにゃくのおでんを口に入れた。


「曽我先生がお調べになったお寺や神社の話を聞かせていただけますか?」と藤原教授が言った。

「そうですね、竹駒神社と荘厳寺の話でもしましょうか。」

「おねがいします。」

「竹駒神社は稲荷神社で祭神は宇迦御魂神です。名前の『竹駒』は『武駒』とも書けます。神社のある場所ですが、現在は金山があった玉山の麓に近いところにありますが、昔は氷上山の西方にある玉山神社近くの氷上山登山口の上側にあったようです。東から昇る太陽の下に氷上山頂上にある冰上(日神)神社に向かって、日神に神馬を奉納する神事を行っていたらしいのです。塩釜神社にも神馬を祀る神龍社があって金龍号などと命名された神馬が祭神に献納される神事がありますね。」と曽我教授が話した。

「その話は面白いですね。聖書の列王記の中に『南ユダ王国のヨシア王は古代イスラエル国の風習であった歴代の王が太陽に馬を献納すること止めさせる為、主の宮の入口(神殿の入口)にあった馬と太陽の車(戦車・武車)を火で焼いた。』と云う話が出てきます。イスラエルの失われた十支族の間では、太陽に馬を捧げる風習が行われていたまま姿を消してしまった訳ですが。」

「日ユ同祖論ですね。」と曽我教授が言った。

「ええ。大和朝廷のイスラエル人説を裏付ける話になりそうですが。」と藤原教授が言った。

「先生、その話は又の機会にしましょう。それより、荘厳寺の話を聞かせてもらいましょう。」と太郎が話をさえぎった。

「荘厳寺は浄土宗のお寺です。現在はJR竹駒駅近くの山の麓にありますが、昔は氷上山登山口の下側にあったようです。現在の荘厳寺には龍を思わせる見事な松の木が境内をうねっています。」

「浄土宗の荘厳寺ですか。」と太郎が言った。

「大阪の住吉大社近くにある朝日山荘厳浄土寺と彫られた青い石柱や告礒石つげそのいしと関係があるかどうかですね。」と藤原教授が言った。

「ええ。青い石柱に彫られたお寺の名称が何を告げているのかです。」と太郎が言った。

「波切不動尊ですね。」と曽我教授が言った。

「先生もご存じでしたか。」

「若い頃、奈良県大和高田市の実家にいる時に住吉大社近くの寺社はすべて巡りました。定土寺の由来を含めて、いろいろ勉強しましたよ。定土寺、現在は荘厳浄土寺と呼んでいるようですが、かっては津守寺、神宮寺とならんだ住吉大社の三大寺の一つでした。告礒石つげそのいしは定土寺にある青い石すべてに与えられた総称だと、私はおもっています。特に、龍のうろこを思わせるような形の石を特別に告礒石つげそのいしと呼んでいるようですが、和歌の浦で発見された青い石すべてが、10人の天女のお告げで発見された訳ですからね。ですから、山門にある細長い、青い石柱も告礒石つげそのいしのひとつと云う事です。私はこの青い石柱を見ると、龍が天空めがけて昇っていく姿を思い浮かべてしまいます。そして、定土寺の告礒石つげそのいしが関係する和歌山の玉津島神社は宮城県の塩釜港に浮かぶ、まがき島の曲木まがき神社を思わせます。塩釜神社の末社である曲木神社の祭神は奥津彦命と奥津姫命と謂う名称で、兄妹神か夫婦神を思わせます。一方、和歌山市和歌ノ浦の塩釜神社は古代には玉津島神社の浜降り神事を行った祓い所でありました。その玉津島神社の祭神である衣通姫そとおしひめ命は、第19代允恭いんぎょう天皇の子で軽大娘皇女かるのおおいらつめと云う。軽大娘皇女は美人で肌が美しく、衣を通しても美しさが見通せたので衣通そとおし姫と呼ばれたようです。古事記によると、衣通姫は同母兄である木梨軽皇子きなしのかるのみこと道ならぬ恋に落ちます。木梨軽皇子はこのことが原因で臣下に去られ、政争にも敗れます。衣通姫は伊予に流され、軽皇子は後を追って伊予に行き、二人は結ばれます。そして、二人は心中した事になっています。ところで、後にワカタケル大王と呼ばれる雄略天皇は二人の同母弟に当たります。雄略天皇は気性が荒かったようであるが和歌も好きだったようである。二人は雄略天皇の助けで伊予から玉津島に戻り、さらに塩釜港にあるまがき島に来たのではないかと想像しています。そして、奥津彦命と奥津姫命と呼ばれたのではないかと思っています。また、衣通姫ソトオリヒメ命は玉山金山のオソトキ民話を思わせます。姫の文字は『神姫』と書いて『シンキ』と読みますから『キ』と発音できます。したがって衣通姫は『ソトオキ』と読めます。ソトオキの発音が東北地方に来てオソトキに変じた可能性があります。オソトキ民話は豊臣時代か江戸時代の話で、衣通姫は飛鳥時代の人ですが霊的な繋がりがあるのではないかと思っています。衣通姫を祀る玉津島は玉出島と呼ばれた時代もあったようですから、玉山と同じように水晶が発掘される霊的地域であったかも知れません。ところで、竹駒の荘厳寺にある龍の松は荒波を思わせる形でうねっています。地元の人は『龍の松』とか『荒波の松』と呼んでいるらしいですから、波切不動に繋がりますね。そして、告礒石つげそのいしの『朝日山荘厳浄土寺』の朝日山とは氷上山を示し、荘厳浄土寺とは法然上人の浄土宗の荘厳寺が将来現れる事を暗示していたと理解できます。氷上山の氷上は日神とも書けますから、太陽に関係しています。比叡山を下りた法然上人は京都東山の吉水に住み『南無阿弥陀仏』を唱える浄土宗を開宗したわけです。住吉大社近くの定土寺は1084年の創始ですから、1175年の浄土宗開宗以前に荘厳寺が出現することを告礒石つげそのいしが予告していたことになります。予告された荘厳寺の役目がよく判りませんがね。氷上山にあった訳ですから、冰上神社と関係するのでしょうかね?龍の松に形をかえた臥龍寺ですかね?ああ、それから、定土寺には赤色に塗られた木彫りの馬が駒犬ならぬ、駒駒として、弁財天立像が祀られている阿弥陀堂の入口の左右におかれています。これは、玉山にある竹駒神社との関連を想像させます。竹駒神社の駒犬には赤い頭巾がかぶせられています。」と曽我教授が言った。


「そうすると、塩釜からの影向線に繋がる陸前高田は波切の地と云う訳ですか。荒波を切る剣が真珠の宝剣ですか? 話は変わりますが、オソトキ民話の千人坑から金の牛が出て来た話が単なる作り話なのか、事実を裏付ける裏話があるのかどうかですが、曽我先生、何かご存じですか?」

「私も以前そのことを考えたことがあります。塩釜神社近くに御釜神社があります。御釜とは、海水を熱して水分を蒸発させ、塩を創りだす大きなフライパンの事です。この御釜神社の境内に小さな池があり、牛の形をした石が沈んでいると云われています。昔、和賀佐彦わかさひこと云う神様が7歳の子供の姿になって塩を背負った牛を引いていたそうです。その牛が石になって、この境内の小さな池に沈んでいると云う話なのですが。これと同じで、奥州藤原時代には牛に玉山の金を平泉まで運ばせていたようです。この牛が金に変わった。理由はともかく、金の牛を製作して池に沈めたとします。池はもともと地下水脈とつながっているから重たい金は水脈に向かって少しづつ沈んで行くことになります。そして、坑道が堀り進められて金の牛が沈んでいる水脈に到達したとすれば、金の牛が水脈と繋がる坑道で発見される可能性はありますね。千人坑には水脈が多いと云われていたようです。塩釜に和賀佐彦すなわち、若狭わかさの名前がでてくるのは神功皇后の足跡を感じますね。ちなみに、塩釜神社の摂社に稲荷社、神明社、住吉社とならんで八幡社があります。七歳の和賀佐彦とは応神天皇すなわち、八幡神のことで、武内宿禰や神功皇后に連れられて塩釜に来たのではないかと私は考えています。御釜神社の池の底にある牛の背とされている石ですが、私は龍の背の一部ではないか想像しています。池に関係するのは龍神ですからね。」

「物理的には玉山金山から金の形の牛が掘り出されても不思議はない訳ですね。金牛が作られた理由と池に沈められた理由が見つかれば良い訳ですね。うーん。」と太郎が考え込んだ。

「以前、玉山神社に参拝に行ったとき、千人坑の入り口から200メートルくらい下ったところに池があるのを見ましたよ。今は、どうなっているのか知りませんが。この池に沈められた金の牛が地下水脈まで沈み込んだのではないでしょうか。」と曽我教授が言った。


「ところで、玉山神社の祭神はご存じですか?」と太郎が訊いた。

「玉山神社の社祠の横にあった説明では市杵島比売命すなわち弁天様と大山祇神でしたね。元来、734年に玉山金山を発見した行基和尚が祀った神様と云うことらしいですがね。」

市杵いちき島姫ですか?市来いちきね。鹿児島の日置市東市来ひがしいちき美山の玉山神社に繋がりますかね?」と太郎が言った。

「あっはははー。それは、どうでしょうね?古代では、玉山の玉は水晶を意味しています。金は水晶に変化する前の白い石英岩の中に含まれています。ですから、玉山では水晶も多く発見されています。古代には、水晶が出る山と云う意味で玉山と呼ばれていた訳です。ところで、台湾にある玉山は石英岩の白い山で、清朝時代には山の岩肌が白いため雪山ユイシャンと呼ばれていた標高3952mの高山です。日清戦争以後は日本の領土になり、明治天皇が新高山にいたかやまと命名された。富士山より高い、日本にとっては新しい山と云う意味でした。1941年12月8日の太平洋戦争開戦日にハワイ真珠湾攻撃を行う暗号電文の『ニイタカヤマノボレ』のニイタカヤマはこの台湾にある新高山のことです。」

「12月8日の真珠が玉山で、開戦日ですか?」と、太郎が訳の判らないことを言った。

「なんですか、それは?」と曽我教授が訊いた。

「あっ、いえ、独り言です。」と言いながら、太郎は真珠の宝剣が盗まれた日が12月8日であり、KISSの弾武典が日本に何か奇襲を仕掛けてきたのではないかと思った。

そして、更に

「鵜戸神宮の蜘蛛が言った『タマヤマニイケ』は鹿児島県日置市美山の『玉山に行け』ではなくて、陸前高田の『玉山に池』があるからそこを調べよ、と云う意味だったのかな?この池が何かの役目をするのかな?」と云う思いが太郎の脳裏を横切った。



 影流28;

陸前高田市気仙町今泉 千葉周作生誕地跡 3月6日(木) 午後2時ころ


前日、大和太郎は東京駅発の東北新幹線で仙台に着き、仙石線に乗り換えて本塩釜に入った。その日のうちに御釜神社の塩釜を拝観し、牛石の池を見学したあと、塩釜神社麓の影向石を確認して、まがき島の曲木神社にも参拝し、塩釜神社近くの旅館に一泊した。

本日早朝、200段の石段を登り塩釜神社の祭神、塩土老翁神を祀る別宮と建御雷神・経津主神を祀る左右宮に参拝し、田代幸造の発見と無事を祈願した。


そして、午前10時ころ本塩釜駅前でレンタカーを借り、国道45号線を北上し、松島、石巻、気仙沼を通過して陸前高田市内の道の駅『高田松原』に到着したのが午後1時30分ころであった。

陸前高田市観光案内物産協会で観光案内地図をもらい、携帯電話で玉山霊泉旅館『玉珠湯』に宿泊予約を入れ、気仙川に掛る気仙大橋を渡り北上して千葉周作生誕地の気仙町今泉天満宮前に到着したのが午後2時すぎであった。


「北辰一刀流の創始者『千葉周作』は、東京池袋にある空手道『北辰会館』館主・大葉周達先生が尊敬した人物であったな。合理的な剣術・技術を追及した流派であり、剣術の神秘性はあまり追及しない流派であったな。しかし、千葉家の家伝・北辰夢想流はちょっと趣が異なると云うことであったな。」と思いながら、太郎は『千葉周作成政・幼名 於菟松(天神別家)生家之跡敷 平成19年12月8日 建立』と彫られた、真新しい記念石碑をながめた。

そして、太郎は天満宮に参拝したあと、突然、拝殿裏に身を隠した。


「塩釜を出た後からずっと、国道45号線を追跡してきている一台の車があったな。高田松原の道の駅を出てからも追っかけて来ていたが、一体誰だろう。姿を現わすだろうか?」と思いながら、太郎は付近の様子を窺がった。


15分経過したが、誰も現れないので、車に戻った太郎は旅館『玉珠湯』に向かって走りだした。

姉歯あねば橋を渡ってはじめの十字路を左折しJR竹駒駅方面に向かいながら、追跡車の有無を確認した。

「着いて来ないな。俺の気のせいだったか。」と思いながら太郎は旅館に向かった。


陸前高田市竹駒町上壺  霊泉旅館・玉珠湯   3月6日(木) 夕方


JR大船渡線・竹駒駅を少し過ぎると『世界大遺跡玉山霊域』と書かれた高さ10mくらいの白い塔柱が現れる。その横の道を右折して北へ4キロくらい山中へ登ったところに玉御前と呼ばれる小さな石祠の玉山神社がある。玉御前へは霊泉旅館『玉の湯』の横から歩いて登ることになる。

途中、現在の竹駒神社に向かう分かれ道があり、竹駒神社の大鳥居がある。その道を行っても玉山神社へ向かう道と再び合流する。


『行基和尚腰掛岩』・『検問所跡』を過ぎ、『玉山リゾート』の表示カンバン後方にある、曽我教授が言っていた道路横にある『池』を少し過ぎたところに『金山下代・松坂家屋敷跡』の石柱が立っている。戦国時代、伊勢国松坂城主・松坂小太郎定盛が戦に敗れ、この地に逃れて来た。その子・徳右エ門定久が伊達藩から玉山金山下代に任命され、その屋敷を構えた場所であるらしい。

その屋敷跡の土地で、今は廃屋となっている『玉山リゾート』の子供公園横に『池』ある。この池には六角形をした浮島があり、その浮島には枝を広げた松の木が一本生えている。案内地図によると、この池から少し上った処に旧『荘厳寺』があったようである。

その更に奥に登っていたところに氷上山登山口の道標があり、その上の方の山中に、かつては旧『竹駒神社』があったようである。

廃屋となっている玉山リゾート建屋の玄関脇に金俵を背負った黒い牛とそれを引き連れている人夫が休憩している像が飾られている。


氷上山登山口の道標を左折して50mくらいのところにある旅館・玉珠湯に午後3時ころ、大和太郎は到着した。ただちに風呂に入り、車を運転した疲れを癒した。

太郎が午後5時からの夕食を終え、ロビーで寛いでいると旅館の主人が挨拶にきた。


「お仕事ですか、それともご旅行ですか?」と主人が訊いた。

「調査の仕事で来ました。」と太郎が答えた。

「金山の調査ですか?」

「いえ、家出人の捜索に関連しての地域調査です。」

「玉山方面に家出人の方がいらっしゃるのですか?この旅館の従業員は皆さん地元の方ですよ。」と主人が弁解するように言った。

「いえ、玉山で働いていると云った情報はありません。単に、この地域の情報を集め、家出人の行方を推測するのがねらいです。」

「なるほど、そう云うことですか。何か、お役に立つことがあれば協力いたしますよ。」

「ちょっと、お聞きしたいのですが、よろしいでしょうか?」と太郎が言った。

「ええ、どうぞ。」

「この下の玉山リゾートですが、いつごろ廃屋になったのでしょうか?」と太郎が訊いた。

「昨年10月ころですかね、確か。来年には建屋を取り壊すとの話ですよ。でも、今年の1月から修験道の組織が間借りを始めていますから、計画は延びるかもしれませんね。」

「修験道の人が出入りしているのですか?」

「ええ、時々、山伏姿で氷上山に登られていますよ。姿を見かけるのは稀ですが、夜は灯りが付いていますから、何方かは寝泊りされているようですね。すれ違う時は挨拶をしますが、立ち話をすることはないですね。車の出入りもあまり見かけないですね。」と旅館の主人が言った。



 影流29;

陸前高田市竹駒町上壺  玉山リゾート   3月6日(木) 午後8時


黒のスニーカーと紺色のスポーツジャージに身を包んだ太郎は懐中電灯のライトを消して、廃屋の窓から漏れてくる薄明かりを頼りに2階建ての建屋に近づいて行った。

2階のベランダ側にある部屋の窓明かりが建屋前の駐車場を薄く照らし出している。

「黒塗りの高級車があるな。」と駐車場に止めてある車を見ながら建屋の窓越しに中を覗いた。カーテンの隙間からようやく中の一部が見えるだけであった。スポーツジャージ姿の男が二人かな?よく見えないな。2階の窓から覗くか。」と思いながら、太郎は建屋横側にある2階への非常階段をのぼり、ベランダに出た。

「建屋の部屋数や間取りはどうなっているのか?田代氏と橘氏はここに居るのだろうか?建屋の中に入らないと判らないな。」と太郎が思案していると、中から一人の男がカーテンを開け、ベランダ側のガラス引戸を開けて外に出てきた。

太郎は物影から引き戸越しに中を見た。

「あれは、確かに田代氏だ。手錠を掛けられているのか。すると、横に居るのが橘氏かな。二人とも手錠を掛けられているとなると、救出方法が難しいな。今、ベランダに居る男を含めて、3人が見張りか。下にいるのが最少で二人だから、5人以上を相手に救出方法を考えるのか?うーん。顔が確認できないな。弾武則がいるのかどうか?高級車が駐車場にあったから、ここに居る可能性が高いかな?今夜は、情況確認だけだな。救出活動は明日にするとして、部屋数と通路状況だけは今夜中に確認したいな。現状、灯りが付いている部屋は1階の二部屋と2階の一部屋だけだな。個室数が判らないな。非常階段を上がったところに非常口のドアーがあったな。あそこから中に入れるかな。行ってみるか。しかし、この男、早く中に戻らないかな。動かないでいると寒くてしょうがない。」


非常口は中からしか開かない仕組みになっているようで鍵穴がなかった。仕方なく、深夜まで待って忍び込むことにして、一旦、『玉珠湯』にもどることに決め、夜道の道路を登り始めた。すると、後ろから、太郎を呼び止める声がした。


「ギクッ」として、太郎は振り返った。

「如何でしたか、大和探偵」と二人の男のうちの一人が言った。


太郎は手に持っていた懐中電灯で二人の顔を照らした。


「亀山刑事!」と太郎は思わず口走った。その横に立っているのは武田刑事であった。


道路での立ち話は止めて、3人は玉珠湯の太郎の宿泊している玉珠湯の『駒の間』に場所を移した。


「どうして、ここに居るのですか?」と太郎が訊いた。

「半田警視長の指令で大和探偵を尾行していました。東京では、桜田門近くの警察庁ビル内の宿泊所に寝泊まりして、マークさせてもらいました。」と亀山刑事が言った。

「では、亀戸の?日本ケーシングの事もご存じですか?」

「ええ、山川社長から羽田空港での話を聞きました。鳥羽から京都に向かわれた時から尾行しています。東京では、中央署の鈴木刑事と共に尾行しましたが、鈴木刑事の尾行術には感心しました。あれは、真似るのが大変です。それで、銀座のおでん屋での話も聞かしてもらいましたよ。」

「ええっつ! じゃあ、塩釜から車で尾行していたのは、お二人ですか?」

「ええ、そうです。塩釜署に協力していただきました。携帯電話で玉珠湯に宿泊を決める話を近くで聞いていました。それで、先に、玉山に来て、周辺調査は完了しています。現在は大船渡署高田幹部交番の協力で活動しています。朝海刑事局長から『越境捜査許可証』をもらっています。」と武田刑事が自慢げに許可証書を見せながら言った。

「そうですか。それでは、弾武典の事もご存じですか?」と太郎が訊いた。

「ええ。鈴木刑事から神武東征伝説殺人事件の顛末を聞きましたから、弾武典の粗方の情報は持っています。大和探偵がメール添付で半田警視長に送付された、弾武典が羽田空港で撮影された写真も見ました。半田警視長のご意見では、黒塗りの高級車はK国秘密諜報機関KISSの人間が乗っているだろう。たぶん、弾武典の使用車であろうとの事でした。玉山リゾートの駐車場に黒塗りの高級車を発見した時には、我々もビックリしましたよ。こいつは大変なことになったとね。」と亀山刑事が言った。

「あの羽田空港での写真と日本ケーシングの社長さんの話から、半田警視長はそこまで推理されていましたか。そうですか。」と太郎が言った。

「現在、高田幹部交番では、玉山リゾート捜索令状を申請中です。」と武田刑事が言った。

「玉山リゾートに踏み込む予定ですか?」と太郎が訊いた。

「明日にでも、捜索に入りたいですね。」と亀山刑事が言った。

「ちょっと待ってください。田代幸造氏と橘幸平氏が建屋の中に囚われています。今、警察に踏み込まれては、ふたりの生命が危険にさらされます。」と太郎が言った。

「判っています。現在、建屋を望める山中に夜間でも見える赤外線望遠鏡を設置して、高田幹部交番の刑事が内部の動きを見張っています。玉山リゾートの所有者から、部屋の見取り図と出入り口の合鍵を借りています。現在、東京の半田警視長と大船渡署ではテレビ会議を利用して行動計画策定の打ち合わせ中です。KISSに警察の動きを察知される前に行動を起こさないと、弾武典にまた、逃げられてしまう可能性もありますので早急の行動が重要です。ああ、これは半田警視長のお考えです。KISSの情報網は警察内部にも及んでいる可能性がありますから、情報漏れが発生する前に行動する予定でしょう。現在、警視庁からテロ対策特殊部隊SATが高速ヘリコプターで大船渡署に向けて飛んでいます。午後10時ころには到着する予定です。場合によっては明朝に襲撃するかもしれません。半田警視長の判断次第です。」と亀山刑事が言った。



 影流30;逃走

陸前高田市竹駒町上壺  玉山リゾート   3月7日(金) 午前5時ころ


玉山リゾートの廃屋に居るKISS要員と弾武典を急襲し、田代幸造と橘幸平を救出する目的で警視庁テロ対策特殊部隊SAT要員24名が大船渡署管轄の高田幹部交番を出発した。

大船渡署所有の6台の覆面パトに分乗した隊員たちが高田幹部交番の警察車の先導で玉山に向けて動き出したのは午前5時であった。


そのころ、玉山リゾート2階の部屋の照明が灯いた。そして、パジャマの上にガウンを着た一人の男が2階ベランダに姿を現わして、まだ太陽の昇らない暗い闇である建屋の周囲の様子を窺っていた。

「何か、大きな念力パワーを感じるが、気のせいか?いや、気のせいではないな。これは以前、九州小倉のアジトに日本警察の手入れがあった時に感じた霊的パワーと同じだ。あの時は事前に危険を感じてアジトに行かなかったので無事であった。昨日から小さな念力パワーを感じていたが、これだったか。今、何かが来る、この玉山に。たぶん、日本の警察だろう。」と霊能がある弾武典は思った。

ベランダから建屋内に戻った弾武典は寝入っているKISS要員4人を起こし、田代幸造と橘幸平を監視しているもう1人を集め、ただちに玉山リゾートを退去する旨を伝えた。

「田代幸造と橘幸平を殺しますか?弾さん。」とKISS要員のひとりが訊いた。

「いや、我々に従えば殺さない約束で二人に我々の協力をさせた。ベッドに手錠で繋ないだままで、奴らはここに残していく。将来、もう一度、橘幸平の協力が必要になるだろう。奴の霊能の手助けがないと、俺だけの霊能では影向石は発見できないかもしれない。殺さないでおけ。『真珠の宝剣』は私が持っていく。」と弾武典が言った。

「これからの予定は?」とKISS要員が訊いた。

「緊急事態に対処する事前の打ち合せ通り、K地点で明日の正午に落ち合おう。それまでは単独行動とする。ここからは、今までに開発しておいた氷上山を越える5本の間道うち3番、4番、5番のいずれかを使って逃げよ。間道を抜けたところに準備してある乗用車のキーを忘れず持っていくように。玉山の麓から警察はやって来るからな。修験衣や道具類はここに残して去る。あと15分くらいで外は白けてくるだろうが、山中は暗いから懐中電灯、必要最小限の物だけ各自のリュックサック入れて行け。準備できた者から立ち去れ。5分後には、全員ここを退去するように。いいな。」と弾武典が言った。


昨夜のうちにSATによる早朝の急襲を知らされていた亀山刑事、武田刑事と大和太郎は赤外線望遠鏡のある監視場所から、玉山リゾートの廃屋を眺めていた。


「おい、奴らが出て行くぞ。本部に連絡を入れろ。」と赤外線望遠鏡を覗いていた高田幹部交番の刑事が同僚に言った。

「田代幸造氏と橘幸平も同行していますか?」と太郎が訊いた。

「いや、全部で4人だが、いや、あと二人出てきたが、それらしき人物はいないようだ。」

「手入れの時刻は5時50分の予定だから、そろそろ、SATは出発するころだろう。」と亀山刑事が言った。

「私が追跡します。」と武田刑事が立ち去ろうとしたのを、亀山刑事が止めた。

「馬鹿ヤロー。奴らに気づかれたらどうするのだ。人質の生命が優先だ。じっとしていろ。ここはSATに任せておけ。」と亀山刑事が武田刑事に言った。

「でも、6人ですか?あの廃屋に居る人間はそれほど多くなかったですから、6人で全員かもしれませんね。九州小倉では弾武典だけがアジトに姿を現わさずに無事でした。弾武典には事前に危険を察知する能力があるのかも知れませんね。今回も霊的能力が働いたかもしれませんよ。」と太郎が言った。

「と云う事は、KISSの奴らは逃げ出したのですかね。」と亀山刑事が言った。

「もう、SATは出発したようです。あと15分くらいで玉山リゾートに到着します。」と高田幹部交番の刑事が言った。

「やはり、もう少し様子を見ましょう。」と亀山刑事が言った。



 影流31;

陸前高田市竹駒町上壺  玉珠湯ロビー   3月8日(土) 夕方


SATの急襲は空振りに終わったが、田代幸造と橘幸平は無事救出された。

誘拐事件のことは秘密のまま事件終了となり、新聞発表も行われないことになった。

警察では、引き続き弾武典を追跡していくが、田代幸造氏の希望により誘拐事件としてではなく信谷次郎氏及び清水和明氏のひき逃げ容疑で指名手配することになった。


警察の事情聴取を終えた二人は玉珠湯に宿泊することにした。

玉珠湯の温泉から上がってきた二人は『駒の間』で大和太郎と談話している。


「信谷次郎さんとお会いしたのは11月下旬でした。鹿児島県での『薩摩直伝神巌流』の合宿から帰京したあと、陶芸館で見つけた刺繍の地図の件を幸平に連絡して、信谷次郎さんと鳥羽市内のホテルでの話合いの準備をしてもらいました。」と田代幸造が言った。

「信谷さんからはどのような話が聞けましたか?」と太郎が訊いた。

「刺繍の地図についての伝承話を聞きました。信谷さんのご先祖の朝鮮名はキムだったそうです。お爺さんから聞かれた話と云うことでしたが、豊臣秀吉の朝鮮出兵の敗戦後、1598年に島津義弘の依頼で鹿児島県、当時の薩摩国日置郡東市来に上陸したそうです。ご先祖は鉱石を見分ける技術を持っていたため、義弘公から薩摩国内で金山発見の依頼を受けて日本に来たとのことでした。そして、当時、豊臣秀吉から伊達政宗の領地になっていた陸前国玉山にある玉山金山に派遣されて、日本の金鉱脈の性質を確認したようです。金鉱脈の発掘は秘密任務のため、表向きは窯業のための鉱石探しと云う事で薩摩国内の山巡りを行ったようです。陸前国玉山から薩摩国に帰ってきてからは大隅半島の銀山や菱刈金山の発見に尽力されたようです。日置市東市来にある玉山神社も玉山金山にちなんで命名したようですが、金山発掘任務を伏せるため、島津藩の命令で檀君神話を創作して流布させたとのことでした。当時、陸前玉山では伊達正宗の命令で大阪城にいる豊臣秀吉に献上する金の牛を鋳造したのですが、一夜のうちに盗賊に盗まれて行方不明になったようです。当時、金山検問所を通過した形跡がないため、山中の調査、捜索が行われたが金の牛は発見されなかったようです。そのうち、竹駒神社の神様が氷上山の神様に奉納するために盗んだのだと云う噂が流れ、犯人探しも有耶無耶になってしまったようです。しかし、盗難事件には後日談がありました。徳川家康配下の伊賀忍者が伊達政宗の居城で捕縛されました。当時、家康は秀吉死後の全国統一に向けた計画を水面下で進めており、伊達正宗が豊臣方に加勢する動きを牽制するため氷上山から富士山、駿河国の静岡浅間神社を結ぶ霊ライン上に霊的結界を張る任務を服部半蔵が推進していました。この霊ラインの東側の地域、すなわち、江戸城が守られるように霊的結界を西向きに張ったようです。徳川家康が祀られた神社は東照宮と呼ばれますが、この霊ラインからみて東側を照らすと云う意味が込められているとのことでした。逮捕された忍者の話では服部半蔵自身が持っていた『真珠の宝剣』を氷上山上の神社にある影向石に逆立ちさせて霊的神業を行ったらしいのです。豊臣秀吉に献上される予定の『金の牛』は神業成就のために服部半蔵以下の伊賀忍者が盗みだして、霊泉である玉山ヶ池、たぶん現在の玉山リゾートにある池だと思いますが、その池に沈めたと白状したようです。それを聞いた伊達正宗は『神には逆らえぬ』と言って豊臣方に味方するのをあきらめたようです。そして、伊達政宗が命じて作らせた『刺繍の地図』を島津義弘に渡して欲しいと頼まれたのが、玉山金山に来ていた信谷さんのご先祖だったようです。伊達政宗は島津義弘に自分の考えを伝えておきたかったのでしょう。その後、伊達藩の役人が霊泉玉山ヶ池の底を調べたようですが、金の牛は発見されなかったようです。『刺繍の地図』と伊達正宗からの伝言を聞いた島津義弘は不機嫌になり、刺繍の地図は信谷さんのご先祖が持ち帰って家宝として今日まで大切に引き継がれて来たとのことでした。」と田代幸造が話した。

「信谷さんが殺された理由は何ですか?」と太郎が訊いた。

「幸平と私の二人が彼らの云う事に従わないならば、娘の慶子を殺すと脅かしてきました。彼らの決心を示すために、私たち二人の目の前で、信谷さんともう一人の方を轢き殺しました。私たちは、鳥羽駅前のロータリーに駐車していた車に閉じ込められていました。我々の目の前で、白いワンボックス車が猛スピードで二人に突進していきました。ああ、なんて冷酷な奴らなんだと思いました。信谷さんが我々に話した内容を彼らには話さなかったため、彼らの恨みを買っていたのも殺害の理由のようです。」と田代幸造が言った。

「彼らが聴きたかった内容が今の話の中にあるのですか?」

「ええ。氷上山上の神社にある影向石に興味を示していました。しかし、山上では影向石を見つけることはできなかったようです。かなり、探索したようですがね。私も、幸平も時々山上に同行させられましたが、影向石は見つかりませんでした。」

「陸前高田市内にある冰上神社も探していた様子はありましたか?」

「判りません。刺繍の地図に描かれた山頂に立てられた真珠の宝剣を気にしていましたから、市内は探していなかったのではないでしょうか。」と田代幸造が言った。

「冰上神社に影向石があるのですか?」と橘幸平が訊いた。

「ええ。冰上神社に影向石があるとB大学の曽我教授から聞いています。私もまだ確認していませんが。」と太郎が言った。

「冰上神社に行きましょう。」と橘幸平が田代幸造に向かって言った。

「明日行きましょう。しかし、何故に弾武典が影向石を探していたのでしょうか?ご存じですか?」と太郎が橘幸平に訊いた。

「たぶん、『結界崩し』でしょう。」と橘幸平が言った。

「結界崩しとは?」

「日本列島には多くの霊ライン、すなわち影向線が走っています。そのうち、鹿島神宮と霧島神宮を結ぶ影向線上に西北に向けた結界が構築され、霊的防御線になっています。これにより、執権北条時宗の時代にあった元冦げんこうに対する日本防衛のための神風(台風)が吹きこの影向線上の結界の南東側に首都のある鎌倉幕府は無事でした。この結界の起点は九州高千穂峰にある天逆矛です。そして信谷次郎さんのご先祖の話では、静岡浅間神社と冰神神社を結ぶ影向線上には江戸幕府を守るため、西北からの攻撃、すなわち伊達正宗に備えて、服部半蔵が結界を構築したようです。結界とは人間の意志、意図を霊的電磁波の循環にして霊的ライン上に残すことです。5年前に日本に向けて発射したミサイルが日本海に墜落した事件がありました。弾武典とその仲間達の会話の中で、このミサイル墜落事件が結界の存在に邪魔されたという内容を喋っていました。私の想像ですが、K国が日本攻略するには、この結界を破壊しなければならないと弾武典は考えていたのではないでしょうか。そして、この結界の起点が、あの刺繍地図にある氷上山頂にあると判断したようです。その結界を破壊するには、『真珠の宝剣』が必要になります。日本の神社や山には霊的スポットがあります。この霊的スポットからはある種の電磁波が空に向けて漏れだしています。地球を生命体とすれば、人体にある経絡線上にあるツボに相当するのが霊的スポットで経絡に相当するのが霊波の通路である霊ラインです。弾武典は霊的スポットから出ている霊波は感じ取れないようでした。霊ライン乗って空間を循環している種々の結界霊波は感じていたようですが、霊スポットから噴き出している純粋な霊波には反応していませんでしたね。


玉山リゾートにある池の浮島からも弱いですが純粋な霊波が漏れ出ています。弾武典はこの霊波の存在にも気づいていませんでした。私には、弾武典のように殺気やその種の霊波を感じる能力はありませんが、霊的スポットから発する霊波は感じ取れます。幸造が私を影丸と命名したのは、影向線の霊波を感じ取れる能力と、レントゲンの陰影写真を撮る技師としての能力があるからです。弾武典は私を氷上山の神社跡や祠跡に連れだしては霊的スポットの確認を要求してきました。神社によっては霊的スポットに要石や影向石が置かれていますからね。『真珠の宝剣』には、この霊的スポットからの漏れ磁界が拡散するのを防ぎ、霊的電磁波を宝剣内に集中通過させる機能があります。宝剣に何故そんな機能があるのか、その理由は判りませんが。実は、水晶にもこの機能があります。ですから、昔の人は水晶のことをたま、すなわちたまと呼んだのです。玉山とは水晶の出る山と云う意味ですが、霊的地域ともいえるでしょう。水晶ほどではないが、石には弱いながらも霊的電磁波を集中し発散させる機能があります。私は、宝剣についている10個の自然真珠の核になっている小石が水晶か結晶性の強い石瑛ではないかと想像しています。普通の真珠には霊気を集める機能はありませんから。10個の真珠からの霊気を昔の霊能者が感じ取って真珠の宝剣を創ったのではないかと思います。特に、10個の真珠の間隔がある種の霊的電磁波の波長に相当しているのでしょう。そのため、真珠の宝剣にはその波長と同調する能力があって、霊的スポットから発する霊波を大きく集中できるのでしょう。その集中した地球からの一つの霊波に人間の意識が発する霊的電磁波、すなわち意志を重ねあわせる行為が結界を構築します。電磁気学的表現をすれば、地球の霊的電磁波と云う搬送波を人間の意志的電磁波で変調すると云うことになります。この変調された霊的電磁波が影向線を通り地球表面を循環します。この作業を行う時、霊的スポットに石を置いて霊波を集中させます。これが結界石です。真珠の宝剣には結界石としての能力が備わっているようなのです。しかも、かなり強力な霊波集中能力があると、私は感じています。」と橘幸平は持論を展開した。

「結界崩しをするには、どのように行うのですか?」と太郎が訊いた。

「よく知りません。弾武典の様子からの想像ですが、修験道における特殊な印を結ぶ呪文を唱えるのではないかと思います。この能力を得るには、印と呪文に関する知識と霊的修業が必要なはずです。役小角が山中で修業をしたのも、この印結びと呪文の能力を得るためであったと、ある霊能者から聞いたことがあります。そして、雨乞いの孔雀明王呪法を会得したようです。」と橘幸平が言った。



 影流32;

陸前高田市内 冰上神社   3月9日(日) 午前10時ころ


太郎と田代幸造、橘幸平の三人は冰上神社の本殿に参拝した後、氷上山上から移築した古社殿の向い側にある、厚さ20センチ、一辺の長さが60センチくらいの六角形の大きな石の前に来た。


「これが曽我教授の申されていた影向石でしょうかね?」と太郎が橘幸平に訊いた。

「霊気は感じませんが、何かありそうですね。上の石は六角形のまん中で半分に割れていますね。そして、下側の石に比べて、まだ新しそうです。下側の石は6個の石を組んで六角形を形成しています。そして、風雨に曝された為か、角が少し丸く成っていますね。上の石が下の何かを隠している雰囲気がありますね。しかし、上の石が割れていますが、六角の中心位置には長楕円の穴が開いています。この穴の意味は何でしょうかね?」と幸平が言った。

「向こうにある小さな池の中の浮島にほこらが祀られているが、あれはどうかな?」と田代幸造が幸平に訊いた。

「この祠から空に向かって少し霊気が漏れていますね。玉山リゾートにあった池の浮島と同じです。あそこの浮島からも霊気が漏れ出ていました。うーん・・・・。そうか、この神社は箱庭ですね。この六角石は霊的スポットのある氷上山を表現しています。そして、そこの小さな池は、玉山リゾートにあった池を表現していると考えられます。池と氷上山の関係がよく判りませんが。2週間くらい前、KISSの連中に影向石探しのために氷上山に連れだされた時、霊気の出ている磐座いわくらの残骸を見つけました。その近辺にはストーンサークルを構築する磐境いわさか用の石が16個散らばっていました。山中では修験行者が構築する霊的スポットに出会うことは多いので特に気にとめていなかったのですが、もしかすれば、あそこが、服部半蔵が結界を張った中心地点であったのかも知れませんね。あの時は影向石ばかりに気が向いていたので、磐座には注意していませんでした。あの刺繍の地図に描かれていた真珠の宝剣を逆立ちさせた場所なのかも知れません。弾武典は気が付いていなかったので黙っていましたがね。真珠の宝剣を、あそこの磐座に立ててみたいですね、幸造さん。」と幸平が言った。

「真珠の宝剣で試してみるか、幸平。」

「ええ、後日、氷上山に登りましょう。幸造さん。」

「ちょっと待ってください。真珠の宝剣はKISSに持っていかれたままですが?」と太郎が言った。

「実は、盗まれたのはレプリカです。現在、銀座のショールームに展示しているのが本物です。盗難の場合を考えて、あらかじめレプリカをあたかも本物のように扱って、周囲の人間には本物と思いこませるように仕向けてきました。銀座のショールームを開設した時に幸平と相談してそのように決めたのでした。ですから、本物とレプリカの違いを見分けられるのは私と幸平だけです。慶子は本物が盗まれたと思っていますがね、あっはっはっはー。だから、警備保障会社には盗難の事を知らせていません。」と幸造が言った。

「ところがですね、今度のお二人の失踪事件を追跡するために監視カメラの映像を警備会社で確認しました。その時、盗難の事は警備会社に伝えました。盗難の件は公表しないように口止めをしてありますが。」と太郎が言った。

「そうですか。それは想定外でした。あっはっはっはー。」と幸造が笑った。



 影流33;

陸前高田市内 氷上山山頂  2008年4月8日(火) 午前11時ころ


田代幸造、橘幸平が救出されて一ヶ月後。

前日から玉珠湯に宿泊していた大和太郎、田代幸造、橘幸平、田代慶子の四人はよく晴れた氷上山に登った。大和太郎は田代幸造の依頼でボディガードとして同行していた。


橘幸平の指導で古代の磐境石と思われる16個の石を4人で集め、氷上神社の六角石と同じように六角形を組み、その中心に真珠の宝剣を逆立ちさせた。

橘幸平には宝剣から立ち上る霊気が感じ取れた。


「ああ、これは何なのだろう?」と幸平が呟いた。


その時、修験装束に身を包んだ5人の男が岩影から現れた。


「こう云うことだったか、橘幸平。」と5人の中央にいる修験者が言った。

「お前は、弾武典。」と太郎は言いながら田代慶子達を守ろうと身構えた。

「私立探偵の大和太郎だな。いろいろと出しゃばるのが好きな男だな、おまえは。お前の空手の腕前は知っている。しかし、戦えば我々5人の方が強いぞ。別に、危害を加えるつもりはない。心配するな。」

「何が目的で現れた。」

「分かっているだろう。結界を張りに来たのだ。御主等おぬしらでは無理だろう。結界構築の呪文と印結びを知らないだろうからな。私の協力が必要だ。協力してやろう。わっはっはっは。」と弾武典が言い放った。

「断る。お前に日本を渡す訳にはいかぬ。」と橘幸平が言った。

「まだ、知らないようだな、日本の危機を。」

「日本の危機?」と太郎が訊き返した。

「教えてやろう、ブラジル人の霊夢予言者が言っている事を。」

「霊夢予言?」

「2008年9月13日にそれは起こる。ベトナムのトンキン湾近郊にある中国海南省の海南島か、広西壮族チョワンツー自治区南寧ナンニンで大地震が起こるらしい。」

「中国での地震が日本と関係があるのか?」

「大和太郎、お前は知っているだろう。日本列島が世界の縮図であることを。大本教の教祖であった出口王仁三朗でぐちおにさぶろうが唱えた世界の経綸しくみのことだ。そして、影向線だ。世界地図でのトンキン湾は日本列島では東京湾に相当する。トンキン湾とは漢字で東京湾と書く。トンキン湾にある海南島は霧島神宮、二見輿玉神社、富士山本宮浅間大社、鹿島神宮を結ぶ霊ライン上にある。そして、南寧は奈良県の橿原神宮、三重県名張市の宇流富志彌うるふしみ神社、愛知県岡崎市の岡崎城内にある龍城りゅうき神社、富士山頂の富士浅間大社奥宮、皇居の半蔵門、千葉県の香取神宮を結ぶ霊ライン上にある。この二つの影向線の交点には田代幸造、お前も知っている亀戸香取神社がある。そして、海南島は古代に東京湾にあった亀の島に相当するのだ。亀の島とは、現在の東京都江東区にある亀戸地域に浮かんでいた亀の形をした島の事だ。判るか、この意味が。海南島か南寧で起こった大地震はこの霊ラインに沿ってその衝撃を東京都江東区にある亀戸に向かって走らせる。では、その衝撃とは何であるかだ。地震波ではないぞ。」

「それは、地震被害者の想念だろう。」と橘幸平が言った。

「流石だな、橘幸平。そうだ、被害者たちの大きな想念、すなわち大霊波と云う強力な霊的電磁波だ。しかも、地震に対する恨みのこもった大邪念が混在した霊波。それは、地震を起こす地球に対する恨みとなって東京に向かうのだ。その影向線上にある霊的スポットはその影響を受けることになる。それによって霊的歪みが生じ、地殻の動きがその影響を受ける。地殻の異常活動のため将来いつの日か、日本沈没が起こるかもしれない。あるいは、大地震が起こるのかも知れない。嘘だと思うなら、俺はこのままここを立ち去ろう。日本を助けたくない奴の手伝いはしない。本日の午前11時47分には太陽が真南に来る。その時に結界を張る呪文を唱え、印を斬らないと結界を構築できないぞ。早くきめろ。私は嘘を言わない主義だ。嘘をつくと霊能力が落ちるからな。橘幸平、お前ならそれが判るだろう。」

「どうします、幸造さん。」と言いながら、橘幸平が田代幸造の顔を見た。

「判った。しかし、どのような結界を構築するのかを言葉で言ってくれ。妙な結界が出来ては困るからな。それをはっきりさせておきたい。」と田代幸造が弾武典に向かって言った。

「よろしい、言葉にしておこう。服部半蔵が静岡浅間神社、富士山本宮浅間大社、塩釜神社、氷上山を結ぶ影向線に構築した東照結界は西からの邪悪な霊波に対してのものだ。この霊ラインに沿って東からの邪悪霊波に対する西照結界を構築する。それから、亀戸香取神社において南からの邪悪な霊波に対する北照結界を構築する。その役目は橘幸平にゆだねる。指名手配の身である私は東京の都心にある亀戸に出向く訳にはいかないからな。半田警視長には出会いたくないからな。橘幸平には呪文と印の斬り方を教えるが、これから私が行う所作と雰囲気をよく覚えておけ。」

「突然そんな事を言っても、そう簡単に覚えられないだろう。」と太郎が合いの手を入れた。

「いや、大丈夫だろう。修験修行の経験がある橘幸平なら印と呪文には慣れている。それに、橘幸平には『志摩の神珠』が付いているからな。」と弾武典が言った。

「何故、それを知っている。」と橘幸平が弾に訊いた。

「あっはっはっは。じゃの道はヘビと謂うことかな。時間がない。さあ、結界構築の準備をはじめるぞ。しっかり覚えろよ、橘幸平。」と弾が言った。

「しかし、亀戸香取神社の影向石はどこにあるのだ。」と幸平が弾武典に訊いた。

「お亀石か?私は知らない。お前なら見つけられるだろう。『志摩の神珠』が付いているからな。」


「お亀石とは何ですか?」と田代慶子が橘幸平に訊いた。

「奈良県の大峰山で修験修行を行う時に『お亀石 踏むな たたくな つえつくな よけて通れよ 旅の新客』と云う歌を詠みます。このお亀石の上に役行者が座って修行をしたといわれています。お亀石とは六角形をした影向石、あるいは護法石のことです。」と幸平が慶子に説明した。


影流34;

 玉山リゾート跡地の池の前  2008年4月8日(火) 午前11時47分


「おじいちゃーん。池から煙が出ているよー。」と玉珠湯の主人の3歳の孫が叫んだ。

「竹ちゃん。池に近づいたら危ないよ。」と玉山リゾート跡地にある子供公園の遊具を手入れしていた玉珠湯の老主人が叫びながら池の方角に走って行った。

「こ、これは何だろう。玉山に長年住んでいるが、こんな現象を見るのは初めてだ。」と老主人は呟いた。


池の表面から白い水蒸気が綿のようになって、ふわり、ふわりと立ち上り、ゆっくりと渦巻きながら天に向かって上昇している。

「無風状態であるのに、渦巻いて登っていくのか。何か、荘厳な雰囲気があるな、この情景には。私も死んだ時には、このような荘厳な雰囲気であの世の浄土に登っていきたものだな。」と老主人は思った。


 氷上山頂 磐座跡地  2008年4月8日(火) 午前11時47分


弾武典は逆立ちしている真珠の宝剣の前に立ち、南方上空にある太陽に向かって呪文を唱えながら印を斬っている。太郎、幸造、幸平、慶子は弾の後ろに立って、玉山金山の方角で荘厳な雰囲気のある白い煙がゆっくり立ち昇っているのを眺めていた。


橘幸平には太郎、幸造、慶子の見ている光景とは違った映像が見えていた。

「宝剣の剣先から霊気が立ち昇っている。そして、玉山金山からは銀色の龍神がうねりながら上空に立ち昇っていく。そして、龍神が太陽を中心にしてグルグルと廻りはじめた。何と云うことだろう。この光景はどこかで見た気がするな。どこでだろうか?そうか、二見が浦にある龍宮社の前に掲示されているあの絵画だ。夫婦岩の背後から登るオレンジ色に輝く朝陽の周りを回っている八大龍王の姿を描いた、あの霊視絵画だ。大きな太陽の中心には丸い真珠か水晶玉が描かれていたな。」と幸平は思いながら、弾武典が唱える呪文のイントネーションと印の斬り方に注意を向けていた。


 JR竹駒駅近くの荘厳寺  2008年4月8日(火) 午前11時47分


庭の手入れをしていたお寺の近くの住人が、松葉が空から降ってくるのを眺めていた。

「何だろう、この松の葉は?」と中年の主人が夫人に言った。

「ほら、荘厳寺の『龍の松』が揺れているわよ。」と、やや高台にある浄土宗荘厳寺の『荒波の松』を指差して夫人が言った。

松葉が上昇気流に乗って上空に舞い上がり、上空の風に流されてから近隣の農家の庭に降っていた。

「『龍の松』が風もないのに、ザワザワと揺れているな。地震でもないのに木が揺れているぞ。」

「ほんとうかね。」と言いながら、『荒波の松』の方を見た。

「あの龍の松には謂われがあってね。玉山から、この地に寺を移した時に玉山に生えていた松の苗木を植え移したらしいのだが、その夜、当時の住職がある夢を見たらしい。太陽の周りを回っていた龍神が地上に降りた時、その苗松の中に吸い込まれていく夢だったらしい。それ以来、松の木は成長するに従って龍の形に似てきたとのことだった。今、その龍神が飛び出していったのかもしれないね。しかし、不思議だねえ。うーん。」と中年夫婦と同居している老人が言った。


 氷上山上 磐座跡地  2008年4月8日(火) 正午

 

 結界構築を終えて立ち去ろうとした弾武典に向かって大和太郎が言った。

 「訊きたいことがある。」

 「何だ?」

 「真珠の宝剣の窃盗日を12月8日に選んだ理由を知りたい。」

 「別に意味はない。事の流れであの日になっただけだ。」

 「ほんとうか?」

 「あっはっはっは。太平洋戦争の開戦記念日を言っているのか、大和太郎。私も日本人に成りきるために日本の歴史は古代から現代まで、多くの知識を学んだよ。真珠湾攻撃の命令暗号文が『ニイタカヤマ ノボレ』であり、新高山にいたかやまは台湾では玉山と呼ばれていることをな。白い石瑛岩でできているので雪山とも謂われている。そして、日本の富士山より高い山であることもな。別に、日本に戦宣布告をするつもりはない。真珠の宝剣と真珠湾を同じに見立てたと考えたのだろうが、そのような事は考えていない。もし、そのような意味があるとしたら、むしろ、伊勢神宮かどこかに居る日本の守り神に訊いてみることだな。」

 

「もう一つ質問がある。何故、日本を守った。KISSの狙いは日本征服ではないのか?何が目的なのだ。K国にとって、結界を構築するメリットは何なのだ?」

「相変わらず、頭の斬れる男だな、大和太郎。我が愛するK国は日本列島の西北の方角にあるとだけ答えておこう。これ以上は質問するな。私に嘘をつかせないでくれ。橘幸平、後は任せたぞ。」と言いながら、仲間たちに囲まれた弾武典は足早に山を下りて行った。


「日本列島の結界が東南からの邪悪な敵の攻撃に対する防御線と云う事か。K国にとって東南の敵と云えばアメリカ海軍の太平洋艦隊になるが?」と太郎は思った。



 影流35; 亀戸探索

亀戸香取神社  2008年4月10日(木) 午前10時ころ


太郎、幸造、幸平の3人は影向石を見つけるため、亀戸香取神社を訪れた。

拝殿に参拝したあと、それほど広くない境内を探索した。


「神社の境内には影向石はないですね。磐境用の石は数個ころがっていますが、どこかから運ばれてきたものでしょう。磐境を構築するには数が少なすぎます。」と橘幸平が言った。

「古代には、香取神社の神域は亀の島全体であったらしいから、現在の境内の外に影向石はあるのかもしれないな。」と田代幸造が言った。

「亀戸天神に行ってみましょうか。」と大和太郎が言った。


 亀戸天神   午前10時15分ころ


「この池の中から頭を出している岩からは弱い霊気がでていますが、影向石ではないでしょう。むしろ、玉山リゾートにあった池に相当する可能性がありますね。玉山での池と氷上山の位置関係を考えると、池の東側か東北に位置する場所に影向石か磐座があったと考えるべきでしょう。」と橘幸平が言った。

「この場所の東北の方角には亀戸梅屋敷跡地がありますよ。亀戸香取神社は東北東になります。玉山の池と氷上山頂の位置関係の相当するのは香取神社になるがね。」と幸造が言った。


 亀戸梅屋敷跡地  午前10時25分ころ


「茂みの中を調べてみましたが、それらしき石はないですね。」と、梅屋敷跡地として残されている小さな角地の茂みを調べて出てきた大和太郎が言った。

「確か、江戸時代の梅屋敷には臥龍梅と呼ばれた梅の木がありましたね。」と田代幸造が言った。

「臥龍梅の跡地の碑がここから30mの道路際ところにありました。先ほど通りましたが、霊気は感じませんでした。もう一度、香取神社に戻ってみませんか。境内にあった摂社の祠を確認したいのです。」と橘幸平が言った。


再び亀戸香取神社   午前10時40分ころ


亀戸香取神社境内にある摂社祠は、種々の理由から古代から江戸時代にかけて亀の島や亀戸村にあった各神社を明治以降になってから境内に遷して祀ったものである。大国主・事代主を祀る福神社。天照大御神を祀る入神明宮。渡辺稲荷神社と琴平神社を合祀した稲足神社。熊野神社、三峰神社、水神社などが祭祀されている。


「これですね、幸造さん。天祖神社の入神明宮です。鎌倉時代の元冦の時、伊勢神宮の風神社に日本守護を祈願した故事があります。この時、台風が博多湾を通過し、モンゴル軍(元国の兵隊)に大打撃を与えました。しかも、二度もです。そのため、風神社は風日祈宮かぜひのみのみやと改命され、新しく祀られました。この入神明宮は古代、風雨が吹き荒れた時、亀の島の漁民が伊勢の大神にお祈りすると、波風が治まったので社祠造営して天照大御神を祀ったと、この掲示札に書かれています。そして、この地からは穴の開いた管状の重り石が出土したとのことです。漁のための網に着けた石らしですね。しかし、この石は神祠の環状石として磐境を創るために用いられたと考えることもできます。この入神明宮の場所は磐座祭祀の跡地である可能性がありますね。」と幸平が言った。

「しかし、古代には入神明宮の場所がどこにあったかですね。」と太郎が言った。

「それなら、亀戸駅から香取神社にくるときに通って来た十三間通り商店街にある亀戸みちしるべ案内地図を見れば判りますよ。亀戸七福神に参拝する人のために作られた地図ですがね。」と幸造が言った。


亀戸4丁目交差点角みちしるべ地図板の前   午前10時50分ころ


「入神明宮跡地はここですね。」と太郎が案内地図を指さして言った。

「亀戸梅屋敷跡の近くですね。そして亀戸天神の東北の方角になりますね。行ってみましょう。」と幸平が言った。


入神明宮(旧天祖神社)跡地  午前11時ころ


跡地はアスファルトを敷いた駐車場になっていた。その場所には入神明宮が描かれた江戸名所図絵と跡地の説明掲示板が立てられているだけであった。太平榎塚たいへいえのきつかと呼ばれた小高い塚に天祖神社が存在していたようである。


「ここには霊気がないですね。どこかに影向石があったのかもしれませんが、ちょっと見つけるのは困難です。」と橘幸平が言った。

「どうする、幸平。」と田代幸造が言った。

「やはり、亀戸香取神社ですね。摂社の天祖神社祠の後ろに大きな万年青おもとが植えられていましたね。植物は生命体ですから微弱な霊気を出していますが、万年青は別格です。『天福の霊草』とも呼ばれ、葉は剣先状になっており、その多くの葉先から霊気を空間に出しています。徳川家康が駿府から江戸城に入った時に床の間に万年青を飾ったと謂われています。あの神社の万年青を利用して結界構築が出来るでしょう。私に考えがあります。」と幸平がいった。

「判った。香取神社の神職とは古武道奉納演武会を通じて面識があるから、後ほど挨拶に行こう。」と幸造が言った。

「決行の日程は後日連絡します。結界構築に最適な日取りを調べて連絡します。」と幸平が言った。



 影流36;志摩の神珠

亀戸香取神社 2008年5月 2日(金)   午前11時40分ころ


神社の神職が摂社の天祖神社、稲足神社、福神社、熊野神社、三峰神社、水神社に挨拶の祝詞を奏上し、その後方にある万年青のお祓いを行った。

その後、橘幸平は持参した直径10センチの透明な水晶玉を直径2メートルくらいある大きな万年青の中心上に構築した木組み櫓の上に置いた。更に、水晶玉の真上に『真珠の宝剣』を逆立てる様に木組み櫓の立棒に取り付けた。水晶玉の中心部には白く丸い雲のような濁りが入っている。


「万年青が地中から集めた霊気が水晶玉に集束されます。そして、集束された霊気は水晶玉の上にある真珠の宝剣を通過して天上に向かって上昇します。この水晶玉は『志摩の神珠』と呼ばれる霊験のある神具です。知り合いの霊能者に謂わせると中心部にある白雲の濁りには神霊の意識が感じ取れるらしいです。この水晶玉は、私が30年前に志摩半島で古墳めぐりをしている時に偶然発見しました。ある古墳から少し離れた雑木林の中を歩いていると、霊気を感じる石が地面から少し頭を出していました。その石を掘り出してみると、土が埋まった20センチくらいの穴がありました。その土を掻き出すと、この水晶玉が出てきました。知り合いの修験霊能者にこの玉を見てもらいました。その霊能者の話によると、中心部の白雲の濁りに神気が封入されているとの事でした。たぶん、昔の霊能者が何かの神業を行うために神気を閉じ込めたのだろうと言っていました。私が発見したのも何かの因縁であるから、大切に保管するように言われました。その霊能者がこの水晶玉を『志摩の神珠』と命名してくれました。」と橘幸平はみんなが納得するように水晶玉の謂われを説明した。


近隣の住民たちは何事が始まるのかと遠巻きにして眺めている。


修験装束に身を包んだ橘幸平が、万年青の前で南向きに立ち南中した太陽に向って呪文を唱えはじめた。

幸平には真珠の宝剣から立ち上る強い霊気を感じていた。

幸平には、水晶玉がオレンジ色のオーラを発散しているのが見えた。そして、水晶玉の周りから小さな龍が回転しながら太陽に登っていくのが見えた。その小さな龍が天空に昇りながら、少しずつ大きくなっていき、終には太陽の周りを龍神となって回り始めた。

「ああ、二見ヶ浦の龍神社にあったあの霊視絵画と同じだ。」と思いながら幸平は印を斬った。

大和太郎や田代幸造たちには、何か荘厳な雰囲気が神社の周りに感じられるだけで、目には何も見えていなかった。


亀戸天神  2008年5月2日(金) 午前11時40分


幸平が呪文を唱えているのと同じ頃、亀戸天神の池から水蒸気が立ち上り始めていた。参拝客がざわついている。

「何だこりゃ?池から湯気が立っているぞ。温泉でも湧いているのか?」

「しかし、ふわふわと立ち昇っているな。綿菓子が空に向かって昇っていくみたいだな。」

「ほんとだわ。子供のお土産にしたいくらい。ほほほほー。」


みんな好きな事を言いながら、立ち昇る水蒸気を眺めていた。

荘厳な雰囲気なので、手を合わせて何かを祈っている老人もいる。


亀戸天神での不思議な現象は3分くらいで終わった。



 影流37;台風13号〜伝説の神シンラコウ〜


氷上山、塩釜神社、富士山本宮浅間大社、静岡浅間神社を結ぶ影向線の延長上の地点にあるフィリピン東沖の太平洋上で2008年9月9日午前3時、台風13号が発生した。


ミクロネシアの言葉で『シンラコウ(伝説上の神)』と世界気象機関によって命名された台風13号は9月13日午前零時には台湾東沖海上に到達し、9月16日午前零時までの3日間、鹿島神宮、亀戸香取神社、富士山本宮浅間大社、二見輿玉神社、霧島神宮、海南島を結ぶ霊ライン上にある台湾玉山の北側海上に停滞した。


その後台風は日本列島の南海上を霊ラインに沿うようにして東北東に移動し、9月20日正午には鹿島灘に到達し、9月21日19時に鹿島灘東方の太平洋上で弱い熱帯低気圧となって消滅した。


この9月13日から9月21日の間、鹿児島県沖海上や三重県志摩半島沖海上、富士山と氷上山を結ぶ影向線の延長線上にある北海道根室沖海上などで海面から天空の雲海に向かって立ち昇る多数の竜巻が目撃された。気象観測関係者の話では、台風が3日間も同じ地点で停滞するのも稀であるが、短期間にこれ程の竜巻が日本で目撃されるのは珍しいとのことであった。特に、根室沖では3本の竜巻が同時に絡み合うように乱舞しているのが目撃されていた。


※著者注;当時、NHKのテレビニュースで根室沖と志摩半島沖の海面から上空の雲まで届く竜巻の映像が放送されていた。鹿児島県沖の竜巻については、天気予報で注意報が出されていたと記憶している。台風13号の進路については次のホームページに表示されています。         http://www.imocwx.com/typ/tyani_13.htm



 影流38;

2008年9月14日(日)午前0時5分ころ 毎朝新聞社会部


海南島に特派した記者からの電話報告では、9月13日に大地震は発生しなかったとのことであった。


「結局、中国の海南島では地震は発生しませんでしたね、部長。」と鮫島姫子が言った。

「ああ、そうだな。新聞社としては期待していた部分もあったが、無事であった事は何よりである。みんな自宅に帰ってもらっていいぞ。」と向山部長が地震発生に備えて社会部に詰めていた記者たちにむかって大声で言った。

「しかし、あのブラジルの夢予言者の予告はよく当たるので有名なのですがね。」と姫子が言った。

「ああ、そうだな。あの夢預言者がいつも言っているように、人間が事件発生を回避する様に行動を起こせば避けられると云うことだろうかな?しかし、地震は人間にはどうこうできる代物ではないと思うがな?」と向山部長が言った。

「本当ですね。誰かが奇蹟でも起こさない限りは無理でしょうね。神様とかがね。」

「神様か?そうだ、思い出した。香取神宮の要石に纏わる話にこんなのがあるぞ、姫子。」

「何ですか?」

「昔、鹿島と香取の二柱の神様が千葉県の香取ヶ浦に来た時、この地方では地震が頻発して、住民たちは恐れていたらしい。地震が起こるのは地中に住んで騒いでいるナマズが居るからと謂われていた。そこで、二柱の神様は地中に石棒を差し込んでナマズの頭と尻尾を抑えて地震を鎮めたらしい。この石棒の地上に見えている部分が香取神宮にある要石かなめいしらしい。」と向山部長が説明した。

「なるほど。ナマズ(鯰)と謂う字は魚へんに念力の念と書きますね。魚の想念が地震を発生させているのでしょうかね?魚の邪念が。」と姫子が言った。

「なるほど。姫子、それを記事にしろ。文芸欄に地震回避特集だ。人間の悪想念が地震を招く。どこかの宗教者を探して、意見を聞いてこい。文芸部には俺から連絡を入れておく。月曜日の夕刊に間に合わせろ。いいな。」

「ゲゲー。月曜の夕刊ですか。無理です。時間がないですよ、部長。」

「バカヤロー。何とかしろ。世の中、物事はすべてタイミングで出来ているのだ。タ・イ・ミ・ン・グ。事件記者がタイミングを外したら、仕事の成果はないぞ。判ったな、姫子。ああ、それからなまずの文字にある魚篇の字は『うおう』と発音する。古代では多いと云う意味に『五百』と云う文字を用いて『いほう』と発音した。それがなまって『いおう』になり、後年になって『おう』となり、更に『うお(魚)』と云う発音に変化したのだ。神戸市東灘区に魚崎と云う地名がある。古代、神功皇后が三韓遠征に出る時、この地の海岸に多くの軍船が集結したので、『五百崎いおうさき』と呼ばれた。その後、『いおうさき』が『うおさき』の発音となり、明治時代になって漁民の要請で五百崎が魚崎と云う文字に改名された。姫子、解かるか?鯰と云う字の意味は多くのおもいと云う意味なのだ。」

「なるほど、魚は群れをなして海中を泳いでいますね。五百いおうも沢山が群れていると謂う意味ですか。漁民の方たちの多くの群れと云う概念は魚に相当すると云う訳ですね。部長、博識ですね。見直しました。ところで、地震に関する宗教家の件ですが、京都にちょっと心当たりのお寺があります。明日、京都に行ってもいいですか?」と姫子が感心しながら向山部長に言った。

「京都?まあいいだろう、日帰りでな。しっかり記事を書いてくれよ。」



影流39;エピローグ

2008年9月14日(日)午後1時ころ 埼玉県武蔵嵐山都幾川沿いの土手


台風13号が台湾上空に停滞していると云うニュース天気予報を携帯ラジオでききながら、大和太郎は都幾川土手を散歩していた。そして、二見が浦にあった龍神社の絵を思い出していた。


「結局、9月13日には地震が発生しなかったな。結界構築の効果は台風13号なのかな。元冦の時の神風台風と同じだな。霊験新たか(れいげんあらたか)とは新高にいたかと繋がるのかな。台湾の新高山こと玉山の霊験を低気圧の台風が吸い込み、悪想念の発現を防ぐために霊ラインに乗せてその霊験を海南島に送った訳か。それが地球の大地震を防ぐと云う奇蹟を実現したのか?そして、津波の発生が近隣諸国を襲うと云うもう一つの悲劇も回避された訳だ。そういえば、津守国基が荘厳浄土寺開基の発願ほつがんをしてから落慶らっけいするまでに13年かかったと云うことであったな。何か、13と云う文字に因縁があるのかな?この台風13号も発生から消滅までに13日間かかるのかな?そうすると、9月9日が台風発生日だから、9月21日が消滅の日になる訳だな。その間に何か起こるのかな?因縁と云うことならば、12月8日の『ニイタカヤマ ノボレ』は神の思し召しなのか?鳥羽でのひき逃げ事件と云う悲劇を引き起こした弾武典が『真珠の宝剣』を盗んで始まった田代氏誘拐事件は神の計画なのか?橘幸平さんが見たと云う龍神が影向線上から海南島の地震を抑え込む霊波を送っているのかな。あの時、氷上山から見えた玉山上空のふわふわした白い玉は何だったのかな。そして、二見ヶ浦の龍宮社前にあった、あの龍神が描かれている絵画にも白い綿のような水蒸気が描かれていたな。そうか、『大海原』と書いて『わたのはら』と読む苗字のひとがいたな。それに、海を治める神様のことを『大綿津見神おおわたつみのかみ』と呼ぶな。あの白いふわふわと浮いている丸い水蒸気は綿のことなのだ。太陽の中心に描かれている白い玉も綿の実を表わしているのかもしれないな。そして、夫婦岩には潮の花と呼ばれる綿のような海水の泡玉が浮かんでいたな。しかし、春の4月と5月に行なった結界神業の成果が神風台風の発生と云う形で現われるとは思わなかったな。」


   『うたがふな  潮の花は  浦の春    芭蕉』 

   

   

   影流―志摩の真珠―  完  目賀見 勝利

   2009年2月11日 (水) 午後2時11分   脱稿

   2009年4月18日 (土) 追記


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ