揺らぎ
「おっ、ちょうど良かった」
足を引きずり教室に入った桜を見て、担任の渡辺が声をかける。
「良かったな」
桜がきょとんとする。
足を痛めたばかりで、良いことなどないはずだ。
「何がです?」
「伯母さんから聞いてないか? 修学旅行、行けることになったぞ」
「えっ⁉︎」
「同意書も振込も頂いた。これで心置きなく参加できるな」
渡辺は桜の肩を叩くと、教室にいる生徒たちに向かって「早く席につけー!」と言った。
「どういうこと……?」
伯母に会う必要がある。
「ねえ、ダスト」
「どうした?」
ダストが微笑む。
初めて会った頃と違い、ダストの表情は豊かになった。
しかし──
『ダストがあなたの記憶をいじっていないと、どうして言い切れるのです』
ナルの言葉が頭に響く。
(違う)
『ダストに会う一瞬前まで、生きていたかも知れませんよ』
(やめて)
『もしかしたら、ダストが……』
(やめてよ!)
「どうした? 桜?」
ダストが顔を覗き込んでくる。
その顔はいつもと同じ優しさに満ちている。
「その足、怪我したのか?」
ダストが光る。
一瞬で足の痛みが引く。
(違う。そんなはずない)
何度否定しても、ナルの声が鳴り止まない。
「私、今日、行く所があって……」
「そうか。どこだ?」
「ひとりで行きたいから、ダストは先に帰ってて」
「ナルに何かされたらどうする」
「大丈夫よ」
「ダメだ。ナルは何をするかわからない。ひとりでなんて行かせられない」
桜はムッとした。
「何それ。じゃあダストは、いつでもどこにでもついてくるの?」
ダストが当然のように頷く。
「当たり前じゃないか」
「ずっと?」
「ああ。ずっとだ」
ダストが嬉しそうな顔をする。
「だってそう言ったのは桜じゃないか」
「確かにそうだけど……」
『あなたの感情は、本当にあなたが抱いたものですか?』
ドキリと心臓が跳ねる。
「とにかく、今日はひとりで行きたいの。絶対についてこないで」
どこかでナルが笑った気がした。
桜はチャイムを鳴らした。
(留守かな?)
そう思った時、玄関が開いた。
顔を出したのは日向だった。
言いようのない嫌悪感が走る。
「伯母さんは?」
日向は憂鬱そうに玄関扉にもたれかかった。
「入れば?」
「伯母さんはいないの?」
再度尋ねる。
日向は質問に答えず、皮肉な表情を浮かべた。
「またお金の無心に来たの?」
「違う!」
「じゃあ何しに来たのさ。この前もそうだったのに」
「私はただ……」
(何しに来たんだろう?)
美里が修学旅行の旅費を払ったと聞いて、お礼を言いに来たのだろうか。
それとも、あなたの世話にはなりたくないと、つっぱねに来たのだろうか。
自分でもよくわからなかった。
「伯母さんがいないなら帰る」
桜は踵を返した。
「待ちなよ」
桜が振り向くと、日向は親指をくいくいっと動かした。
その先に玄関がある。
(どういうつもり?)
日向のことを注意深く観察する。
その視線に気づくと、日向はふっと笑った。
(あ、目元が……)
じっと見つめていると、日向はもう一度
「入れば」
と言った。
キッチンに日向がいる。
見慣れたキッチンは、桜が暮していた頃には考えられないほど散らかっていた。
洗われていない食器。
空になったカップ麺。
弁当や、惣菜の入っていただろう容器。
無造作に積まれた鍋やフライパン。
「コーヒーでいいかな?」
日向がキッチンに立つ。
「お構いなく」
桜はそう言ったが、日向はカップをふたつ持って来た。
「どうぞ」
ひとつを自分の前に、もうひとつを向かいに置く。
「変な薬なんて入れてないよ」
証明してみせるかのように、日向はひとくち飲んだ。そして薄っすら笑う。
「あぁ、不味いなぁ」
「え?」
「コーヒーだよ。いつも思うんだ。こんな苦いだけのものを、どうして人は飲むんだ」
桜は戸惑った。
「こんなものを飲むくらいなら、泥水を飲んだ方がマシだ。苦いし、熱いし、少しも旨くない」
「じゃあ飲まなければいいじゃない」
桜が言うと、日向は微笑んだ。
(あ、また……)
ぱっと見の印象は少しも似ていない。
しかし笑った時、目の下に出る皺が、父の明とそっくりだ。
「本当に。飲まなければいいよね。でもこの家に液体はこれしかないのさ。子どもの頃からずっと。だから僕はこれを飲んでいる」
そう言ってもうひとくち飲む。
桜も座った。
「私は好きよ。コーヒー。お父さんの入れるコーヒーはとても香りがいいの。苦いって言ったら、ミルクと砂糖をたっぷり入れてくれるのよ」
「残念。うちのコーヒーはそんな素敵なものじゃない。インスタントだ」
桜はカップを手に取り香りを嗅いだ。
「これはこれで、いい香り」
ひとくち飲む。
「苦いのが苦手なら、ミルクと砂糖を入れたらいいのよ。そうしたら、とっても……」
桜の視界がぐにゃりと歪む。
「あれ……」
どちらが天井で、どちらが床だかわからなくなる。
目が回り、体を真っ直ぐに保つことができなくなる。
桜はソファーから倒れた。