将来
「あれ、まただ」
桜は下駄箱の蓋を開けていた。
本来上履きが入っているはずのスペースに、何もない。
誰かが隠してしまったのだろうか。
「またナルの仕業かな」
ナルは屋上でダストと対決したあと、杏奈だけでなく、他の生徒たちの記憶も消したようだった。
桜の悪い噂は無くなり、元の生活に戻ったと思っていた。
「諦めたと思ったのに」
下駄箱の蓋を持ち上げたまま止まる桜を、ダストが押しやる。
下駄箱の中に手を入れ、中が少し光り、取り出した手には桜の上履きが握られていた。
ダストが上履きを床に置く。
「ありがと」
そう言って、桜は上履きを履いた。
「ホント仲良いね〜」
声のした方を見ると、杏奈と恭平がいた。
「おっす。いくら仲が良いからって、上履き取らすってどうよ」
「彼氏でもそんなことしてくれる人いないよね」
「ちょっ、違う! これは!」
桜がムキになって否定する。
「行くぞ」
ダストは桜の腕を引いた。
「あっ、こら、ダスト。まだ喋ってる!」
「ナルの所に行く。離れているより一緒に行った方が安全だ」
「そっか。ふたりともごめん!」
杏奈と恭平は何も言わずに手を振った。
ダストは廊下を進み、職員室の扉を勢いよく開けた。
そのまま中に進む。
引きずられるように桜も入った。
「しし、失礼します!」
入ってから言っても遅いかと思ったが、言わないよりマシだろう。
ナルの前まで進むと、ダストはナルをにらみつけた。
「どういうつもりだ」
ナルは読んでいた新聞を机の上に置いた。
「なんです?」
「ちょっとダスト。ここじゃまずいよ」
桜はダストに耳打ちした。
周りにいる教師たちが、何事かとこちらを見ている。
「場所を変えましょうか」
ナルはそう言うと立ち上がった。
職員室を出て、真っ直ぐ廊下を進む。
校舎の突き当たり、渡り廊下まで来るとナルは右に曲がった。
この先はプールがあるだけ。誰もいなかった。
「さて、何ですか?」
屋上のことがあったあと、桜たちはナルのことを無視していた。
ナルはナルで、桜たちにちょっかいをかけてくることもなく、真面目な教員のふりをしていた。
だから桜たちがナルと接触するのは、屋上以来初めてのことだ。
「桜に何かしたら許さないと言ったはずだ」
ダストがそう言うと、ナルは小首を傾げた。
「とぼけても無駄だぞ。今度は誰の感情を操作した」
ナルはふっと笑った。
「何がおかしい」
ダストは気色ばんだ。
するとナルは両手を上げた。そして肩をすくめる。
「本当ですよ。私は何もしていない。しかし君、よくよく嫌われているんですね」
桜がムッとする。
「何もしていないなら、ナルはどうしてまだここにいるの?」
ナルはとても冷たい目をした。
「君に関係ありません」
「まだダストのこと諦めてないの?」
ナルは何も答えなかった。
その表情は
「同じことを二度言う気はない」
と言っていた。
「お前がどこにいようと関係ないが、桜にだけは手を出すな」
「ええ、重々承知していますよ」
ナルはもう一度微笑んだ。
桜たちは教室に向かった。
「ナルの言うことなど気にするな」
桜が落ち込んでいる。
「私って、そんなに嫌われてたんだね。考えてみれば、今のクラスになってから仲良くしてるのって杏奈だけだ。他の子とはほとんど話したことない」
「それは桜が忙しかったからだ」
「まぁ、それはそうなんだけど……」
桜は教室での生活態度を振り返ってみた。
休み時間になると、杏奈が桜の席まで会いに来てくれる。
だから座ったまま杏奈とお喋りをする。
昼休みは人目を避け屋上に行く。
昼食代がないからだ。
体育のペアは杏奈。
選択授業も杏奈と同じ。
放課後も杏奈と一緒に教室を出る。
ちょうど先ほどナルと話していた辺り。プールの手前で杏奈と別れる。
杏奈は水泳部だからだ。
あとはひとりで下校する。
すぐにバイトに行かなければならない。
「うわぁ、ちょっとヤバいかも……」
しかもダストが来てから、ますます他のクラスメイトと絡むことはなくなった。
「私、すっごく浮いてる。もしかして、めちゃくちゃ嫌われてる⁉︎」
桜は自分で自分の両頬を押さえた。それはまるでムンクの叫びのようだった。
「落ち着け。ナルが勝手に言ってるだけだ」
「でも、上履きなくなってたし。そうだ。教科書破いたのも結局誰だかわからない。杏奈がするわけないし、他に犯人がいるんだった!」
ダストがすぐ元通りにしてくれたので忘れていた。
「教科書なんて、高いのに!」
ダストがいなければ、とんでもない出費になっただろう。
「ダスト、ありがとう!」
「いや、金銭の問題じゃないだろう」
「大事なことよ! 計り知れないダメージだわ」
ダストはふっと笑った。
「なに?」
「いいや」
ダストは口に出さなかった。
しかし、上辺だけでも桜が元気になって良かったと思った。
「あ、そういえば。お金の話になったから言うけど」
桜はもう気持ちを切り替えた。
わからぬ犯人のことを考えても仕方がない。
「私、医学部行くのやめるよ」
「えっ、いいのか?」
ダストは驚いた。
短い同居生活だが、その中で桜がいかに努力しているのかを知っている。
授業を受け、バイトへ行き、それから寝る間も惜しんで勉強していた。
「うん。いっぱい泣いたらふっきれちゃった」
桜が笑う。
「伯母さんの家に行って良かったよ。伯母さんの力だけはどうしても借りたくない。再認識できた。早く自分の力でちゃんと生活できるようになりたい」
「では、進学しないのか?」
「大学には行くよ。でも看護科にする。看護科だと奨学金の制度が充実してるから、今の学力でも問題ないの」
「そうか……」
「看護師になって医師を支えるのも素晴らしい仕事だわ」
桜は本心からそう言った。
「それでね、学費を貯めなくて良くなったから、生活費だけで良くなったの。バイトの時間もっと減らせると思う」
両手を組んで上に上げる。
「んっ」と背筋を伸ばす。
「食費も今までみたいに削らなくていいし、これからはお昼ご飯も食べようね」
「ああ」
「もう無理をするのはやめるよ。無理をしなくても、ちゃんと生きていたら許してくれると思う」
「ああ」
「だから、ハンバーグの作り方、教えてね」
桜はぱっと両手を離した。
ずっと重かった体が、とても軽くなった気がした。
「桜、俺は人間でない」
ダストが立ち止まる。桜も足を止めた。
「うん? 知ってるよ」
「だから今から言うことは、とても検討違いのことかもしれない。桜のことを、また怒らせてしまうかもしれない」
「なに? 回りくどい言い方しないでよ」
「俺は、桜の両親は、最初から怒っていないと思うぞ」
「え?」
「許してもらうとか、償うとか、そんなことは思っていないと思う。桜の言ったことが本心でないことは、桜の両親なら一番よくわかっているはずだ」
「ダスト……」
桜の目から、ポロポロっと涙がこぼれる。
「あれ? なんだろ。昨日から私おかしいや。涙腺壊れちゃったかな」
ごしごしと目をこする。
ダストが桜を抱きしめる。
「桜のお母さんも言ってたじゃないか。家族だって。そんな小さなことで一々怒らないのが家族だろ?」
桜は小さくうなずいた。
「……うん。うん、そうだね」
桜もぎゅっと抱きしめ返した。
そしてここが学校の廊下だったことを思い出し、慌ててダストを突き飛ばした。