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理不尽な要求

 一年前のあの日、桜は頑なだった。

 普通に過ごしている毎日が、どれほど儚く脆いものか、桜は全く知らなかった。



「本当に行かないのね?」

 桜の母、幸恵は念を押した。

 桜はふくれっ面のままうなずいた。


「桜。あの、昨日は」

 父の明がもじもじする。

 しかし桜は最後まで聞かなかった。


「さっさと乗れば」

 ふたりは庭に停めた車の前に立っている。

 庭にはチューリップやガーベラ、シャクナゲやスズランなどが咲いている。

 どの花も幸恵が丹精込めて育てた花だ。


 桜はひとり、玄関扉の前にいた。

 ハンバーグのことでケンカをして以来、父に向かって口を開いたのはこれが初めてだ。


「うん。乗るけど……」

「桜、お父さんをそう責めないであげて。お父さん少し勘違いしちゃったのよ」

 幸恵が取りなす。


「お父さんね、お父さんとは違う人のために作ったと思ったの。だからヤキモチ妬いちゃったのよ。ね、お父さん?」

 明がこくこくとうなずく。


「違う人って誰よ」

 明がもじもじと答える。

「だからその、彼氏、とか?」

 途端に桜の鼻先に皺が寄る。


「ごめんよ、桜」

 謝る明を、桜はにらみつけた。


「それでその、本当に違うんだな?」

「何が?」

「だから、彼氏ができたから伯母さんの家に行きたくないって言ってるんじゃないな?」


 幸枝は『やめろ』と明の袖を何度も引いた。

 しかし桜に許してもらいたい一心の明は、当の桜を見ていなかった。


「だったらどうなのよ」

「だってほら、お父さんたちがいなかったら、彼氏を泊めたりできるし」


「最っ低! そんなこと考えてたの⁉︎ するわけないじゃんそんなこと!」

「あっ、そうなの」

 明がほっとしたように胸をなでおろす。

 しかし桜の怒りは怒髪天を抜く勢いだ。


「私のこと、そんないやらしい事をする娘だと思ってたの⁉︎ 」

「あっ、いやっ、そういうつもりじゃなくて」

「最低! 不潔よ!」

「ごめん、ごめんね」

「信じらんない! 父さんなんて大嫌い! 」


「桜っ!」

 いつも穏やかな顔をしている幸恵が、厳しい顔をする。


「なによ」

「お父さんに向かって、何てこと言うの」

「だってそうじゃない。お母さんは私の味方みたいな顔をして、結局はいつもお父さんの味方よね」


「敵とか味方とかじゃないの。だって家族ですもの。敵でも味方でもないわ」

「じゃあ私が悪いって言うの⁉︎ お母さんだって、伯母さんのこと嫌いって言ったじゃない。できれば行きたくないって言ったじゃない!」

「それは……」

 幸恵が気まずそうに明を見る。


「嘘つき! 私の気持ちわかるって言ったくせに!」

「わかるわよ。だから今回は行かなくていいって言ったでしょう」


「でも本当は疑ってたんでしょう? 私が行きたくないのは、いやらしいことをしたいからだって!」

「だからそれは」


「うるさい! お父さんもお母さんも嘘ばっかり。私の気持ちなんて全然わかってない。お父さんもお母さんも大嫌い。死んじゃえ!」


 ぱんっという音が響いた。

 明が桜の頬を打った音だ。


「お母さんに何てこと言うんだ。謝りなさい」


 桜は頬を抑えた。

 ポロポロと涙がこぼれてくる。

 明に手をあげられたのは、生まれて初めてだ。


「酷い。悪いのはお父さんなのに……」

「桜。君は」

「うるさいうるさいうるさい! 死んじゃえ! お父さんもお母さんも、死んじゃえ!」


 桜は家の中に駆け込んだ。

 追ってこられないよう、鍵を閉めてチェーンロックをかける。


「桜! 桜!」


 明と幸恵の呼ぶ声がしたが、階段を駆け上る。

 自分の部屋に入り、扉を閉める。


 ヘッドフォンをつけ、大きな音で音楽をかける。


 何も聞きたくない。

 桜の気持ちを少しも理解してくれない両親の話など、何も聞きたくない。


 気持ちが落ち着くまでずっとそうしていた。

 だからふたりがいつ出発したのかわからなかった。


 携帯電話には何度もメールが届いた。

 しかしある時を境に、メールはぱったりこなくなった。

 諦めたんだと思った。


 しばらくすると、家の電話が鳴った。

 だが桜は出なかった。

 どうせセールスか、でなけば両親だろうと思った。


 何度も何度も鳴る電話が鬱陶しくて、受話器を上げたのは夕闇が迫ってからだった。

 それは病院からの電話だった。


 両親が事故にあったという連絡だった。

 そして、その死を告げる電話だった。



「本当だったら、もっと早くに家を出るはずだった。それなのに、私のせいで遅くなった」

 力の抜けた桜を、ダストが抱きとめる。


「そのせいで、事故に巻き込まれた。予定通りに家を出ていたら、死なずにすんだのに。私のせいで……」

「違う。それは違う」

「私のせいだ。私があんなこと言ったから」


 ダストは桜を抱きしめた。

 桜は悪くない。

 そう伝えたいのに、どうやって伝えたらいいのかわからない。


(俺が人間じゃないからか?)

 ダストは思った。

 同じ人間だったら、もっと上手く桜に伝えられるのだろうか。

 桜は悪くないと伝えることができるのだろうか。


「桜……」

 ただ抱きしめることしかできない。

「……寂しいよ」

 ぽつりと桜が言った。


 家を追い出された日から、桜は弱音を吐かなくなった。

 心の中では何度も思った。

 だが決して口には出さなかった。


 いくら弱音をはいたって、誰も助けてなんかくれない。

 これからは、自分ひとりの力で生きていくしかない。


 そう心に誓って、なるべく明るく元気に振る舞った。

 そうしなければ、頑張れなかった。


 両親の分まで生きなければならない。

 幸せにならなければならない。

 そう思えば思うほど、心は硬く閉じていった。


 その桜が、初めて弱音を口にした。

 留めていた弱音は、一度口から出ると、とめどなく溢れてきた。


「会いたいよ。お父さん、お母さん、会いたい。寂しい。おいていかないで。ひとりにしないで」

 ダストは抱きしめる手に力を込めた。


「どうして生きてるの。お父さんもお母さんも死んだのに。どうして私だけ生きてるの。生きるのは辛いの。連れていって。ひとりは嫌。嫌なの。おいていかないで」


 行きたくないと言ったのは桜だ。

 とんでもなく理不尽な要求だ。

 そんなことは重々わかっていた。

 だから絶対に言ってはいけないと思っていた。


 しかし溢れ出した言葉はとどまることを知らない。


「私も一緒に死にたかった」


 ダストの腕の中で泣き続けた。

 どろどろの、ぐちゃぐちゃだ。


 湿気で前髪が額に張り付く。

 涙と鼻水と涎が混じり合う。

 吐息が、嗚咽が、絡みつく。


 それでも桜は泣き続けた。

 ダストもまた、抱きしめ続けた。

 すがりつく桜を、ひたすら抱きしめ続けた。


 ダストはとても腹が立った。

 自分じゃダメなのか。

 自分では桜を支える存在になれないのか。

 何の力にもなれない自分に、とてつもなく腹が立った。


「俺がいる」

 桜を抱きしめる。


「俺は何万年、何億年も生きる存在だ。桜より先に死ぬことは絶対にない。だからずっと側にいる。ひとりになんてさせない」


 繰り返しそう言った。

 桜に届いているのかはわからなかった。

 ただ抱きしめながらそう言った。


 ダストの中にあるのは自己嫌悪と、桜の両親に対する猛烈な嫉妬だった。

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