冷たい家
桜は懐かしの我が家の前に立った。
閑静な住宅街に建つ戸建ての注文住宅。
しかしそこはもう桜の家でない。
その証拠に、桜の母が丹精込めて作った庭は潰されていた。
冷たいコンクリートが流し込まれ、駐車場になっている。
桜はチャイムを押した。
玄関扉を開けたのは伯母の美里だった。
「こんにちは」
「久しぶり。そちらは?」
「クラスメイトの真鍋さんと、空野くんと、相川くんです」
「どうも。入って」
玄関を上がり廊下を進む。
リビングに入った桜は一瞬呆然とした。
よく考えてみれば当たり前のことだが、桜の知っているリビングとは全くの別物になっている。
温かみのあるクルミの木で作られたダイニングセットはスチール製に。
柔らかなファブリックソファーは合皮のものに。
母が大切にしていたラグも、量販店のものに変わっていた。
唯一変わっていないアイランド型のキッチンカウンターをなでる。
そこだけ見ていると、今にも母の手が伸びてきそうだ。
「桜……」
杏奈が桜の手をにぎる。
杏奈についてきてもらって、本当に良かったと思った。
「適当に座って」
美里が乱雑に散らかったキッチンでお湯を沸かす。
桜は安っぽい合皮のソファーに腰かけた。
「コーヒーでいいわよね」
美里がコーヒーカップをテーブルに置く。
「あら、私の椅子がないわね」
四人掛けのソファーは満席だ。
「あっ、すみません」
杏奈は腰を浮かしたが、美里はそれを制した。
「いいわ。私があっちに座るから。桜、来なさい」
美里がダイニングに向かう。
桜が美里の後を追うと、カップを持った杏奈もついてきた。
「私もこっちでいいですか」
気弱な杏奈にしては精一杯の虚勢だったのだろう。
カップを持つ手が少し震えている。
その姿を見て美里は苦笑した。
「別にとって食いやしないよ。好きな所に座れば」
タバコをくわえ、火をつける。
大きく息を吸い、紫煙を吐き出す。
「で、話って?」
桜は向かいの席に座ると、鞄から書類を取り出した。
修学旅行に関する保護者の同意書と、振込用紙だ。
「これを」
桜はテーブルに書類を置いた。
美里はタバコを口に咥えると、書類を手にとった。
「ふうん。またバカみたいに高いのね」
桜の隣に座った杏奈が、大きな音を立てカップをテーブルに置く。
「おばさんは、恥ずかしくないのですか」
「ちょっと杏奈」
「だって!」
「いいから。私からちゃんと話すから」
「でも!」
恭平が立ち上がり、杏奈の元に来る。
「すみません。失礼しました」
頭を下げ、杏奈の腕をとる。
「恭平!」
「出るぞ」
杏奈を立ち上がらせ、扉に向かう。
「お前は頼むぞ」
恭平がダストに言う。
「当たり前だ」
ダストはフンと顔をそらした。
「外で待ってる」
「頼もしいお友達だね」
美里がニヤリと笑う。
「ええ。大切な友達です」
桜は真っ直ぐに美里を見た。
「ふうん。それで、恥ずかしくないかってことだけど。一体なにが恥ずかしいのかしら?」
「それは」
桜が口を開いた時、リビングから出ていく杏奈たちとすれ違う形で、ひとりの男が入ってきた。
半端に伸びた茶色の髪。
痩せた華奢な体。
春だというのに、青いダウンジャケットを着ている。
「おかえり、日向」
美里は男を見てそう言った。
男は美里の息子、日向だ。
桜は日向を見た瞬間、体中の血が凍るのを感じた。
息が詰まる。
思考が停止し、体が強張る。
「それで、なんだって?」
桜の変化に気づかず、美里は先を促した。
しかし日向を見たダストは、勢いよく立ち上がった。
そしていきなり殴りつける。
「やめて!」
呪縛が解け、桜はダストに駆け寄った。
ダストは日向の胸ぐらをつかみ、なおも殴りつけようとしている。
桜はダストの腕にしがみつき、懸命に止めた。
「ダスト! やめて!」
日向は鼻から血を流し、両手を顔の前にかざした。
「ひいいい! なんだよう!」
「ダスト、いいから。 お願い、やめて」
「だが桜!」
ダストの鼻息が荒い。
「お願い」
桜はダストの腕をぎゅっと抱きしめた。
ようやくダストが腕を下ろす。
「なんなの、あなたたち!」
美里が金切り声を上げる。
桜は美里に向かって頭を下げた。
「どうも、失礼しました。今日のことは忘れて下さい」
「忘れろって!」
「理由は日向くんに聞いて下さい。行こう、ダスト」
桜はダストの腕を引きリビングを出た。
廊下にいた杏奈と恭平の背中を押す。
「早く出よう」
一刻も早くこの家から離れたかった。
この家はもう、桜の家ではない。
暖かな愛情に満ちた家は、もうなくなってしまったのだ。
「なぜ気づかなかったんだ。少し情報を検索すればわかったことなのに!」
「ダスト、落ち着いて」
「落ち着いていられるか。桜も、どうして来た!」
桜が視線をそらす。
「ずっと平気だったから、大丈夫だと思ったの」
「何が大丈夫だ。あの男は、桜を襲った男じゃないか!」
杏奈が息をのむ。
「知っていたら、絶対に行かせなかったのに」
初めて桜とダストが出会った夜、桜のことを襲っていたのは日向だった。
突然引き倒され、押さえつけられ、殴られた。
ナイフを持って脅された。
その時の恐怖が蘇り、桜は身を震わせた。
「ごめん……」
桜は杏奈と恭平を見た。
「ごめん、杏奈。恭平くんも。私、混乱してて。今日は帰ってもいいかな」
「あ、うん……」
「ごめんね」
桜はダストの手を取った。
「行こう、ダスト」
ダストは歩き出したが、その表情は怒りに燃えていた。