お荷物
「お金がない?」
桜はうつむいた。
「……うん」
これだけは言っておかなければならない。
説明不足で、杏奈にまた嫌な思いをさせたくない。
幼稚園から私立の聖寵学園に通うだけのことはあり、桜の家は裕福だった。
だからこれを言うのは、とても恥ずかしいことだ。
「それでね、修学旅行には参加できそうにないの……」
杏奈も桜に負けず劣らずのお嬢様だ。
このようなことを言われても、困るだろう。
そう思い、今まで言えずにいた。
しかし何も言わずに修学旅行を欠席したら、杏奈はきっとまた傷つくだろう。
ダストがハッとなる。
「まさか、俺のせいか。俺の作った飯のせいで!」
「飯?」
杏奈が不思議そうな顔をする。
「違うよ。あれは関係ない。結局は全部食べるもん」
「だが俺の食費がかからなければ、行けたかもしれないじゃないか」
「確かにダストはよく食べるけど、そんなレベルじゃないのよ。バイト増やしてみたけど、全然足りてない」
「だがしかし」
「え、ちょっと待って」
杏奈が手で制す。
「意味がよくわからないんだけど」
桜は杏奈にどう説明するか迷った。
ダストの正体をどこまで話したらいいかわからない。
杏奈のことだから、頭から否定することはないだろうが、地球外生命体だと言われ、どこまで信じてくれるだろう。
「えっとね。ダストが間違って、今月の食費を全部使っちゃったの。でもそれは全部凍結して食べるから問題ないの」
桜がしどろもどろに説明すると、杏奈は桜に向かって手を伸ばした。
「え? なに? もしかしてふたりって……」
「あれ? 言わなかった? うちに来ることになったって」
「言ったけど! 聞いたけど! うちって、あっちの、元々住んでた方じゃないの⁉︎」
桜が杏奈の口をふさぐ。
「ちょっと、声が大きいよ」
杏奈はもがもが言っていたが、しばらくすると落ち着きを取り戻した。
桜が手を離す。
「ごめん、びっくりして。だって、てっきり伯母さんと暮らしてると思ったから」
「違う違う」
桜は笑顔で否定した。
しかし杏奈は益々混乱した。
「だって、桜って、一人暮らしじゃん?」
「そうだよ」
「ってことは、そこに、空野くんと、一緒に、ふたりきり⁉︎」
「うん……」
杏奈のあまりの驚きように、今頃になってやはり非常識だったかと思う。
これが本当はいとこでなく、知り合ったばかりの、人間ですらない存在だと言ったら、杏奈はどうなるだろう。
(ダストの正体を話すのは、もう少し落ち着いてからの方がいいな……)
「やるぅ」
恭平がおどけたように口笛を吹く。
「ふたりは付き合ってるの?」
杏奈が桜に聞く。
途端に桜の顔が赤くなる。
「そんなんじゃないよ! ダストが行くとこなくて困ってたから、うちに住めばいいって言っただけ!」
「空野くんのご両親は?」
「いない」
ダストが完結に答える。
「そっか。じゃあ桜は放っておけないよね」
「そうなんだ。それに、ダストには危ないところを助けてもらったし」
「危ないところ?」
桜はダストの正体を伏せて、公園で男に襲われたことを話した。
話を聞くにつれ杏奈の顔色が変わる。
「無事だった?」
恭平の視線がすっと下がる。
桜のスカートの辺りを見る恭平を、杏奈がキッとにらむ。
「なんてこと聞くのよ!」
「杏奈、落ち着いて。ちょっと暴力は振るわれたけど、何もなかったから。大丈夫よ」
「何もなかったなんて、大ありよ! どうして何も言ってくれなかったの!」
杏奈は席を立つと、桜の後ろに回り込んだ。
ぎゅっと桜を抱きしめる。
「怖かったよね。ごめんね、力になれなくて」
桜自身は、あのあと色々なことがありすぎて、恐怖を感じている暇がなかった。
しかし今になって考えると、あの時ダストが現れなければ、今こうして笑っていることはできなかっただろう。
そのことを思うと、ダストには益々感謝しなければならない。
「杏奈、ありがと」
桜は肩に回された柔らかな手を握りしめた。
杏奈は顔を上げると、ダストをにらみつけた。
「桜を助けてくれたことは感謝するけと、恩を傘に着せて桜に何かしたら許さないわよ!」
「そんなこと、するわけないだろう」
「本当に⁉︎」
杏奈が詰め寄る。
「本当だ。そんなことしたら、桜に嫌われる」
「え?」
杏奈の頬がぽっと赤くなる。
「もしかして、空野くんって」
桜とダストを交互に見る。
「おい」
恭平が杏奈を見る。
「悪い癖だぞ」
赤くなった頬を扇ぎ、杏奈が笑う。
「ごめんごめん。でもそれなら、尚更だよ」
杏奈はダストに向かってぴっと指をさす。
「欲望に負けちゃダメだからね!」
「欲望って、杏奈……」
ダストはふんと鼻を鳴らし、そっぽをむいた。
「それで、足りないってどのくらい足りないの?」
杏奈が椅子に戻る。
「えーっと。お金がないわけじゃないの。バイトもしてるし。でも大学の学費を貯めてるから、修学旅行にまわす分がないっていうか。旅費、すごく高いのよ」
「学費は伯母さんが出してくれてるんじゃないの?」
「今はね。でも大学まで出してくれるかわからないし」
「どうして? おじさんたちの遺産、受け取ってないんでしょう?」
伯母が全ての手続きをしたため、両親の遺産がどうなったのか、全く知らない。
「そうだけど……」
「なら学費を出すのは伯母さんの義務じゃない。旅費だって、伯母さんに全部出してもらいなよ」
「でも……」
伯母の顔が目に浮かぶ。
年が離れているとはいえ、肝斑と皺だらけの顔は、美しく若々しい父と本当に姉弟かと疑いたくなるような顔だった。
元々嫌味ばかり言う性格の捻じ曲がった人物だったが、桜は伯母のことをどうしても許せなかった。
伯母は両親の葬儀の日、桜に向かって言ったのだ。
『とんだ負債ね。自分だけさっさと逝っちゃって。このお荷物をどうしろっていうのよ』
だから、伯母に家から出て行けと言われた時、少しだけ気が楽になった。
家を奪われたこと、両親の思い出を守れなかったことは悔しかったが、伯母と一緒に暮らさなくていいことはありがたかった。
『お荷物』にはなりたくない。
「伯母さんの力はできるだけ借りたくないの……」
「何甘っちょろいこと言っているのよ。生活費だって全部出してもらってもいいくらいなのに!」
杏奈は珍しく過激な表現をした。
「落ち着けよ。桜には桜の事情があるんだろ」
立ち上がる杏奈の首根っこを、恭平がつかむ。
「でも……」
「ただ、遺産がどうなっているのかくらい、確認してもいいと思うけどな」
「確認?」
「桜は遺産がどうなったのか知らないんだろ?」
桜はうなずいた。
「未成年とはいえ、もう高三だ。何もわからない子どもじゃない。遺産を何にどう使うかは、本人の意思が尊重されるべきだ。それは伯母さんの力を借りるわけじゃない。桜の当然の権利だ」
杏奈が顔を輝かせる。
「そうよ、たまにはいいこと言うじゃない。恭平の言う通りよ!」
「たまには余分だよ」
「ねぇ桜。遺産がどうなったか聞きに行こうよ。ひとりが不安なら、一緒に行くから。桜ひとりが我慢することないよ!」
桜はうつむいた。
「うん……」
桜に詰め寄る杏奈の首根っこを、恭平が押さえつける。
「だから、突っ込み過ぎだ。これは桜の問題だ。桜から頼ってきたならともかく、お前がそこまで口を出していい問題じゃない」
「あ、ごめんなさい……」
途端にしおらしくなり、杏奈が席に座る。
立ったり座ったり、忙しいことだ。
「ううん、杏奈の言う通りかも。私、今までうじうじし過ぎてた気がする。誰の力も借りちゃいけない、自分だけの力で生きていかなくちゃいけない。そう思い込んでた」
「じゃあ」
「うん。伯母さんに会って話を聞いてみる。杏奈、ついて来てくれる?」
「もちろん!」
桜はダストを見た。
「ダストも、いい?」
「当然だ」
「じゃあ俺も行こっと」
恭平が言うと、ダストはあからさまに嫌な顔をした。
鼻の頭に皺をよせている。
その顔はまるで威嚇している獰猛な狼のようだ。
しかし恭平は少しも気にならないようだった。
杏奈の頭をぽんぽんと叩くと「こいつのストッパー役だよ」と言った。
「ちょっと、どういう意味よ」
杏奈が恭平の手を払いのける。
「そのままの意味だよ」
恭平と杏奈の掛け合い漫才を見ているうちに、昼休みは終わった。
杏奈は自分の席に戻り、ダストも机を元の位置に戻した。
(えーっと、次の授業はなんだっけ)
桜は教科書を出すため、机の中をのぞいた。
その時、教室の扉が開く。
中に入ってきた先生を見て、桜が驚く。
「なっ!」
澄ました顔で教室に入ってきたのは、ナルだった。
(諦めたんじゃなかったの⁉︎)
ナルは教卓に教科書を置くと、にっこり微笑んだ。
「さぁ、授業が始まりますよ」
生徒たちはばらばらと自分の席に戻った。