平穏な毎日
あっと思った時には遅かった。
ホールに、グラスの割れる音が響く。
「失礼しました!」
グラスの破片を拾っていると、ホウキとチリトリを持って橘が来てくれる。
「大丈夫?」
「すみません」
「どうしたの? ぼーっとしちゃって」
「すみません……」
「ここは私がやっておくから、先に休憩入りなよ。気持ち切り替えてきな」
「……ありがとうございます」
頭を下げ、厨房へ向かう。
マスターの隣にダストが立っている。
「すみませんでした」
「うん、気をつけてね」
「橘さんに、先に休憩するよう言われたのですが」
「はいよ。賄いできたら呼ぶね」
「はい」
バックヤードに入り、エプロンをとる。
「はぁ」
大きなため息をつく。
新人の頃にだってこんな失敗をしたことはない。
パイプ椅子に座る。
額を机にくっつけうつ伏せになる。
(あぁ、もう嫌だ。なんでこうなるの。何がいけないの……)
すると突然、後ろから声がした。
「そろそろ諦めたらどうです」
はっと顔を上げると、目の前にナルがいる。
「ナル!」
立ち上がり、バックヤードのドアを持つ。
引いても引いても動かない。
「ダスト! ダスト!」
桜は叫んだ。しかしダストはやってこない。
ナルがくっくっくっと笑う。
「残念。ダストはここには来ませんよ」
「ダストに何をしたの⁉︎」
「それより、いい加減諦めたらどうです」
「諦めるって何よ」
「君にとって、ダストとはなんですか? 本当に必要ですか?」
「どういうことよ」
「ダストが現れてから、君にいいことなどひとつもない。それどころか、迷惑ばかりかけられている」
「その元凶がなに言ってんのよ!」
「たしかに。でも、ダストさえいなくなれば、平穏な毎日に戻れるのですよ」
「平穏な毎日?」
「そうです。虐められることも、無視されることもない。食費だって自分の分だけでいい。ダストが来なければ、修学旅行も参加できたのではないですか?」
「うるさいわね! ナルに関係ないでしょ!」
「アイドルの話に花を咲かせたり、ゆっくりとテレビを見たり。ダストが来てから、そんなこともままならない。勉強すらできていないじゃないですか」
「それは……」
「ダストさえいなければ、そういった元の生活に戻れるのです」
「元の、生活……」
「そうです。平穏で、揉め事のない、落ち着いた毎日」
「でも、ひとりだわ」
ナルが怪訝な顔をする。
「勉強して、働いて、それだけの毎日。みんな家に帰れば家族がいる。でも私にはいない。私はひとり。ひとりぼっち。ダストのいない生活はとても平穏だけど、とても寂しい。うるさいし、変なこと言うし、揉め事ばっかり増えるけど、それでもダストがいた方が私は楽しい」
ナルが苦虫を噛み潰したような顔をする。
「ナルこそ、どうしてそこまでダストに執着するの? 私にこんな嫌がらせしてまで、どうしてダストを手に入れようとするの?」
ナルはすぅっと飛ぶと、桜から離れた。
「君に関係ない」
そう言うと、ナルの姿がふっと消える。
その途端、バックヤードのドアが開いた。
「桜!」
ダストが飛び込んでくる。
「桜! 無事か⁉︎」
「うん」
「ナルは⁉︎」
「いたけど……」
「どこだ!」
「わかんない」
「え?」
ダストはようやく警戒をとき桜を見た。
「どっか行っちゃった」
「何もされなかったか?」
「うん。ダストは?」
ダストが苦々しい顔をする。
「結界を破るのに手こずった。ごめん」
「いいよ。何もされなかったから」
「ナルのやつ、何しに来たんだ?」
「そんなのこっちが聞きたいよ」
バックヤードの扉から、マスターがひょこり顔を出す。
「空野くん、こんな所にいたの。休憩はまだよ」
「すみません!」
なぜか桜が謝ってしまう。
「賄いできたから、取りに来て」
「はい!」
ナルが何をしたいのかはよくわからない。
しかし桜の気持ちは揺るがない。
(大丈夫。絶対大丈夫)
そう己に言い聞かす。