ビンタ
「ダスト、帰ろう」
いつも一緒に帰っている杏奈は、桜の元に来なかった。
(もしかして、ずっと私に不満があったのかな……)
悲しい気持ちを抑え、鞄を持つ。
あまり落ち込んでいると、ダストが気にする。
教室から出ようとすると、室井有香がドアを塞いだ。
有香とは今年の春、初めて同じクラスになった。
まだ話したことはあまりない。
杏奈とは席が近いから、よく喋っているようだ。
「ごめん、ちょっとのいてくれる?」
有香が邪魔でドアを通れない。
しかし有香は動かない。
「なにか用?」
「いいえ、別に。ただ、教えて欲しいなぁと思って」
「なにを?」
有香が顔を寄せる。
そして小さな声でそっと言った。
「男の落とし方」
「はぁ?」
桜は身を引いた。
有香はにやにやと桜とダストを見比べた。
「色んな男をタラし込んで楽しい?」
「どういうこと?」
「でもまぁ、暁月さんは仕方ないか。男性に貢いでもらわないと、生活苦しいものね」
気づいた時には、有香の頬を叩いていた。
「いったーい!」
有香は頬を抑え大声を出した。
一斉に注目が集まる。
「どうしたの⁉︎」
杏奈が駆け寄る。
「わかんない。急に叩かれたの!」
「ちょっと、何してるのよ!」
杏奈が桜に詰め寄る。
桜は杏奈を押しのけた。
教室から飛び出す。
廊下を走り、校舎の端まで行く。
渡り廊下の手前にある階段を駆け降りる。
一階まで来た。
そこはちょうど、校舎と校舎の間だった。
絵梨花がカッターナイフを振り回した場所。
ひとけがないから丁度いい。
桜は立ち止まった。
(やっちゃった!)
額を叩く。
両親が亡くなってから、極力目立つことは避けてきた。
それなのに、ここ数日の桜ときたら、目立つことばかりしている。
本人にその気は全くないのに。
全速力で駆けてきたので息が上がった。
深呼吸する。
すると気持ちも少し落ち着いた。
(はぁ……)
見上げると、校舎に挟まれた空が見えた。
春の日差しは意外にきつい。
突き刺さるような眩しさに目を細める。
「こんなとこで何してんだ?」
はっと視線を下げる。
太陽の光のせいで、視界が一瞬白くなった。
「相川くん?」
声を頼りにそちらを向く。
「どうかした?」
「そっちこそ。なんかあったのか?」
教室での一件を見ていないのだろうか。
「別に何も……。相川くんは?」
「恭平」
「え?」
「恭平でいいぜ。俺も桜って呼んでいい?」
「あ、うん」
頬が熱くなった。
走ったせいではない。
「俺はほら」
恭平は親指で右側を示した。
そこにはプールがある。独立した建物の温水プールで、水泳部の部室なども併設している。
「そっか。恭平くんも水泳部か」
「ああ」
これから部活だろう。
桜は壁にもたれかかった。
全速力で走ったから疲れた。
恭平が桜の隣にくる。
肩が桜の肩に触れた。
桜の心臓が飛び上がる。
「なんか落ち込んでる?」
恭平は肩が触れていることに気づいていないようだ。
「ちょっとね」
桜は努めて平静に言った。
「聞こうか?」
「ありがと。でも大丈夫」
「桜は強いな」
「そう?」
やはり先ほどのビンタを見られたのだろうか。
「杏奈から、ちょいちょい聞いてるからさ」
桜の胸がズキリと痛む。
「なんて?」
「今、本当はひとりで暮らしてるんだろ?」
「うん、まぁ」
まさかダストと暮らしているとも言えず、ごにょごにょと答える。
「頑張ってんだな」
恭平は本心から言っているようだった。
同情されるよりも、励まされるよりも、こういう時の方が心にくる。
懸命に、折れないように、精一杯立っているのが認められた気がした。
「強くないよ」
だから素直になれた。
「そっか」
恭平はそれ以上なにも言わなかった。
触れた肩が熱い。
頭の中で警鐘が鳴る。
(ダメだ。これはダメだ)
桜の思いとは裏腹に、涙がこぼれた。
「あっ……」
桜は顔を隠すように涙を拭いた。
すると恭平が桜を引き寄せた。
恭平の胸に、すっぽりと収まる。
「誰も見てないから」
恭平が言った。
心臓が早鐘を打ち鳴らす。
体が硬直し動けなくなる。
耳の横でどくどくと血の流れる音がする。
「大丈夫?」
声をかけられ、我にかえる。
「ごめん」
謝ると、抱きしめていた恭平の手が緩まった。
「いや、こっちこそごめん」
「急にびっくりするよね、こんな」
体を離すと、ごしごし顔を擦る。
「誰だって辛い時はあるさ」
「ありがと。優しいね。もう大丈夫」
桜は笑ってみせた。
「ならいいけど。たまにはあいつの弁当食ってやってくれよ」
「え?」
「杏奈だよ。ちょっとでもいいから桜の役に立ちたいんだって。桜の分も作ってるんだ」
「そうなんだ……」
「その弁当は俺が全部食っちまってんだけどさ」
ははっと笑う。
「ま、頼むよ」
「うん、ありがと」
恭平は手を上げプールの方へ走っていった。




