尋常でない
本校舎と新校舎の繋ぎ目。
渡り廊下で繋がっているが、そこはちょうどひとけがない。
本校舎の端は美術室で、新校舎の端は生徒会室。
ここに来る生徒は限られている。
桜は足を止めた。
本校舎の壁にもたれ、ずるずると座り込む。
桜は大きく息をついた。
こういう時が一番辛い。
両親さえ生きていれば。
ついそう思ってしまう。
こんな気持ちになることはなかった。
もっと屈託なく笑うことができた。
そう恨んでしまう。
両親を責めてしまう自分が嫌だった。
杏奈の好意を疑うのが嫌だった。
素直に笑えないのが嫌だった。
ダストに八つ当たりするのが嫌だった。
桜は膝を抱えた。
「こんな所にいたのね」
声をかけられ、顔を上げる。
絵梨花がいた。
「何よ」
桜はぶっきらぼうに答えた。
こんな言い方は良くない。
プライド高い絵梨花の神経を逆撫でするだけだ。
そう思っているのに、優しい言葉にならない。
「絵梨花の我儘に付き合える気分じゃないの。また今度にして」
絵梨花が一歩踏み込む。
「あなた、なんなのよ」
「なにって?」
「どうして私の邪魔ばかりするのよ」
桜が絵梨花の邪魔をした記憶はない。
できるだけ穏便に済むようしてきたつもりだ。
「私がいつ絵梨花の邪魔をしたよの。朝のことなら、私じゃなくて、ダストに言いなさいよ」
「そうじゃないわ。いつもよ」
「いつも? どういうことよ」
桜はスカートをはたき、立ち上がった。
桜に対する態度から、好かれていないことはわかっていた。
だからこそ、できるだけ関わらないようにしてきた。
「どうしていつも、私より成績が良いのよ!」
「はぁ? 成績?」
桜はある目標があって、勉強を頑張っている。
その努力が実り、成績は上位をキープしている。
しかし学年で一位というほどではない。
桜以外にも、絵梨花より成績の良い者は大勢いる。
「勉強だけじゃないわ。この前の試合。忘れたとは言わせないわよ!」
「この前の試合って?」
「体育の授業よ!」
先週の体育はテニスだった。
絵梨花と桜は対戦し、桜が勝った。
「ああ、あれ。公式戦でもあるまいし。たかが体育の授業じゃない」
「たかがですって⁉︎ テニス部、辞めたくせに!」
「辞めたくて辞めたわけじゃないよ」
桜は口をとがらせた。
両親が亡くなり、仕事と勉強を両立させるので精一杯になってしまった。
部活をする余裕など、今の桜には無い。
「一年生でインターハイに出場したからって、いい気にならないでよ!」
「いつの話してるのよ」
桜たちはもう三年生だ。
去年の今頃は、両親が死んで試合どころではなかった。
そして今年も。
「いい気になんかなってないし、勝負なんだから仕方ないじゃない」
桜も本気を出さなければ良かったのだが、久しぶりにするテニスが楽しくて、つい調子に乗ってしまった。
「それに、あれはまぐれだよ」
一年近く、ラケットは握っていない。
ブランクはでかい。
絵梨花に勝てたのはまぐれだ。
「そんなことないわ。去年だって、その前だって、ずっとそうだったじゃない!」
絵梨花は幼い頃からテニススクールに通っている。
桜がテニスを始めたのは高校生になってから。
それなのに、絵梨花は桜に勝てなかった。
ずっと──
「大体、いつも真鍋さんとひっついてて気持ち悪いのよ!」
「杏奈と? それと絵梨花の邪魔をすることと、なんの関係があるのよ」
「自分には友達がいるって、見せびらかしたいのでしょう!」
「はぁ? 何言ってるの? 友達なら絵梨花の方が多いじゃない」
絵梨花はいつも派手な人たちに囲まれている。
男女問わず、絵梨花のまわりから人が途絶えることはない。
「あんなの友達じゃないわ! お金目当ての腰巾着よ! 本当は影で悪口言っているの知ってるんだから!」
桜は腹が立っていたのも忘れて、なんだか呆れてきた。
「なに言ってんの? 大丈夫?」
「大丈夫に決まってるでしょう!」
「友達じゃないと思うなら、つるむのやめればいいじゃない」
桜は絵梨花が積極的にお金をばら撒いているのを知っている。
好きでやっているのだと思っていたから、意外だった。
「そんなこと、できるわけないでしょう!」
「どうしてよ」
「そんなことしたら!」
絵梨花の顔が引き攣る。
「ちょっと男子にモテるからっていい気にならないでよね!」
「え? 私、モテるの?」
「自慢気に空野くんとベタベタしちゃって!」
「いや、ベタベタしたつもりはないけど……」
「鳴川先生もよ!」
「もっとしてない」
「してたわよ!」
絵梨花は地団駄を踏んだ。
その姿を見て、桜は違和感を覚えた。
絵梨花は傲慢で我儘だ。だが最近はマシになった。
いつまでも子どもではない。高校生にもなれば、それなりに自制心が働く。
それなのに、今の絵梨花はまるで幼稚園児のままだ。
「肩抱いてたじゃない!」
「肩? もしかして、ナルが私の肩に手を置いたこと?」
「な、な、ナル⁉︎ もう呼び捨て⁉︎」
「あ、いや。それは……」
「いつもいつも私の邪魔をして! あなたなんて、消えてしまえばいいのよ!」
絵梨花がポケットからカッターナイフを取り出す。
「ええ⁉︎ 絵梨花⁉︎」
桜は後ろに下がった。
しかし背中はすぐに校舎にぶつかった。
ぶるぶる手が震えている。
明らかに様子がおかしい。
いくら我儘でも、いきなりカッターナイフを振り回すのは尋常じゃない。
目の焦点も合っていないし、正常でないことは確かだ。
(ど、ど、ど、どうしよう!)
桜は壁にはりついた。
(校舎の中に逃げる?)
本校舎も新校舎も、この時間帯は誰もいないだろう。
(それとも右? 左かな?)
右に進むと温水プールがある。
この時間は誰もいない。
左へ進むと運動場がある。
昼休みの今ならたくさんの人がいるだろう。
絵梨花の顔を見る。
錯乱した瞳が揺れている。
(運動場かな……)
しかし大事にしたくない気がした。
その時、桜の目の前が眩く光った。
ダストが現れる。
一瞬でカッターナイフを奪い、首に手刀をいれる。
「あぅ」
絵梨花の膝が折れ崩れ落ちる。
「危ない!」
倒れそうになる絵梨花を、桜が受け止める。
「ダスト……」
絵梨花を抱きしめダストを見上げる。
「ありがと」
一応お礼は言った。
しかし先ほどの言い合いが尾を引いて気まずい。
ダストは厳しい顔をしていた。
どう考えても八つ当たりだった。
ダストは何も悪くない。
桜が勝手に苛立って、勝手に怒っただけだ。
ダストは桜のことを想ってくれただけだ。
「ごめん」
桜は謝った。
しかしダストは返事をしない。
厳しい顔をして黙っている。
「ごめん。嫌な気持ちになったよね」
もう一度謝る。
ダストの胸が膨らむ。
大きく息を吸い込む。
「さっさと出てこい!」
「ダスト?」
桜は怪訝な顔をした。
前方が眩く光り、ナルが現れる。
「バレてしまいましたか」
ナルはにっこり微笑んだ。
「ナル⁉︎」
腕に抱く絵梨花を見る。
「あなたの仕業だったの⁉︎」
しかしナルは首を振った。
「言ったでしょう。私がこの星の生命に直接関与することはないと。私はただ、少し手を貸しただけ」
「手を貸した? どういうこと?」
「相変わらず察しが悪い。元々持っていたのですよ。妬みを、恨みを、憎しみを。それを押し込めて、気づかないふりをして、努力することで懸命に蓋をしていたのです。しかし勝てない。私はそのジレンマを、少し解放してあげただけ」
「じゃあやっぱりあなたのせいじゃない!」
「いいえ、その女の意思です。その女が、お前が憎い、お前さえいなければ。そう思い、切りかかったのです。それほどまでに、憎まれているのですよ」
じりっと音がした。
ダストが足を開いた音だ。
「それで?」
拳を握り、腰を落とす。
「そいつの意思は関係ない。お前が手を出したからこうなった。桜に手を出すとどうなるか、思い知らしてやる」
ダストが踏み込もうとする。
しかしナルが手で制す。
「学校で騒ぎを起こして困るのは、そちらでは?」
ダストがはっとする。
桜は小さく首を振った。
「私は構いませんけどね」
ふふふとナルが笑う。
ダストは拳を下ろした。
「次に桜に何かしてみろ。許さないぞ」
「言ったでしょう。私は何もしませんよ。直接はね」
ダストがナルをにらみつける。
「ダスト。君が私の元に来ればいいだけの話だよ。よく考えて」
「聞いちゃダメよ! ダスト!」
桜が叫ぶ。
「では、頑張りたまえ」
ナルの姿がふっと消える。
「ダスト……」
「わかっている。出ていくなんて言わない」
桜はダストの後ろ姿を見つめた。
握りしめた拳が震えている。
「でも、ごめん。俺のせいで」
「ダストのせいじゃないよ。悪いのはナルだよ」
「……ああ」
「それに、元々絵梨花に嫌われてる自覚はあったんだ」
「それは違う。ナルのせいだ!」
「わかってる。いくらなんでも、切りつけられるほど嫌われてないよ。絵梨花にだって自制心はある。それをナルに奪われただけ。わかってる」
「ごめん……」
「ねぇ、絵梨花を運ぶの手伝って」
桜は悲しそうに笑った。