涅色の闇
その時、桜は急いでいた。
ジメジメとした暗い道を駆け抜ける。
民家と民家の間。
道とも呼べぬ狭い通路だ。
常に日陰になっているせいか、びっしりと苔むしている。
あたりは闇に染まっている。
宵の闇は涅色で、川の底の土のように黒い。
桜は女子高校生だ。
いつもなら、こんな道は絶対に通らない。
街灯もなく、暗く淀んだ道だ。
しかしこの道を通れば、五分は早く家に帰れる。
その五分が、身の危険を忘れるほどに重要だった。
(今日は、ショウがテレビに出るのに!)
ショウとは、桜の推し。
アイドルだ。
もちろん会ったことはない。
コンサートに行って、豆粒ほどのショウに向け、必死にうちわを振るだけの関係。
それでも。いや、だからこそ。
見逃すわけにはいかない。
桜の家に録画機器はない。
インターネットも接続していない。
リアルタイムで見るしかない。
それなのに──
(最悪! 今日に限って遅れるなんて!)
シフトで交代するはずの人が遅れてきたのだ。
「ちょっとだけ残ってくれる?」
チーフマネジャーにそう言われ、嫌と言えなかった。
(ここを過ぎればあとちょっと!)
暗い道の先。
公園があった。
遊具も何もない。寂れた公園。
朽ちかけたベンチを雑草が覆っている。
可愛らしいクローバーの花でさえ、ここでは陰気に垂れ下がって見えた。
一本だけある街灯がチカチカと明滅している。
その隣に、サビだらけの時計があった。
(まだ間に合う。あと少し)
公園を抜けると、桜の住むアパートは目の前だ。
ペンキの禿げたポールが二本。
出入口を塞いでいた。
アパートの裏口が見える。
単身用の古ぼけたアパートだ。
桜の部屋のベランダが見える。
(あと一分。ギリセーフ!)
そう思った瞬間だった。
突然後ろに引かれた。
(えっ?)
頭がぐぅんと後ろに倒れる。
前に進もうとしていた足が、空を向く。
次の瞬間には、仰向けにひっくり返っていた。
「えっ⁉︎」
桜の上に、ひとりの男が馬乗りになる。
深くフードをかぶり、ふぅふぅと鼻息が荒い。
フードの隙間からのぞく顔に見覚えがあり、桜は驚いた。
「日向?」
桜の上に乗っているのは、いとこの日向だった。
日向が桜の肩を押さえつけ、震えている。
「どうして突然いなくなったの」
「突然って。出て行けって言ったのはそっちじゃない」
「許さない。僕から離れるなんて、絶対に許さない!」
日向の手が、桜のブラウスにかかる。
「何するのよ!」
「大人しくしろよ!」
「いやぁ!」
日向が桜の頬を打つ。
「やめて! 誰か!」
「うるさい! 静かにしろ!」
「嫌だ! 離して!」
日向はポケットからナイフを出した。
桜が一瞬怯む。
しかし、それでも叫んだ。
「助けて! 誰か助けて!」
懸命に叫ぶ。
「黙れよ。バカにしやがって。黙れって言ってるだろ!」
日向がナイフを振り上げる。
「黙れって言ってるだろー!」
瞬間、あたりは閃光に包まれた。