勘違い
うらぶれた公園に、月光が降り注ぐ。
遊具のひとつもない、雑草まみれの公園だ。
ひとつだけある街灯が、チカチカと明滅している。
サビだらけの時計が、前世紀の遺物のように佇んでいる。
桜はダストを見た。
苦心して作り上げた、理想の顔。
しかしその顔は、苦渋に満ちている。
「あんまり頭良くないから、できるだけわかりやすくお願い」
そう言うと、ダストは少しだけ笑った。
「遺伝子の情報で、記憶は見られない。遺伝子には情報が詰まっているだけだ」
「情報……よくわからないわ」
「つまり遺伝子には、タンパク質として遺伝する因子の他に、蓄積された情報が詰まっている。桜を細分化していき、それ以上小さくならないものが桜の遺伝子だ。桜の遺伝子には桜の情報の全てが詰まっている。ゆえにそれは桜そのものだと言い換えることもできる」
桜は少し考えてから、自分の髪の毛をつかんだ。
「涙とか、髪の毛の先っちょとかだけでも、それは私なの?」
「もちろんだ」
「髪の毛の先っちょなんかに、私がいるとは思えないけど」
桜はつまんだ髪をいじった。
ダストは少し考えるそぶりを見せた。
「そうだな。例えば、桜をちょうど半分にしたとして、どっちが桜だ?」
「半分って。怖いな」
「例えばだ」
「それは上下? 左右?」
「上下と左右で変わるのか?」
「だって、上下なら上に頭があるから、どっちかっていうと上の方が私かなって」
「なぜ頭のある方が桜なのだ」
「だって、意識とか、記憶とかは、脳にあるんでしょう?」
「そうなのか?」
「違うの?」
「なぜ脳にあると思った」
「だって。……そう習ったし」
桜は自信なさげに言った。
「脳は情報を整理分類する機関のひとつに過ぎない。情報も意識も感情も、体中の全てに詰まっている」
「どういうこと?」
「では、脳のある部分が桜だとして、それより下は桜ではない?」
桜は自分の体を見た。
「そんなことないよ。胸だってお腹だって私は私よ」
胸の上に手を置く。
心臓に心があるとまでは思っていないが、ハートがあるといえば胸の辺りだ。
「では足だけだとどうだ」
「いちいち例えが怖いよ」
「例えだ。どっちだ?」
「ん〜。足だけでも、やっぱり私の足だもん。私のだよ」
「私の?」
「うん」
「私ではなくなったな。つまり『私』ではなく部分になった」
「ん?」
「では意識が脳にのみ存在するとして、自分の意識とは関係なく足が動くことはあるか?」
「ある訳ないじゃん」
「本当に?」
そこでダストは急に桜の足を叩こうとした。
「わっ! なにすんのよ!」
桜は思わず足を縮めた。
ダストはふっと笑った。
「叩いたりしない。しかし桜の足は動いたな。さぁ今、桜は意識して足を動かしたのか?」
「まさか。びっくりしたから」
「勝手に体が動いた?」
「あっ!」
「人は歩こうとして歩いているのか? 呼吸しようとしてしているのか?」
桜は首を振った。
「肉体に蓄積された情報が勝手に筋肉を動かしている」
「なるほどね」
「では足首より先だけだとどうだ。指先だけだとどうだ」
「勝手に動くよ」
「では爪は?」
「爪?」
桜は自分の爪を見た。
「髪でもいい」
「髪? 勝手に動いたりしないよ」
「では意識して伸ばしているのか?」
「伸ばす?」
「人間の髪や爪は伸びるのだろう?」
「伸びるよ。でも伸ばそうとして伸ばしてるわけじゃない」
「勝手に伸びるな」
「ああ、なるほど」
「質量が小さくなっても、それが桜ということに変わりはない」
「それはそうなんだろうけど……」
桜は自分の足を見た。
足一本と、髪一本では、大きく違う。
まだ納得いかない顔をしている桜に、ダストは言った。
「では桜を左右に分割するとどうなる? 脳は両方にあるぞ。両方とも桜か? どちらも違うのか?」
「いちいち割らないでよ。どっちも私よ」
「では等分ではなくなったらどうだ」
「どうって聞かれても……」
ダストが桜の左の首元に手をおく。
「このくらいだとまだ両方桜か? このくらいになるとどうだ。どのくらいまでが両方サクラだ?」
手を肩のラインまで移動させる。
「どのくらいって聞かれても……」
「腕一本でも、爪の先だけになっても、それは桜だ。爪の先よりももっと小さく、細かく細かく細分化していってもそれは同じだ。その最も小さな桜が遺伝子だ。桜の意識、記憶、好みや体調、感情、あらゆるものが詰まった情報だ」
「それが、遺伝子の情報……」
「そうだ」
ダストがうなずく。
「しかし、情報は情報に過ぎない。情報の羅列があるだけで、テレビのように映像として見えることもないし、音も聞こえない。だから、桜の記憶を見ることは、俺にはできない」
桜はう〜んと唸った。
わかったような、わからないような、変な気分だった。
「難しいや」
「そうか」
「でもなんとなくわかったよ」
「そうか」
ダストは少し微笑んだ。
「うん。私がものすごい勘違いをして、それでダストを傷つけたってことが」