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【完結】純白の抒情詩《リューリカ》  作者: 黒井ここあ
第一章 妖精とよばれし娘
9/41

六、くちはなんとかのもと

 ボーマン家領地エルレイの森。例の泉を南西に行くとリュリの住まう大樹はあった。

 今日はそこに小さな来客があった。太陽の傾き具合からみて、それは午後のことだった。

 先頭を行くのは、背格好が同じくらいの二人の少年。その後ろをくっついて歩く幼児を見守るように、最年長の少女がしんがりを務める。

 夏の日差しにむき出しの肌を赤くする子供たちは、多少の濃さは違えど、栗色の髪色をしていた。彼らは兄弟だった。身なりは少し埃っぽくみすぼらしかったが、それは日頃の外遊びのせいだった。

 子供たちは大樹を囲うドーナツ状の畑を掻き分け、大樹の根元へと突き進む。その足取りはこなれたもので、決して作物を踏むことは無かった。自分たちの身長をゆうに超える畑をくぐりぬけると、開けたところに出た。

 少年少女は体中に葉やら花弁やら花粉やら、ひいては小枝までつけたている。彼らはそれを気に留めることも無く、大樹の肩に乗った小屋へと一目散に登りだした。

 ただし、彼らの姉である少女は、癖っ毛に引っかかったあらゆるものをとったり、服に刺さったとげを抜いたり、手荷物である籠の中身を確認したりと、一通りの体裁を整えてから弟たちの後に続いた。

「わあ! すごい! うわあ!」

「スー! はやく来なよ!」

 彼女は太い枝で作られた梯子を登りながら、上からの歓声を耳にした。

「どうしたのー?」

 名を呼ばれた少女がスカートに足取りを邪魔されながらのろのろと登りきると、その声の意味がわかった。彼らが今まで見たことのない新しいものがあったのだ。それは小さな木製の扉にかかる小さな看板で、小さな蔦のような愛らしい文字が書いてあった。

 それを、よく似ている二人の少年が口に出して読む。彼らは双子だった。

「おちゃあります……」

「まほうのように、よくききます、だって!」

 双子は顔を突き合わせて頬をほころばせた。それを見て末っ子も我先と看板を見ようとする。しかし、彼はまだ文字が読めないので、看板が新しいものだということだけで喜んでいる。

「まあ! あたしたちの為、かなあ? だったらいいな!」

 長女が頬を持ち上げる横で、弟たちは早々に扉を叩いていた。その音は嵐の日に大きな雨粒が戸を叩くかのようだった。

「妖精さん、妖精さん!」

「遊びに来たよ!」

「きたよー!」

「こら! たくさん叩かないの! ノックは優しく、三回まで! 妖精さんがびっくりするでしょ?」

 姉の叱咤に、弟たちはぴたりと動きを止めた。そしてぎこちなく首を回す。姉を見上げるその顔は気まずそうで、そろって口を一文字に引き締めていた。それを見て、姉は満足げに頷く。子供たちが挙動を止めると、鳥たちが会話する声が良く聞こえるようになった。

 暖かな日差しと少しの散歩で首筋に滲んだ汗をそよ風が乾かす。それは森全体をも一緒に撫でていて、葉ずれの音を奏で、耳にも涼しい。

「……あれ?」

「どうしたのさ、スー?」

「ぼくたち、なんにもしてないよ?」

「双子は黙ってて」

 姉―本当はスクラータという愛らしい名前の持ち主だ―は、双子の弟たちのお喋りな口を制し、ドアに耳を当てて押し黙った。

「ねーちゃーん」

「ロビンも」

 末っ子の口を手でふさいで黙らせると、彼女はそっと扉に手をかけた。スーの後ろにいる双子が怪訝そうに顔を見合わせている間、ゆっくりと扉を押す。軽くきしむ音と共に、小さな扉は簡単に開いた。

 そっと室内に足を踏み入れ、頭をくぐらせる。

「……妖精さぁん、いますかー?」

 大樹の上にちょこんと座る妖精の家は、角の無い丸い部屋だ。その大きさもそんなに大きくないので、戸口から全て一望できるだけの広さしかない。

 そこには、作りかけと思しき小袋がいくつか机の上に散乱しているだけで、兄弟の探す妖精の姿は無かった。

「……いないね」

 抜き足差し足で妖精の小屋に入った子供たちは、それぞれに彼女を探そうと身を乗り出した。

 と、その足の裏に微かな振動を感じ、兄弟は身を固めた。その振動はどんどんと大きくなる。

 遂に耳に聞こえる音と振動とが一致する。

「はあ、はあ……」

「妖精さん!」

 兄弟たちが足音の止まったほうへ振り返ると、そこには肩で息をする真っ白な髪の少女がいた。彼女は扉の縁と膝にそれぞれの手をついて、額に前髪を貼りつかせていた。

「ごめ……、遅く、なっちゃった……えへへ……」

 肩を大きく上下させながら彼女は帰宅した。毛織のケープを壁にかけると、その勢いのまま寝台に腰を下ろした。その振動で、大樹の太い枝が少し上下した。

「それ、冬のだよ、妖精さん」

「そりゃ暑いよ」

 ケープについて口を揃える双子に、妖精は頬笑みで応える。その彼女に、木製のマグカップが差し出される。スーだった。

「ありがとう、スーちゃん。遅れてごめんね」

 受け取った水をごくごく飲み干す妖精に、スーはにっこりした。

「どういたしまして。あたしたちは別にいいんだけど。どこかに行ってたの?」

「そう、そうなの! ちょっ、ちょちょっとそこまで!」

 何気ない質問だったはずなのに、妖精は途端にうろたえ出した。わたわたと何かを取り繕うかのように、あわてている。

「そうなんだ。最近、忙しいんだね。この間の待ち合わせも来れなくなっちゃったし。お茶の日におでかけって、初めてかも」

 ふと訝るスーの足元で、末弟ロビンの顔が閃きで輝いた。

「わかったー! でえとだー!」

「こらロビン!」

 高らかに宣言する弟の口を、スーは慌てて塞ぐ。ついでに鼻もふさがれ、ロビンは苦しそうにもごもごとした。その後ろで双子がにやりとする。

 一方の妖精は、何の事だかさっぱりと言う風だった。

「ほ? でーと?」

 小首を傾げる彼女に、救いの手が伸びる。

「気になるあの子と、二人で出掛けることだよ」

「最近、誰かさんが、やってたようなやつだよ」

「き、気になる人と! ふぁ……」

 双子が説明してやると、妖精は気の抜けるような声で相槌を打った。

 と、その双子に、スーは顔を赤らめて食ってかかった。彼女の両手は既にロビンを拘束していたため、使い物にならず、口を回すほかなかった。

「待て待て待て待て! ティモ! マルク! あんたたちねえ! それ以上言ったら、絶対に許さないんだからね!」

「別にスーだとは言ってないし」

「あいつだよな、たしかヒュー……」

「だあめえ! 言わないで、お願い!」

 兄弟の微笑ましいやり取りが目の前に繰り広げられているのにも拘らず、少女の気持ちは過去へと飛んでいた。

 それは、先程までの逢瀬のとき―。

 ふと見せた柔らかい表情。

 偶然に触れた胸元。

 健やかに寝息を立てる彼の横顔。

 初めて聞いた、焦ったような、上ずった声。

 どの一瞬を切り取っても、心の隅っこがちりちりとこそばゆくなる。

 しかしそれは、決して不快なものではなかった。むしろ、癖になるような―。

 リュリは自身も気づかぬうちに笑顔を綻ばせていた。

「……えへへ」

 兄弟は妖精のうっとりとした様子に気付くと、言葉の応酬を止めた。

「……もしかして、大当たりだった?」

 四人の注目を一身に浴びて、リュリは途端に口元を引き締めた。しかし、目元は正直だった。頬を艶めかせたまま、リュリは取り繕い始める。

「そんなあ! 気になる、誰かと、で、でーとなんて! うふふ!」

 誰が見てもあからさまな嘘だった。スーは彼女の様子に気付きながらも、弟たちの手前、調子を合せることにした。

「そうだよね! 妖精さん、子供にしか会っちゃ駄目だしね!」

 にっこりするスーを見て、リュリは胸を撫で下ろした。

「う、うん、そう! だから、でーととかじゃ、ないよ。本当だよ!」

 違うんだよ、という言葉に、双子のティモとマルクはがっかりしてみせ、ロビンは喜んで見せた。もっとも、末っ子の場合、何もかもよくわかっていないのだが。

「そうなのかー!」

「そうだ、妖精さん、今日はね、ジャムを作ってきたんだ!」

 スーがリュリのすぐ隣に腰掛け、持ってきた籠の中身を見せた。

 そこにはリュリの持っているものと同じ小瓶が、所狭しと詰め込まれていた。しかしその中身は茶葉ではなく、赤やオレンジ、紫に白など、色とりどりのジャムが詰めてあった。

「わあ! すごいよスーちゃん! ミルクジャムもある! お茶に入れたらおいしそう!」

 目の前の宝石のような瓶詰めに心を奪われたリュリは、エメラルドのように輝く翠の瞳をスーに向ける。スーは魔法のような翠色を、鼻高々に受け止めた。

「そうしよう! 大丈夫、おいしかったよ!」

「もう試したんだ? いいなあ。今から、お茶淹れようかな!」

「おちゃ? のむー!」

 リュリが立ちあがり、座っていた寝台に兄弟たちを促す。

 小さなランプとポットでお湯を沸かす間に、彼女は手早く出来上がったハーブティーの小袋を新しい小瓶に詰め、コルクの栓をする。ジャムと同数の瓶を用意すると、ジャム瓶とそれらをそっくり入れ替えた。

 リュリの作るハーブティーと、世間のものを交換する。

 これは、週に一度のリュリと子供たちとの約束だった。


 少し遅めの午後のティーパーティが終わると、子供たちは日暮れの前にリュリの大樹を去っていた。手を振りながら畑の中へ姿を消す兄弟を見送ると、リュリはそっとランタンを灯し、玄関につるした。

 屋内の蝋燭ももれなくつけて回ると、部屋の中までも夕暮れ色に染まった。

 冷たい風が窓から吹き込んでくるようになると、空は悩ましげな紫色に染まり、その反対側ではかぎつめのような月が太陽の代りに顔を見せていた。

 空の色がそうしてうつろうのを、リュリは残ったお茶を片手にぼんやりと眺めていた。

 濃紺の空に、一番星が煌めく。

 それをきっかけにして、ささやかな光の粒が闇の中から次々と現れる。それはまるで、わくわくする気持ちがどんどんと膨らんでゆくのに似ていた。

 しかし、星空を木々の間から仰ぐリュリには、どこか物足りなかった。

「……むぅ」

 あの日、カラスに見つけられてから、今まで。

 こうして独りで暮らしてきて、満足だったはずなのに。

 ふぅ、と長いため息が夜風に交じる。

 この、どこか満たされない気持ちはなんだろう?

 それに比べて、彼との優しい午後の逢瀬ときたら。

 短い時間にもかかわらず、どうしてあんなに一瞬ごとが濃密なんだろう?

 日差しに煌めく金髪の青年のことを思うと、リュリはいても立ってもいられない気持ちになった。マグを窓辺に残し、彼女はクッションを抱きしめて寝台に寝転ぶ。

 と、彼女の視界に彼のくすんだ帽子が入ってきた。

「あっ! また持って帰ってきちゃった……」

 リュリは自身の間抜けさを呪いながら、同時に理由が出来たと喜んだ。

 これを持って、湖畔に行けば、またアルくんに会える。

「あれが……でーと、なのかな……」

 頬が熱い。

 日焼けのせいだろうか。

 耳も熱い。

 お茶のせいだろうか。

 リュリはそっと、クッションに顔をうずめた。

 ひんやりとした肌触りのクッション。その綿に混ぜられたラベンダーの香りが、リュリの鼻腔を満たす。

 深呼吸する彼女の耳に、いつもの梟の声が聞こえてくる。思わず、そのゆったりとした声に呼吸が一致してしまう。

 と、その穏やかな音をかき乱すように、鳥の羽ばたく音が切りこんできた。

「……カラスさん?」

 リュリがぽつりと呟いた声は、白カラスの耳に届いたようだった。

「なんじゃ、起きとったか」

「寝てないもん」

「最近、よく出かけているじゃないか」

 白カラスは机の上で身づくろいをしながら喋り出した。

 リュリは、当たり障りのない答えを、抑揚をつけずに紡いだ。

「お天気が良いからだよ」

「人に、会っているのじゃあないだろうね?」

「……」

 リュリの沈黙が何を意味するのか、訝る時間さえとらず、白カラスは舌を回し続ける。

「たとえ森の中でも、子供以外には会うでないよ。子供は、夢と現実の境に居るから、おぬしを見たところで、自分の夢と区別がつかん。しかしの、大人は―」

「自分と違うからって、なんかされる。だよね?」

「ちょっと違うが……まあよい。自分の身は自分で守ると決めたんじゃろ? なら、人間と関わらないのが一番じゃ」

 身を守るために、身を隠し続ける。それが正しい防衛方法なのだろうか。

 白カラスの言葉に、リュリは初めて疑いを持ち始めた。

「……考え中だよ」

「結果は一緒じゃ。悩む時間があるなら、寝ることじゃな」

 そう言うと、白カラスはいつもの止まり木の上へと飛び乗り、その瞳を閉じた。

 水を差された気分だった。リュリはクッションから顔を解放すると立ち上がり、その足で全ての明かりを消して回った。

 全ての蝋燭を鋭い息で吹き消す。玄関のランタンを屋内に持ち込み、その炎を吹き消そうとした、そのときだった。

 しかし、彼女は吸い込んだ呼気をゆっくりと吐きだした。そしてランタンを机の上に置くと、彼女は寝台の中にその体を沈めた。ふと、思い立ったことをやってみようと、リュリは思ったのだった。

 ランタンの中で揺らめく炎に、意識を集中させる。

 イメージするのは、先程何回も繰り返し見た映像だった。

 描くのは、鋭い息で、吹き消される炎。

 集中力の高まりと共に、呼吸も深くなっていくのがわかる。

 きりりと研ぎ澄まされた思考の奥で、何かが冷ややかに光る。

 す、と短くて何気ないブレスの後に、リュリの中で生まれた星を解放した。

「……消えて……」

 刹那、風の無い穏やかな屋内が暗闇に包まれた。


 ふんわりとしたメレンゲが重なったような、ぼんやりと薄明るい昼。

 すっかりなじみの場所となった北の泉の湖畔で、アルフレッドは寝転んでいた。

 シロツメクサとその葉のベッドに包まれていながら、彼は穏やかな気持ちではなかった。

「遊び……か」

 彼女は、ユスティリアーナは、あの帽子にまつわる逸話を知らぬはずがなかった。

 それは彼女が王宮から修錬に来た、その次の日の出来事だったから。


 父親である先代のボーマン伯爵と、王女ユスティリアーナの目前で、うさぎのカウントは始められた。

 緊張した面持ちの彼と兄は、父の数える声に合わせ、各々の袋から一羽ずつ、耳を掴んで取り出した。

「一……二……三……四……」

 次々と取り出される息絶えているうさぎを目にし、王女は顔を背けた。

 しかし、当時のボーマン伯爵は震えるだけの彼女を諭した。

「殿下、非情に思われるでしょうが、これが現実なのです。我々は誰かの犠牲でもって、日々を生かされているのです。その誰かとは……、みなまで言いますまい」

 厳しい言葉が、深い声の響きによってより一層その重さを増すのを聴き、王女はそっと頷いた。そして伯爵同様、兄弟のするさまを改めて見守った。

 アルフレッドはうさぎを見せる間に聞こえた父のその言葉を、幼心に留めた。

 生きるためには、食べなくてはならない。

 それがたとえ他の生物を殺めた結果だとしても。

 彼は、そのように解釈した。

 実際、それは間違いではなかった。むしろ正解だった。

 しかし、成人し貴族のなんたるかを知った今、彼は気付いたのだ。正解は二つあったと。

「五……六……七……」

 アルフレッドは、憧れの王女の手前、緊張を露わにしていた。だが、隣の兄はいつものように虫も殺さぬような微笑を崩さぬまま、獲物を披露していた。

 狩り比べの結果は、兄が一羽足らず、アルフレッドの勝利で終わった。褒美にと乱暴に被せられたのが、父の帽子だ。それで視界が真っ暗になったのを、具合良く直してくれたのが彼女だった。

「ちいさいのにすごいのね、アルフレッド。あなたの《ギフト》は弓を使う腕かしら」

 未だ成長期を迎えていなかった彼の目線に合わせ、王女は屈んで顔を合わせてくれた。

 高い空のように透き通る青い瞳が、真っ直ぐにアルフレッドの灰色の瞳を捉える。

 まるでカメオから出てきたような人だ。

 当時十二歳だったアルフレッド少年は、たちまち恋に落ちてしまった。

 滑らかな頬はほんのりと紅に染まり、その卵のような輪郭を縁どる金髪はおとぎ話のようにふわふわと煌めき、幻想的だった。そしてその笑顔は、触れることの許されぬ、誰も穢してはいけない尊さを持っていた。

 十五歳のユスティリアーナ姫はアルフレッドの憧れの君になった。

 彼の兄に嫁ぐまでは……。


 在りし日のリチャード・ボーマン伯爵の隣で、ふんわりと花開いていた可憐さは、現在の彼女にはかけらも見当たらなかった。

「ユーシィが変わったのは、あいつがいなくなってから……」

 いつだってそうだった。彼は下唇を噛む。彼女に影響を与えるのは、リチャードだけだった。

 アルフレッドの熱っぽい眼差しなどに眼もくれず、彼の兄が差し出す手をとった。彼女の腕のしなやかな動きは、しっとりとして、恭しささえ感じさせるものだった。

 ボーマン家の夜会に招かれた貴族たちが、柱の陰で、はたまた扇の下で、お似合いの二人をそっと褒め称えていた声を、アルフレッドは苦々しく思い返す。

 そう言う時は決まって、自身を落ち着かせようと深呼吸をしたものだった。

「……はぁ……」

 神経質なため息が洩れる。また過去を思い返してしまったアルフレッドの、肩が上下する。首のあたりに、ぞわぞわとした違和感さえあった。ふと、瞳に強い疲労感を覚え、右手で眉間を覆う。

「……俺は……、いつまで根に持つつもりなんだ……」

 全ての呼吸が憂鬱な色に染まり始めたころ、その吐息の合間に草を踏む軽やかな音が混じりはじめたのにアルフレッドは気付いた。

 そのうきうきとした音は、慎重さのかけらもない、無邪気な足取りを想像させた。

 彼は、確信を持った。

 その足音を立てる生物が、アルフレッドのいる湖畔へ向かっていると。

 そっと瞳を閉じ、風のメロディにリズムを刻むステップに耳をすませる。

 そうしていると、先程までの神経質な呼吸が解れてゆくようだった。近づいてくる気配に神経を尖らせはしない。

 期待に心が浮き立つのを感じながら、彼は目前のブナの枝が何度もお辞儀するのを地面から見上げていた。そこへ、小鳥が忙しなく往来を繰り返すのを、彼は微笑ましく思った。草の根を掻き分ける音が、アルフレッドの耳元でぴたりと止まる。

 そうしてアルフレッドをのぞきこむ顔があった。

 リュリだ。そこには、見なれてきた翠の瞳があった。白い髪の彼女よりも先にアルフレッドが口を開いた。

「おはよう」

 アルフレッドは言ったそばから、自身の柔らかな声の響きを意外に思った。

 リュリはというと、彼の顔を見てからというもの、笑顔を咲かせていた。

「おはようございます、アルくん」

 そしてそのまま、宮廷式の礼の構えをとった。しかし、それは傍目から見れば奇妙なものに見えたに違いなかった。寝転んでいる人に、深々と礼をする人などいないのだから。彼女はふわふわの前髪が踊るほどの勢いで頭を下げた。癖の強い白い長い髪の先が、アルフレッドの鼻先を擽る距離に近づく。すっと鼻を通り抜けるような爽やかさと、気持ちが凪ぐような花の香りがしたような気がした。

「あのね、これ、持ってきたの」

 リュリの、線の細い手の中にはアルフレッドの帽子があった。彼女は、チュニックをふくらませ、そっとアルフレッドのすぐ隣に座った。その勢いのまま、それを彼の顔に置いた。午睡の為に帽子で日よけをする、あの状態になった。

 わざわざかぶせてくれた思いやりにくすりとしながら、アルフレッドはその帽子を顔面から取り上げた。

「ありがとう。……やっぱり、また持って帰っていたのか」

 アルフレッドの言葉に、彼女は申し訳なさそうにはにかんだ。しかしその表情はどこか困ったようでいて、嬉しそうでもあって、けれども寂しそうな、そんな複雑で不思議なものだった。彼女らしくない。

「ごめんね、アルくん。だからね、今日はそのお詫びに、美味しい物を持ってきたんだよ」

 彼女はそう言うと腕に下げていたおなじみの籠に手を入れ、ハンカチの下から瓶を一つとりだした。

 アルフレッドはそれを見ようと、肘をついて体を起こした。中には粘度の高そうな赤黒い液体が入っていた。その少々グロテスクな印象にアルフレッドは一瞬、表情をこわばらせる。

「これは……?」

「ジャムだよ。ほら」

 リュリはコルクの蓋をあけ、瓶の中のジャムを人差指で一掬いし、ぺろりとその指を舐った。そして、その瓶をアルフレッドにも突き出す。どうぞ、ということらしかった。

 彼も彼女に倣って指を入れようとした。しかし、革の手袋をはめていることに気付き、それを脱いでから改めて指をそっと瓶に忍ばせた。どろりとした赤紫のジェルが、彼の人差し指に彩りを加える。

 妖精のようなお伽めいた少女が差し出す食べ物を食べてよいものか、一瞬ためらった。恐る恐る一舐めしてみる。舌の上に木苺のさわやかな甘さが広がり、彼は眼を丸めた。酸味が強いが、それは木苺特有の物で、甘みもそれを邪魔しない程度に調節されているようだった。

「ほんとだ。上手に作ってある……。君が作ったのか?」

「ううん。貰い物なんだ。でも、とってもおいしいでしょ?」

 一体、誰に貰ったと言うのか。

 その疑問を引っ込め、アルフレッドもうなずく。リュリは嬉しそうにして瓶の蓋を閉じた。

「ああ。これは何に付けて食べるつもりだったんだ?」

「つける? お茶に入れるのに良いんだよ。葉っぱもあるの」

 少々噛みあわない会話とその矛盾に、アルフレッドは片眉をピクリと動かした。

「ここでお茶会をするつもりだったのか?」

「あ……」

 リュリはやっと気付いたようだった。ここは食器も無ければ焚き火も無い湖畔だと言うことに。しかし飲用水はふんだんにあった。空いた口を元に戻さないまま、彼女は頬を赤らめた。白い髪に縁どられたそれは、まるで熟れた林檎のように艶めいていた。

「ど、どうしよう……。ごめ、ごめんね……気付かなくて」

 失態と勘違いを恥じているらしいリュリの顔を、アルフレッドは覗き込む。刹那、森のような翠の瞳がまんまるに見開かれた。

「どうしてもお茶がいいのか?」

「だって、それしか、知らないんだもん……」

 リュリは彼の灰色の瞳から目を離さず、上目づかいにゆるゆると首を振った。

「こんな物があるんだが……」

 アルフレッドは、体のばねを活かし立ち上がると、すっかり休憩しているエヴァンジェリンの横に置いてあった荷物から、包みを取り出し、その足でリュリの隣に戻ってきた。草むらの上に再び腰を下ろすと、その包みをリュリに手渡す。

「んー? これはなあに、アルくん?」

「開けば、わかる」

 なんだろう、と少女がハンカチを開いていくと中には焼き菓子がいくつも入っていた。少女の拳より一周り小さなスコーンが、バターとミルクの香りを漂わせる。

「これ……! お菓子だ!」

 少女は嬉しそうにアルフレッドを見上げた。そのきらきらした視線から、彼は反射的に顔を背ける。直視し続ける勇気がなかった。

「う、うちに余っていたんだ。昨日の礼だと思ってくれ」

 アルフレッドは、思わず滑ってしまいそうな早口になる。

 少女はというと、鼻歌交じりで焼き菓子をまた包みなおし籠に入れていた。

 アルフレッドはてっきりこの場で食してくれるものと期待していたので、ほんの少しだけがっかりした。しかし、少女の頬が持ち上がって、笑顔を殺しきれていない様子に気づくと、堪らない気持ちになった。じんわりとした温かさが心に滲み、アルフレッドの口元も緩む。

「……あの、さ……」

 思わず、口を開いたアルフレッドに、リュリは慌てる。

「ん? あ、えっと、これはね! これは、お家に帰って大事に食べようと思って、その……」

 嬉しそうにしていたと思いきや、今度は取り繕っている。彼女の翠の瞳が、くるくると忙しなく動くのを見ながら、アルフレッドもその焦る気持ちを察していた。表面上は何一つ表情を崩さない彼だったが、いつもより瞬きが多かった。生唾を飲み込む。

「……ここで食べるのが嫌なら、俺のところに来ても……」

 ぼそぼそと呟く彼に、リュリはハトが豆鉄砲を食らったような顔をした。

「いいの? それって森の外?」

 丸めた瞳を次第にほほ笑みで細める彼女に、アルフレッドはなぜか頬が熱くなるのを感じた。

「いや、この森の中に持っている小屋だ。ただし、期待するなよ。何もないところだからな」

「ポットがあればお茶が淹れられるね。それで十分だよ!」

 にっこりともう一つの瓶を見せるリュリ。その瓶づめの中で、何やら乾いた葉のようなものがさらりと動いた。

 しかし、夏の間だけの仮住まいに、暖炉や湯沸かしはあっても、客人用の茶器などは用意していなかった。

「だ、だがな、自分のカップぐらいしか置いて―」

 無い、と彼が言い切る前に、彼女はすっくと立ち上がって宣言した。

「わかった! 私、とってくる!」

 今にも駆けだそうとする彼女に、これまでのデジャヴを見たアルフレッドは、思う前に彼女を止めていた。このまま彼女を行かせてしまえば、これまでと同じ―ただ彼女を待つだけになってしまう。

「待ってくれ!」

「なあに?」

 くるりと肩越しに振りかえるリュリの、きょとんとした表情を受け、彼はもごもごと口を動かしながら立ち上がった。その視線は相変わらず翠の瞳から逃げていた。

「……嫌じゃなければ……だが。一緒に行く。……付き合う」

 アルフレッドの突然の提案に、少女がまごつく。

「え、えっと。それは、とっても、嬉しい……けど」

「いや、やっぱり、今のは聞かなかったことに―」

「……いいよ」

「え?」

 俯くリュリの表情は、彼女の綿菓子のような前髪に遮られて見えない。

「今、なんて……?」

 アルフレッドの胸に、小さな期待が芽生える。

 二人の間の気まずさを、そっと小鳥の歌声が埋めている。

 風が煽り、彼女の白い髪をたなびかせる隙間に、桃色の唇が動いたのが見えた。

「……一緒に、行こ……。わたしのうちまで」


「家の前に出るまで、もうちょっとだけ……このまま……」

「ああ……」

 リュリの、先程よりいくぶんトーンの落ちた声。

 アルフレッドは申し訳なさそうにする彼女に、大丈夫だと伝えたかった。しかし大丈夫だと言ったところで、今の状況は変わらないことも判っていた。

 リュリの家についていく条件。それは、道がわからぬ様に目隠しをして行くということだった。彼は快諾したが、その後、こうして足を運ぶ間に様々な可能性について想像するうちに、にわかに不安が募ってきていた。リュリに手をひかれながら足を進めているものの、視覚が奪われたことで聴覚が過敏になり、小さなもの音でさえ大きく感じる。

「あのね、本当は大人を家につれていっちゃだめなんだ」

 少女の口ぶりは、まるで誰かからいいつけられているようだった。

 リュリはアルフレッドの戸惑う足取りなぞお構いなしに、彼女より一回り大きな手をとりながら、さくさくと草根を掻き分けている。その足音は彼が湖畔で聞いた物と同じで、わくわくとした足取りだった。

 しかし彼女に導かれる青年のそれは、至極慎重だった。

「でも、道がわからなかったら、一人で来られないもんね。もう少しで着くからね」

 子供を安心させるかのような温かいリュリの声音に、アルフレッドは短い返事を返した。けれども、植物を踏む音の方が大きくて、彼女にはその返事は聞き取れなかった。その証拠に、リュリは握る手をきゅっと強めた。

 未だ誰も全てを明らかにしていない、森の奥から突如現れた妖精のような白い髪の少女。

 今、彼が触れている手のひらは、小さく繊細な作りだったが、人並みの温かみがあった。それに、これまでのやりとりで実感していたが、話しぶり、動きも、人間のそれと全く相違ない。

 しかしそれらが、彼女が妖精ではないと言いきる材料たりえるかは不確かだった。

 彼女の人間らしいところを列挙すれば切りがなく、その反対、妖精めいたところを上げても同様だったからだ。

 長く感じられた目隠しの時間も、彼のポニーテールを乱暴に梳く風によって、その終わりが近いことがわかった。

 つむじ風が起こる場所。それは木々がせめぎ合う隙間ない林ではなく、開けた空間を意味していた。その空間には、風の渦巻く音と、それにかき乱される枝葉の和音が満ちていた。

 ふと、甘さを孕んだ青い匂いがアルフレッドの鼻を刺激した。彼が記憶を頼りにする限りでは、それは花の香りであることには間違いなかった。

 刹那、リュリが彼の手を離した。

「あ……」

 彼は行き場のなくなった左手を持て余す。同時に、言い知れぬ不安がよぎる。

 このまま彼女が消え去ってしまえば―それこそ本物の妖精のように―、アルフレッドは踏み入れたことの無い森の中で、帰りみちも判らぬまま独り取り残されてしまうのだ。

 その不安が、彼の手を、雲をつかむかのようにゆるゆると動かした。

「ふふっ……」

 彼の耳に届く笑い声は、左右からなのか、はたまた後ろからか、全く判別がつかない。

「……リュリ……?」

「なあにー?」

 アルフレッドの周りを彩る悪戯めいた彼女のステップが、彼を惑わす。離れてゆくのか、近づいてくるのか想像もつかない。妖精のような彼女のことだ。もしかしたら、その足を一つ大地に打ちつけただけでその姿を消せるやもしれなかった。

 アルフレッドは思いきって腕を伸ばした。すると彼の指先に柔らかい物が触れた。肌触りは、ごわついている。何か布に覆われているようだった。

「ひゃっ!」

 恐る恐る指を動かし、手のひら全体でそっと包み込む。やんわりと反発する滑らかな曲線だ。アルフレッドはそれが彼女の肩だとわかるや、つかむ手を強めた。

「……行くなよ……」

「えっ? えっ? ど、どういうこと?」

 戸惑いを見せる彼女の左肩にも、右手でそっと触れる。

 視界を遮られたアルフレッドは、彼の世界の中で孤独だった。

 リュリはここに、目の前にいるのだと、少しでも感じていたかった。

「お願いだ。何も言わずに消えるのは無しだと、約束してくれ」

「もしかして、アルくん、こわいの?」

 そっと気遣う声が彼の耳に、その吐息が彼の首元に届く。それだけで、少し安心できた。

「情けないが……」

「大丈夫。ここにいるよ」

 彼女は安心させるかのように、きっぱりと言い切った。

 アルフレッドの手のひらの中、彼女の両肩が動く気配があった。そして、彼の視界を遮っていた布切れに触れられる感覚があった。

「これ、とろっか?」

「ついたのか?」

「うんっ」

 リュリは背伸びをして目隠しを解きはじめた。だがそう簡単には行かないようだった。彼女は素っ頓狂な声を上げる。

「やっと届いた。あれ? 蝶々結びのほう、じゃない?」

「ん? ああ、それはループになっているほうだな。きつく結びきってあるほうが目隠しだ」

「えー。見えないよぉ」

 まるでアルフレッドに抱きつくように少し背伸びをして、手探りで目隠しの結び目を探し当てたリュリだったが、苦しげな声を漏らした。

 だが悲鳴を上げたいのはアルフレッドのほうだった。彼は先ほどから無防備な少女に体を押し付けられているのだから。毎度ながら、紳士的な対応をすべしと、気を張り続けるのは大変なものだった。

「後ろに回ったほうが見えるかな」

 アルフレッドの両腕からそっと逃げようとするリュリを、彼は手のひらに少し力を込めて引き止めた。

「待て」

「えぇ。消えたりしないよう?」

「このまま、どうにか出来ないか?」

「うーん……」

 顔は未だに見えないが、アルフレッドにはリュリが眉を傾けて悩んでいる表情が容易く想像できていた。しばらくすると、あっ、という明るい声が上がった。

「そうだ。じゃあ、頭、下げてっ」

「え?」

「腰からかがんでね。アルくん、大きいから」

 突拍子もない提案に、アルフレッドは顎を下げる。

「だ、駄目だ! ぶつかったりしたら、その―!」

「大丈夫、おでこで受け止めるよ!」

「いや、そう言う話じゃなくてだな!」

「わかってるよう。ぶつかったら痛いもんね。だから、ゆっくり下ろしてね?」

「ぐ……!」

 アルフレッドは今、体の正面で少女の両肩を抱き、そして彼女の顔がこちらを見上げている。

 この状況で頭を下げた場合、お互いの顔と顔が、ひいては唇が触れてしまうという結果は、明らかだった。

 アルフレッドの脳裏に、桜色をした小ぶりなくちびるがよぎる。

 喉元が、縦に一つ動いた。

「……い、いいのか? いくぞ……?」

「いいよー。ゆっくりだよー?」

 緊張感のない返事を受け、アルフレッドは言われたとおりにゆっくりと頭を垂れ始めた。

 少しずつ、まるではじめて首を下げるかのように、ぎこちなく。

 彼女の頭を覆う、ふわふわの髪の毛の感触があればすぐに止まろうと思いながら。

 ふと、両耳の横を何かがくすぐっていった。少女の腕が回されたのだ。

 不思議な緊張に、アルフレッドの顔と耳と、いろんなところが熱を帯びる。

 意識しないようにと思えば思うほど、くちびるがまごつく。

 そして、何が起こったかと言うと。

 暗闇に包まれていた瞼が解放された。

 彼の危惧した―あるいは期待した―、予期せぬ接触は起こらなかった。同時に彼女の香りも離れていった。

 彼は少しの安心と少しの残念、そして少しの戸惑いとともに瞼を開いた。

「……これは……」

 アルフレッドは視界に広がった景色が信じられず、ぽかんとしてしまった。帽子をかぶり直すことも忘れるほどに。開かれた世界に、長老の風格をたたえたとてつもなく太い幹を持った大樹がそびえたっていたからだ。

「お家だよ。変、かなあ?」

 アルフレッドが首を回すと、大樹の太い枝の上に小さな小屋が乗っていて、それに行くための長い梯子も掛けられていた。

「変……ではないが……。まあ、見たことはないな」

 思わず感嘆のため息が落ちる。森の奥に、木々を何十本も束ねたような太い幹をもつ大樹があれば、誰かが見つけそうなものだった。しかし、そんな噂は誰からも聞いたことが無かった。

「わたしも! こんなお家、一体誰が作ったんだろうね? あっ、ポット取りに行くんだった! ちょっとまっててね、アルくんっ」

 リュリは嬉々として梯子を上っていく。体重の軽そうな彼女が登っていくのに、梯子はギシギシと音を立てている。彼女よりも重たい者は登れそうもなかった。

 アルフレッドは帽子を被りなおし、ものの弾みでやってきてしまった妖精の住処を観察してみた。力自慢の男が肩に荷物を乗せたように、リュリの小屋は大樹の肩の上にちょこんと乗っていた。

 次に、先程通り抜けてきた茂みの方を振り返る。どの植物も、自身の実りによって体を少し重たそうにしていた。先日、彼が手渡された野菜もいくつかある。この茂みは畑なのだ、と彼は納得した。

 大樹の周りをぐるりと歩いてみると、開けた土地いっぱいの畑は大樹を取り囲んでいた。少女一人ではとても面倒が見きれない面積。きっとリュリの家族が耕したのだろう。

「アルくぅん? あれ、どこー?」

 ふいに空から声が聞こえ、アルフレッドは顎を上げた。リュリが窓から上半身を乗り出していた。落ちやしないかと肝を冷やしながら、彼は声を張った。

「ここだ! 君は今日、家に一人なんだな?」

「え。あ、うん。そうなの! わあ! アルくんが小さく見えるよ」

 そう言うと。リュリは片目をつむり、両手で四角形をつくった。

 アルフレッドには、彼女の行動の意図が読めた。四角いフレームに景色を納めるのは、彼の兄の癖だった。アルフレッドはそこから三歩下がり、リュリのフレームから逃げた。

「もう。アルくんこそ、どこかに行っちゃいそうだよ」

「ここからどうやって帰るのかわからないのに、独りで出て行きはしない」

「それも、そっかぁ」

 大樹の肩の上は、よっぽど丈夫らしかった。彼女が窓から顔を引っ込め、ぱたぱたと足音を鳴らしても、大樹は軋まなかった。

 日照りが強くなって来たのか、アルフレッドの肌に汗が滲み始めた。自身の額を軽く手の甲で拭う。そして、泉の畔に待たせている愛馬が気になった。森の木陰とはいえ、普段屋根のある厩に居る彼女にとって過ごしやすいとは言えない。

 ティーパーティをするには大きめの荷物を持ったリュリが大樹から降りてくると、アルフレッドはその旨を伝えた。

 リュリは二つ返事で、泉に戻る事に了承してくれた。

「でも、目隠しはするよ?」


 大樹から遠ざかる事、十数分。歩き続けたのにもかかわらず、アルフレッドの汗はすっかり引いていた。急に日差しが陰ったわけでもなかった。風も冷たさを取り戻している。彼は少しだけ不思議に思いながら北の泉に着いた。

 エヴァンジェリンは、主人の足音を瞬時に理解したようで、その尻尾を軽快に動かしていた。彼女に馬鞍を装着させる。

 そして、遠慮するリュリから若干重さのある荷物を取り上げ、左右のバランスを計算しながら馬鞍に荷物を下げた。

「ごめんね、エヴァちゃん」

 申し訳なさそうにするリュリを伴い、アルフレッドは森の出口にほど近い小屋に向かった。二人の歩みは愛馬があぜ道に足をくじかぬよう、のんびりとしたものだった。

 後ろから聞こえてくる鼻歌には、まるで緊張感が無かった。歌詞はというと、エヴァンジェリンの尻尾がふさふさ、というものに終始していた。

 エヴァンジェリンは人見知りをしがちな馬だったが、リュリに対しては平気で抱きつかれたり話しかけられたりしていた。

 しばらく同じ景色が続いていた道中、突然リュリが声を上げた。

「あっ! 水の香りがする」

 そう言うと彼女は、小さなせせらぎに駆け寄った。両手でひとすくいし口に含む。そしてよほどおいしかったらしく、笑顔で振り向いた。

 アルフレッドは口元をほころばせまいと、首を背けた。

「行くぞ。ここから小屋までは近いんだ」

 足を止めないアルフレッドに、リュリは駆け足で追いついた。

 彼の言った通り、小川のすぐ近くに東屋がひっそりと佇んでいた。

 その東屋をみとめると、それまで順調だった少女の足並みが止まった。

「あ……」

 アルフレッドは小さな厩にエヴァンジェリンを入れてやると、リュリが近くにいないことに気付いた。振り向くと、小川の近くで立ちつくしている。

「どうかしたのか?」

 先程まで朗らかだったリュリの表情が一変し、こわばっていた。

 まあ、無理もないか、とアルフレッドは息を一つ逃がした。世間知らずの少女が、ほとんど見ず知らずの男の家に来たのだ。今の今まであからさまに警戒されなかったとは言え、年頃の少女なのだから危機感を持ってしかるべきなのだ。

 アルフレッドは愛馬から降ろしていた荷物を草の上へ置いた。

「まだ日も高い。家の近くまで送っていこうか?」

 言葉に角が立たないよう、アルフレッドは努力した。しかし、返事はない。それどころか、彼女は茫然としたまま、その場にへたり込んでしまった。

「……大丈夫か? 気分が悪いのか? もしかして、さっきの水で――」

 アルフレッドが駆け寄り、屈んで顔を覗き込むと、少女は弱々しく彼を見上げた。

「……めて……」

「どうした?」

 リュリの翠の瞳が、虚ろに見開かれていた。少女は、苦しそうに声を絞り出しながらアルフレッドにすがりついた。

「……やめて……。燃やしちゃ……。みんな、しんじゃう……」

 アルフレッドが問いただそうとする、その前に、大粒の涙が少女の頬を伝い、彼女は意識を手放した。

 倒れたリュリを抱きとめるのに、アルフレッドはためらわなかった。

 少女をそっと抱きあげ、小屋に運ぶ。介抱するのはこれで二度目だなと思いながらも、彼は少女の体の細さと柔らかさに再び感動していた。愛馬が少し心配そうに息を鳴らすのを聴きとめたが、扉を閉めた。

 彼女をベッドへ横たえ、様子を見る。

 純白ともいえる銀色のくせ毛が縁どる顔が、まるで悪夢を見ているかのようにほんの少しだけ苦しそうに歪んでいた。

 心配そうにのぞきこむ彼の視界で、す、とひとしずくの涙が目じりから零れた。アルフレッドが拭おうか拭うまいか判断できずに戸惑っていると、いつの間にかそれは髪の合間に姿を消していた。

 それから、初夏には暑そうな羊毛のケープの下で、少女らしいふくらみがささやかながら上下しているのを認めて、アルフレッドは安堵の息をついた。

 しかしこれでは、と彼は手持無沙汰に小屋の中をうろうろしはじめた。彼女が持ってきてくれた自慢のジャムとお茶でのお茶会はかなわなくなったのだ。

 荷物を運ぶのも、薪を小屋の中へ入れるのもすぐに終わってしまった。狩りに出ようにも、倒れた少女を置いて行くのはどうにも気が引けた。

 アルフレッドは眠る少女とともに小屋に居ざるを得なかった。彼はいつもベッドを椅子代わりにしていたので、椅子らしい椅子は他になかった。

「しかたないか……」

 アルフレッドは火の気のない暖炉に背を預け、腰を降ろした。彼がうとうとするのに、そう時間はかからなかった。

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