四、しりたいこと、いっぱい
焦点が合わない。映る景色は翠に染まっていた。辺りを見回そうにも、首は思ったように動かない。今、見える範囲で判断するしかない、アルフレッドはそう思った。
見たところ、いつもの狩り場のようだった。しかし、いつもの眺めよりも低い位置に視点があるようだった。屈んでいるのだろうか?
そうしていると、急に眺めがくっきりとした。林の奥に、動く茶色い塊を見つけた。見つけるなり、彼の両手は勝手に動いていた。
気付くと、今度は違う場面に切り替わっていた。緑なす木々の背が低く、その代わりに青空が天井を覆っている。どうやら屋敷の庭のようだった。目前には、彼の仕留めたであろう兎が十羽、隣の山には九羽。それを数えると彼は首を上げた。彼の目の前に立つ男は、逆光の為か顔が良く見えなかった。勝手にアルフレッドの口が開く。
「父上、言われたとおりに、十羽を仕留めてきました!」
確かに、そう言った。しかしその声音は、口調に似合わず大人になりきれていなかった。
刹那、視界が真っ暗になる。アルフレッドは焦って、両手を上げ、その犯人を探した。その手が触れたのは、ぶかぶかの帽子だった。ちくりと指に触れたのは帽子のてっぺんに飾られた羽の根だった。
「約束だからな、くれてやるよ。おめでとう、アル」
アルフレッドは質素な寝台の上でぼんやりと朝を迎えた。薄暗い小屋の床には、小さな窓から陽光が差し込んで、窓枠よりも一回り大きな陽だまりを作っていた。
彼が身じろぎする度に軋む寝台は、彼の体重を支えるのに精いっぱいという風だった。気だるげに体を起こすと、素足を床に降ろし、じっとりと汗ばむ頭皮に手櫛を通した。
「……いつの話だよ……まったく……」
アルフレッドは不快そうに眉根を寄せた。汗で髪が首回りに絡みつく不快感だけがその原因ではなかった。
夢は、ときに記憶の引出しにしまっていた過去を呼び覚ますことがある。それはアルフレッドも例外ではなかった。
「……あのときの俺とは、違うんだ……」
彼はひと思いに上着を脱ぎ、上半身を露にする。寝台の周りに手を伸ばし、手探りで革靴を引っ張り上げた。しかしそれを履かず、いい加減にそろえると、素足のまま扉の外へと足を踏み出した。
足の裏に、朝露に濡れた草がひんやりと冷たかった。そのまま厩に向かうと、扉に向かって背を向けていたエヴァンジェリンが、わらを食むのをやめて首を擡げた。
アルフレッドはその尻を軽く撫でると、低い扉のすぐ横に掛けてある桶を手にし、小屋のすぐ前を流れるせせらぎをかえりみた。
すると、土臭い、一陣の風が彼の正面から吹きつけてきた。森をも揺るがす爽やかな流れで、寝起きで汗ばんだ体が冷やされる気持ちがし、彼は心地よさに瞳を閉じた。
彼は風のやってきた方を見定めようと顎を上げた。そこでは、雲がうっすらと青空を覆い、地平線をかすませていた。しかしアルフレッドには、見えるか見えないかの空の足元に、小高い丘とその上に乗った城が見えるような気がしていた。実際には見えていたのだが、つとめてその存在を無視しようとしていた。
小さな翼を必死に羽ばたかせる小鳥たちが、あちらこちらから忙しなく森の方から出て行くのを見送ると、アルフレッドは小川の清い流れに足を浸した。初夏なのにきりりと冷えているそれを桶でひとすくいすると、頭から被る。水飛沫が盛大に飛ぶのも構わず、彼は何度もそうやって汗を流した。寝起きでほてっていた体を流し、爽快感に浸るアルフレッドは、あることに気付いた。
「……しまった」
着替えは持ってきていたものの、彼は手拭いになるものは何も持ってきていなかった。
「……仕方ない、か……」
彼は大人しく小屋に戻ると、エヴァンジェリンのいる厩の乾草の中に迷わず飛び込んだ。
全身に乾草が付いていないか確認すると、乾いていない髪を一纏めにし、水分でいつもよりも前髪が撫でつけられた状態のまま、アルフレッドは北の泉に辿り着いた。もし、あの白金の髪を持つリュリという少女が来なかったときの為に暇つぶしも持ってきていた。
が、それは杞憂に終わった。
少女は既に泉の畔に腰を降ろしていた。午前とはいえ木陰は冷えるのか、彼女は日向で何かしているようだった。今日も相変わらずケープをはおり、フードを目深に被っていた。しかし、その首がちらちらと横に動いているのが後ろから見ても判った。
アルフレッドはこなれた歩みで音を立てずに静かに彼女に近づく。特段、彼女を驚かせようと思っていたわけではなく、狩人としての経験がそうさせていた。
すっと音も無く、アルフレッドが彼女の隣に腰を下ろすと、首をきょろきょろさせていた彼女の翠の瞳とかち合った。
「ひゃっ!」
少女は驚いたあまり、体を横に退かせた。アルフレッドも彼女の驚きように銀鼠の瞳を丸くしていると、みるみるうちに、少女と自身の間に虹色の壁が形成されていくことに気付いた。
また痺れるのはごめんだと、アルフレッドも体を引く。
二人は、不自然に遠く離れて佇まいを直した。そして、お互いの顔を見合わせるわけでなく、二人揃って泉の水面をじっと見据えていた。不思議な気まずさが、緑生い茂る湖畔を包む。
そうしているうちに、少女と彼との間に明確な壁が出来上がってしまった。
彼女はその壁越しにそっと、アルフレッドの方を窺った。一つに束ねた金髪から滴が落ちるのを見て、ぽつりと感想が零れた。
「……頭、濡れてるね」
「……ほっとけ」
そっけなく返すアルフレッドに、少女は怯み、また膝元に視線を下ろした。
それを瞳の端に捉えたアルフレッドは、顔の向きは変えずに視線を彼女の方にやった。少女の膝の上では、茶色い兎が小さく丸くなっていた。少女はその耳を軽く引っ張ったり、背中を優しく撫でてやったりしていた。その手のひらも、白くて小さいと、アルフレッドは思った。
フードの下で、少女の唇がそっと開くのが見えた。
「……《盾》……」
「……それはなんだ?」
「って呼んでるんだけどね……この壁のこと。これ、私の《ギフト》なんだって……」
「……そうか。《魔法》の……。見るのは初めてだ」
あらゆる《ギフト》の中でも稀有なものが《魔法のギフト》だった。ヴィスタの王族も、その血に流れる《ギフト》であり、だからこそ国を守護する務めを司るという。そう教えられて幼いアルフレッドは額面だけで納得したものだったが、実際に目の当たりにしてみるまでは信じられずにいた。
「《魔法のギフト》ってことは、王族なのか? 他にも何かできるのか?」
「……おーぞく?」
アルフレッドの言葉を受けて、兎を撫でる手が止まる。彼女は力なく首を横に振った。
「よくわからない。こんな壁が、勝手に出てくるだけ……だと思う」
自暴自棄に、リュリは空を見上げた。その拍子でフードが後ろに落ちる。陽の元に露になった彼女の表情は、昨日の天真爛漫な様子とは一変し、少し物憂げに見えた。《魔法の盾》の虹色が陽光に透かされ、彼女の相貌を彩っていた。
森を映す翠の瞳が寂しそうで、アルフレッドはどうにか返す言葉を探した。
思うように使いこなせない《魔法の盾》。今はただそれだけの存在。
物事がうまく運ばない苛立たしさなら、彼にもよくわかった。
それまで順風満帆だったのに、途端に道が塞がれ、身動きが取れない、そういう苦痛なら幾度となく味わってきたから。
「……でも、それは……その《盾》はお前を守ってきたんだろ?」
「……そうなのかなあ。こうやって、びっくりしただけで出てこられてもなあ……」
所在なさげにあいまいな返事をするリュリに、アルフレッドは強気に出る。
「今は駄目でも、これから、どうにかしてみる気はないか?」
まるで自分に言い聞かせているみたいだ、とアルフレッドはそっと苦笑した。彼の言葉を受け、リュリは翠の丸い瞳をこぼれんばかりに見開いた。 そしてアルフレッドは、彼が打ち込んだ矢の全てをはじき返した、虹色の壁にもう一度恐る恐る指を近づける。痺れが来ないように、人差し指の爪で軽くはじく。
こつんと固い音がした。
その様子を、壁を作った本人のリュリが心配そうに見守る。
「……びりびりしない?」
「……しないように、今、試してる」
次は、軽く指先で叩いてみる。
こつこつと、硝子のような涼しい音がした。
「……痛くなりませんように」
リュリは、そっと俯いて祈り始めた。
アルフレッドは少女の小さな呟きと同じタイミングで、掌を《盾》に打ちつけた。
樽が落ちたような大きな音に、リュリはくらりと仰け反る。同時に、リュリの膝上に居た兎が驚いて駆けだした。しかし、虹色の壁に阻まれて逃げることが適わず、兎は右往左往と走り、《盾》にぶつかりを繰り返した。
二人はそちらに気をとられ、兎が少女のケープの裾に隠れるまで、目で追った。
ほんの少し呆気にとられているうち、アルフレッドは壁に手を触れさせていることを思い出した。
「……痺れが来ない……」
「ほんと?」
リュリは組んでいた両手を解き、神妙な面持ちで人差し指を《魔法の盾》に触れさせる。そこはアルフレッドの掌が面する部分だった。彼女は彼の手を縁どるように壁を撫でる。手の輪郭を写し取るように丁寧になぞるのを見て、アルフレッドはなんだかくすぐったい様な気持ちがした。実際は触れられた感触などなかったのだが。
「……大きな手……」
少女が、ため息交じりに小さく感嘆する。
「お前の手が小さいんだ。……そうじゃなくて」
狩人は《盾》をさすって見せる。
「ほら、どういうわけか知らないが、今日は痺れないぞ。何かしたのか?」
実害が及ばないとなると、途端に《盾》に興味をそそられたアルフレッドは、指先でその表面の感触を味わう。確かに触れているのだが、まるで内側から押し返されて、《盾》と掌の間にわずかな空間がある感覚。夏の汗ばんだ掌なのに、引っかかることなく滑らかな触り心地だった。
リュリは彼の問いを受け、答えを探すように翠の瞳を空中に泳がせる。しばらくして閃いたのか、彼女は輝いた瞳をアルフレッドに向けた。
「痛くなりませんようにーって、思った、だけ……」
「思っただけ……それだけで変わるものなのか……?」
真実かどうか定かではないが、どうやら、《魔法の盾》の変化は彼女の意思に関わって変化するらしかった。
それならば、と彼は一つ実験をしてみようと思った。初めて目にする不可解な《魔法のギフト》の力に、彼は少年時代のような心の躍動を感じていた。
「じゃあ、《盾》にひびが入るのを想像してみてくれないか?」
「……無理だよ、こんなに固いんだから」
気付かないうちに鼻息を荒くしていたアルフレッドに、諦観した声が返ってきた。彼女は自身の目の前にある《盾》をコツコツと叩いてみせ、溜息を一つ吐く。
乗り気ではない少女に対し、彼はあきらめ悪く続ける。
「ほら、卵の殻が割れるみたいに……。考えるだけでいいから」
熱意が伝わったのか、リュリは瞳を閉じ、小難しい顔をしはじめた。
「……ぴしっと、ひび入れ―……」
アルフレッドは息をのんで見守った。陽光を反射して七色を放つ《魔法の盾》は、相変わらずその色合いを静かに移ろわせる。リュリはか細い声で唸りながら、眉根をしかめている。必死に頭の中にイメージを作り出しているようだった。《盾》の変化をつぶさに観察するも、なかなか兆候は見られなかった。
アルフレッドがその視線をそっと草原へ落とすと、いつの間にか大人しくなっていた野兎は、リュリの影にひっそりと体を潜めていた。暖かさを、はたまた身を隠す場所を求めてかはわからなかったが、リュリからその体を離すことは無かった。そして、耳をしきりに動かし、自身の命を狙う脅威が無いことを確かめてばかりだった。
誰かを楯にして自身の安全を確保するという姿勢――それは弱い者のすることだ。アルフレッドの脳裏に、その一言が苛立ちと共に蘇ってきた。彼はそれを噛み潰し、呑み込んだ。
「~~っ! だめ、疲れちゃった……」
そう言うとリュリはとさりと草原に倒れ込んだ。浅木色の上に、銀色の流れができる。野兎は彼女が横たわると、焦りもはなはだしく次の隠れ場所を求めはじめた。彼女を包んでいる《盾》も変化し、硝子のボウルのような形になったそれのどこにも、ひびらしきものは見当たらなかった。 アルフレッドは仰向けになった彼女に申し訳なさそうな視線を送る。
「……疲れさせて悪かったな」
「ううん、大丈夫。ちょっと休めばいいもんね」
リュリは少し体を起こすと、はおっていたケープの紐を解き、それを畳み始めた。
「休むって……まさかここで寝る気か?」
「うん。気持ちいいんだよ? ……あ」
畳んだケープを胸に抱え、少女は何か言いたげにもじもじと銀色の髪の先をいじりだす。
「なんだ? ……何か、言いたいことでもあるのか?」
アルフレッドが問うも、彼女は癖の強い髪の毛をしきりに引っ張り、遠慮がちに上目遣いをしてくるだけだった。何かを待つことに対して辛抱強くないアルフレッドは、なかなか答えが返ってこないのを見て、更に言葉を重ねる。
「言ってみたらどうだ?」
「……えと……」
「えっと?」
アルフレッドが矢継ぎ早に尋ねたせいか、少女は答えに詰まってしまった。その様子に、何にでも口を挿むのが悪い癖ね、という義姉の言葉が不意に蘇ってくる。そのせいで、胸の奥がチクリと痛んだ。しかし、言ってしまった言葉は取り返しがきかないものだ。アルフレッドは押し黙って少女の口が開くのを待つことにした。訳も無く掌に汗がにじんでくるのを、彼は勤めて無視しようとした。彼の視界の端に、音も無く穏やかなさざめき。アルフレッドにとって、永遠のような数分が経つと、少女は深呼吸をした。
「あ、あの、今日は、忙しい?」
「忙しかったら、ここでこんなにのんびりしているわけがないだろう」
「そ、そう、そうだよね……。ごめん……」
俯いた少女は、羞恥のせいか耳まで赤く染めていた。
「で、忙しくないんだが、何かあったか?」
アルフレッドの言葉に、リュリは小さく頷く。そして、抱えていたケープを草の上に置いた。そして何度も深呼吸した後、首を擡げ、アルフレッドに向かって小さく叫んだ。
「い、一緒に、お昼寝しませんかっ!」
少女の突拍子もない提案に、アルフレッドは面喰った。忍耐を強いられた数分の報いがこれか。次の瞬間、彼は笑いだしていた。特段可笑しいことがあったわけではない。しかし、この少女の予想のつかない言動に面白さを感じているのも確かだった。
対するリュリも、突然笑い出した彼に混乱し、翠の瞳を白黒させていた。
「な、なんで笑うのー!」
「だって……、真剣な顔して言うのが、昼寝しようだとか、誰も想像できないだろう!」
「む。せっかく頑張ったのに……。いいもん、独りでころりするもん……」
そう言うと彼女は発言通りに、ころりとアルフレッドに背を向けて横になった。畳んだケープの枕の横に新しい居場所を見つけた野兎は、突然リュリの頭が降りてきたことでまたしても自慢の足で飛び退く羽目になった。未だその姿を消さない《盾》にぶつかったのは言うまでも無い。
笑いが収まってきたアルフレッドも、リュリと距離はあるもののその隣に横たわった。日頃から手放さない武具は、手の届くところに置いた。そして自身の両腕を頭の下に組み、枕代わりにした。木陰がまぶしさを軽減し、まぶたに心地良かった。首を横に向けた先にある、丸められた小さな背中にむかって、アルフレッドは疑問を投げつけた。
「なあ、どうして昼寝になんか誘ったんだ?」
少女は身じろぎもしない。
「……笑わない?」
「変なこと言わなきゃな」
《魔法の盾》の向こうにある、銀色が覆う背中は、アルフレッドにはとても小さく見えた。
「……変なことかも」
「聴いてみないとわからないだろう?」
自信無さげに言葉を紡がれる。リュリが今、どんな表情をしているかはわからず、彼には想像することしかできなかった。すると、細い体にふっくらと空気が出入りするのがわかった。深呼吸だ。
「……あのね、お話し、したかった。……あなたと……」
そこまで言うと、リュリは声を発するのをやめた。花が揺れるような微かな声が途切れると、その隙間を小鳥のさえずりが埋めた。
アルフレッドは、沈黙の理由を推しはかる。自身が、相手に話しかけたくてもできない理由とはなんだろう。
と、彼はとっさに気付いた。
「……アルフレッドだ……」
「ね、ね、アルくんって呼んでも、いい?」
「……好きにしたらいい」
不貞腐れていたであろうリュリは、体の向きを一八〇度変え、アルフレッドにその顔を見せた。フードの呪縛から解かれ露わになった相貌には、梳いていないのか癖が強いのか、ふわふわくるくるとして少しだけくしゃっとした前髪と、好奇心で輝く瞳があった。
「ねえ、アルくん……。アルくんは、子供の時のこと覚えてる?」
桜色の唇から出るその声も、本来の明るい色を見せ始めていた。
「随分、唐突だな」
「だって、アルくんが、どこからきたんだー、って言うから、おあいこなんだよ」
「それは、そうだけども……」
「私、何処で生まれて、何処で育って、今の私になったのか、あんまりわかんなくて」
光を宿していた翠の瞳が一瞬だけ陰るも、次の瞬間には元通りになっていた。
「ねえねえ、アルくんの子供の時、きかせて!」
「……きいてどうなるんだ?」
「え? えっと、……きいたら、自分のも思いだせるかなあとか、思ったの」
「他人の過去をきいたからといって、そうはいくか? しかも俺は……」
「アル君は?」
アルフレッドはため息と共に言葉を吐き出した。
「……貴族だから、君の参考にはならないと思う」
貴族。それは、伯爵家に生まれたアルフレッドに、生まれてから死ぬまで付いて回る肩書だった。彼を縛りつけようとする肩書に、彼は心底うんざりしていた。貴族の対比として使われる言葉は、平民。アルフレッドはこういう言い回しも好まなかった。生まれた家庭が違うだけで、人間の貴卑が決まるとは考えていなかった。アルフレッドの身分が明らかになったことで、平民出身の少女の態度は変わってしまうだろう。統治する者に対する、管理される者の言動に。
自然な少女の様子がもう見られなくなると思うと、少しだけ暗い気持ちがした。
「き、ぞく? 木? だから……森に住んでるの?」
しかし、予想と反して、少女は丸い瞳をぱちくりと不思議そうにまばたかせただけだった。
「まさか知らないとでも?」
そういえばさっきも、王族という言葉に首をかしげていたような。アルフレッドは少女同様に瞳をまばたかせた。
ヴィスタ王国は、王家が国家を管理し貴族が領地を管理する、身分社会だった。そこに住まう人間は、王政社会であることを理解している。そして、自分自身が管理する側、される側のどちらの立場かも。外国人であっても知らないとは言わないだろう、常識だった。
幾度目か、アルフレッドが唖然としているうちに、リュリははしゃいだ様子で呑気な事を言っていた。
「森に住んでるなら、私と一緒だね! でもそれなら、今までどうして会わなかったんだろう?」
「そうか、よくわかった。もういいぞ」
アルフレッドがリュリを制止すると、彼女はまだよくわかっていないという顔をして黙った。そして、何かを期待する眼差しをアルフレッドに送り続けた。
言いつけをよく守って、指示があるまで嬉しそうに待つ。まるでよく飼い馴らされた犬のようだとアルフレッドは苦笑した。
「……眠ってしまっても構わないからな。それくらい、つまらない話だ……」
少し照れくさくなって、アルフレッドは梢を見上げる。木の葉の隙間から差し込む陽光が、ちらちらと彼の灰色の瞳をかすめてゆく。
さて、何処から話せばいいんだろうな?
難しいことは言わないようにしよう。それと、長くならないようにもしたいな。
俺は、ボーマンっていう伯爵の家に次男として生まれた。兄貴が……いたんだ。
両親は四つ離れた兄貴に熱心だった。
そりゃあ、次期伯爵だからな、恥ずかしくないように教育しなきゃいけなかったんだろう。
「はくしゃく?」
やはりそこに口を挟んできたか、とアルフレッドは思った。貴族社会について全く知識が無いという予想は、的中のようだった。彼女にわかりやすいように、言葉をかみ砕いてやる。
「土地を管理する人、って言ったら君はわかるのか? そういう家柄に生まれたら、ほぼ自動的に後を継がなきゃならないんだ」
一字一句聞き逃すまいと、真剣に聞くリュリ。
「いえがら……。自動ってことは、アルくんもこれからはくしゃくになるの?」
素直だからなのか、彼女の質問は鋭かった。彼の悩みの本質をえぐるようだった。
「……さあな」
俺は兄貴のやることを全てしたがった。
算術、弁論法、馬術に剣術。教師がつけられて、生活する時間も管理された。
遊ぶ時間が無くなるくらいだった。
正直、そこまで予想していたわけじゃなかったから、後悔した。
こうして、同じ舞台に立つことで俺達は常に比べられるようになった。
でもさ、先に始めていた兄貴の方が何枚も上手だった。
こんなこと、ちょっと考えたら解かるだろう?
だが親父やお袋にはわからなかったんだろうな。
息子という時点で既に同列に扱われてたんだと思う。
で、俺はというと、早々に飽き始めていた。
ずっと城の領地の中で何かをしてることが退屈になったんだ。
よく、部屋から逃げていた。
「だから、森にきたの?」
リュリが口をはさむと、アルフレッドは頷いた。不思議と嫌な気分はしなかった。ふと角度を変えた灰色の瞳が、翠の瞳を捉えた。
「お前、森の近くに住んでるんだろ? だったら、わかるよな? 森は生きていて、毎日違うってこと」
「ん? うー……」
彼の夢見るような声に、リュリは無言で首を動かした。それを見て、アルフレッドは頑なだった表情をふと緩めた。
「ここに、ずっといられたらいいんだが……」
親父がさ、狩りが得意だったんだ。
だから、俺たち兄弟は親父から狩りを習った。
やっぱり、そこでも比べられた。
ある日、時間内で、兎を十羽つかまえる課題が出た。
そこで、初めて兄貴に勝てたんだ。そのときに貰ったのが――。
「そうだ、帽子だ! お前、俺の帽子がどこか、知らないか?」
アルフレッドが急に語気を強めたため、リュリは体をびくつかせた。
「ひゃっ! し、知ってる! 持ってる!」
「今、ここに?」
アルフレッドが反動をつけて勢いよく体を起こすと、彼の隣を野兎が駆けて行った。彼はリュリのすぐ隣にあった籠に手を伸ばし、中身を入念に調べる。ガラス瓶が三つ四つあるほかは、何もなかった。
「ここじゃなくて、家にあるの……。持って帰っちゃった……」
「家? 村のどのあたりだ? そろそろ陽も落ちるし、送っていこうか?」
彼と同時に起き上がったリュリは、慌てて彼から籠を取り上げると、必死に口を動かした。
「明日。明日、必ず持ってくるから……!」
そして、ケープを拾い上げると、彼女はその場から走り去ってしまった。
軽やかな足音は見る見るうちに遠ざかり、そこには、すっかり髪の乾ききったアルフレッドと、彼女の寝転びと《魔法の盾》によって倒された草花の後だけが残された。
まだ日の高いうちから帰宅したリュリは、らしくないほどおとなしかった。子供たちに配ると言って持っていった籠の中身もちっとも減っていないことにカラスは気付いていたが、重大な事態ならばリュリから言ってくるだろうとのんきに構えていた。
しかし、リュリはキルトにくるまったままベッドの中でもぞもぞしているだけだった。そして何かを思い出しては独りごちている。
「あぁ、わたし、全然知らないんだなあ……」
自宅を出るときは、またあの男性に会えると、リュリは胸をときめかせていた。十分に準備が出来るようにいつもより早起きをして、わき目も振らず北の泉にむかったことを思い出す。
「いつ見ても大きいし……」
いや、もしかしたらちょっとずつ大きくなっているのかも、とリュリは真剣に思い出していた。リュリは《盾》越しにしばしばアルフレッドの様子を観察していたから、瞳を閉じればわりとしっかり彼のことを脳裏に思い描くことができるようになっていた。
彼の結わえた髪から、薔薇のような何か花の香りがしていたとか、それでもその奥に、形容しがたい香りも秘められていたとか。または、《盾》を挟んで彼の手に触れたときに、リュリは心臓が飛び出てしまうような気分がしたとか。意志の強そうな切れ長の瞳が彼女を捉えたら鼓動が高鳴った、あの感覚までも完ぺきに再現された。加速した心音に頬を染めながら彼女は首をひねる。
「でも、こわくてどっきりするのとは違うんだよなぁ……」
厳つい顔つきは不機嫌で、すこし近寄りがたい。けれども、それがほぐれて笑顔が滲んだ時のあの優しい雰囲気が少女の心をとらえて離さなかった。
苦手そうに笑うぎこちなさと、とつとつと話すぶっきらぼうさ、それに何より、厚い胸板に響く低い声が彼女の脳内で幾度となく繰り返される。
リュリは小さな事象も思い返し、嬉しくなったり悲しくなったりしていた。そして、一番嬉しいことを思い出した。嬉しいこと、それは彼の名前。
「あの人の名前……。アルフレッド、アルくん、かあ……」
彼のいないところで名前を呼んで、なぜだか恥ずかしくなってキルトに顔をうずめるリュリの肩に、白カラスが飛び乗る。
「リュリ。お前、今、何といった?」
「なによう、昨日言った男の人がね、名前を教えてくれたから」
忘れないように、口に出してるんだよ、ともっともらしいことを言うリュリの表情が、紅潮しているのをカラスは見過ごさなかった。
「で、その人はなんという名前なんだね?」
「アル、アルフレッド、っていうんだって。名前までかっこいいよね、うん」
リュリが恥ずかしそうに、しかしどこか得意げに口にした名は、カラスの気に障ったらしかった。カラスは黙って窓から飛び立っていずこかへと去ってしまった。リュリはその様子を少々訝しむも、アルフレッドのことを思い出すのに忙しかった。
「アルくんの、お家ってどんなふうなんだろう?」
リュリは、ぼんやりと想像の世界に絵筆を置き始めた。しかし、しばらく人里から離れた彼女には家屋の記憶がぼんやりとしかなく、結局、頭の中のキャンバスは真っ白のままだった。
それでも無理やりに描こうとして出てきたのは、たった一つの建物だ。たくさんの子供が出入りを繰り返す、賑やかでこじんまりとした木の家。
少女はそこに住まう人々の顔をぼんやりと思い出しては、きゅ、と歯を食いしばった。彼女が幸せだった記憶をくれた母親代わりたちや友人たちは、不審な人物の炎によってすべて失われてしまっていた。最後のいい思い出は、いったいなんだったろうか。彼らを失った悲しみが深すぎて、リュリは孤児院での生活をすべて記憶の引き出しの中にしまいこんでいた。
「みんな、もういない……」
たった一人生き残ったことを後悔する暇も、懺悔する人もいなかった。彼女を炎の中から連れ出してくれた栗色の髪をした少年とも、すぐにはぐれてしまったからだ。そのあとすぐにあの白カラスが彼女を見つけ出し、今の住まいへとかくまってくれた。
それからリュリは孤児院の血の繋がらない家族を失った後、ながらく人のたくさんいるところが怖かった。またみんな失ってしまうのではないかという危惧がそうさせていた。
だから白カラスの言う通り、他者と深く関わらず、関わる人間を夢と現実の境に生きる子供に限定し、自身の存在をあやふやにさせていた。
カラス曰く、孤児院の件は、誰かがリュリの身柄を求めたために起こったという。彼女が逃げ込んだ森の奥にひっそりと住み続けているのも、自身の安全のためではなく、他者の安全を願ったからであった。
孤児院が無くなった事件から五年、カラスとの生活の中でリュリを狙う人物がいることは分かっていたが、相手方は全く手を出してこなかった。もうそろそろ時効だろう、とリュリは考えた。そして、あの人なら、強そうだから何があっても大丈夫かな、とも思った。
「もう、いいよね、妖精さんごっこをやめても……」