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【完結】純白の抒情詩《リューリカ》  作者: 黒井ここあ
第一章 妖精とよばれし娘
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三、カラスとの約束

 ボーマン領エルレイのほとんどは丘と森だった。幸いにも川は領地を駆け廻っていたが、畑仕事をするには絶対量が足りないため、ボーマン家の領地に住む者は、林業か酪農を営むほかなかった。それと、ほんの一握りの人々が物資の流通に手を染めるだけだった。一番小高い丘の上に構えられたボーマン家の城は、その最上階の塔へ登ると、領地の全てを望むことが出来た。しかし、鬱蒼と茂る黒い森の中まではそうもいかなかった。貴族達に、この森に何がいるかと問うと兎や鳥と答えるだろう。人が――ましてや十七歳の少女が独りで暮らしているなどと誰も思い付かないにちがいない。

 貴族の想像を超えた、薄暗くも木の葉の煌めきで照らされる森の奥、一本の大樹の小さな扉に、ふわふわとした綿菓子のような純白の髪を持った少女が、小さな札をとんかちとんかち打ち付けていた。朝靄もまだ消えない、さわやかな夏の朝である。札には蔓草のような文字で『おちゃあります。まほうのようによくききます』と書いてあった。

「ふぅ、これでわかるかなぁ」

 作業を終えた少女が一息ついた。

「トマジさんの子供たちはみんな木登りが上手だから、ここまでちゃんと登ってこられるわよね」

「わしは登らずともすぐに来られるがの」

 少女の頭上、大木の枝から急に声が聞こえたので、彼女はその声の主がどこにいるかと首を回した。すると音もなく滑空して、一羽の白いカラスが小さな家の天辺に舞い降りた。少女はその姿を認めるとにっこり笑い、彼女の膝下丈のスカートの両端を摘んで深々と礼をした。桜色のチュニックに似合わない、格式ばった所作だった。

「おはよう、カラスさん。今日もいい天気だね」

「おはよう、リュリ。なにもかしこまった真似までせんでよいじゃろう」

 リュリと呼ばれた少女はぷっくりとした唇を突き出し、かすみ草のようなソプラノの音色を濁らせた。

「もう。町の人はこうやってお辞儀をするって、教えてくれたのはカラスさんだよ。忘れないように、毎日やってるのにぃ」

 リュリはまあいいか、と瞳を閉じて、耳を澄ました。そして遠くに軽快な歌声を聞きひとりごちた。

「いるいる、みんな早起きだもんね」

 白カラスは首をかしげながらその様子を見守っている。リュリは自宅から見て一際明るくなっている場所を指差し言った。

「それにね、あそこの広場の小鳥さんたちにこのご挨拶をすると、お花を貰えるようになったの、すごいでしょ!」

 スカートいっぱいになるんだよ、と楽しそうに話すリュリを後目に、白カラスは羽根の具合を嘴で確かめていた。それから首の具合を元に戻し、彼女に尋ねた。

「今日はどこまで行くのじゃ? 森は出ないじゃろうな?」

「ふふふ、大丈夫、北の泉までしか行かないから」

 リュリは堪らないといった風に、くすくすと笑いだした。白カラスは不機嫌そうに首を動かし佇まいを直した。

「わしの顔に何かついていたかの」

「カラスさんたら、二言目には『森を出るな』っていうんだもん」

「お前は特別だからじゃ、リュリ。人間は、自分と違うものを恐れ排除する。お前もその対象になりかねん。わしはな、お前を……」

「心配して言っているのじゃ、ね。大丈夫ったら大丈夫よ」

「誰がお前を狙っているかはわからない。だれも信用するでない。そしてその珍しい真っ白な髪と翠の瞳はしっかり隠しておくのじゃ。わしはお前を心配して言っているのじゃ」

「そんなこと言ったら、カラスさんだって真っ白じゃない。それでいて、いつでもふらぁ、っといなくなっちゃったり、自由に空を飛んでいっちゃったりして。ずるいずるい! カラスさんが大丈夫だったら、私だって大丈夫だよ? 大丈夫ったら大丈夫!」

 大丈夫ったら大丈夫、と節を付けながら軽快にステップを踏み、リュリは小さな戸口から大樹の中へ入った。それが彼女の家なのだった。白カラスは彼女を追って開け放たれた窓の縁へと滑り下りた。

「そうそう、昨日、すっごい怖い目にあったんだよ! やっぱり《盾》が出てきてくれたおかげで、全然怪我しなかったんだけどね」

 リュリは思い出したように、白カラスに報告した。彼の皮膚が露わだったなら、蒼くなったのが見えただろう、彼はそれくらい慌てた。しかし、対する少女の方は、危機感など全くなく呑気に答えていた。

「何、なぜそれを早く言わん! 相手は誰だったんじゃ? 顔を見なかったのか?」

「ええ。だって、人間は最初に挨拶をしあうものだ、ってカラスさん言ってたじゃない。あと、とっても遠くから矢が飛んできたんだよ! すぐ逃げてきたから、誰だったかなんて、わかんないよ」

 彼は小さな首で辺りを見回し、いらだち紛れに部屋の香りを吸い込んだ。カラス特有の鼻を守る剛毛は、匂いを発する対象に近づかなければ機能を果たさない。だが、この小さな部屋には様々な種類の香草がその香りを競っており、部屋そのものが香り袋のようになっていた。それもこれも、壁中の至る所に干された薬草、香草の類のためであった。

「お前ときたら、注意力に欠けている! それにしても、この薬草の量……また、増やしたようじゃな? 子供の傷薬を作るにしては本格的すぎないかね?」

 白カラスは足で窓の縁を掴み直した。

「傷薬なんて作れないよ。おいしいハーブティーを作って、それをおすそ分けをしてるだけ」

 リュリは戸棚から麻布で出来た小袋を幾つも取り出し瓶に詰めながら、にこやかに答えた。

「寝る前に蜂蜜と一緒に飲めば、ぐっすり眠れるでしょ」

 わたし蜂蜜は大好き、と言いながらリュリは忙しなく子袋が詰まった瓶を次々に用意していく。そして瓶に小さな麻布をかぶせ、その縁には、葡萄の蔦を干して作ったリボンを巻きつけ、籠の中にどんどん隙間なく詰めていった。

「おいしくなあれの魔法をかけたから、効果はもう、ばっちりなんだよ! ほら、こうやって、両手に持って、おいしくなあれー、おいしくなあれー」

 ぎゅっと目を閉じ、両手で包んだ瓶に、リュリは何やら念じた。

 白カラスは窓辺から木の机の上に不格好に飛び乗り、もっと不格好にリュリの近くへと飛び跳ねてやってきて、その様子を興味深そうに小首を何度も傾げながら見ていた。リュリは荷作りが終わると、髪を結わえたり前掛けを着けたり、身支度をするのに部屋中をせわしなく歩き回った。

「これも自分で織ったのか?」

「ううん、これは貰い物。子供たちがくれたんだよ」

 リュリは寝台の柱に掛けてあったその貰ったケープを手にとり、無造作に纏った。フードが付いている毛織物で、縫いつけられた毛皮のおかげで、冬にも温かく過ごせるような代物だと白カラスは見て取った。

「良いものだな、だがしかし、今の季節にはそぐわんのではないか?」

 彼の提言をよそに、彼女はしっかりとケープの紐を結わえ、フードを目深に被った。僅かに見える口元が笑みを湛えている。

「……カラスさん、忘れたの? 私って、人に顔を見せちゃいけないんでしょ?」

 彼女はそう、悪戯っぽく言うと籠を手に取り、素早く扉へと駆けだす。

「約束の時間に間に合わないかも、カラスさん、またね!」

 白カラスはリュリの梯子を下りる音を聴きながら、その音に合わせて不格好に机の上を跳び、窓の縁へと飛び乗り、彼女が北の方へ行くのを見守った。彼女の白く眩しい髪色がフードから溢れて朝日にきらきらと輝くのが見えなくなると、白カラスはいずこかへと去っていった。


 次期伯爵は、狩り場でその時を待っていた。森林の生きている音に体をゆだね、ずっとその場を動かなかった。瞬きさえも慎重に管理するほどだった。

 今日は、彼のあまり好きではないボウガンをも傍らに用意し、矢筒を三本持ってきていた。

 ボウガンは、対人用兵器としては有能だが、狩りにはむかないとアルフレッドは考えていた。弓矢の絃が響く音のそれよりも、ボウガンの器械音は大きく、そして野生の動物は矢が刺さるよりも先に、その音で逃げてしまうのだった。

 無心に、白い物体が来ないかと眼を皿にするアルフレッドは、その頬に蟻が上ってきても、耳元を蜜蜂が不思議そうに漂っても、歯を食いしばって動かなかった。

 そうして、木陰がすっかり小さくなった。彼はそれを見て、正午になったことがわかった。朝食はとっくに消化され、新たな食物を求める腹の音を制御するのに、アルフレッドは一苦労していた。

「……今、出てきてくれたら、あいつを昼飯にしてやるのに……」

 そう思いながら彼は矢をつがえる。そしてその狙いを、先日、白い兎がいた切り株に定める。

「……そう、都合良く行くわけが……」

 さすがの彼も、そろそろ肩周りの筋肉に疲労感を覚え始めてきた。溜息をつきながら構える腕を下げようとするアルフレッドの灰色の瞳に、眩しいような白い毛並みが見えた。瞳孔が開くのを感じ、彼はすかさず矢を持つ右腕に力を込める。きりきりと弓がしなる音が、自身の腕の震えを音で如実に表現していた。

 緊張の一瞬。それを、一本の矢が切り裂く。

 連続で四発、打ち込む。

 金属質のような音がまたもや彼の耳に届く。

 アルフレッドはすぐさま弓を上半身にくぐらせ、ボウガンを片手に白い物体めがけて走り込んだ。そして、走りながらも獲物めがけて何発も打ち込む。

 狩人の出した音で、狩り場一帯に潜んでいた野生の生き物達は、その翼や足を使ってあちらこちらに散らばっていった。しかし彼はそれを気にも留めず、目標の白樺の切り株まで一直線に走った。

「……どういうことだ……?」

 切り株のある開けた場所、そこが獲物である白い兎の倒れている場所のはずだった。

 しかし、そこには真っ白な髪をもつ人間が倒れているだけだった。

そして、その人間の周りには、ぽっきりと力なく折れた大量の矢が落ちているのだった。どういうわけか、円形を描いて草花も倒れている。

 その光景を見て、アルフレッドはただ立ちつくすほかなかった。

「……死んで、ないよな……?」

 彼は自身が過ちを犯していないことを確かめるべく、折れた矢の中心に倒れる人間に恐る恐る近付く。

 背中まである髪からして、女性だろうと彼は思った。さらに、真っ白な髪であるからして高齢者であろうとも思っていた。

「……女の、子……?」

 しかし、助け起こしたアルフレッドが見たのは、瑞々しく透き通った肌をした少女の顔だった。彼は驚いて、すぐさまその口元に耳を近づけた。すると、かすかな呼吸音が彼の耳を擽るのが聞こえた。彼女の身にまとった夏にそぐわない毛織のケープが、アルフレッドのむき出しの腕にちくちくした。

 驚きで一瞬動きを止めるも、アルフレッドは自身の射った矢が彼女を傷つけてはいないか、目で確認した。矢が刺さっていれば、痺れ薬を縫ってある鏃が傷つけた傷口が化膿してしまうことが多いに予想された。

「……ふぅ、どこにも傷はない……」

 小さく溜息をついたアルフレッドは、腕の中の少女をどうしようかと思いあぐねた。

「コイツ、兎みたいに音も立てず、一体何処から来たんだ……?」

 人間の足音は、森の中では異質に響くことをアルフレッドは知っていた。だが、ずっと藪陰に潜んでいたアルフレッドの耳にはそれが全く聞こえなかった。そして、散らばっている矢と少女の関係についても考えたが、一向に答えは出なかった。

 アルフレッドは彼女の傍に転がっていた籐の籠を彼女の膝に乗せると、彼女を抱きあげて立ち上がった。軽い、と彼は思った。そして、柔らかい、とも。

「……気が付いたら、問い詰めるか……」

 彼はエヴァンジェリンの待つ北の泉へと戻ってきた。愛馬は、主の帰りを喜んでいる証に、その尻尾を嬉しそうに振った。しかし、彼はそれを相手にせず、先に運んできた少女を泉の畔に出来ていた木陰に横たえた。その横に彼も座る。

 獲物を仕留めるまでは帰るまいと、彼は息巻いて森までやってきた。狩りを理由に、伯爵未亡人の圧力から逃れようとしたのも理由の一つだったが。

「……なんだよ……せっかく、良い理由になると思ったのに……」

 彼は北の泉から流れる川沿いに、小さな小屋を持っていたのでそこに滞在しようと考えていた。しかし、白い兎と思っていたものが少女だったことで拍子抜けし、茫然としていた。

「ある意味では、仕留めたことになるのか……?」

 ちらりと少女を見やる。小さく胸を上下させる様子を見るに、目覚める気配はなかった。

「このまま帰って、ユーシィに会いたい……とは全く思わないんだよな……」

 昔と違って、という言葉を飲み込んだ彼は、お気に入りの帽子を少女の籠の上に軽く引っ掛けた。森を駆け抜ける風が、泉をさざめかせ、梢を揺らす。そうして揺らめく正午の日差しは、数々の光の筋となって少女と青年に分け隔てなく降り注いだ。陽光に少女の髪が白く透き通る。その白い巻き髪に縁どられた、柔らかそうな両の頬は、ほんのりとバラ色に染まっている。松葉のように長い睫毛までも光に透けている幻想的な相貌は、アルフレッドが知る限り人間離れしていた。

「……妖精か……?」

 独りごちたばかりだったが、いや、姿かたちは人間そのものじゃないか、と彼は思い直した。

 刹那、穏やかな時間を割く物があった。それはアルフレッドの腹の虫が鳴く音だった。彼は咄嗟に少女の方を見た。耳が熱くなるのを感じながら、慎重に少女の様子を窺ったが、彼女は身じろぎすらしなかった。

 ほっと一息つくと、彼はハンナに渡された包みを開けることにした。結び目を解くと、バターの香りが漂う。中には色とりどりの野菜が入ったマフィンが幾つも入っていた。

 悔しいことに、乳母の予想した通りの事態になってしまったが、彼女の気遣いのお陰で食いっぱぐれることはなさそうだった。一つだけ取り出して、一思いに齧りつく。空腹のあまり、満足に噛まずに一飲みすると、彼は喉を詰まらせてしまった。盛大に咳き込みながら、泉に駆け寄って、両手に巣くった水で流し込む。それでも誤嚥は彼を苦しめた。

「っ! ごほっ……。……ふう。俺は一体何やってんだ……」

「ひゃうっ! こないでえぇ!」

 水とマフィンを飲み下したアルフレッドの後ろから、気の抜けるような声が聞こえてきた。 声に驚いて振り向くと、横たわったまま瞳を真ん丸に開いている少女と目があった。

 どうやら彼女は自身の寝言で目覚めたらしかった。

 二人は驚愕の表情で、顔を見合わせたまま固まった。

 アルフレッドは濡れている口元を拭うのも忘れて彼女の瞳に見入ってしまった。それは針のような睫毛に縁どられ、瑞々しい若葉のような翠色をしていた。魔法めいた煌めきは、まさにエメラルドのようだった。

「あ……。えっと……」

 翠の瞳が、ぱちくりと瞬く。

 アルフレッドは何か言おうとするも、言葉が見つけられずに、灰色の瞳を同様に瞬かせた。急に彼女が目覚めたものだから、矢を放ったことから謝るべきか、なぜ雨のような矢の全てをよけきれたのか問うべきか、あるいは春風のような愛らしい声を誉めるべきか、はたまた、彼女がどこから来たのかを聞くべきか、全ての考えに優先順位をつけられなくなっていた。

 アルフレッドの思考が一時的に停止していると、少女は慌てて起き上がり、毛織のケープのフードを目深にかぶり直した。

「あ、あの、えっと、私の顔、見た?」

 アルフレッドを認識したのか、あからさまに少女は慌てはじめた。一方で狩人は徐々に余裕を取り戻しはじめた。

「……見た、けど」

「うそ、どうしよう! 人に見られたらだめなのに……」

「? どうしてだめなんだ?」

「私が特別だから!」

「なぜ、特別なんだ?」

 その見た目がすでに特徴的だろう、とアルフレッドは問うてから気づいた。だが彼女はぽかんとした。まるで考えたことも無かったというように。

「あれ? どうしてだっけ……?」

 少女は混乱し始め、その証拠に、突拍子もないことをアルフレッドに尋ね始めた。

「えっと、ところで! あなたは、人間なの?」

 彼女はゆっくりと腰をずらしながら後じさっていた。高い声が更に上ずっている。

「……。……見たらわかるだろ?」

 呆れる彼から、その顔を必死にフードで隠しながら、少女がむきになって反論する。彼女が動くと、白い髪の流れもふわりと揺れて煌めいた。

「違うよ! 人間って、もっとちっちゃいもん!」

 これくらい、少女の顎の下辺りに手を置いてみせられ、彼は鼻息荒く腕を組み直す。

「ちっちゃいって……お前が言うなよ……」

 アルフレッドの体は、確かに少女よりは頭一つ分大きかった。抱き上げたときの軽さと肉体の柔らかさを思い出し、アルフレッドは耳を染める。その彼の様子に気付くことなく、少女はなおも声を張り上げた。

「でっかいし、声低いし、体も態度もでっかいし、絶対、人じゃないよ!」

「お前、さり気なく喧嘩売ってるだろ? ……まあいいや、じゃあ、俺は人じゃなかったら何なんだ?」

 そう言うと、彼は立ち上がり、膝についていた湿気た土と草を叩き落とした。少女は悩み始めたようで、うんうんとうなり始めた。少女は、アルフレッドが知る同年代の異性と違って、自分の表面を繕うことをしないように見えた。貴族のように、笑顔の仮面を張り付けてはいなかった。ころころと変化する豊かな表情に、アルフレッドは視線を離せずにいた。

「え? えーっと……うーん……。……妖精さん?」

「は?」

 思いもしない単語が聞こえ、アルフレッドはその耳を疑った。

「はじめまして、私、リュリ!」

 リュリと名乗った少女は、自身の答えに納得すると嬉しそうに立ち上がり、アルフレッドに丁寧な礼をした。ただし、優雅という言葉からはかけ離れている、威勢の良い礼だった。

 その型は、彼の良く知る宮廷式の正式な挨拶だったので、彼も反射的に返してしまった。

「これはご丁寧に、どうも。俺はアルフレッド」

 彼の正式な礼を見て、少女は更に顔を輝かせた。必死に被っていたフードは、勢いよく頭を上げた瞬間にすっかり脱げてしまっていた。

「アルフレッドの精さんはどうしてここに?」

 途端に警戒を解いたのか、少女はとことことアルフレッドの近くにやってきた。

「妖精さん、ご用事があってきたんだよね……?」

「待て、俺のどこにそんな要素が?」

 彼にとって妖精というのは、首と胴体の境目のないものとか、死者を悼み泣く女だとか、花から生まれた小さな乙女だとか、そういう人間離れしたものだった。人間離れしていると言えば、目の前の真っ白な髪に翠の瞳を持つ目の前の少女の方が、よっぽど魔法めいた存在だと、彼は思った。

「……だって、人間じゃないもんね?」

「……何処からどう見ても、そうだろ……」

 すっかり安心したのか、にこにこしている彼女は、大いなる勘違いをしているようだった。

 もはやどこから突っ込んでよいのかわからず、アルフレッドは呆れるほかなかった。湖畔で水浴びをする小鳥の楽しそうにする声が、平和そうでかえって恨めしく思えた。頭痛がしてきて、彼はため息交じりに呟く。

「男に恨みでもあるのか、お前?」

「おとこ? ……あれ? あなた、男の子なの?」

 そう言うと少女は、ケープの下から白い両腕を伸ばし、アルフレッドの胸板をペタペタと触りだした。

 彼の日常である貴族社会ではあり得ない、直接的な接触にアルフレッドは驚いて再び固まってしまった。

 突然の事態に彼が動けずにいると、少女は鼻を近づけてその匂いまでも嗅いでいた。頭の中が真っ白になった彼は、ぼんやりとその様子を眺めて、まるで犬みたいだと思っていた。

「……知らない匂いがする……」

 ひとしきり調べると、少女はアルフレッドを見上げ、眼を丸くしていた。

「あれ? 大人なのに胸がないよ!?」

「当たり前だ」

「わたし、大人だからあるよ! ほら!」

 そう言うと彼女は、アルフレッドの左腕をとって、自身の胸元へと誘おうとした。彼は気を取り直し、寸でのところで自身の肩に力を込めて、接触を拒んだ。その顔は羞恥で真っ赤に染まっていた。

「やめろって! 落ち着けよ! 同じ大人でも男には無い!」

 彼はとられた腕を振り払うと、少女の両肩の上に両手を置いて彼女を引き剥がした。

「あ、そっか。そうだったんだ! 男の子の大人だったんだ! 初めて見た!」

 少女は、なるほど、と嬉しそうにするや否や、急にあることに気付いたようだった。

 急に大人しくなった少女に、アルフレッドは小首を傾げた。

 すると、少女は瞳をぎゅっとつむった。

「……こ、こ、……来ないで!」

「うわっ!」

 少女のか細い叫び声と共に、何かが焦げるようなちりちりとした音が聞こえ始めた。そしてアルフレッドが少女に触れていた両手が急に痺れ出し、彼は堪らず少女から手を放した。二人の様子を黙って見ていたエヴァンジェリンが急に嘶き、そこから逃げだそうと言うように首を振る。だが、小枝にかかった手綱によってひきとめられていた。

「……な、なんだよ……一体……」

 呆気にとられたアルフレッドの目前には、虹色の光を跳ね返す壁のようなものがあった。それは卵の殻のように、立ちすくむ少女を中心にして丸く形成されていた。彼の耳には、その殻のような壁が蜂のように唸る音と、愛馬の蹄鉄がごりごりと森の土を掘る音だけが響いていた。

 アルフレッドの知る女性という生き物は、感情で動き、頭に血が上ったら最後、すぐに激情してしまうものだった。彼は、そういう非論理的な女性の混乱状態なぞ見慣れていて、憎むべきもので、面倒なものであると思うと、一切関わりたくなかった。

 だが、この少女に対しては、なぜだかわからないが対処してみようと思えた。壁を隔てた先に声をかける。

「君は、リュリっていったか?」

「人に名前を教えちゃ駄目だから、違うよ!」

 必死に首を振る少女とその言い分に、アルフレッドは首を落とす。

「さっき自分で言ってただろうが……」

「あっ、違うの、それは聞かなかったことにして!」

「聞いてしまったものは仕方ない! 残念だったな! それで、リュリ、これは何だ?」

 アルフレッドは恐る恐る壁に近づいて、指を近づける。触れるか触れないかという距離で、人差し指にちりちりとした痺れが発生した。

 壁が陽光に反射した虹色に囲まれているリュリは、先程の剣幕とは打って変わって、もじもじと心許なさそうに答える。

「……人にそう言うことを教えちゃ駄目なんだもん」

「……まさか、知らないとか?」

 眉をひそめるアルフレッドに、リュリは目を泳がせる。

「……まさか~……そんなこと~……」

 そんなことない、ときっぱり言い切れない彼女に、アルフレッドは溜息をつく。

 穏やかな木陰に対峙する二人は、気まずくなってしばし黙った。

 アルフレッドがちらりと愛馬の方を見ると、彼女は怯えたのか、リュリから遠ざかるべく、小枝から手綱を解放させようと首をあちらこちらに引っ張っていた。

 むやみに木の枝を折ってしまうのは良くない、そう思い、アルフレッドはリュリの目前から離れた。愛馬の手綱を左手にとり、その腕で手綱を引いて愛馬の首を彼の方に近付けると、右手の皮手袋を脱ぎ、そっと撫でた。恨めしい鼻息が彼の大きな鼻先にかかる。それを受け、申し訳なさそうに苦笑すると、アルフレッドは手綱を引いてリュリの前にまた戻ってきた。

 彼女は、その場に力なくへたり込んでいた。その膝の上には、彼女の持ち物である籠があった。それに括りつけられたリボンを摘まんでいじっている。虹色の壁も、彼女の動作に合わせて形を小さくしていた。

「落ち着いてきたか?」

「……うん」

 フードを目深にかぶった少女は、素直に頷いた。

「聞かせてくれるか? これは何だ? お前は何処から来たんだ?」

 アルフレッドの一つ結びの髪を弄ぶ風が、首筋に冷たい。少女も、ケープをきゅっと自身の前に手繰り寄せた。彼はそれを見て、不思議な壁も風を通すのかと、感心した。

「……わかんない」

 風で葉が擦れる音に、かき消されるほどの小さな声だった。

「……わからない? 初めて見たが、《魔法のギフト》じゃ……?」

 アルフレッドが尋ねると、リュリはこくりともう一つ頷いた。彼女の表情はフードで隠れていてわからなかったが、その声はアルフレッドには少しだけ寂しそうに聞こえた。

「これのこと、わたしわかんない。いろんなものから守ってくれるから《盾》って呼んでる。おんなじくらい、自分のこと全然知らない。わかんない。その《ギフト》っていうのも」

 自身に言い聞かせているかのような小さな呟きに、アルフレッドは心の中でそっと同意を寄せた。自身の本心が一体何処にあるのか、アルフレッドは未だに決めかねていた。その本心というのは、初恋の人を思う気持ちであった。それは十年前に捨てたはずの気持ちだった。

「……明日、また、ここに来る?」

 リュリの突然の申し出に、アルフレッドは驚く。しかし、彼としても知りたいことが何一つわかっていないのだ。そして、自身の家たる伯爵の城へ帰りたい気持ちもしない。快く返事をする。

「ああ」

 リュリはその声を聞くと、膝についた埃を払いながら立ち上がる。未だ、彼女は虹色の卵の中にいた。

「……私も、あなたのこと知りたい……し……」

 ちらりと、翠の瞳がアルフレッドを捉える。

 彼には、その瞳がどうして一瞬煌めいたのか、その理由はわからなかった。

「ごめんね、驚かせて。……また、明日ね」

 真っ白な髪をフードから溢れさせて、少女は不思議な繭に包まれたままで、森の中へと音も無く去っていった。

 アルフレッドは、異変に気付いた。彼女を包んだ壁があった場所に生えていた草花が、全て横倒しになっていることに。

「あの壁のせいだったのか……。どうりで、矢なんか当たらない訳だ……」

 アルフレッドは馬鞍を愛馬にとりつけると、その足で、少女の倒れていたところに置いてきたボウガンを回収し、所有する小屋に向かった。それは川沿いに森を出てすぐのところにあった。続き屋根の厩に愛馬を繋いで、そこから一晩分の薪を抱えて小屋に入る。風よけのマントを壁に掛けると、フックの隣に掛けてある鏡が目に入る。そこに、驚きで見開かれた彼の顔が映り込んだ。

「ああっ! 俺の帽子がない!」


 暗闇に包まれた森に、梟の鳴く声が響く。リュリの住まう大樹に梟が羽を休めているらしく、その声はとても近くに聴こえていた。

 夜、リュリは蜜蝋で作った大きな蝋燭を灯し、その明るさと温かさを楽しんでいた。その小屋の様子を外から見たならば、まるで大樹そのものがランタンになったかのようだろう。静けさが満ちる夜の森の中心に、その大きなランタンの中では楽しそうなお喋りが花開いていた。

「あのね、カラスさん、今日はすごいことがわかったの!」

 彼女は切り株を再利用した机の上にランプを、そしてその上に小さな硝子のポットを置いて、その様子をぼんやりと見つめていた。ハーブティーを入れるためのお湯を沸かしているのだ。

 沸騰するのを待つのに、彼女は机に頬杖をついて、自身も湯だったような顔をしてため息をついた。

「男の子って、大きくなると、ああなるんだね……」

 リュリの話し相手はもちろん、お喋りの白カラスだった。白カラスは蜂蜜を食べるのに精一杯で喋ることが適わなかったが、代りに興味深そうに少女の方をちらっと一瞥すると、また蜂蜜を啄み始めた。だが、リュリの言葉の意味を察するや、白カラスは慌てて蜂蜜からくちばしを上げた。粘つく蜂蜜のせいで、活舌はそんなに良くなかった。

「何が大きくなるとだって?」

 そんな白カラスの様子を気にも留めず、リュリは夢見がちに髪の先をくるくると弄びながら続ける。銀色に輝く髪がランプの炎で赤く染まる。

「大人の男の人って、声が低いんだね。それに……、こう、大きいっていうか、がっしりっていうか、強そうっていうか……」

 白カラスはしわがれた声で横槍を入れる。

「リュリ、お前、男に――大人の人間に会ったのか! よもや、顔を見せたのでは?」

「うん、そうなの。初めて見たけど……」

「だからあれ程、街に行ってはいけないと……!」

「行ってないってば! 家に帰る途中に、また怖い目にあって……。気付いたらあの人がいたの。それで……」

 それで、と言葉を濁し、のぼせた顔をするリュリに、白カラスはもはやお手上げだった。硝子のポットの中に沸々と気泡が溜ってきた。

 女性の方が情緒的に早く発達し心の機微を判るようになり、男性よりも早く恋心の存在に気づく。しかし幼少からこのエルレイの森の中で生きてきたリュリの場合、そんな年頃の異性と接触する機会は奪われて久しかった。リュリははっと何かに気付いたようで、カラスに顔を寄せて尋ねる。

「ねえ、カラスさん。私は何処から来たんだろうね?」

「お前の記憶に尋ねたいね」

 当たり前のことという風に白カラスが答えると、リュリはそうじゃないと頬を膨らませた。

「……いじわる。どうせわたしには、カラスさんとの思い出しかないもん」

 リュリは、気付いた時にはカラスとともにこの家にいた。それ以前の記憶は、どうしても思い出せずにいた。

「お前は妖精なんじゃよ、リュリ。人に見られてはいけない。だから私と共に――」

「妖精って何なんだろう? カラスさんに出会う前、グレンツェンの前は? 私にも、お父さんとお母さんがいたんだよね? どんな人だったのかな? ねえねえ、カラスさん、知ってる?」

「はて、年寄りは忘れっぽくてのう……」

「もう、いつもそれなんだから!」

 白カラスが気の進まない風にして、話を途切れさせようとするも、リュリにはまだその気はないようだった。

「でも、カラスさんも知らないんじゃあ、お手上げだなあ。じゃあ、私が、こないでーってなるときに出る、あの《盾》、あれはなあに?」

 すると、途端に白鴉は舌の回転を元に戻した。

「あれは、お前の《ギフト》から来るものじゃ」

リュリは硝子のポットがふつふつと音を立てるのを聞いて、手元の小瓶に手を伸ばした。

「《ギフト》?」

 あの人も言っていた、と少女は体を乗り出した。白カラスは目前の蜂蜜のことなぞすっかり忘れて、嘴をせわしなく動かした。

「《ギフト》はな、人間が等しく神様から授けてもらった力じゃ。お前は、《魔法のギフト》を生まれながらにして与えられとるんじゃ。そして、お前のは……」

 ふんふんと白カラスの説明を聞きながら、少女は湯だっているポットの中に、小瓶の中の乾燥した草花をひと匙入れた。それらは沸騰する泡にふわふわと弄ばれているうちに、次第に水分を帯びて本来の姿を取り戻しはじめた。リュリは小瓶にコルクの蓋を閉めながら、ふと思いついた疑問を白鴉にぶつけた。

「へえぇ。でも、アル……あの人は、《盾》をみて驚いてたよ? みんな《ギフト》を持ってるんじゃないの?」

 白鴉は少し首を捻った。

「人間が神様から《ギフト》を授かってから、気の遠くなるような時間が過ぎたのじゃ。《ギフト》の発現もそうじゃが、現れる《ギフト》そのものの力も弱まっているんじゃろう」

「ふうん」

 納得がいかない様子のリュリは白カラスを横目に、口を尖らせた。

「それって不公平じゃない? 私、《ギフト》なんて無くってもいいのに」

「逆に言うと、お前は、それだけ神様に愛されているんじゃよ」

 そう言うと、気が済んだらしい白カラスはくちばしを蜂蜜に戻した。 

 リュリはポットの中の草花が水気を吸って重たくなり底に沈んだのを見ると、小ぶりなキルトを手にはめ、その取っ手を掴んだ。手首を使って緩く撹拌すると、むらのあった液体の色がほのかに混ざり合うのが見て取れた。彼女は手元に用意してあった木のマグカップを手繰り寄せその中にハーブティーを注いだ。

「うーん……。《盾》を作る力とかいらないから、こう、お菓子をちょいちょいっと一瞬で作る力が欲しかったなぁ」

 ポットを机に置き、揺らめくランプの炎を翠の瞳に映しながらリュリは一人ごちた。白カラスはそれを耳にして小さな鼻息を漏らした。

「何を言っとるんじゃ」

「それか、蜂蜜を作れる力とか! それだったら文句ないでしょ?」

 白カラスは、付き合ってられないという意思表示なのか、不格好に机の上を跳びはねたかと思うと、小さな窓の隙間をこじ開けて、何処かへと飛び去っていった。

 リュリはその一部始終を見届けると、少し緊張していた肩を溜息と共に下ろした。そして、湯沸かしのランプを消し、思い出したかのように、草花で濁ったお茶が注がれたカップを両手で持つ。そっと唇をつけて飲もうとするも、熱くて飲めず、机の上に再び戻した。

 少し冷ますことにしよう、そう思って、彼女はそっと小さな寝台の上のキルトに身体を投げ出した。寝返ると、今日持ち歩いた籠が目に入った。

「あの人の帽子……?」

 虹色の羽が刺さった、くすんだ深緑色の帽子がその中に入っていた。《盾》が出来てしまった混乱のせいで、誤って持ってきてしまったようだ。

 気になって、それを手にとると、彼女は再びキルトの上にころりと横になった。

 帽子を鼻に近付けて、香りを嗅いでみる。すると、嗅ぎ慣れた森の匂いがした。その奥に、彼のつんとした汗の匂いに含まれていた麝香のような残り香が、強く感じられた。

「……あの人の匂いがする……」

 そしてリュリが触れた彼の胸元が意識される。自分のものと異なる、平たくて大きな胸板、太い首筋。

 リュリの鼓動が自然と早まる。

 彼女が知っている少年たちのそれとは異なる、筋の通った眼鼻立ち、りりしい眉、形の良い灰色の瞳。

 思い出している今も、彼女の胸を切なく締め付けた。

「それに、あの声……」

 少し暖かさのある、低い声。とり乱すリュリを詰問する色、心配するような色。

 彼の発する声はどうして、ああも色とりどりなのだろうか。

 甘いため息が知らず知らずのうちに漏れる。

「……アルフレッド……か……」

 蝋燭の炎がほのかに、マグから立ち上る湯気の向こうで揺らめいていた。

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