二、五月雨の心は
女王ロザリンデが治めるヴィスタ王国は、北に王家直轄の山を、南に海を、西に平野を、東に森を持っている。北を除く地方は、それぞれカルルス公爵家、ル・マンシュ侯爵家、ボーマン伯爵家の貴族が管理していた。そして、その地方の特性に合わせた年貢を女王の名のもとに納めた。
ヴィスタの北部中央に位置する城下町から東へ数日歩き離れたところからが、ボーマン伯爵領エルレイだ。そこを治める現ボーマン伯爵未亡人ユスティリアーナは前ヴィスタ国王リュディガーの妹姫、すなわちロザリンデの叔母にあたった。
彼女が未亡人と呼ばれるまでのいきさつはこうである。五年前、不幸な事に、彼女が身分を隔てず愛した夫は突然その姿を消してしまった。あらゆる捜索と調査、手だてが尽くされたが、彼の足どりも、事件性があるかもわからずじまいだった。また、運が悪いことに、エルレイの森近く、国境付近のグレンツェン孤児院が何者かによって襲撃を受けた《孤児院事件》が起きた直後だった。孤児院には国境警備隊の少年たちが駆けつけて消火活動を行ったものの、生存者はいなかったという。
彼、リチャード・ボーマンの消息がわからないだけでも辛いことなのに、ボーマン領での大きな事件があり、殺されたとも、誘拐されたとも、あるいは愛人と駆け落ちをしただのいう、心ない噂までもがあちらこちらに流れては、彼女を攻撃した。心労がたたり、当時身ごもっていたユスティリアーナのお腹の子はついに流れてしまった。こうして彼女は、ボーマン未亡人という肩書を新たに手に入れたのだ。
それから五年が経ち、二十七歳のボーマン未亡人は伯爵家をその細い肩で支えるまでになっていた。
緑が照り映える日、彼女は遅い朝食の後にナプキンで口を拭いながらそっと窓辺に視線を落とした。愛馬にまたがり出て行こうとする義弟を窓辺から見つけるやいなや、女中を使って彼を引き止め呼び出した。そして今日もまた、自室のテラスにて彼にティーカップと縁談を突きつけた。
「ねえ、そろそろ貴方も、落ち着いてはいかが?」
ヴィスタ王国の東を治める貴婦人が自室のテラスに義弟を招くと、決まって縁談を持ち出す。これはボーマン邸に関わる人々ならば知らぬ者はいない事実であった。使用人の間では、未亡人は義弟に家督を明け渡し、若くして隠居生活を始めようとしているだの、王宮に舞い戻って華々しく暮らす予定があるだの、様々な噂が飛び交っていたが、誰も真相に近付けてはいなかった。それに、この短いお茶会は見た目にも気を引くものだった。楚々とした中にも気品のある装いをした元王女の貴婦人と、なめし革のチュニックを纏い、くすんだ金髪を紫のリボンで一纏めにした爵位継承権を持つ狩人という、ちぐはぐな装いの二人が揃うのだから。
「来週の舞踏会でね、この間、貴方にお話したお嬢さんがデビューするのですって」
「……」
「ル・マンシュ侯のご親族なのよ。ご存知?」
「……」
「お歳は……ちょうど私の女王陛下と同じくらいのはずですけれど……。いやだわ、思い出せないだなんて」
彼は、なかなか本題に辿り着かない彼女の話を黙って聞き、出された紅茶を飲むだけで、うんとも嫌とも言わない。二人の視線が合うことも、無い。見えない壁が、二人のあいだに立ちはだかっているかのようだ。しかし毎度のことであるからして、未亡人は、それを気に留めることもなくなっていた。
「わたくし、貴方にいつもエスコートをしてもらっていたでしょう、リチャード様がいらっしゃったときは……」
ある単語に反応し、彼は眉をピクリと一つ動かす。
「そうよ、貴方のお兄様は十八でわたくしを娶られたのですわ。貴方、もう二十四じゃありませんの。行き遅れならぬ、貰い遅れになってしまうわ」
義弟は茶器に唇を付けたまま、伏し目がちにカップの中に移り込んだ景色なのか、どこか一点を見据えているようだった。未亡人はその様子を、特に反論が無いもの――すなわち承諾と解釈し、口を閉じない。
「ですから、先方のご婦人――小さなレディのお母様――と意見が合いましたの。あちらのお嬢さんも何かと手仕事に夢中になるものだから、成人してすぐにでも社交界に出さなければ、オールド・ミスになりそうだと仰るものですから、これまた奇遇とお約束を取り付けてしまいましたの。ねえ、せっかくですもの、わたくしと……」
義弟が、音を立てて空っぽの茶器を置く。未亡人はか細い声を上げてすくみあがった。
彼は未亡人を怒りに燃えたぎる瞳で見据えながら言った。
「俺は行きませんよ」
発せられた言葉の、物腰の丁寧さとは裏腹に、その声色は苛立ちで毛羽立っていた。そして彼は立ち上がり、傍らに置いてあった狩り道具を襷掛けにすると、大きな足取りでずかずかと日当たりの良いテラスを背にした。貴婦人の部屋を出て行こうというのだ。
「アル、アルフレッド、あなたはいつもそうですわ。どうしていつも、わたくしのお話をきちんと聞いてくださらないの?」
頑なな拒否の態度に、貴婦人はたまらず席から腰を浮かせ、苛立ちを隠さない義弟の背中に、波立った声をかけた。一瞬、彼がその歩みを止めたように見えた。だが、それは彼女の望んだ幻想だったようだ。彼は虹色の羽を刺したくすんだ色の帽子をその頭に深く被せ、足早に去っていった。
「こうして聞いている、いつも」
部屋の扉が空虚な音を立てて、義理の姉弟を隔てた。
「聞いているさ、いつだって……」
失踪した伯爵の弟、アルフレッド・ボーマンは貴婦人の部屋から足早に立ち去った。たどり着いた馬小屋、お付きの使用人への労いもおざなりに、栗色の毛並みが美しく梳られた自身の愛馬にまたがった。乗り手が乱暴に蹴り上げてしまったせいで、馬が悲痛な声でいなないた。だが従順な彼女はアルフレッドの手綱のとおり、土埃を立てて駆けだした。
丘の上のボーマン邸を出てヒューゲルシュタットの街を横切り、森の隣にある樵の村ホルツを追い越す。アルフレッドが馬で駆けてゆくのを見て、村人たちは薪を割る手を少し休ませた。ちょっと手を上げて見せる彼らに、アルフレッドは見向きもせず、馬に鞭を入れていた。彼らは、坊ちゃん、いつもと違うねえ、と顔を見合わせて首を傾げあった。
森の入口、人通りの少ないあぜ道をその目に捉えると、アルフレッドはその手前で手綱を強く引いた。愛馬がそれにこたえようと必死になりながら、前足を上げて足を止めた。屋敷から走らせ続けた愛馬は、休ませてやらねばならない状態になっていた。さわやかな初夏だというのに、全身から汗が湯気になるほど息が上がっていた。普段、こんなに走らせはしないが、アルフレッドの陰鬱な気分がそうさせてしまったのだ。
彼は溜息をつくと軽やかに馬上から降り立った。頭と足を重たそうにしている愛馬をいたわりながら、少し早い足取りで森の北部にある泉へと続く道をたどりはじめた。目指すのは近隣住民から北の泉と呼ばれている場所で、その湧水は飲めるほど清らかなのだ。
初夏のまばゆい日差しが、梢の屋根によって穏やかになる。辺りにはむっとするような、森林特有の香りが満ちていた。その青い香りを胸一杯に吸い込むと、頑なだったアルフレッドの心もじんわりとほぐれてくるようだった。
五分ほど歩いて、北の泉のほとりについた。近くの木の枝に愛馬の手綱をひっかけてやると、汗でぬれた毛並みを整えてやりながら、アルフレッドは改めて愛馬に詫びた。
「すまない、エヴァンジェリン。お前をいじめるつもりはなかったんだ」
愛馬はすまなそうな声に対し湿った鼻を一つ鳴らすと、頭を垂れて泉の水を飲みだした。アルフレッドが彼女の上の馬鞍をとってやると、そこも汗で湿気ていた。
「少し、待っていてくれ」
エヴァンジェリンの腹を掌で優しく叩くと、彼は狩り場へと足を進めた。慎重に、けれども確実な歩みだった。この森は彼の狩り場でもあった。彼は瞳を縦横無尽に動かしながら、森の奥へ侵入する。そして、木の根が露わになっている古株、または雪の重みで倒れただろう大樹を探した。見つけると、彼はそっと藪の中に身を隠した。
アルフレッドは、貴族の生まれであるが、天性の狩人でもあった。その腕前から、家名の元である初代ボーマン伯の再来とも謳われていた。今日の獲物は、野兎。それを十羽、仕留めてくれないかと、彼の乳母に乞われたのだ。天候の良し悪しに関わらず、彼は屋敷と森を行き来していたからである。お喋りで、早口で、恰幅の良い、乳母の名はハンナといった。その体の大きさと頭の天辺にどっしりと丸められたお団子頭とで、彼女には「一つ耳の熊」というあだ名があった。
「坊ちゃん、今晩は兎のシチューにしたいんですよ。ええ、もう夏なんですけどね、それでもやっぱりあったかい食べ物ってのは、人の心に染みますよね、特に夜に」
ハンナの乳母としての役割はアルフレッドが十六のときに成人した時点で既に終わっていたが、彼女のたっての希望で、現在は女中としてボーマン家で働き続けていた。母親代わりのハンナに、気分良く返事をして愛馬にまたがったところで、彼は未亡人の使いに呼び止められたのだった。それがまた、にこりともしない不愛想な女中だったから、彼の気分もなんだか害されたように思われた。
茂みに息を殺し、弓矢を構える彼の頭の中は未だ、釈然としない気持ちでいっぱいだった。
なぜ義姉は会うたびに縁談をすすめてくるのか。
なぜ義姉は舞踏会にこだわるのか。
彼女を問いただせば、その答えがわかるのか?
しかし問うたところで、風が雲を散らすように本題をはぐらかすのは目に見えていた。
解決の糸口が見当たらない問題に頭痛がしはじめる。矢をつがえる指が神経質に震え始める気さえするようだ。
その時、かさり、と一つ、茂みを揺らす音がした。
茶色い塊が潜むだろう茂みに、一発、打ち込む。
弦がうなり、矢のしなる音が耳をくすぐり、そして彼方で乾いた音が聞こえた。
藪をがさがさと鳴らし、獲物は遠くへと逃げていった。失敗だ。
アルフレッドは息を細く長く吐き出した。ほんの少し瞳を凝らせば見えた獲物だと思うと、余計に腹立たしかった。いつもの自分らしくない。
「集中だ……」
アルフレッドの灰色の瞳が、獲物を求めて研ぎ澄まされる。耳は木の葉一枚が落ちる音さえも捉えた。そうやって狩りに集中することで、ふと沸き起こってくる忌まわしい過去を、今は無視しようと努めていた。しかし、忘れようという努力は常に空しいものだった。その物事を忘れようと意識すれば意識するほど、かえってはっきりと思い出されてしまう。
アルフレッドの脳裏に蘇るのは、いつも同じ風景だった。
憧れの姫君の口から、好きな人がいると聞いた、あの午後。
初恋の人の清らかな花嫁姿。
彼女の隣に立っているのは、アルフレッドより細くとも頼もしく見えた兄の背中。
ある日の、兄の子をさずかったという、彼女の告白。
それから、息子を失くした彼女の悲痛な――。
呼吸が乱れる気配。彼の集中が今まさに途切れようと言う時、緑色ばかりだった彼の視界に、白いものが飛び込んできた。距離は、それなりに遠かった。しかしアルフレッドには見ることが出来た。そして、そこへ矢を打ち込むこともまた可能だった。それは、ふわふわとした白い毛並みで、さそうように揺れていた。
「夏なのに、まだ毛が生え換わっていない……!」
通常、野兎はその生命を守るために夏は土に擬態できる茶色、冬は雪の上で目立たぬ白色の毛皮を身に纏う。しかし、夏の今、アルフレッドの目の前には、隠れるそぶりも見せない、あまりにも無防備な白い毛並みが見えていた。
「……これは良い手土産になりそうだ……」
アルフレッドは呼吸で手元がぶれないように、大きく息を吸い込むと、ゆっくりと慎重に呼気を吐き出しつづけた。確実に仕留める為に、弓に矢をつがえる手には追撃の矢を数本用意した。もう一度、胸郭をゆっくりと膨らませる。獲物は彼の視界から一向に隠れる気配はなかった。息を吐き出しながら、一発撃ち込む。すかさず残りの矢も打ち込んだ。アルフレッドの瞳が空中を切り裂く矢を追う。その先には白い毛並みだ。
「……仕留めた……!」
何か固い音がした。その音に、アルフレッドは成功を確信する。
四発打ち込み、かつ全てが当たった音がした、そう思うとアルフレッドは気分が高揚し、身をひそめることを忘れて白い兎が倒れているだろうところへと駆けだした。茂みを掻き分け、小枝を踏み折りながらその場所へ向かう。木の葉がすれ合う涼しい音に、近くに潜んでいた野兎や野鳥が一斉にその場から離れてゆく。
狩人が急に立ち止まった。足元では、踏まれずに済んだ虫たちがその場から逃げ出している。
「……なぜだ? 確かに、打ち込んだのに……」
白樺の切り株の傍、白い兎がいたそこには、打ち込んだはずの矢が四本、その場で真っ二つに折れて散らばっていた。血がしたたった痕跡も無い。辺りは、不思議なほどに静まり返っていた。ただ風が、森の音を悠々と奏でているだけだった。
「へえぇ、《ギフト》持ちの坊っちゃんでも、そんなことがあるんですねえ! それで丸腰で帰っていらしたと、そういうわけですか」
「……あんまり大きな声で言うなよ……」
夕暮れ時、兎を依頼したハンナが、厨房の戸口で戦果の無かったアルフレッドを迎えていた。彼が申し訳なさそうに突き出した空っぽの頭陀袋を受け取ると、彼女はやけに明るく励ました。
「いやあねえ、そうしょげるものじゃありませんよ。お茶の時間が過ぎてもお帰りにならないから、もしやと思って献立を変えたんですけどね、意外や意外、正解でしたよ。あたしの直感も捨てたもんじゃないですねえ」
鼻高々としているハンナ。アルフレッドが彼女から顔を逸らしながらぼそりと呟く。
「……野生の勘だろ?」
彼女は鼻息を一つ荒々しく吐き出すと、彼女は自身の前で腕を組んだ。その口はへの字に結ばれていたが、その赤茶けた瞳は笑っていた。
「誰が野生の熊ですか、まったく。まあ、その減らず口を聞けて、このハンナは安心いたしましたよ。今日も晩餐はお部屋にお持ちしますね」
「頼む」
アルフレッドは、階段を上り、無意識に未亡人のサロンを避けるルートを選び、自室を目指す。屋敷の自室に戻ると、乱暴にブーツを脱ぎ捨て、湯浴みに向かった。浴槽には既に湯が張られており、扉を開けるとしっとりとした空気が彼を無言で迎えた。湿度に弱い革のベストを脱ぎ損ねたことに気付き、慌てて隣の寝室に戻ると、そこで上着の全てを脱ぎ、寝台の上に放り投げた。
そっと湯の張られた浴槽に足を入れる。ハンナの言うとおり、いつもよりも帰りが遅かったため、湯の温度は少しぬるくなっていた。それでも汗を流すのには十分だった。
ぼんやりと浴槽に体を沈める。足を伸ばすと、アルフレッドは体重を全てその中に預けた。
「……ふう……」
湯船の暖かな抱擁に、アルフレッドの緊張も溜息とともに吐き出される。右の掌をゆるく握ると、じんわりと指先に血が巡るのが感じられる。初夏とは言え、夜風に晒された手足が冷え切っていたことを改めて自覚する。そして、緊張で凝り固まっていた肩まで湯に浸かるように、膝を立てて上体を更に沈めた。体を温めているアルフレッドの思考は、遠く森に飛んでいた。
「夏の、白い兎……。矢が折れて……」
彼の二十四年の人生で、こんなちぐはぐな出来事は初めてだった。矢が折れているのを見つけるときは、決まって矢じりの側が野生の動物に刺さったままで、羽根の側だけが赤い血と共に残っているのが普通だった。それは、獲物が必死に取り除こうと悪あがきをした結果だった。しかし、今回は、へし折られたかのように真っ二つに折れて、その場に散らばっていた。
どこまでも見渡せる、そしてどんな遠くのものも見つけられる、生まれ持っての優れた視力、これが彼の《ギフト》だった。これがために、狩人としての腕前を磨いてこられたのだ。その実力に少なからず自信を持っているアルフレッドは、不愛想な表情を更に険しくした。
「悔しい。絶対、あの真っ白な毛皮をひんむいてやる……!」
彼はそう一人ごちたとおり、白い兎を何とかして仕留めてやろうと決心した。そうして作戦を考えていると、彼は気付かぬうちに眠ってしまっていた。
浴室の扉を強く連打する音が、うとうとと夢心地になっていた彼を現実に引き戻した。驚いて浴槽の中へずり落ちる彼に、ドアノブをガチャガチャ鳴らすというさらなる追撃があり、アルフレッドは慌てて浴槽から飛び出した。もちろん、その犯人が彼の乳母だったことは言うまでも無い。
翌日、太陽の兆しが暗闇を白ませる早朝、アルフレッドは軽い朝食を自室で済ませると、てきぱきと身支度を始めた。貴族の大半は着替えを下僕に手伝わせるが、彼はそういったことを好まなかった。衣装箪笥を開いて部屋着を脱ぐと、姿見に自身が写り込むのが視界に入った。狩人として弓を引くための体つきへと鍛えられた彼の体は、よく見ると筋肉の付き方がアンバランスだったが、傍目には十分均整がとれていた。見慣れた男の体について、彼は特に感想を持つことはなかった。
着用し続けて少しくったりとしてきたリネンのシャツの上に、獣臭さの抜けきらない、鹿の革で仕立てたベストを着る。草食動物の匂いで自身の人間臭さを覆い隠すのだ。仮に肉食獣を獲物に選ぶことがあれば、狼の毛皮をまとっただろう。こうした、狙う獲物によって毛皮を選べる裕福さは、貴族らしかった。その上に胸当てをしっかりと締める。そして寝台に腰掛け乗馬長靴の靴紐をほどけぬよう固く結ぶと、くすんだ金色をした髪を、無造作にリボンで一纏めにした。彼もまた他の貴族らしく、肩甲骨まで伸びる長い髪を持っていた。仕上げに、虹色の羽を刺したお気に入りの帽子をしっかりと被った。
彼は姿見に映った見慣れた狩人を後目に、弓矢を担ぎ自室を出た。ふと思い立ち、彼はもう一度自室に引き返した。その辺にあった袋に、着替えを詰め、普段は持たないボウガンを背負った。そして、自室に鍵をかけると、その鍵を首にかけ、無造作に懐へと押し込んだ。
豪奢な伯爵の城において、彼の出で立ちは全くと言っていいほど、異色だった。
しかし、彼の兄・リチャードが、元ヴィスタ王女・ユスティリアーナと結婚し爵位を継いだ十年前よりももっと前から、彼はそうして狩人の姿をしてあちこちを闊歩していた為、ボーマン家に働く者は誰も、アルフレッドの服装について特に感想を持つことはなかった。
館の主――未亡人が住む階は、未だ静けさに包まれていたが、階下へ降りて行くと、日も昇りきらないうちから使用人が働いている様が視界に入ってきた。彼らに指示を飛ばすハンナに目が合うと、彼女は臆せず彼に声をかけてきた。
「坊っちゃん、おはようございます。昨日は残念でしたね。調子が悪い時なんて誰だってありますから気にしなくていいんですよ。今日はきっと大丈夫ですから、お気をつけて」
ぱんぱんに張り詰めた頬を持ち上げて、ハンナはアルフレッドを励ました。その満面の笑みを見て、彼もつられて口の端を持ち上げる。これが彼なりの笑顔だった。
「ありがとう」
「坊っちゃんの腕が良いのは、よく知っていますよ。お父様譲り、果てはご先祖様譲りですからね。誇りを失くさないでくださいまし」
そう言うと彼女は、アルフレッドの肩や胸元についていた土ぼこりを目ざとく見つけ出し、掌でたたき落とした。二、三歩下がって、彼の佇まいを確かめる。身分こそ違うが、本当の母親のように気遣ってくれる彼女の言葉と所作に、アルフレッドの心はじんわりと温かくなるようだった。彼は、いつもより多い荷物を彼女に見せた。
「ハンナ、今日から五日間ほど、狩り場に張り込んでみる。ユー……義姉上にはハンナからそう伝えておいてくれ」
「あら、ご自分で……は、お伝えに行かれませんよね。承知しました、若君様」
昨日の当てつけと言わんばかりに、若君という言葉を強調し、大げさに礼をしたハンナに、アルフレッドは急に不機嫌になった。
「……俺は爵位になんか興味ないぞ」
「いつまでも奥様がいらっしゃるとは限らないんです。そして、現実に爵位継承権は貴方様のものですよ。そうも言ってられないと思いますけどね。ああ、ちょっと待ってくださいね」
眉をひそめた若い主君の前から、乳母は大きなお尻を振りながら足早に厨房へ去った。数分の時が経ち、気の短いアルフレッドが待ちきれなくなってその場を離れようとすると、彼女は大判のハンカチーフの包みを持って戻ってきた。
「ほら、どうぞこれ、持って行ってくださいまし。全く狩りが上手くいかなかったときの為の保険です」
アルフレッドはそれを片手で受け取った。包みは彼の思ったよりずっしりと質量があるようだった。彼は、口元をぐっと引き白い歯を見せると、しばしの別れを乳母に告げ、愛馬と共に南東の狩り場へと向かった。