七、永遠を捧ぐフィナーレ
風は悠々と大地を駆け抜ける。それが空を動かす力を持っているとは知らずに、人々はゆっくりと形を変える雲を見て時の雄大さに心を馳せる。
その風が鋭さを増す、双子の塔。
その片割れ、紅き旗の翻る真下で、哀れな男の涙がこぼれていた。
石造りの床に染みた涙を乾かさんとして、風はカーテンを大いに揺らす。
「リュリ、リュリ!」
男が頭をうなだれた拍子に、彼の目元を覆っていた銀の仮面が固い音をたてて落ちた。
伏して嗚咽する男の名は、シュウ。
ジークフリートと名乗り、かつてヴィスタ女王の右腕を務めた男だった。
彼が十四年間求め続けていた家族―妹は、いともあっけなく彼を見捨てていった。
「まただ。また、僕はすべてを失って……!」
孤独を極端に嫌う男は、皮肉にも孤独に愛されていた。
最愛の義妹を取り戻したのち、彼女の〈ギフト〉が満ちている髪を少しばかり頂戴し、それで〈時の竪琴〉を直す。そして完全になった〈竪琴〉をつま弾き、十四年前の過去へ飛ぶ予定だった。そこで義理の両親、アラムとファイナ、それから力を持たなかった己と幼い義妹を助ける。そうすれば、彼らが離散する悲劇は成立せず、一家は幸せな時間を現在まで生きられるのだ。そのはずだった。
それなのに、一番守りたかった彼女が、自ら〈竪琴〉を持っていくとは。兄から離れていくとは。たったの二週間。それが、ジークフリートの心を瑞々しくさせた、ごくわずかな時間だった。彼の耐えてきた時間は、それほどまでに長かった。
妹を純粋に愛する気持ちに、己へのそれとプライドと何かが混じり合うほどには。
彼はまだ、それに気付いてはいなかった。
「愛して、いたのに……!」
ジークフリートの嘆きが、彼の黒髪を逆立たせる。水に揺らめくがごとくうねるブルネットは、彼の顔を隠すのを放棄していた。悲しみに満ちた翠の瞳から、塩辛いしずくがあふれ、目元のほくろを横切っていく。
愛とは何だろう。
ぼんやりと思うジークフリートが、唇を噛んだ。
知らなかったもの。
教えてもらった、大切なもの。
一度失くした、かけがえのないもの。
それを再び失わないように、しっかりと繋ぎ止めておきたいと思う気持ち。
そうじゃないのか。
僕のすべてをささげたのに。
これは愛ではなかったのか。
愛とは、こんなにも伝わらないものなのか。
「……っ!」
声なき慟哭が、彼の体の奥底から突き上げてくる。
これが、相手を呪うような後悔だったならば、どんなに辛くなかったか。
ジークフリートは、泣いた。
彼女が消えた場所に腕を伸ばして。
こんなとき、涙しか出ないんだな。
コツ、と静かに階段を鳴らす踵に合わせて、翼が風を切る。
鼓膜へ叩きつけるような自然の爆音はすべて止み、水を打ったように静まり返った。
まばたきの音すら消され、ジークフリートは無音が己を包んだことに気付いた。
万物のささやきが塗りつぶされたような不安感が支配したのだ。
彼は本能的に跳ね起きた。
夢の入口のように不気味な、ここだけを切り取られたような感覚。
はじめてじゃ、ない。
ジークフリートは確信した。
以前にも同じことがあったと。
先程まで泣きぬれていた瞳が、緊張に乾く。
ぞわりと、彼の肌を逆なでするような気配と共に、訪れがあった。
ゆっくりと姿を現したのは、黒髪を二つに束ね切った女中の少女だった。その肩には、白いカラスが我が物顔でとまっている。少女の無感情で黒目がちな瞳がジークフリートをとらえた。
刹那、それはぐにゃりと残忍に歪んだ。
「時がきたわ」
少女が音もなく歩み出る。
静かな声が、響いてもいないのにジークフリートの肌にしっとりとまとわりつく。
「お前は……? イグナートまで……!」
青年の喉が張り付いてテノールが掠れたのを、少女は笑った。
「わたしはサナ。イーシアで、あなたと同じく、母を殺して生まれた子――」
ジークフリートの顔色がさっと変わる。
「あなたの知らない実の妹で……悪魔の子よ」
悪魔の子。
イーシアで特に忌み嫌われている存在。
神話になぞらえられた、呪わしい名。それは、実の父親から彼が最初に与えられた名と呼んでも等しい名詞だった。そして誰にも知られまいと隠してきたものだった。
少女は土気色と言っても差し支えない青白い肌を一切動じさせず、淡々と述べる。
「この名も、生き方も、すべて先生からいただいた」
す、と指先にのせた白いカラスに頬を寄せる。
愛おしげに細めた目元が、次の瞬間にはぎらりと燃えあがってジークフリートを突き刺した。
「名前。家族。生き方。わたしに欠けているものを、あなたは持っている。憎い。わたしと同じはずなのに、あなたは愛を得た。家族を得た。生きる道を得た。憎い。あなたのことが」
静かに膝を折った少女が、ジークフリートの相貌を両手で包み込む。
彼は動けなかった。簡単にできる抵抗を試みなかったともいえる。
心のどこかで、望んでいたのかもしれない。
苦しみを絶ってくれる存在の登場を。
自身を妹であると名乗った少女――サナは、闇の様な深い瞳でジークフリートを覗き込んだ。
それは星々が生まれいずる前の原初の闇のようであり、破滅した世界の空虚な未来を見せつけてくるようだった。深い、深い黒がジークフリートの心をむしばむ。
「いつもあなたを思っていた。これが、妖精リュリの言う、好きという気持ちならば……」
その細い手指が、青年の首に巻きついた。
ぐぐ、と長い指が軋み、青白い首筋に食い込んでゆく。
「……好き。だから、死んで」
静謐な殺意が、彼の命の灯火を吹き消そうとしている。
遅まきながらそれに気付いたジークフリートは、少女の手を引き剥がそうと躍起になった。
先程まで、自滅を望んでいた心の苦しみは、体のそれとは別だった。色を、音を、暖かさを失った世界にぽっかりと一人取り残される絶望が訪れようとも、人間の根源的な欲求は忘れてはいなかった。
死にたくない。
たとい、少女の手首を折ろうとも。
ぐ、とジークフリートが掴んだ手指には、力が入らない。
息を止められた弊害が、手足のしびれを招いているのだ。
翠の瞳もかすんできた。だが彼は、力の弾けるイメージを決して失わなかった。
ちりちりと瞳に火花が飛ぶ。
この娘ごと、燃やしてしまえば。
青年が残りの力で〈ギフト〉を解放しようとした瞬間。
目前の少女が突然、のけぞった。その拍子に、ジークフリートに掛けていた手を外す。
その隙を見逃さず、彼は飛び退った。
のけぞり、しばらくそのままだった少女が、ゆらりと体を揺らしながらそこに居直った。
手のひらの具合を確かめながら、二つにまとめていた髪を下ろす。
癖のない漆黒の髪が、ふわりと重力に逆らって泳ぎはじめた。
先程までの殺気は消えたけれども、警戒するにこしたことはない。
ジークフリートはゆっくりと立ち上がって、女中の少女に対峙した。
「莫迦な娘だこと。器としての自覚を失くして」
彼女は、この数分でずいぶん大人びたもののしゃべり方に変貌していた。
「おはよう、で合っているかしら。ジークフリート」
「……サナと言ったな。お前は、何者なんだ?」
喉仏に若干の違和感を感じながらたっぷり息を取り込んだジークフリートが問う。
すると少女はけたけたと笑い飛ばした。
「いやだわ、その名は器のものよ。あたしは、あたし」
ふふふ、と妖艶な笑みで言葉を締めくくった彼女は、そっとそこへ腰かけた。
何もない空間の上に、ふんわりと。そこに柔らかなソファが存在するかのようだったが、ジークフリートの瞳には何も映っていなかった。
そこへ、体の真っ白なカラスが現れ、彼女の足元で恭しくこうべを垂れた。
「お待ちしておりました。〈時を統べる〉お方、レディ・クロノス」
ジークフリートははっとした。
「レディ・クロノス……もしかして〈神話〉の? イグナート! 貴様、何が目的なんだ!」
人間だったイグナートに軟禁されていた数年間、ジークフリートが読んだ書物の中に各国の〈神話〉があった。確か『神さまになりたかった男の話』という一節だった。
〈ギフト〉を見通せる力を持つ、思いあがった男にして、時の女神の手先。
白カラスは細い喉を鳴らした。
「そう。〈神話〉の中で長きに語られる貴婦人がこのお方。そして目的は、ひとつじゃ」
カラス――イグナートのことを手で制し、レディ・クロノスは肩を回した。
「今日までなんて長かったのかしら。人間なんて一瞬で消えてしまうと思っていたのに、とても長く感じた。この器でたったの六年しか経っていないのよ。日付を感じるのは有意義なことなのね。星の廻りがあんなにゆっくりだったとは知らなかった。すべてが存在しているから、手で触れることができる。楽しむことができる。生きるとは、こういうことなのね!」
器とされた少女の元来の性格を越えた表情は、不自然にぎらついていた。興奮冷めやらぬ瞳孔は、ずっとずっと開いたまま、ジークフリートを通り越して世界のすべてを食らいつくそうとしているようだった。
ジークフリートは自身の存在を不確かに思い始めてきた。
目の前の少女と白カラスは夢のようでいて、夢ではない。
白カラスにいたっては、彼が一度殺した男だ。
青年の翠の瞳が、ナイフのように鋭く光る。
「本当にお前が、あなたが時の女神だというなら。あなたの目的はこの世界に生きることではないはず。なぜなら――」
「そう。あたしの望みは愛するヒトと共に生きること。喜びなさい、ジークフリート。あたしの心、あたしの歌――〈竪琴〉のあるじよ。あたしの伴侶として、選んであげたのだから」
嬉しそうに空気の椅子を飛び降りた少女は、つま先を床につけずに彼の元へとやってきた。真黒な髪が夜の帳のようにふわりと舞い降り、生白い指先がジークフリートの細い顎をなぞる。
「……〈竪琴〉の所有者が、あなたの伴侶になると?」
「ええ」
ジークフリートは少しずつ頭を回し始めていた。小さなずれを感じるのだ。
〈神話〉の矛盾は、人から人へ、口から口へと広まるうちに生じるものだったが、本人がここにいるとなれば、話は別だった。そして、質疑応答に時間を割くことができれば、この展開を先送りにすることもまた、可能だと考えていた。相手が神という存在ならば、自身の〈ギフト〉を用いたところでほんの子供だましにすぎないだろうことも、考えに入れながら。
今、ここで彼が振り回せる武器は、図らずも磨き続けてきたその舌だけだった。
「レディ・クロノス。あなたが〈竪琴〉を贈ったのは別の男だろう」
少女が驚きに眼を見開く。
「それは――」
「あなたの言う愛とはその程度だったということか?」
あたかも自分に言い聞かせているような台詞に、胸がチクリと痛むものの、彼には今、その感傷に浸っている暇はなかった。
「あなたの探す人はどこだ?」
「その方はもういない。わしが見届けた」
白カラスが口をはさんだ。
それに逆毛を立てたのはジークフリートではなく、少女のほうだった。
「いや、いや、いや! ききたくもない! 黙りなさい!」
少女の指先からちりちりと青白い光が弾けた。それは白カラスの体そのものをまるく包み込み、彼を動けなくしてしまった。まばたきすらさせないその様子に、白カラスの時間が止められたことを察したジークフリートは、じりじりと体を寄せてくる少女に悪寒を強めていた。
「あたしは、新しい愛を見つけるのよ。あたしに相応しい〈力〉を持つヒトと……!」
サナ――レディ・クロノスは青年に甘く腕を巻きつけると、おもむろに口を開いた。そして、彼の詰め襟をぐいと開いた。そこに歯を立てようというのだ。
〈ギフト〉の交わりとは血と血で交わされるものだと知る青年は、体をよじった。
けれども四肢の力はいつの間にか抜け、リュリが使っていたベッドの上に組み伏せられる形になってしまった。
ジークフリートが望まぬ契りに対抗するすべは、もう残されていなかった。
それは突然だった。
世界に色がついた。
世界は自分が生きていることを思い出した。
それと同時に、少女が苦しみ出した。
色が無いように真黒だった瞳が、赤く、黒く、時に銀色に、ちかちかとめまぐるしくその輝きを変え始めた。声音もそうだ。苦しそうに呻きながら、あるいは喜ばしそうに笑いながら、涙とともに嗚咽を漏らすのである。
狂ったように暴れ出した少女から、さっと身を引くことができたので、ジークフリートは自身の体に自由が戻ってきたのを理解できた。
ベッドの上で悶える少女に薄気味悪さを拭えない。
「これは……」
言葉を失う青年の真向かいで、同じく自由を取り戻した白カラスが呪詛を吐いた。
「……やはり、だめか」
「なんだって?」
「〈持たざる者〉――空っぽの器ならば拒絶反応がないじゃろうと踏んだが、やはり失敗だったようじゃ」
カラス―イグナートの軽々しい物言いに逆なでされ、魔術師は眉をひそめた。
「イグナート……! お前は何をたくらむ? 僕たちを襲い、子供をかき集め。ヴィスタ王家に、そしてリュリに近づいて!」
彼の昂りに合わせて、彼のまわりで魔力がちりちりと碧くくすぶる。
白カラスは、まいったというように、てんてんと両の足で引きさがると、なおもくちばしを動かした。
「今のわしでは、お前にかなわんからな」
「戯言を言う余裕はあるようだけど?」
青年の怒気が静謐な空間にしみいる。
炭がその体に紅い炎を宿すのと同じ静けさと、激情とをはらんでいた。
いつ爆ぜて炎をまき散らしてもおかしくはない。
いくら魂を白き石に移したとて、魔法の炎に焼かれてはひとたまりもない。
白カラスは瞼を閉じた。
「……アラムは、女神の愛した人の甥だ。だから、女神の花婿としては悪くないだろうと思って手塩にかけて育ててきた。けれども、逃げられてしまった。何度も、何度も。育ての親に、なんと冷たいことか。しまいには、いつか来るだろうと人質をとっておいたが、それもかなわず。だから、花婿にはお前をあてがうことにした」
カラスはよちよちと歩き、苦しんでいるサナを覗き込んだ。
「じゃが、肝心の女神の器が無かった。わしは〈心眼〉――〈ギフト〉を見通す力で〈持たざる者〉を探した。それが――」
「ロザリンデ……」
ジークフリートの呟きにカラスが頷く。
「しかし、彼女は器として成熟していなかった。よって保険に用意しておいた奴隷を使った。サナには哀れな過去をあてがって、わしが彼女の世界になるよう洗脳しておいた。本当にお前の妹かどうかは知らぬ。そもそも器として魂を食いつぶされる運命の娘だったのだ。どうでもいいことだ」
「……そうか……! 最初から、そうだったっていうのか。お前の計画―時の女神の為に、僕たちを引き離し、すべてをかき回したというのか!」
激昂するジークフリートの瞳に蒼い炎が燃え上がる。
しかし白カラスは、挑発するかのように高らかに笑った。
「わしの計画? ははは……! レディ・クロノスの幸せがわしの本懐だと? それは違う」
そして、両の翼を大きく広げた。
「わしは、永遠の命を得るのだ。いや、もう得たと言ってもよい。〈神話〉に存在し人々の記憶の中に永遠に生き続けるのだ!」
ジークフリートは知っていた。
彼は数々の〈神話〉や物語に耽溺した過去があったから、なおさらだ。
あらゆる〈神話〉を通じて、一人の人間の男が現れることを。
その名は語られないけれども、男にはいくつもの共通点があった。
後世の人間が、彼を同一人物であると解釈しても不思議ではない。
青年のこぶしが固く握られ、うち震える。
こぶしに繋がる両腕も、両肩も。
彼のすべてが悲憤にわななく。
それは間もなく荒々しい咆哮になった。
「そんな……。たかが、そんなことのために……! アラムを、ファイナを、リュリを……! 僕たちを利用したって? ばかばかしい! ばかばかしすぎて! 何度でも、何度殺したって、気が済まないッ!」
高らかに吠えたジークフリートの指先から、これまでくすぶっていた炎が爆発した。
蒼くとぐろ巻く炎の渦が白いカラスの体を覆う。
しかしカラスはその翼で炎を煙に巻く。魔法が煌めきながら霧散する。
魔術師にカラスの表情が読めたなら、イグナートの意地汚い歪んだ笑みを見ただろう。
「だが、かの女神の加護さえあれば、わしの命そのものも保障される。お前はわしに感謝する身だぞ。わしがアラムをこの時代に連れてこなければお前はとっくの昔に朽ちていただろう」
「ぐ……!」
ジークフリートは悔しさに歯ぎしりながら、白カラスへと執拗に攻撃を繰り返す。
炎の矢が一本、カラスに刺さる。
「それに、わしは幸運だったよ、シュウ。お前と言う拾い物だけでなく、リュリを手に入れられた」
もう一本がカラスの翼に刺さり、貫いた矢はイグナートを床につなぎ止めた。
「わしの考えが間違っていた。〈持たざる者〉など、使い道がなかった。そもそも、神の器になぞ、神の系譜でなくては難しい。仮初めの娘では持たないことは解っていたからな。その点、リュリは適任じゃ。すべてを満たしている」
ジークフリートは間髪をいれずに、白カラスに向かって針を飛ばした。それは、リュリのトルソーに刺さりっぱなしだった待ち針だった。
白カラスは痛みを感じぬようだ。まだ、からからと笑い声を飛ばしてくる。
「なぜ、いやがる? リュリを器にすれば、お前はリュリと結ばれることになるんだぞ」
青年は、自分でも驚くほど低い声で言った。
「僕が愛しているのは、リューリカだ。彼女の体だけじゃないし、女神の心でもない」
ジークフリートは己が決然と言い切った言葉に、はっとさせられた。
彼女を求めていた自分の、ゆがんだ欲望に。
本当の意味で彼女をいつくしんでやれていなかった自分に。
白カラスは体を膨らませた。
それは鳥の形を超え、在りし日の彼の形になった。長く伸びた髪とひげだけでなく、そのローブも真っ白だった。赤黒く光る瞳は、時の女神の影響をありありと想像させた。だが、ゆらゆらとおぼつかない足元は、彼の力の消耗をうかがわせるのに十分だった。
「彼女の花嫁姿を見たら、その気も失せるだろうよ。それでは、妖精を迎えに行くとするか」
苦しんでいた少女は、いつの間にかぐったりと動かなくなっていた。
自我を持つように泳いでいた長い黒髪は元に戻り、前髪はサナの額に浮かんだ汗に張り付いている。呼吸が浅く、早い。熱に浮かされたようなショック状態は、時の女神の力が彼女には大きすぎたことによるものだろう。
イグナートは枯れた声で紡ぐ。
「……時間が残されていない。はやく、次の、器を……用意せねば……。レディ・クロノスは古巣に帰ることになる。そして、その力でながらえてきたわしも……消える」
ジークフリートは、彼の忌み嫌う男と再び相対した。
最初に出遭ったときは、強大な災厄の象徴だった。
再会したときは、復讐を誓った師匠だった。
殺めたときは、動かない死肉だった。
そして、今。
石像のカラスに魂を閉じ込めてまで、生に執着した男が目前に立っている。
自らの野望で破滅した老魔術師イグナートは、満身創痍でその姿を保つのもやっとだ。
残忍そうな笑みで顔をゆがませたのは、青年のほうだった。
「……僕は本当に運が良い」
「なんじゃと?」
「あの子の――リューリカの悲しむ顔を、見ないで済む!」
青年が腕を払った瞬間、小さなかまいたちがその場に渦巻いた。
老人はとっさにかばう。しかし、イグナートの口ひげがぼろりとはがれ、床に落ち白い埃を立たせた。見れば、カーテンをそよがせる風にさえもローブの端を風化させている。
ジークフリートは、言い含めるかのように言葉を立てた。
「お前を信用し、お前が育てていたリュリは今、ここにはいない。この時代にもいない。僕たちの手の届かないところにいる。さあ、何を使えば、そんなことができるだろうか?」
「そ、そんな……ことは、ありえ……!」
再び塔に吹き付けてきた大気に黒髪をなびかせ、ジークフリートは虚空を睨みつけた。
そして、乱暴に右腕を振りかぶった。
迷いはない。
ジークフリートのこぶしが真っ直ぐに貫いたのは、老人の胸板だった。
腕を引き抜いたところにできた風穴から、イグナートの一部がほろほろと崩れ落ちてゆく。
「お……お……ぁ」
声はもはや、うろに鳴る空虚なうなりでしかなかった。
カーテンが優しくそよぐ。それにあわせて、青年が胸をなでおろし、手を叩き払った。
差し込んだ光のリボンに、ちりちりと白い埃が舞い上がった。
「これで、本当に死んだな、イグナート?」
妹を名乗ったサナと言う少女から、レディ・クロノスと呼ばれた女神の存在が消えた。
先程までの人ならざる妖気が嘘のように、彼女は普通の女の子だった。
彼女の呼吸が落ち着いたころ、ジークフリートの興奮も鎮まり始めていた。
「すべてが無くなった。僕を縛り付けていたもの、すべて……」
これまで彼―シュウをジークフリートたらしめていた根源が、一瞬で消えた。
彼の幸せを奪った男、イグナート。
彼が図らずも守った少女、ロザリンデ。
そして、彼の最愛の妹、リューリカ。
シュウの瞳は乾いていた。涙を渇望するぐらいに。
時の渦の中へ果敢にも飛び込んだ義妹だったが、彼女が現在へ帰ってこられる保証はない。
緊張の一瞬が途切れ、シュウは再びうなだれた。
だが、膝はつかない。
よろめきながら、カーテンが優しく手招きする窓辺へとゆっくり、ゆっくりと歩む。
怨み続けて、消してしまいたいものがあった。
絶対になくしたくないものも、あった。
そのどちらも失ってしまった今、彼の心にあった支えがぐらりと傾いた。
怨む相手もいなければ、愛する相手もいないのだ。
彼は空虚に満たされた。
生が呪いに変わる。
彼を苦しめる重苦しい呪詛の矛先さえない。
シュウは薄桃色をしたカーテンが、ふわりふわりと誘うように翻っているのをぼんやりと見つめながら両腕を広げた。
「リュリ……」
細長い腕が、しっとりと夢想の少女を抱きしめた。
彼女はあっけなく背を向けて、するりと空の上へ逃げていった。
彼はそのまま、カーテンに体を預けた。
世界の引力に引きずられ、シュウは力なく窓辺から落ちていった。
ぐらりと頭がのけぞったかと思いきや、アルフレッドはまた、あの不思議な空間にいた。
リチャード・ボーマン伯爵の時間旅行を阻止した彼とリュリは、再び〈時の竪琴〉をつま弾いて元の時間軸を目指していた。
今度は逆に、足元から真下へ落ちてゆく感覚があった。
腰から背骨、肩から首へと思い切りすくみあがったままで、なんとも気持ちが悪い感覚だとアルフレッドは思っていた。その不快感に、つい、いつもの皺を眉間に刻んでしまう。だが、隣にいる少女のことを考えれば、幾分それは浅くなるのだった。
ちらと見ると、リュリも同様なのか、体をきゅっと縮こまらせている。
自分より必死そうな少女をみて、アルフレッドがくすりと笑みをこぼした瞬間、少女が声をあげた。
「あれ? 誰かいるよ」
アルフレッドが目を凝らすまでもなく、リュリの言った通りに人影が現れた。
うずくまり泣いている。
体すべてを覆う長い髪で、女だ、と彼は思った。
すすり泣く女に嫌な予感を抱いたアルフレッドは、リュリを抱く腕を強めたが、それよりも先に少女はすりぬけてしまった。ふわりと宙に浮いたハープを慌てて抱きとめ、彼も少女の後に続く。
「どうしたの、悲しいの?」
真っ白な髪をふわふわと雲のように遊ばせながら、少女が覗き込むと、赤い瞳の美しい女が虚ろな顔をしてリュリを見上げた。
「風もない。音もない。暖かくも寒くもない。食べ物もない。こんな寂しいところに戻ってきたくはなかった」
その声は女の喉からではなく四方八方から二重三重にも響き合いながら聞こえてきた。
アルフレッドが驚いて首を回す。だがリュリは、相変わらず女に問うていた。
「サナちゃんの中にいた人、だよね? ここに住んでるの?」
「ええ。おまえ、あたしがわかるの?」
「うん」
泣きはらした瞳をこすると、女はぽつぽつと語り始めた。
「知っていた。あの方はもう、どこにもいないと。あの方は、世界になってしまったから」
女が赤黒い瞳で虚ろにリュリを見上げる。茫然自失の女がリュリに語りかけるのは、アルフレッドにとって不安をあおられるものだった。
「一体、何の話だ?」
「しいっ。大事な話」
アルフレッドの横槍に人差指を立てると、少女は首をかしげた。そして、女の肩をそっと包み込んでやった。
「うーん、世界かぁ……」
「あたしは、あの方と一緒に生きたかったの。あの大地で。それもかなわない。こんなに悲しいことはない」
幽霊のような女にアルフレッドは警戒を怠らないが、その彼が見守っている恋人は、呑気に心を寄せているのだった。いつもどおりとはいえ、それが不安要素でもある。彼はじっとリュリの背中を見つめていた。
「世界は、ずっとあるよ。ずっと……、わたしたちを包んでくれてるよ」
空も大地もない空間で、リュリは上を見上げた。
いつもなら彼女を見下ろしてくれているのは果てしなく広がった空か、背をぐんぐん伸ばした木々の頭だ。
運が良ければ、鳥たちが横切ってゆく。
雲は青空の上で形を変えながら、実に自由に寝転んだりする。
そこへ風が茶々をいれたりする音まで、彼女の記憶にありありとよみがえる。
「あのねえ。世界は繋がってるの。雨が降って、草が水を吸って、おひさまを浴びて元気になるのと同じで、わたしの気持ちが歌になって、歌は風に乗って、空にのぼっていくの。世界はその全部を抱きしめて、見守っていてくれてるんじゃないかなあ」
「抱きしめて……?」
「うん」
リュリは、瞳を閉じた。
深呼吸をすれば、森の香りがする。
少なくとも、彼女にはそう感じられた。
「だから、ちゃんといるよ、その人は。もう人じゃなくても、違う姿になって、そこにいるの」
「どうしてそう、言い切ることができる……?」
「世界に生きてるから、かな」
へへっ、と無邪気にほほ笑んだ少女につられたらしく、女もふわりと口の端をあげた。
「うらやましい。あたしは、ずっとここにいなくてはいけない。そうさだめられているから」
「じゃあ、うちにきたらいいの。遊びにきて。音楽会でもしようよ! あ、それから――」
嬉々としてアルフレッドのところにやってきたリュリが、気楽に〈時の竪琴〉を受け取って再び女の元に戻る。
「これ、返すね。多分だけど、あなたのだよね。わたしたちにはつかえない楽器なの」
女は恭しくハープを受け取ると、指の腹でいとしそうに撫でた後、そっと触れるだけのくちづけをした。くちづけたそばからハープに絡みついていた蔦が命を吹き返し、女の椅子を作りだした。
女はそっと蔦でできた椅子に腰かけた。
「……ずっと探していたものを、ありがとう。だが、これがなくては帰れまい。お前たちを元の時代に戻してやろう」
再び流した涙は、水晶になって、あるいはもう一つの月となってアルフレッドとリュリをまばゆく照らした。
それからは、二人も覚えていない。
気付いたときには、去った時と同じく城にいることは解った。青い塔の中である。
アルフレッドは目の前で起きた出来事が夢ではないかと目をこすった。
彼は隣にリュリが立っているのを見て、胸をなでおろした。
「君は、本当にすごいな……。あの人は知り合いだったのか?」
「ううん。ちがうよ」
彼に頭をなぜられて、リュリは嬉しそうに、けれどものらりくらりと答える。
「んー。でも、この世界で生きたいって言ってたから、体を貸してもよかったかなあ」
「だめだ」
即答するアルフレッドに目を丸めた少女だったが、次の瞬間にはにっこりしていた。
「うん。アルくんがそう言うと思ったから、やめたの」
ほほ笑んだリュリが、ベッドの上に伏す少女を見つけたのは、そのすぐ後だった。
あと2話で完結します。




