六、バイバイ、ロンリネス
四季が一度に訪れたような、不思議な景色を通って、どれほどの時間が経っただろう。
それは一瞬だったかもしれないし、永遠だったかもしれない。
上も下も、空も大地も、風も音も存在しない寂しい世界において、たったひとつ存在したのは光だ。
勇気を出して瞼を開く。
アルフレッドが目を凝らしても、行く先は見えない。人間の〈ギフト〉が通用しない空間なのだ、と彼はうっすらと理解した。
光は七色に混じり合って、闇さえも輝かせていた。
それは優しさとはほど遠く、どこか突き放すようなところがあった。
まるで、感触の無い海のようだ、とアルフレッドは思った。
詰めていた息を解放する。
幸いにも呼吸は出来た。
腕に感じる暖かさを思い出し、アルフレッドはかたわらの少女を確かめた。
長く編んだみつあみを泳がせる彼女は、ぎゅっと目をつむってアルフレッドにしがみついている。その手には、少女が持つには大きく見えるサウルハープ――〈時の竪琴〉があった。黄金の糸はすべてそろっていて、完全な状態だ。きっと、元の時間に戻ることも可能だろう。
手を離してはいけない。
二人はそう、無意識に通じ合って、固く腕と手を絡めあう。
それでも不安をぬぐえないアルフレッドは、竪琴ごとリュリを抱きしめた。
「お兄さんのいるところへ……連れてって……!」
少女は青年とは逆に、瞳を閉じてずっと祈っていた。
そのうちに一際まばゆい光が、二人を包み込んだ。
光が切り裂かれた瞬間、突風が襲いかかってきて、リュリのみつあみを乱暴にほどいた。
少女は自分のリボンが飛んでいくのにも構わず、アルフレッドの帽子を捕まえ〈時の竪琴〉とともにしっかりと握りしめてくれた。
アルフレッドは吹き荒れる旋風の中、少女をかばった。
気がつくと、風はピタリと止んでいた。
あれほど上から、下から、もみくちゃにされていた二人は、何事もなく大地に立っていた。
そこは大地というには人工的で、石畳が規則正しく並んでいる。その道を彩り、そよそよと優雅に体を揺らす木々が星空に手を振っている。空の裾野は柔らかなシフォンのベールに似て、ふんわりと白みはじめていた。世界は夜明けを静かに待ちうけていた。
「あえ……?」
きょとんとリュリが、アルフレッドを見上げる。
不安げに寄せてきた体は温かくて、彼女の存在を感じさせてくれる。
少女の髪はぐしゃぐしゃになっていて、その手にはアルフレッドの帽子があった。
それが、動かぬ証拠と言うことだろう。
あの光の空間は、時間をくぐるトンネルのようなものだったらしい。
「アルくん。お兄さん、いないね?」
きょろきょろと見回す少女に倣い、アルフレッドも同様にする。
人間の世界でなら、彼の〈ギフト〉は通用するはずだ。
遠くの山の端が、くっきりとした影を作りだしている。
みたところ、東の空がうっすらと桃色を帯び始めていた。
明け方のようだ。日付は定かではない。だが〈時の竪琴〉の魔法が確かならば、一一四五年のこの日、リチャードが姿を消すのだ。
ここは、どこだろう。
彼が首をまわしてみるも、見慣れたヒューゲルシュタットは見えない。
そう思った矢先、ひと気を感じた。
「アルくん、あれ!」
リュリが小声で、指差す。少女の差し示した方向に、光は無い。
けれども、アルフレッドには、そこに厩があると認めることができた。
「リュリ。あれが見えるのか?」
「ううん。違うの。馬の声が聞こえたんだよ。でも……」
「でも?」
「エヴァちゃんの声は聞こえないの」
そうか。
アルフレッドは小さく頷いた。丘が見えないのではない。彼らが丘にいたのだ。
「行こう」
「うんっ」
二人は手に手を取り合って、厩へ向かった。
リチャードが姿を消したのに、誰も気がつかなかったことから、彼が行動を起こしたのは深夜か早朝だろうということは、予想がついていた。そして失踪の数日後、彼の愛馬がどこかからひとりでに戻ってきた。
だから、厩にさえ向かえば……!
アルフレッドの愛馬、エヴァンジェリンは数えで五歳だった。彼女はリチャードが姿を消した後に生まれた。そのエヴァがいなければ少なくとも一一四五年よりは前であると考えられる。
けれども。
「確証はない、な……」
軽快だったアルフレッドの歩みが、次第に重たくなる。
そうだ。
それに、何と言えば、彼に信じてもらえるのだろう。
未来から時を越えやってきた、二四歳のアルフレッドであると。
青年は以前のように、眉根に皺を深く刻んだ。
「大丈夫だよ、アルくん」
ふと、少女が軽やかにアルフレッドの正面にまわりこんできた。
「はい、目をつむって!」
「……今は時間が……」
「いいから!」
彼が少女の言うとおりにすると、ふわりとあの甘いはちみつに似た香りがやってきて、すぐに去って行った。
瞼をゆっくりと持ち上げてみる。
少し狭くなった視界をただそうと、帽子の角度を直す。
そうしてやっと、気付いた。
「俺の帽子……!」
「うんっ!」
リュリはとびきりの笑顔で、青年の顔を下から覗き込んだ。
「お父さんからもらった、アルくんの宝物でしょ。きっと、お守りになるよ」
二人がたどり着いたのは、ボーマン家の厩だった。
赤い屋根を持つ、立派な厩は井戸のすぐ目の前にあるのだ。つい最近と変わらぬ見慣れた佇まいに、本当に時間の旅をしたのかどうか疑わしくなる。けれども、リュリの予想通り、厩の中にエヴァンジェリンはいなかった。彼女の母馬は、冷えてはいけないと違うところへと運ばれているようだった。
「あとは、兄貴を捕まえるだけ、か……」
薄闇が支配する早朝から、あたりを見回す二人が誰かに見つかれば、間違いなく不審者として扱われるだろう。頭をひねるアルフレッドのコートを、少女が引っ張った。
「ね、ね、アルくん。でも、ここ、朝になったら人がいっぱいになる、よね?」
「まあな。朝早くから使用人も動き出すから――」
「あのね。わたし、考えた! えっとね……」
ヴィスタ歴一一四五年。
伯爵リチャード・ボーマンは二三歳、若くして家督を継いだ、将来を望まれた紳士にして、姫君ユスティリアーナを娶った果報者。恵まれた容貌と知性は天性のもので、一族の誇りと言われるほどであった。しかし彼のギフトはそれらではなく、絵画の才能だった。ひとたび筆を持てば、キャンバスの上に世界のすべてを鮮やかに描きこんだ。
彼には、許せないことが一つだけあった。
それは、彼が意図してやったことだった。すべてうまくやってのけた。
よもや姫君がもくろみに気付くとは思わなかったけれども。そして、その二人が本当に心から惹かれあうこともまた、計算違いであったけれども。それは、誰も彼を疑うことのない、完璧なことの運びだった。けれども、たったひとりの肉親を傷つけてしまった。完膚なきまでに。リチャードのプライドを守るためだけに。
彼は後悔した。
己の地位を脅かす敵であると思っていた反面、縁者の誰よりも弟のことを愛していたから。
ダイヤモンドのようにきらきらと輝く瞳で見上げてくれた彼は、もうどこにもいなかった。
リチャードの大切な弟、アルフレッドの心を殺したのは、誰でもないリチャード本人だった。
失ってはじめて、己の罪を自覚した。
失ってはじめて、アルフレッドの存在の大きさに気付いた。
リチャードは償うために、ありとあらゆる知恵を探した。
そしてこの日、意を決して家を出た。
大丈夫。しっかり調べてある。あれは、王宮の魔術師が持っているだろうと。
使用人が起きだすよりも前に、彼はすべての支度を整えた。支度と言えど、簡素なものである。お気に入りの筆と、絵具とパレット、それから普段通りの装いに加え、庶民の衣装が一着。あとは金貨が十枚だ。
約束は取り付けてある。
ブリューテブルクで魔術師ジークフリートとの密会だ。
〈孤児院事件〉の話を持ち出せば彼が応じるであろうと確信したのは、ホルツの少年の言質があったからだ。
リチャードは事件の真相を知るため、兵士や町の探偵のみならず、己の足を使って調査していた。
ある日、探偵の報告に、不思議なものがあった。ルロイ・トマジという少年が、気の毒なことに、仲間から放火魔の疑いをかけられているらしい、ということだった。
少年は生まれ持った〈俊足のギフトから国境警備隊の伝令を任されており、今回の事件の際もいち早く現場にたどり着いたのだそうだ。それが、不幸にも彼に疑惑をかけることとなったわけだ。
国境警備隊からそのような報告はなかった、とリチャードが首をかしげながら砦に向かうと、それは真実だった。
隊長の謝罪と報告書の追加を命じた後、リチャードはルロイ少年を呼び付けて尋ねた。
「もしかして、君にはまだ、誰にも言っていないことがあるのではないかな?」
これははったりだった。
誰しも秘密を持ちうるという、この世の真実を逆手に取った尋問だ。その物腰の柔らかさから、そうとは気付かれにくいものだが。
少年は栗色の瞳をきゅっと丸めると、大粒の涙とともに、ぽつり、ぽつりとこぼしてくれた。
それは、彼が駆けつけたグレンツェン孤児院には、先に黒い髪の男がいて、少年が目を離した隙に、一瞬にしてその場から消えてしまった、ということだった。
リチャードがボーマン家の城を抜け出すのは、思いのほか簡単だった。
物騒な事件――〈グレンツェン孤児院事件〉が起こったばかりだというのに平和なものだと、彼は水色の瞳を緩ませた。二度と見ることはないだろう景色を、網膜に焼きつける。彼の愛したヒューゲルシュタットの、そのてっぺんからの景色を見ることは、もうかなわないのだから。
彼がそっと、厩にほど近い裏口から出ると、目の前にふわふわと輝くものが舞い降りた。
それは、白い髪をした美しい乙女で、リチャードの見慣れぬ、異国の衣装をまとっていた。
「君は……?」
「リチャードさん、かな? はじめまして」
音もなく現れた少女は、宮廷式のような礼をして見せてくれた。
「わたしはリュリ。よく、妖精って言われるから、どっちでもどうぞだよ。あのね、大事なことをお話ししたいの。とっても、大事なこと」
リュリと名乗った少女は、その自己紹介の通り、花の揺れるような愛らしい声を持っていて、実に妖精じみていた。真っ白な肌と髪に、森の色の瞳。それは、まだ日の登らない明け方においてなお、太陽に輝く青葉の色をしてきらめいた。
不思議な魅力にしばし見とれたリチャードだったが、気を取り直した。
よくよく考えなくとも、彼女は謎が多すぎる。
彼はいつもの笑顔を、さっと取り出した。
「やあ、妖精さん。こんな朝に、しかも人のいる土地で会えるなんてね。でも、僕はこれから出かけるところなんだ。それも、急いで。だから――」
「なぞなぞ! なぞなぞをしましょう!」
断ろうとした矢先に、突拍子もないことを言われて、さすがのリチャードも顎を下げた。
どんな逸話でも妖精はなぞかけが大好きなものだが、まさか己に降りかかるとは。
「わたし、あなたの考えてること、当てます!」
「ほう。それは面白いね」
「むぅ! じゃあ、みっつ! みっつ、当てるからね!」
「それはすごいな。三つ言いあてられたら、僕を花婿にするのかな?」
「それはアルくんだもん! はわ、じゃなかった! えっと……」
少女は一瞬、弟の名を口にしたような気がした。
「みっつ当てたら、わたしの言うことをひとつきいてもらうの! いいかなぁ?」
「……わかった」
ため息をついたリチャードは、この不思議な邂逅をほんの少し楽しむことにした。
時間はある。悠長にはしていられないが。
現に、彼の頭を悩ませているものは三つあった。けれども、そのすべて、たった今出会ったばかりの少女に当てられるはずがない。
「条件をつけよう、妖精さん」
彼は上品なハイバリトンで紡いだ。
「君の言うこと、というのを、先に教えてもらおうか」
少女が頷く。不敵な笑みも一緒だ。
「うふ。実はね、もう決まってるんだよ。リチャードさんに会ってほしい人がいるの。その人とね、お話ししてほしいの」
「それだけ?」
「うんっ」
面喰って、うっかりひっくり返りそうになる。妖精がけろりとしているから、尚更だった。
「……わかった。じゃあ、ゲームといこうじゃないか」
「あ。嘘はだめだよ」
「ああ」
リチャードは頷いた。彼は知っていた。妖精と言うものは元来、嘘を嫌うものであると。
少女が人差指を立てる。
「ひとつめ。ユーシィさん」
「……」
なぜ、初対面の少女が、リチャードの妻、ユスティリアーナの愛称を知っているのだろう。
これも妖精のもつ不可思議な力のためだろうか。
リチャードの首筋に、冷たいものが走る。
沈黙は金なり、という言葉を知るものであれば、リチャードの行動が「イエス」の証明であると気付くだろう。
それを知ってか知らずか、少女は指を二本に増やす。
「ふたつめ。〈時の竪琴〉」
「……!」
まただ。
また、少女は信じられないことを口にした。
青年はだんだん、この愛らしい乙女に言い知れぬ恐ろしさを感じ始めていた。
彼女は三本目の指を立てて見せた。
「みっつめは――」
「まってくれ!」
「ひゃっ!」
リチャードはたまらず、少女の手首を思い切りつかんだ。
妖精は体をびくつかせて固まった。
「どうして君が〈時の竪琴〉を知っているんだ? あれを知るのは、考古学者か魔術師で、今の持ち主はジークフリートのはず……。そもそも、ユーシィの呼び名についても、どうして知り得たんだ? もしかして、君は! 神話に記された森の瞳を持つ白き神なのか!」
雄弁は銀なり。リチャードはたたみ掛けるように問うた。
だが、それはすべて自問自答に等しかった。目の前の彼女を通り越して、己に投げかけた問いは、彼が探していること、そのものだった。
「あ、あう……。えっと……」
少女は後ろを振り返りながら、戸惑っている。怯えているのだ。
普段なら察することのできるその合図に気付けないほど、リチャードは昂っていた。神がいるならと、幾度となく願ったせいだ。
アルフレッドを苦しめた自分に、弟から喜びを奪った自分に、どうか罰を与えてほしいと。
「答えてくれ! もし、持っているなら、知っているなら、もし君が神だというのなら――!」
「兄さん!」
突然、男の声がしたので、リチャードは驚き、振り返った。
その拍子に、握っていた細い腕がするりと抜き取られた。声のした木陰から、がさりと音を立てて人影が現れた。
影に色がつく。太い首に見合う広い肩幅をもつ男は、くすんだ金髪をリボンで結びきっており、コートに不釣り合いな狩人の帽子をかぶっていた。深緑色の帽子には、虹色の羽がついている。その腕には、これまた似合わない竪琴が携えてあった。
早々に隠居したリチャードの父親の様な、厳つい雰囲気をまとっている彼の背中へ、妖精の乙女が軽やかに逃げ込んだ。
彼の瞳の色には、見覚えがあった。
「おびえているから、その辺にしといてやってくれ」
冬の空のように凍てついた、嵐と似た銀色の瞳だ。
リチャードの弟と同じ色の。
けれどもこの男のそれは、凛とそそり立つ銀嶺が日差しを喜ぶようだった。
アルフレッド?
まさか。
リチャードは思わず首を振った。
目の前の男はアルフレッドにそっくりだったが、彼よりも、そしてリチャードよりも年嵩に見えたから。
「……君は?」
尋ねる声が、震える。伯爵としての威厳を保てないリチャードを見て、男はため息をついた。
そして、くしゃりと笑って見せた。
「アルフレッド・ボーマン。知っている相手にわざわざ名前を告げるだなんて、ちょっと変な気分がするよ、リチャード兄さん」
一一五〇年六月二二日、午前のこと。
路地裏で画家に対峙した青年をずいと横へやり、少女がずんずんと前に進み出た。
「リヒャルト? あなた、わらわの画家だった、リヒャルトね?」
彼は、上から物を言う少女に眉をひそめたが、次の瞬間にその水色の瞳を見開いた。
「……もしかして、ロザリンデ陛下? その御髪は――」
「切ったの。ちょっと、未来に行くのに邪魔だったから」
ロザリンデは、ふわふわと頭を包み込む短い金髪を揺らして見せた。
その輝きは、朝露に濡れた桃のようにつやつやとご機嫌だ。
襟元のレースごと胸を張る少女のお陰か、ぴりぴりと張り詰めていた殺気がにわかにほどけていった。
兵士ルロイは、ロザリンデを体ごと引きよせて、近くに置いた。これ以上、本人も、本題も動かされては困ると。なので、少女の小さな耳に言い含めた。
「ロゼ、ちょっとだけ黙っててくれな」
「もう、子供扱いしたわね!」
頬をぷんっと膨らませてむくれたのを脇において、ルロイは口を開いた。
「リチャードさま。オレ、ルロイです。エルレイの国境警備隊で、放火犯に間違われていた、ルロイ・トマジです」
金髪の男は少しだけ瞳を丸めた。
画家が皮の剥けたくちびるをうっすらと開きかけたのを制するように、兵士はたたみかける。
「違うって、知らないって言わないでください。悲しいです。オレ、リチャードさまのお陰でエルンテに来られて、ブリューテブルクで働けて、本当に感謝してるんです。何より、オレの言ったことを、すべて信じてくださって……!」
ルロイは心臓の真上で、シャツをくしゃりと握った。
「本当に、嬉しかったんです……。だのに、あなたはいなくなってしまって――!」
「いたさ。……ずっと」
男は、くすりと零した。その響きは偽りの匂いを纏っていなかった。
「ずっと……?」
「私は……いや、僕は、ずっといた。彼、リチャードが消える前から、ずっと」
ずっと。
ずっととは、どういうことだろう。
兵士は扱うのが苦手な頭をがんばって回転させる。
だが、ルロイが問いたかった言葉は、少女があっさりと代弁してくれた。
「わからないわ! 二人とも、一体、何を話しているの?」
除け者にされることを嫌うのか、少女は再び口をはさんだ。
ロザリンデは腰に手を当て、金髪の男を指差す。
「リヒャルト! あなた、確かにリチャード・ボーマンにそっくりだわ。ルロイ、だからって決めつけるのは良くないわよ。他人の空似じゃなくって? このリヒャルトって言う男は、わらわがちっちゃい時から王宮に囲われてきたのだから」
少女は勢いよく振り向き、今度は、ルロイの鼻をぺしゃんこになるまで押しつぶした。
「わらわの顔は、今日の御披露目までトップシークレットなのよ。おわかり?」
「いや、うーん、そうなんだな。でも、ちょっと違う話をしてるんだよ、ロゼ。えーっと、どこから話したらいいんだ……?」
「ロザリンデ陛下……」
リヒャルトはかがんで少女の頭を撫で、観念したかのように、ゆっくりと語りだした。
「あなたの言うことが、正解に近い。けれども、ルロイの言うこともまた、真実だ」
そして、実に寂しそうに笑った。
「なぜなら、僕は違う世界から来たリチャード・ボーマンだから」
二三歳のリチャードは、信じがたいことだが、二四歳のアルフレッドと対峙していた。
彼は夢を見ているのではないかと疑い、こっそりと太ももをつねってみた。
だが、髪を揺らす風やパンの焼ける匂いは確かに今を伝えていて、朝を告げる鳥たちが挨拶を交わすのも聞こえている。喉の渇きもまた、そうだ。
夢でないとするならば、幻覚だろうか。
リチャードは震えを殺しながら、極めて明るく装った。
「妖精さん。これは、なぞなぞの続きだろうか?」
「続き? ううん。なぞなぞが終わらないうちに、アルくんが出てきちゃった。良かったね、アルくん。これでお兄さんとお話しできるね」
「……まあ、そうだな。リュリのお陰だ。ありがとう」
「えへへ」
青年に頭を撫でられて、少女は得意げだ。ご機嫌にサウルハープを受け取り、そっとアルフレッドを名乗る男に寄り添った。
少女が名を呼ぶのだからと、うっかり信じそうになるリチャードだが、警戒を強める。
知らず知らずのうちに眉根を寄せすぎたのか、頭痛がどこからともなく現れた。
「その顔じゃ、信じられないって感じだな」
男のバリトンは確かに、今年十九になる弟と瓜二つだ。
「君が逆の立場なら、どうだろうか?」
「信じられないな」
くすりと、仕方なさそうに笑うのも似ている。
「それじゃあ、なぞなぞの仕上げをしても良いかな、兄さん?」
「それは終わったはずでは?」
「いや、終わってない」
アルフレッド――便宜上はこう呼ぼう――は、指を三本立てた。
「兄さんが考えていること。それは『〈時の竪琴〉を使って過去へ飛ぶこと』だ。違うか?」
「な……!」
「どうしてそうしたいかは、知らない。けど、これだけは伝えておく。……いや、これを伝えにきたんだ」
アルフレッドのまっすぐな瞳がリチャードに突き刺さる。
〈ギフト〉を持つ彼の目からは、誰も逃れられない。
それをよく知る兄だからこそ、狩人の瞳に捕えられてしまった。
「兄さんが消えても、なにも良いことはない。むしろ、みんなが不仕合せになるだけだ」
リチャードの腕が、だらりと下がる。
夜明けはもうすぐだ。
うなだれた彼の淡い金髪がそれを告げている。
「そうか……。これは僕に与えられた、懺悔の時間なのか……」
線の細い腕、アルフレッドとは異なる華奢な腕がリチャード自身を求め、抱いた。
「君が未来のアルでも、そうじゃなくてもかまわない。でも、僕の秘密を知るに足る人間と信じて、言うよ。聞いてほしい」
「兄さん……」
リチャードは、信じられなかった。これまでずっと一人で抱え込んできた闇を、こんなにも簡単に話してしまおうと思えた自分と、回り始めた舌に。
「僕は、最低の人間だ。僕は聞いてしまったんだ、父上の口から。優れた男児に、この家を継がせたいと」
「父さんが……」
「僕のギフトは〈絵〉。アルは〈瞳〉。弟は狩りができた。どちらが優れているかは、父上の判断にゆだねられた。僕は必死だったよ。長男としての矜持を失わぬよう、努力を重ねた。けれども、父上が大切にしていた帽子を渡したのは、アル、君だった!」
何年も押さえつけてきた本心がせきを切ったように口からあふれだす。
言ってはいけないと思っていた、隠し続けてきた、直視したくない己の暗部だった。
「許せなかった。不出来な自分を、そして、君と言う優れた弟を。だから、奪ってやろうと思った。傷つけてやろうと思った。だから僕は、ユーシィを……」
奪った。
アルフレッドの初恋は、誰が見ても明らかだった。
金髪の姫君の騎士たらんとして、背伸びをする様子は誰もが目にしていたから。
「うう、それは、悲しいよ……」
リチャードの耳に、妖精の小さな呟きが突き刺さる。
そう、彼女の言うとおり、これは紳士的とはとても言えない、下劣な行為だった。
「ユーシィは賢かった。僕たち兄弟のことを、悪からず思っていてくれたのは確かだった。だから、僕の浅はかなもくろみにすぐ気付いて、やめさせようとしてくれた。でも、僕らは語り合ううちに本当に愛し合ってしまった。アルにすまないと思いながら、僕はユーシィを娶った」
リチャードがくずおれる。
その両頬にはとめどなくあふれる涙の川があった。
「アル! 僕は、君が幸せになるように、時間を変えたいんだ。莫迦な僕を牽制するために、僕が行かなくてどうする! 君とユーシィは、本当ならば結ばれるはずだった! 僕がいなければ、僕が邪魔をしなければいいのだから! 幸い、僕は人並み以上に絵が描ける。だから、それで生計を立てて行けると思って。そうしながら、もう一人のリチャードに変な真似をさせないよう監視ができると……!」
アルフレッドは兄の正面で、同様に膝をついた。
「兄さん。言っていいかな」
「……?」
年かさの弟を、兄が見上げる。
「俺、兄さんのこと、嫌いだった」
そう言うアルフレッドの瞳も、潤んでいた。
「はは……。……そう、だろうね……」
「誰よりも優秀で、頭の回転が速くて、気の付く、嫌味なくらいにできる兄さんが、羨ましくてさ。二人で悪戯をしても、兄さんは立ち回るのがうまいから、全部俺のせいになったりして」
「ふふ……」
リチャードの、鼻水でぐじゅぐじゅになった鼻から、一つ笑みがこぼれる。
「ユーシィのことだって、そうだ。ユーシィは最初から、兄さんしか見てなかった。本当はわかってたんだ。それがまた、悔しくてたまらなくてさ」
アルフレッドの喉が笑みに鳴る。それは少し自嘲的な響きがあった。
「これからいなくなる兄さんは知らないだろうけど、ユーシィには兄さんの子が宿ってる」
「え……?」
「兄さんがいなくなった未来では、その子は生まれない」
リチャードから表情が消える。
「そして、ユーシィは狂ってしまうんだ。俺を、兄さんだと思い込むほどに」
「ユーシィ……! そんな……」
一一五〇年、ボーマン家のアパルトマンでも膝をつく男がいた。
彼は、一一四五年にジークフリートの持つ〈時の竪琴〉を使って一一三五年へと旅立ったリチャードだった。現在の肉体年齢は、四〇代にさしかかろうとしていた。
リヒャルトが茫然自失となったのは、伯爵未亡人ユスティリアーナのベッドルームだった。
ベッドでぼんやりと座る彼女に腕を巻きつけるのは、姪の少女だった。
ルロイはここにきてやっと、ロザリンデの言うこと――彼女が女王であるというのはが嘘ではないと理解し始めていた。
「叔母さま、お久しぶりね。ロゼよ、わかる?」
「……」
未亡人はゆらりと首をまわし、碧い瞳を虚空に泳がせた。
触れられているという実感もないようだ。
「叔母さま、叔母さま。わらわよ……! わらわがわからないの? ううっ……!」
久方ぶりに会えた姪、ロザリンデが抱きついて声をあげて泣いているのに、彼女は無感動だった。その表情は石像のように動かない。
涙する少女に誘われ、彼女について来たハンナもエプロンで目じりを拭っていた。
「奥方さまは、ずっとこのまま……?」
リヒャルトが問うと、ハンナは鼻声で答えた。
「ええ。旦那さまが行方をくらませた後、御子も流されて……。それからはこのように。アルフレッドさまをリチャードさまだと思いこんでしまってからは、もっとひどくて……」
ロザリンデはひとしきり泣いた後、ルロイがくれたハンカチーフで顔中を拭って彼に問うた。
「これが、時間を変えられてしまった弊害だというの、ルロイ?」
「ああ」
小さくうなずいたルロイの後ろから、うめき声がした。
「……僕が、間違っていたのか……。僕が……」
ルロイは母親の視線を認めると、ロゼとリヒャルトを伴って貴婦人の部屋を後にした。
そして廊下の端にたどり着くと、ロザリンデを抱き上げてその窓辺に座らせた。
リヒャルトは、背にした壁を伝うようにして、どさりと腰を落とした。
「……どうしたら、良いんだ……。取り返しのつかないことを、僕は……。僕はただ、アルにもユーシィにも幸せになってほしかっただけなのに……。ユーシィもユーシィだ。アルを好きになってくれれば!」
再起不能とばかりに落胆するリヒャルトへ、ロゼが眉を傾けて心を寄せた。
「馬鹿ね。叔母さまはあなたのことを好きだったのよ。ねえルロイ、どうしようもないの?」
兵士はむぅ、と唇を突き出し、答えを天井に探す。
「〈時の竪琴〉を、また使えればいいんだよな」
「それね! それは今、どこにあるのかしら?」
「ジークフリートが持ってる」
「……! あの男、やっぱりまだわらわに隠し事を……! とっちめてやるわ! ルロイ、城へ行きましょ――!」
「ロゼ! それはアルがやってる!」
ルロイは窓辺から降りようとするお転婆な女王の足首をつかんで止めた。
リヒャルトが、ぼんやりとした顔つきで兵士を見上げる。
「……アルが……?」
「はい。アルなら、きっとやってくれると思います」
頷いた青年は、真っ直ぐに窓のかなたで透き通る空を見上げた。
「もう、前までのアルじゃないんで」
その先には、双子の塔の上で仲良く泳ぐ二色の旗があった。
一一四五年。
だんだんと明け方の騒がしさが光とともにあふれてきていたが、太陽そのものの顔はまだ拝めない。
絶望で感情の置き所を見失ったリチャードに対し、二四歳のアルフレッドは優しかった。
「兄さん。俺、礼を言わなきゃいけない」
リチャードは乾いた喉を鳴らした。
「……どうして……? 君を傷つけ、傷心に縛り付け、挙句の果てにユーシィを狂わせる俺に、なぜ……?」
アルフレッドは、兄の激白をまともに受けたにもかかわらず、穏やかでいてくれた。
「俺の良く知ってるユーシィはさ、気丈にふるまう女伯爵だったんだ。信じられないくらいのハイペースで舞踏会を開いて、家を盛りたてようと必死だった。だのに、俺に本音を言ってくれた試しなんか無かった。でも、兄さんにはなんでも言えたんじゃないか? ユーシィは、兄さんしか幸せにできないんだ」
弟の手のひらが、兄の肩へ乗せられる。
暖かい、とリチャードはぼんやり思った。
「幾度となく俺に結婚しろって、たくさんの縁談を持ってきた。厭だったよ。本当に。逃げ出したかった。そして、本当に森へ逃げた。そこで、リュリに出会った」
急に自分の名が飛び出したので、木陰に腰をおろしていた妖精が瞳をぱちくりさせる。
「わたし?」
「ああ」
アルフレッドは呼ばれたと思い、とことこやってきた少女の、ふわふわの頭を撫でた。
「兄さんのお陰で出会えたようなものだ」
目の前の男は、リチャードが知るアルフレッドにはない、柔らかい雰囲気を持っていた。
それは悲恋を乗り越えて一回りたくましくなった、一人前の男性だった。
リチャードは袖で鼻を拭う。
「……それなのに、君は、僕をこの時代に引きとめに来たんだね。いいのかい。その妖精さんと出会わなかった未来になるかもしれないんだぞ」
伯爵の心配を聞いて、びくついたのはリュリだった。
「や、それは、いやだよ! でも、お兄さんがここにいてくれれば、みんな幸せなんだよね。ううぅ……。どうしよう……。アルくぅん……」
くいくい、とアルフレッドのコートを不安げに引っ張るリュリを、彼は抱き寄せた。
「俺は、信じてる。リュリ、君が信じてくれれば、百人力だ」
「ふぇ? どうして?」
「君が強く思ってくれれば、〈魔法〉の奇跡が起こるに違いないからな」
寄り添う二人に向かって、日の光が一斉に降り注ぐ。
リチャードはそれをまぶしく見上げた。
胸のつかえがすべて抜け落ちたように、どこか清々しい気分でいっぱいだった。
「アル。教えてくれ。僕は、どうしたらいい?」
「まだ、過去を変えようだなんて思っているか?」
リチャードは首を横に振った。
そこに、平たい右手が差し出された。
「次に。かわいい妻と、怪しい魔術師の男。どちらの顔を見たい?」
「……そんなの、決まっている!」
伯爵は、狩人の手をしっかりと握った。
最初に気が付いたのは、ロザリンデだった。
「リヒャルト! あなた、どうしたの? ねえ、ルロイ! 来なさい!」
言われて、ルロイも彼のほうを見た。
リヒャルトはしばしの仮眠をとるのに、壁に体を預けていた。
その相貌が次第に若返っているのだ。
「起こした方がいいかしら、ちょっと」
「リチャードさま!」
ルロイが揺さぶるうちにも、きらきらとした光がリヒャルトに纏わりついては、彼のくたびれ始めていた肉体を元に戻し始めていた。
「魔法、かしら……?」
焦りはあるものの、悠々と窓辺から見下ろしている女王が呟く。
それにかぶせるように、ルロイが叫んだ。
「あー! こういうときに、カラスさんはいないしなぁ!」
「なによ、それ。あら、起きたわよ!」
ロゼが指さす方には、すっかり見違えたリヒャルトがいた。淡い金髪は背中の真ん中まで伸び、いつの間にかサテンのリボンで結ばれていた。なぜか服装も格調高く変化していた。
リヒャルトだった男は、アーモンド形の瞳をまばたかせると、不思議そうにルロイを見て、次にロゼを見た。そして腰についた埃を払いながら立ちあがる。
「君は……ルロイ君? 久しぶりだね! ずいぶんとたくましくなって! それにロゼ! 今日が御披露目だろうに、抜け出してはいけないだろう?」
兵士は、まじまじと男を見つめた。
「リヒャルト、さん……?」
「ん? それは誰だい?」
リヒャルト――もうすでにその名は似合わない男は、窓辺の少女を優しく抱き下ろした。
ロザリンデはまんざらでもない表情で、されるがままだ。
抱きあげられた拍子に、そっと彼の頬を撫でてやる。
少女が指先に感じたのは、青年らしいハリのある肌だ。
「まあ。あなた、リチャードに戻ったのね?」
「戻ったも何も、僕は僕のままだよ、女王さま。ルロイ君、私服のところを見ると、君が女王陛下の騎士だね? このかわいい娘さんを、博物館の宝石箱に戻してきてくれないかな。今日が本邦初公開の、とっておきのルビーなのだからね」
「は、はい!」
ボーマン卿の腕からするりと抜け出したロザリンデに抱きつかれながらも、ルロイはしっかりと敬礼を忘れなかった。
「旦那さま! 奥方さまのお支度ができました」
「ああ、ありがとう、ハンナ。今、行こう。では陛下、御披露目でお会いしましょう」
悪戯なウインクを残し、リチャードがジャケットを翻し去ってゆく。
それを見送ったルロイとロゼは、顔を見合せた。
二人は心が浮き立つのを、お互いの瞳の色で感じあっていた。
少女の頬が、そして口元が、嬉しそうに持ち上がっている。今にも綻びだしそうだ。
「ねえ、わらわの予想を聞きたくなくって?」
「どうぞ、女王陛下」
「ロ・ゼ! こほん、よくききなさい。それはね……」
もしょもしょひそひそ。
少女のかわいらしいささやきを聞いて、ルロイは顔を明るくした。
「オレも、同じことを考えてた!」
あと3話で終わります。




