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【完結】純白の抒情詩《リューリカ》  作者: 黒井ここあ
第四章 幸せを探して

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37/41

五、君に春を見た

 女王の御披露目に沸く、王都エルンテ。

 その上に広がった濁りない蒼穹に、真っ白な花火が乾いた音を立てて弾けた。

 城のあちこちに翻るのは、王家をつかさどる百合の旗だ。

 夜の雨が空気の塵を洗い流してくれたため、ブリューテブルク宮はその名の通り、花の咲くがごとく、鮮やかに立っていた。

 今日の日を心待ちにしていたのは市民だけではない。

 隣国の王侯貴族や外交官たちが貴賓として招待され、それぞれ雁首を揃えて城の離宮にて足を休めていた。

 そこへ市民や旅人に紛れた不審者が押し寄せては困ると、騎士団は兵を増員して王城を封鎖していた。兵士たちは遠目にはまっすぐ突き立っているだけだったが、その実、まったりと世間話をかわしながらの気楽な務めだった。

 そんなところに、一人の男がふらりと現れた。ふらりと言うにはあまりにも立派な身なりをしていて、屹然としていた。彼の凛々しい眉がその印象を一層強めていた。

「お引き取りを」

 二人の兵士が槍を交差させて若き紳士の行く手を阻むと、彼は首をかしげた。

「はて。君たちにまで、連絡が行っていなかったのかな」

「はい?」

 兵士たちが顔を見合わせていると、紳士は豪奢なマントに不釣り合いな狩人の帽子をひとつ上げてみせた。招待状はその後、おまけのようにとりだした。

「アルフレッド・ボーマンだ。本日の女王陛下の御披露目に臨席することになっている。いましがた到着したところだ。遅刻ではなかったかな?」


 アルフレッドは、当初、兵士として潜入することも考えていた。だが魔術師の不快な招待状を見て、気分が変わった。なので、こうして堂々と伯爵としてやってきたのだ。

 従者を伴わないで現れた伯爵に兵士たちは各々驚きの表情を露わにした。

 けれどもその中にはアルフレッドの管理地であるボーマン伯爵領エルレイ出身の青年も多く、非難と言うよりも、久方ぶりに顔を見ることができた「おらが村の英雄」と邂逅できた喜びに色めき立っていた。

 時間の改変で得た肩書だったが、急場しのぎにこうも役立つとは。

 アルフレッドはリチャードに感謝の念を抱いた。ほんの少しだけ。

 城門にいる兵士たちが戸惑いにざわつく。伯爵という来賓をたった一人で入城させる訳にはいかないからだ。しかし、理由は他にもあるような口ぶりだとアルフレッドは感じていた。

「けどさ、誰が行く? 今、あれだろ、女王さまは――」

「しっ! お前、黙っとけって、聞こえるだろう!」

「まずは魔術師さまに報告したほうが―」

「いやいや。あの人はもう摂政じゃないから、違うだろ……」

「じゃあ、誰に報告したら……?」

 ひそひそ話し合う彼らの中にいた赤毛の男が挙手した。

「アルフレッドさま、俺――じゃなかった―わたしがご一緒します! エルレイの、ホルツの出身なんです!」


「すみません、今ちょっと、人手が足りてなくて……。その、御披露目を控えていて」

「構わないさ。次は温室か?」

「あ、ハイ! そうです!」

 ヒューゴという兵士に付き添われ、アルフレッドはブリューテブルク城を案内されていた。

 本来ならばまず、客室に案内されるはずなのだが、そこへたどりつくための最長のルートを歩かされていた。それに気付かないアルフレッドではなかったが、リュリの救出にはかえって好都合と思い、ヒューゴの一歩後ろをついて歩いた。

 王宮をよく知るルロイが一度試みたとおりならば、リュリはブリューテブルク城のシンボルである双子の塔、その東のほうにいるらしい。

 城内の廊下はどの部屋とも繋がっていて、逆に混乱を起こしやすいようにされている。そこは狩人のアルフレッドのこと、人工物程度の変化ならば、たやすく見極めることができた。

 足を進めるたび、彼の脳内に立体的な地図がありありと描かれる。

 石造りの王宮は、彼が幼少時に二、三度訪れたときとまるで変わらなかった。特筆するならば、彼自身が成長したため、必要以上に首をもたげなくて済むようになったことくらいだ。

 重厚な柱が天井を支え、壁の耐久性を増すためにガラス窓は盾に細長いステンドガラスで作られている。そこに描かれる物語世界は、ヴィスタに伝わる豊穣の神話を体現していた。神話越しに見る外の景色は、悠久の時を超えた現在だ。織られ続けてきた歴史のロマンティシズムにアルフレッドは酔いしれたくなったが、それは今じゃない、と立ち止まることはしなかった。

 そろそろか。

 アルフレッドは青年の後姿を見ながらじりじりと焦りを募らせていた。

 ブリューテブルク城よりも比較的新しい建物である温室は、すべてがガラスと鉄骨で作られていた。水晶宮と呼ぶ人がいるほどの透明な建物は、空の青さを一身に受けて輝いていた。

「どうぞ」

 ヒューゴが恭しく扉を開け放った。

 むっとした湿気っぽい青臭さが立ち込める中へ、アルフレッドは足を踏み入れた。

 温室には、ヴィスタ王国によくみられる広葉樹と針葉樹はさることながら、アルフレッドには見慣れない南方の植物まで所せましと植えられていた。そのどれも青々と葉をつけている。

 リュリが見たら喜びそうだ。

 肌にまとわりつく湿度と花々が競い合う香りを振りほどきながら、アルフレッドは思った。

 彼が見渡す限り、水晶宮の中に入ってしまえば、生い茂る木々に邪魔をされて、外からは中をうかがい知ることは難しそうだった。天井を見上げてみる。そこは彼の予想ならば、曇りなきガラス越しの空が広がっているはずだった。だがそこには一つの影があった。アルフレッドが〈ギフト〉の力をほんの少し解放せずとも、生き物のそれであるとわかる。

 時間が残されていない中での、好機だった。

「……あれは?」

「え? なんですって?」

 アルフレッドの呟きに、花の水やりをはじめていたヒューゴが振り向く。

 ここまでは狩人の想定と全く同じだった。

「にわかには信じがたいんだが、もしかしてあの影は、人では……?」

「えっ? そんなことってあるんすかね? あそこ、めっちゃ高い場所ですよ」

「鳥かなにかかもしれないが。さあ、どうだろう……?」

 アルフレッドが顎を上げると、ヒューゴも同様にした。陽光の乱反射で外よりも白く明るむ温室だ。兵士は手で庇をつくって目を凝らしだした。あれ、あれ、と大きな独り言とともにアルフレッドへ背を向ける。狩人が見る限り、この青年、実に脇がおろそかであった。

 そこまでもアルフレッドの思惑通りだ。

 そろそろと青年兵士の背後に近付く。

 彼を無力化して、単独行動を可能にしなくてはならない。

 それも、今すぐ。

 リュリがジークフリートの花嫁にされるその前に。

 湿った土に靴の裏を押しつけながら、兵士ににじり寄る。

 首に衝撃を与えて、兵士の体に障害を残してはいけないから、彼は乳母が息子にしていたのを採用することにした。大きな動脈を一時的に押さえ込むのだ。ほんの一瞬だけ兵士の意識が己からそれれば、それで十分だ。

 胸郭にたっぷり空気を入れて、覚悟を決める。

 すまない。

 そう心で詫びながら無防備なヒューゴの首を狙った。

「あああ!」

 兵士が顎を下げた。そしてその顔のまま貴族の青年へ振り向いた。

 アルフレッドはその声で驚きに体をびくつかせ、彼の崩壊した顔面を目の当たりにしてしまった。見開かれた瞳とぽっかりまあるく開いた口が馬鹿らしくて、思わず噴き出す。

「ぶっ……!」

 刹那、がしゃんと、何かがぶつかってガラスが割れる音が重なった。薄く繊細なワイングラスの割れるような可憐な悲鳴ではない。事件の予感を伴う破壊音に、二人は臨戦態勢をとった。

 そして、しゅるしゅると何かが擦れているのが聞こえたと思った瞬間に、焦げ臭い匂いが漂ってきた。パン、パン、と乾いた破裂音がするや、たちまち視界が真っ白な煙に包まれた。

「し、侵入者だ! 逃げてくださ……」

 アルフレッドを誘導しようとしたヒューゴの背後から、長い腕が伸びてきて、彼の口元を白い布でしっかり覆った。その拘束から逃げんとして暴れもがく青年の、ガントレットに覆われた腕がだらりと垂れた。

「……!」

 そのうちにヒューゴの体は解放され、彼の体は無造作に捨て置かれた。緊迫感に肌を敏感にしたアルフレッドが、目を光らせる。ヒューゴの鎖帷子が鈍く光りながら上下している。それは彼の命の証明だった。

 それさえ分かれば。

 アルフレッドは、この名も顔も知れない大胆不敵な侵入者が撒いてくれた煙幕に乗じようと踵を返した。この温室の出口は一つと決まっていたから。

 しかし、それはやすやすと遮られた。

 彼の太い首に冷たいものがぴたりと当てられたのだ。

 アルフレッドは慎重に呼吸を統制しながら、口を開いた。

「目的は、俺の首か?」

 その手には、常日頃アクセサリーにしか思っていなかった小剣が握られていた。その切っ先は背後にいる人物へまっすぐに向いていた。しばらく磨かれていないが、はったりぐらいには使えるだろう。それに、隙を見てヒューゴの装備を借りることも可能だ。

 アルフレッドの思考がどんどんと研ぎ澄まされてゆく。

 彼が、あたりにたちこめる硝煙に粘膜を逆なでされるような不快感をおぼえていると、まさにそうして燻したような声が聞こえた。

「まさか。俺の目的はただひとつ。囚われのお姫さまを救うのさ!」

 男だ。

 アルフレッドが問いを重ねようと口を開きかけたのに、男はかぶせてきた。

「お前が俺を邪魔するっていうなら、お前は俺の敵。ってことで、眠っててもらう。そこの野郎みたくちょっとの時間でもいいし、永遠にでもかまわない」

 永遠に、という言葉の強まりは、喉元にあてがわれた刃と一致していた。

「全てはお前さん次第さ」

 不法侵入者は、場違いにからからと笑った。その不届きな行動にも関わらず、あっけらかんと己の正義をひけらかした彼に、アルフレッドもくつくつと腹を震わせた。それを不審者が逆に不審がる。それもまた、アルフレッドにはおもしろかった。

「な、なんだよ、お前……。今の状況、わかってんのか?」

「くく……。いや、俺も同じだと思ってな……!」

「はあ?」

 アルフレッドは一瞬のたじろぎを見逃さなかった。

 そのまま不審者の手首を掴み、彼の腕をぐるりとひねりあげる。

 筋のねじれに呻き、男は右手に持っていたダガーを取り落とした。

 カランという音が温室の土に抱きとめられると同時に、男の頬を地面に押し付けた。

 緊張のひとときだったが、アルフレッドは息も乱さずに的確に対処した。

 白い煙は、いつの間にかすっかり晴れていた。

 静けさがくっきりとした緑とともによみがえると、アルフレッドに組み伏せた男を観察する余裕ができた。

 男の髪、ひとまとめにしているそれは、煙がなくなったにもかかわらず、いつまでも真っ白だった。老人ではない。日焼けに耐え、少しくたびれかけている肌、そこに刻まれているのは彼の生きてきた時間だ。四〇代後半と言ったところか。

「ってて……! くそ、あとちょっとのところだってのに、なんで邪魔するんだよ!」

 横顔のまま、キッとアルフレッドを睨みつけた男のその瞳は、輝く森の色をしていた。

 言い知れぬ既視感に、アルフレッドの銀鼠色の瞳がきゅっと見開かれる。

「邪魔? それはお互いさまだろう。それよりも聞かせろ。あんたの言う『お姫さま』っていうのはもしかして、妖精じみた娘じゃないだろうな?」

「妖精? そりゃあ、俺にとっちゃあ、それくらいかわいい、そう言っても構わない人だけども。しかし、妖精……! お前さん、そんな真面目な顔で言うか!」

 豪快に笑い、顎をクイっとしゃくりあげたりもする。屈託のない様子がいなせな男だとアルフレッドは思った。

「あははは! お前さんは妖精を探してここまで来たってわけか。森じゃなく、城に! その図体にして、ずいぶんとロマンチストだな」

 そしておまけに、右の口の端をグイっと上に引き上げた。ついでに眉もおどけて。

「アラムだ。よろしく」

 俺は敵じゃない。

 どうやら、そういう意味らしかった。


「いやあ、痛かった。けど、まだ動くな。お前さん、なかなかやるじゃねえか」

 アラムと名乗った男は、伸びたヒューゴを引きずって木陰に隠すと、手についた土ぼこりをたたき落としていた。パンパン、と乾いた音は、彼の歯切れの良い話し方とまるでそっくりだ。

 だが、その明快な口調で説明された事実をアルフレッドはにわかに信じられない気分でいた。

「悪い魔法使いにさらわれた女性を助けにきた……?」

「おう」

 アラムが白い歯を見せて笑うには、その女性は、彼と永遠を誓いあった妻だという。

 アルフレッドが知る限り、悪い魔法使いと聞いて思いつくのはたった一人しかいなかった。

「ジークフリート……。まさか、リュリだけじゃなく、他の人まで……」

 青年が眉根に縦皺を刻むのを、アラムが覗き込んだ。

「お前さん、魔法使いを知ってるのか? ひげの!」

「ひげ?」

 ああ、と頷く冒険者の言うことと、アルフレッドの情報はあまりかみ合っていないようだった。大の男二人が首をひねる。

「一目でわかる、くそじじいだぞ。尊大で、誰よりも自分を偉いと思っていて、人の人生を勝手に決めたりする。あんなのが親だったら、絶対逃げだすってタイプ! それにしても、おかしいな。ヒントに間違いがあるはずがないんだが。間違いなく、ヴィスタのブリューテブルクで、小さい女の子と魔法使いとともに『その時が来るまで』待っていてくれるはずなんだ!」

 アルフレッドは壮年の男に詰め寄られる。きらりと萌え葉のように潤うエメラルド色に、嘘偽りは見受けられない。

 かといって、今のアルフレッドが彼の役に立てることは何もなかった。

 それに、恋した少女を救い出す道すがらでもあった。

 彼がおもむろに取り出した金の懐中時計が示すのは、正午の一時間前だ。アルフレッドはぱちりとふたを閉じる。ついでに、銀色の瞳も伏せた。

 考えるんだ。

 時間は待ってくれない。

 今、俺に出来ることとは。

 アルフレッドがふと見下ろした地面に、金色の光が惜しげもなく降り注いでいた。

 ほとんど無意識にその筋をたどって見上げてみると、ガラスの天井にぽっかりと本物の空が切り取られて浮かんでいた。

「アラム?」

「なんだ?」

「……どうしてあんな上から来たんだ?」

「ああ。青い塔にいるって、書いてあったからな。登ろうと思って」

「書いて……?」

「書いて、っていうか、本の色っていうか。ともかく、外側から塔に登ろうと思ったんだが、失敗してな! それでお前さんたちに中から案内してもらおうと。しかし、お前さんもおのぼりさんじゃあ、だめだな!」

 アルフレッドが一つずつを整理していると、そのうちの一つがしこりのように彼の論理を邪魔した。

「青い塔……!」


 アルフレッドとアラムは、水晶宮を出て階段を上り、露出した回廊にやってきた。

 ここからならば、中庭だけでなく、背の高い水晶宮を上から見下ろせた。それほどの高さを誇るこの場所でさえ見上げねばならない存在があった。それは、ブリューテブルクを象徴する双子の塔だった。

 ヒューゴの言った通り、城内に兵士の姿はほとんどなかった。みな、女王の御披露目に手厚く配備されたとのことだったが、ときおり聞こえるかけ足の音ややり取りを聞く限りでは、式事の準備の様子にはとても思えなかった。

 幸い、兵士が通りすがったとしてもアルフレッドの身なりを見て背筋を伸ばすくらいですまされていた。アラムはその度に得意げに瞳を輝かせていた。彼のこの短絡さも、アルフレッドに何かを思い起こさせるような気がしてならなかった。

「ここからなら、あの双子の塔までロープを繋げそうだ」

 そういうアルフレッドの手には、温室でのびているヒューゴから拝借した弓と矢があった。矢にはアラムが持ってきたロープが結びつけられている。

 アルフレッドは、自分より少しだけ背の低い白髪の男を疑わしげに見下ろした。

「アラム、本当に城の外から迎えに行かなくても――」

「いや、これは男のロマンとしてだな!」

「……ロマン……」

「ああ、そうだぞ! せっかくの再会なんだから、ドラマチックにしないとな! 参考にしてくれてもかまわないぜ」

 アルフレッドの理解が及ばない美学を語るアラムをよそに、アルフレッドは双子の塔、その右側の屋根に翻る国旗を見上げた。

 その頂点でたなびくのは、銀色の百合が縫い込まれた紺碧の旗だった。その片方を見上げると、深紅の旗が泳いでいる。同じ紋章が清らかに輝いている、こちらは金色だ。

 アルフレッドは、ロープにうねりがないか慎重に確かめた後、いつも通りに狙いを定めた。

 目標は、碧い国旗の根本だ。

 放たれた矢はロープを伴って弧を描き、屋根のてっぺんへとぐるぐる巻きついた。

「おお! お前さん、すごいな! いい〈ギフト〉を持ったもんだな!」

「……まあな」

 遊びが無くなるまでぎゅっと固く引くと、矢じりがポールに引っかかる手ごたえがあった。その端を回廊の手すりにしっかりと結わえつける。

 気まぐれに世界を撫でてゆく風は、この時ばかりは彼らの邪魔をしなかった。

 その様子を嬉々として眺めていた男に、アルフレッドはぼそぼそと尋ねた。

「もう一度、聞いていいか?」

「ん?」

 新緑の瞳がとぼけるようにまたたく。

「本当に、また落ちてしまっても知らないぞ」

「ああ、大丈夫だ。俺には俺の〈ギフト〉がある」

 そう言って彼はウインクした。

 一体、何が大丈夫だというのだろうか。この気楽さがアルフレッドの杞憂の種だったのだが。

 たまらずため息を漏らした狩人に、皮手袋に包まれた武骨な手のひらが差し出された。

「ありがとうな。えっと――」

 旅人が、髪と同じ真っ白な眉を困ったように傾けた。

 アルフレッドには、それだけで彼が言いたいことがよくわかった。

 以前にもこんなことがあった気がする。

「アル。アルフレッドだ」

 狩人は、名乗るとともに、しっかりと男の手を握った。

 しっかり握りかえさなければ、逆に潰されてしまいかねないような強固な握手だった。

 はは、と声を立てて笑ったのは、もちろんアラムだった。

「じゃあな、アル。お前の妖精さんによろしく」

 きゅ、と片眉を引き上げて見せると、男はロープに手をかけた。

「あ。このまま去ってくれてもかまわないが、見ていたいならちょっと下がってた方がいいぞ」

「何のことだ?」

 すると、にわかに緑の香りがアルフレッドの鼻腔をくすぐった。

 彼は一瞬、自身の感覚を疑った。

 だが、狩人として森の中に身をやつしてきた彼のことだ。思わずくしゃみをしてしまいそうになる、あの森林特有の涼やかで清々しい香りを間違うわけがなかった。もしや。温室の名残かと、纏うコートに大きな鼻を寄せたアルフレッドだったが、次の瞬間には自身の目を疑うことになった。

 急激に背丈と太さを増しながら成長してゆく蔦が、旅人の足元から光を跳ね返す大理石の床から、今まさにその背丈を伸ばしていたのだ。

 それは意思を持つようにして、アラムの握っていたロープに自らを巻き付けてゆく。間違って彼の手首まで巻きこんでしまいかねない、そんな勢いがあった。

「アラム!」

「あ?」

 アルフレッドはそれを危惧し、アラムの肩を引いてロープから遠ざけた。

 彼はしばしの間、きょとんとしたものの、青年が太い眉を寄せてぎろりと蔦をねめつけているのに気付くと、悪びれずに言った。

「ああ。心配すんなって。そんな、自分に当てちまうような下手クソじゃないから、大丈夫だ。なんなら、最後まで見ていくか?」

 ご機嫌そうに目じりに蓄えられた皺が、彼の表情の癖を代わりに教えてくれている。

 下手、ということは、これはアラムが操っているということになる。

 アルフレッドは素直に信じられないその考えを、確かめんとして口を開いた。確かめねば、気が済まなかった。

「アラムの――?」

「そう。俺の〈ギフト〉!」

 きっぱりと言い放ったと同時に、今までロープに体を這わせ巻きついていた植物がぎゅうっと乾いた音を立てて動かなくなった。

「お。終わったな。じゃ、そういうことだから」

 アラムはエメラルドの様な魔法の瞳で二度目のウインクをくれると、蔦の巻き付いたロープの上を、あたかも階段を上るかのように軽々と登っていった。

 碧い旗がたゆたう塔へと駆けあがるアラムの背中がどんどん小さくなる。

 彼の姿が小さくなればなるほど、日差しが彼の白い髪を輝かせる。

 それはまるで、天国への階段を登る天使のように見えた。


 アルフレッドは一人、回廊に残された。

 踵を返し、彼はアラムが去った方角と反対を行く。

 不気味に静かな王宮が、アルフレッドの靴音を遠くまで響かせている。

 彼は迷わず、角を左へと曲がった。

 もう、行く場所は一つと決まっていた。

 ルロイが教えてくれた、東の塔、深紅の旗のふもとへ行くのだ。

 突然現れて、嵐のように心をかき乱していったアラムを思うと、なぜか頬笑みがこぼれた。

 胸に広がった暖かさは、彼とよく似た白い髪と瞳を持つ少女との邂逅で感じたものとまるでそっくりだった。

 思えば彼女と出会ってから、笑うのが苦痛ではなくなった。そんな気がしていた。

 世間離れした少女は、アルフレッドの凍った心を幾度となく揺さぶってきた。

 揺らすだけにとどまらない、と彼は思い出しながら口元を緩ませる。

 素直で、純真で。

 危なっかしくて、どきどきさせられて。

 世界は明るいと信じてやまない、無垢な乙女。

 彼女の隣にいると、なんともいえない安らぎに満たされるものだった。

 のどかな陽だまりに喜び歌う小鳥のような、小さな幸せにくつろいで体を預ける感覚だ。

 風がハーモニーを奏でるのにも耳を傾けるあの少女が、恋しくてたまらなかった。

 光そのもののような、くしゃくしゃの白い髪を撫でてやりたくて、しかたがなかった。

「リュリ……」

 そういえば、面と向かって名前を呼んだことがあったろうか。

 純潔の異名を持つ、甘い香りを纏う白百合――リリィにも似た、愛らしい名を。

 アルくん。

 花が揺れるような可憐な声は、いつも彼の耳をくすぐった。

 それは、心臓を羽で撫でられるような、小さな震えをともなうものだった。

 アルフレッドは、記憶にリュリの笑顔を探した。

 少女はいつも、ほほ笑んでいた。

 不満を浮かべても、せいぜい口をとがらせる程度で、かわいらしいものだった。

 頬をたっぷり持ち上げてみたり、期待に瞳を輝かせたり、照れてみたり。

 肌の抜けるような白さが薔薇色の頬を一層際立てていた。

 けれどもそのどれもが、見つけた途端に、一瞬にして涙に濁る。

 リュリは知ってしまったに違いない。

 アルフレッドの思いが、ユスティリアーナに向いていたことを。

 それが過去のことになりつつあるとは、考えもせず。

「違う、違うんだ……」

 泣かせてしまった。

 それはすべて、アルフレッドのせいだった。

 少なくとも、彼はそう信じてやまなかった。

「俺が……。俺がだめだったんだ……!」

 進める脚は大きく、歩みも自ずと早くなる。

 すれ違う兵士の敬礼も、アルフレッドには見えていなかった。

 彼は気付かないうちに、駆け出していた。

 胸が、息が、弾む。

 それは期待なのか、懺悔なのか。

 両腕を振ってがむしゃらに走るアルフレッドには、もう判別がつかなくなっていた。

 彼の金髪のポニーテールが、紺碧のリボンと共に上へ下へと揺れる。

 揺れながら、汗のにじむ首元にしばしば張り付く。

 その不快感すら無視しながら、アルフレッドは塔の高みへと通じる唯一の階段に足を踏み入れた。

 普段ならば一段ずつゆっくりと上がるところを、彼は一段――ときには二段も――飛ばしながら駆けあがっていった。

 向かい風が押し寄せて、アルフレッドを邪魔する。

 ぐっと歯を食いしばったせいで、彼の首の筋にぴしりと痛みが走る。

 見開いたままの銀鼠色の瞳に向かって、風は容赦なく砂埃を叩きつける。

 たまらず閉じてしまいそうになるが、狩人はそれさえもこらえた。

 悲しくもないのに涙がにじむ。

 自浄作用だとはわかりながらも、それは目にも心にも痛かった。

 すると、急に風が鋭さを和らげた。

 ばたりばたりとかまいたちにもてあそばれる扉が、そしてふわりと渦巻いた甘い薬草の香りが、ここが彼女のいた部屋だと告げている。

 アルフレッドの足が、ようやく止まった。

「はぁ……、はぁ……!」

 足や体は、熱く燃えたぎる反面、棒きれのように言うことを聞いてくれない。

 口での呼吸で、喉や気管、肺までもが焼けてしまいそうにひりつく。

 彼は額や首筋を流れる汗を拭って、湿った前髪を後ろへ思い切り撫でつけた。

 そして、そこにいるであろう、囚われの乙女を探すために首をもたげた。

「……リュリ……?」

 アルフレッドの喉をかすめていった少女の名は、塔へ切り込んでくる疾風にかき消された。

 息も絶え絶えのアルフレッドを歓迎してくれたのは、風に遊ぶ薄桃色のレースのカーテンだ。

 青年の肌がにわかに粟立つ。

 首を右へ。

 そして左へ。

〈ギフト〉を使用する距離でもないのに、アルフレッドは眼を凝らした。

 汗が頬を伝う。

 丸い部屋に死角はないはずだ。

 豪奢な衣装や箱が散らかってはいるものの、そこに人間が隠れる余地などない。

 だが、いくら見回せど、そこに人影はなかった。

 あるのは、据え付けられたベッドの上に無造作に置かれた、少女のチュニックだった。

 まさか、と彼は思いたかった。

 確かめるために、おそるおそる近付く。

 震える手が触れたチュニックからは、彼女と同じ匂いがした。

 少女は着なれた衣服を脱いで、何を着たのだろう。

「そんな……」

 アルフレッドの喉がカラカラに乾く。

 焼けつく痛みは肺を通り越して、心臓を貫いた。

 息が詰まる。

 思考が、止まる。

 魔術師の花嫁にさせまいと。

 それから、たった一言、思いを伝えようと、ここまで来たのに。

 また俺は、伝えられずに終わるのか……。

「……アルくん……」

 うなだれたアルフレッドの耳に、聴きたかったあの声が訪れた気がした。

 あんまりにも気持ちが昂りすぎたせいだろう。

 アルフレッドは、それを幻聴だと思った。

 花嫁衣装に腕を通して、鳥籠を去った少女。

 彼女は森の妖精ではなく、一人の女性としてこれから生きると決めたのだろう。

 青年は祝福を送ろうと、言葉面だけで思った。

 その決断は、なぜだかとてもむなしく、悲しいものだった。

 悲しいと、口に出せたらよかった。

 悔しいと、怒りを表せればよかった。

 好きだと――。

 だが、それももう、後の祭りである。

 また。

 また、アルフレッドは恋の敗者となった。

 その事実は、思いのほか彼を痛めつけた。

 まず、風の歌が消えた。

 そして、青空は色を失った。

 口の中に舞い込んだ細かな砂利も、もはやどうでもよかった。

 先程まで上がっていた息は、いつのまにか鳴りをひそめている。

 自分が呼吸しているのかどうかも、定かではない。

 花鳥風月が彼を包み込んでいるのに、感じるすべをことごとく失くしてしまった。

 それは。子供じみた憧れ――初恋が粉砕されたのとは違った。

 たった一つの恋だった。

 だけれども、彼にとってかけがえのないものだった。

 長く氷に閉ざされた心を、溶かす暖かさがあった。

 長く厳しい冬に、春の芽吹きをもたらしてくれた。

 花を美しいと。

 薫風が爽やかだと。

 清らかな水に喜ぶのは己だけじゃないと。

 ふかふかのうさぎを抱いて、ほほ笑みながら教えてくれたのは、彼女だ。

 その妖精は、もう彼に向って笑わないのだ。

 それはもう、誰かの――。

「アルくん!」

 まただ。

 再び、アルフレッドの耳に少女の声がした。

 幻でも、もう一度会えるならば。

 それがたとえ、己の妄想の産物だとしても。

 アルフレッドはゆっくりと振り返った。

 期待はなかった。

 抱いて、どうするというのだろう。

 ささやかな期待は、己を傷つけるだけだ。

 絶望に満ちた瞳は、下り階段を映すだけ。

 アルフレッドはそう信じていた。

 だが、彼の瞳に白い流れが一瞬だけ映り込んだ。

 ことりと何かがおかれた音がした次の瞬間、彼の体にぶつかる柔らかいものがあった。

 そして柔らかく、彼を包んだ。

「アルくん……! アルくん、アルくん!」

 ぎゅうっと体を締め付けられるのに、不思議と苦しくはなかった。

 何が起きたのか事態を飲み込めずにぼうっとするアルフレッドを、見上げる顔があった。

 卵型のつるりとした顔の上に、真ん丸の相貌が二つ。

「あ、あい……」

 赤らむ顔を包むのは、真っ白な髪。見つめる瞳は、森の色だ。

 まわされた腕のぬくもりがわかる。

「あいた……か……」

 押し付けられた体は、柔らかい。思わず唾を飲み込む。

 夢ではないかと、戸惑いに瞳を何度もまばたかせる。

「あいたかった!」

 少女の、感極まった声が、ちゃんと聞こえた。

「リュ……リ……?」

「うん!」

 喉は依然として掠れたままだ。くちびるも同様に乾いていることに気付く。

 何か言葉を紡ごうとして息を吸うと、少女の髪から薬草の甘くさわやかな香りがわかった。

 正面のリュリは嬉しそうににっこりしている。

 その服装は、見たことのない異国のものだった。

 刺繍が贅沢に施された丁寧な仕上がりは、礼装をうかがわせる。

 その服は?

 なぜ、ここに?

 本当にジークフリートの花嫁になるのか?

 問いただしたいことが次から次へとあふれ出てくる。

 それなのに、言葉はずっと喉につかえたまま。

 発しようにも、発せられない。

 出てくるのは、乾いた吐息だけだ。

「……っ」

 前触れは無かった。

 アルフレッドの瞳から、同じ色をした涙がひとしずく、ほろりとこぼれおちた。

「行かないでくれ……」

 しずくは一つずつ、ぎこちなく頬を伝う。

 ぽたりと、まるで、ゆっくりと体を溶かすつららのように。

「俺を置いて……!」

 流れる涙のしずくが、青年の顎からぽたぽたと落ちてゆく。

 少女は戸惑いながら、彼の顔へおずおずと手を伸ばした。

 白い指先が彼の濡れた頬を遠慮がちに拭う。

「あ、アルくん……? どうしたの、悲しいの?」

 指の感触に、彼女の存在をいっそう確かに感じる。

 ほんの少しだけ冷たく感じられたのは、おそらく、彼の体が火照っていたからだ。

 アルフレッドは首を横に振る。

「ちが……。嬉しい……んだ」

 つくろわない、心からの言葉。

 この少女になら素直でいられた。

 暖かな感謝の気持ちがこみ上げてくる。

「嬉しいの? ……でも、悲しそう……――ひゃっ!」

 アルフレッドは、たまらずリュリを抱きしめた。

 壊さぬように。

 離れぬように。

 ぎゅっと。

 心から。

「リュリ、リュリ……!」

 腕の中にすっぽりと収まった少女は、やっぱり華奢で、小さかった。

 ふわふわの髪が覆う少女の頭頂に、思わず鼻をうずめる。

「会いたかった! 君に、ずっと、会いたくて……、謝り、たかった……!」

 嗚咽とともに、どんどんとアルフレッドの本音があふれる。

 たった一人の少女に会えなかったこと。

 謝れなかったこと。

 それがどれほど彼を縛り付けていたか。

 彼は、こみ上げてくる思いに論理をことごとく破壊され、その強さを実感した。

 この娘に、己を偽ることはできないと。

 その高まる気持ちは、春の訪れを喜ぶのに似ていると。

「あや、まる……? それは、わたしのほうだよ」

 アルフレッドの胸板に頭を預けている少女は、詫びられているにもかかかわらず、申し訳なさそうにした。

 青年は横へ小さく首を振った。

「君が謝ることなんか、何もないんだ、リュリ」

「だって! だって、わたし、アルくんはお義姉さんを好きなのに、アルくんのことを好きになっちゃったんだよ! それは、それはだめなことだもん。わたしとアルくんは住む場所が違うから好きになったらだめなんだもん! 好きになって、ごめんなさいって……――あっ!」

 少女は、いけない、と口を両手でふさいだ。

 その顔は耳まで真っ赤になって、まるで茹で上がったようになっていた。

 アルフレッドもまた同様だった。

「……くっ。は、はは……、ははは……!」

 そして面喰いはしたものの、急に噴き出して、笑い出した。

 リュリは、潤んだ瞳でキッと青年を見上げた。

「や、やあ! なんで、なんで笑うの!」

「いや……ははは! また君に、先を越されたな、と」

「またって、なぁに!」

「屋敷から逃げられたときも、そうだったろう?」

「先って、なぁに!」

「好きだって、先に言われた」

「ひぇっ?」

 今度はリュリが瞳を丸める番だった。

 アルフレッドはいつの間にか乾いていた涙の跡を乱暴に手の甲で拭った。

 それから、むくれていた少女の顔を覗き込んだ。

「まず、謝らせてくれないか、レディ。君を無理に社交界なんかに連れ出して、怖い思いをさせてしまった」

「……うん」

 まあ、いいよ、と不本意そうに少女は頷いた。

 アルフレッドも同様にする。ほほ笑みながら。

「確かに、俺はユーシィのことを好きだった。でもそれは過去のことで――」

「じゃ、じゃあ、だめだよ。わたし、アルくんが好きだから、アルくんの好きの気持ちを大事にしたいから――むゅ!」

 再び突き出された彼女のくちびるに、人差指の封がされた。

「だめじゃない。落ち着いて、よく聞くんだ。俺のユーシィへの気持ちは子供の頃の話で、憧れみたいなものだった。ユーシィは、俺の兄貴を好きになった。その兄貴が五年前にいなくなってからも、ユーシィは兄貴を思っている。愛している。帰ってくるのを、ずっと待っている。それでいいんだ。もう、終わった話なんだ」

 青年は、そっと少女の頭をなぜた。

「今なら、そうだとわかる。そしてリュリ、君と出会ってから、俺は……」

 こみ上げる思いが、幾度となく言葉を邪魔する。

「俺は……」

 一呼吸。

「アルくんは……?」

 息をついたさきで、見上げる少女の瞳が、嵐の前触れのようにざわめいている。

 不安げに揺れるエメラルドは、まさに生きた宝石のよう。

 アルフレッドの喉仏が乾いた音を立てる。

 準備は出来ていた。

 あとは、告げるのみ。

「俺は君を……! 好きに、なった」

「……っ!」

 少女は息をのんだ。

 みるみるうちに、口元がゆがみだす。

 けれども、それを何とかこらえている。

 翠の瞳がしだいに潤みだす。

 そしてたまりにたまった涙が決壊した。

 ぼろぼろと大粒の涙がとめどなくあふれている。

 それが、嬉し泣きを問うた人の行動か。

 そう、くすりと笑うアルフレッドの瞳からも、再び涙が滲んでいた。

 二人は涙せきあえずとも、その口元を幸福そうに持ちあげていた。

「今、好きなのは、君だ。リュリ。君が、一番なんだ」

「ほ、ほんとう?」

「ああ」

 アルフレッドは、己の額をとびきり優しく少女の額にぶつけた。

 銀と翠の瞳が絡み合う。

 お互いの鼻の先端が、一回だけ、触れ合った。

 それはまるで、母が子にするような、キスよりもずっと素朴な親愛の仕草だった。

 触れ合いそうな瞳の前で、リュリは不安げに長い睫毛を羽ばたかせる。

「……で、でも、住むところが違うよ、アルくんはしゃこうかいだよ……」

「それなら俺が森に行こう」

「でも、はくしゃくになるって……。それから、ロゼちゃんと結婚するって……」

「……」

 押し問答の理由が少しわかった気がして、アルフレッドはほんの少し訝った。

 そして、これまでのことを説明しようと思い至った。

 もちろん、リュリがわかるように噛み砕いて。

 リュリがさらわれた後、ルロイを助けたこと。それには魔術師イグナートと女中サナの手助けがあったこと。その間、何者が時間改変をし、それは五年前に消えたリチャードが関わっているらしいこと。時間にまつわる魔法は〈時の竪琴〉でしか扱えないこと。

「だから、今のところ俺は伯爵で、女王との結婚はありえない。だめじゃない、だろう?」

「だ……。だめじゃ、ない……ね……」

 リュリが恥ずかしそうにうつむく。

 初めて見る新たな側面に、アルフレッドの心がくすぐられる。

 それはむずがゆくて、くすぐったくて、けれども癖になりそうなもの――ときめきだった。

「だから、リュリ……」

 青年は、少女を抱きしめる腕を解いて、彼女の顔をその手で包み込んだ。

 そのまま、自分のほうを向かせる。

 切なそうに潤んだエメラルドの瞳が、ぱちぱちとせわしなくまたたいている。

「あいつの――ジークフリートの花嫁になんか、ならないでくれ。お願いだ」

 アルフレッドの銀鼠色の瞳が、真っ直ぐに少女のを貫く。

 リュリは一瞬の戸惑いを見せるも、すぐに笑顔を花開かせた。

「うんっ!」

 少女の緩んだ目元に、再びきらりと輝くものがあった。

「ボーマン。王配殿下が婚前に不倫かな? 僕のリュリに何をしてるんだ?」

 とげとげしいテノールの持ち主が、不意に現れた。魔術師ジークフリートだ。

「あなたの婚約者が消えてしまったというのに、悠長なものだ」

「それでみなさんお忙しいわけだ。それに婚約はもとより無かった話だ、魔術師殿。まだ知らないのか?」

「君をリューリカから引き離すチャンスだからね。むざむざ破棄したりしないさ」

 ブルネットを逆巻く風に遊ばせる青年は、その相貌を相変わらず仮面で隠していた。

 アルフレッドはとっさにリュリをかばい、少女は彼の後ろで身をひそめた。

「ジークフリート。リュリは君とは結婚しないと言った。合意がなければ、契約は無効だ」

「はんっ。そんなこと、リュリが言うわけがないね」

「だって、わたしが言う前にどんどん話を進めるから」

 少女が口をはさんだ。

「お兄ちゃん。わたし、家族が結婚するのは、変だと思う。家族は家族っていう繋がりがもうあるんだもん。それじゃだめなの?」

 むすっとくちびるを尖らせるリュリの兄という言葉を聞き、アルフレッドは疑問を覚える。

 ジークフリートはというと、先程アルフレッドにむけた敵意をまるで猫の爪のようにすっかり隠していた。その声音は甘ったるい。

「リュリ。僕と君は兄妹に違いないけれど、血は繋がっていないんだ。僕はアラムの拾われ子だから。だから、僕と君が結婚しても、なんにも悪いことはないんだよ」

 アルフレッドの眉がぴくりと反応した。

 アラム。

 先程の旅人の名と一致する。

 不思議な一致に戸惑う彼を板ばさみにして、兄妹喧嘩が繰り広げられていた。

「悪くなくても、わたし、お兄ちゃんとは結婚しないよ!」

「どうして? お兄ちゃんが嫌いかい?」

「うん」

 間髪いれずに答えられて、ジークフリートは鳩が豆鉄砲を食らったように、瞳をぱちくりさせた。

「……それは、どうして……?」

 これはチャンスとばかりに、リュリはたたみかけた。

 それは、アルフレッドが聞いたことがないくらいに、攻撃的だった。

「嘘つくし、ルロイくんにひどいことするし、恥ずかしいことするし、いや!」

 そうしてリュリはアルフレッドの左腕に抱きついた。

「アルくんのほうが、優しい! お兄ちゃんより、ずっと、ずうっと、好きだもん! ずっと一緒にいたい! わたし、アルくんと結婚する!」

 妹が睨みつけるのは、悔しさに口元をゆがませる義理の兄だ。

 少女にぎゅっと抱きしめられたアルフレッドはと言うと、告白に次ぐ告白、愛の言葉の雨あられにあてられて、嬉しいやらと戸惑うやら、身の置き場所に困ってしまった。

 そこまで思っていてくれたなんて。

「リュリ……!」

 感極まらないと言えば嘘になるアルフレッドの手前で、ジークフリートは哀れだった。

「……うそ……だろう? リュリ、怒らせたなら、謝るから……」

「いや!」

 気付くと、少女は右肩に竪琴を持っていた。

 場にそぐわない楽器の登場で、アルフレッドの混乱が極まろうとしていた。

 だが、竪琴の縁の向こうに、知った顔を見た瞬間、彼の思考が理路整然とおさまりはじめた。

「兄貴……? リュリ、もしかして、それが?」

「んっ? うん、竪琴。えっと――」

「〈時の竪琴〉! リュリ、ちゃんと直してくれたんだね! やっぱり君は僕の――」

「それだあ! アルくん、行こう! やっぱりこの人がアルくんのお兄さんだったんだね! アルくんに似てて、悲しそうな人。気になってたの」

 リュリはそういうなり、アルフレッドの腕を組んだまま右手で〈時の竪琴〉をつま弾いた。

 朝焼け色の絃は煌めきながら音の粒を弾けさせる。

 和音のクラスターが消えてしまわないうちに、少女が叫んだ。

「アルくん、五年前って何年?」

 アルフレッドは一瞬、何を問われているかわからなかった。けれども、すぐにピンときた。

「一一四五年だ! 兄貴が――リチャードが過去へ飛ぶのを止める!」

 すると、ふわふわと世界の一部がゆがみ、色をにじませ始めた。

 現在の風景に重なって、四季がぼんやりとかすみ、遠くへ遠くへと続く。

 サナちゃんの〈ギフト〉に似てるなあ。

 そう思うと、不思議と恐怖が薄らいでいく気持ちがした。

「リュリ、リューリカ! 行ったら戻れないかもしれないんだ! こっちへおいで! さあ!」

 ジークフリートが叫ぶのに、妹は気楽に手を振った。

「大丈夫! 帰ってきたら、一緒にお父さんとお母さんのところに行こうね!」

 アルフレッドを伴って次元のゆがみに足を踏み入れたリュリの、その腕をつかもうとした魔術師の手は、虚空をかいて終わった。

「……あ……。あぁ……!」

 魔術師シュウ=ジークフリートは、その場にくずおれた。

 碧い旗が、窓の向こうから彼を覗いている。

 風が、すべて何事もなかったように悠々と歌っていた。

あと4話で終わります。

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