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【完結】純白の抒情詩《リューリカ》  作者: 黒井ここあ
第四章 幸せを探して

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三、届くんだ、温かさは

 引き締まった細身の体、その上だけを露出したままの青年は、扉を勢いよく閉め、そこに寄り掛かった。背中に扉の冷たさが感じられ、それが自身の頭も冷やしてくれるような気がした。

 うっかりしていた、と彼は自省した。そして再び顔面を赤く染める。

 その線の細い背格好から、妹のように思えた少女。担ぐにも軽く、見た目にも小さな体。右肩に、まだそのやわらかな重みを感じるような気がした。

「ちっちゃくても女の子、なんだよな……」

 つい勢いで露天商に喧嘩を売ってしまい、成り行きで彼女と二人っきりになってしまったわけだが、彼はそのことについて深く反省していた。惚れ薬に頼りたいほど恋焦がれる相手のいる少女なのだと思うと、邪魔してやるべきではなかったのかもしれない。

「でも、露店の値段なんて、ほとんどぼったくりだしなあ……」

 露天商たちから逃げている途中で、少女は金があると言っていた。おそらく、高貴な出身の少女なのだろう。そんな彼女が、出会ったばかりの兵士と一晩同じ部屋で過ごすなんて、さらには一つの寝台を共有するだなんて、もってのほかだと思われた。

「やっぱり、女将さんに寝椅子とか借りた方が良いかなあ……」

 部屋の扉から少し離れ、階下を手すりから見下ろす。パブから帰ってきた客が千鳥足で部屋に向かっていく姿、そして忙しなく替えのタオルを運んでいる女将の姿が見えた。彼はほんの少し体を乗り出し、声を掛けようとしたが、彼女は通路の影にすぐ立ち去ってしまった。

 しかたなく首を回し、カウンターの横の振り子時計を見る。針は午後八時へとゆっくり向かっているところだった。そろそろ八つの鐘が鳴るだろう。


 重たい時計の鐘が鳴る音を、ロザリンデは着替えながら聴いた。

 びしょ濡れになった町娘風の衣装は、濡れたことにより、その色を更にくすませていた。

 湿った衣装の不快感はすさまじいと彼女は身をもって実感した。雨は下着にまで染み込んでいたため、彼女はしかたなくそれを脱ぎ、女将のよこした寝巻一枚を頭から被った。

「……ぶかぶか……」

 平均的な少女よりも一回り小さな体を持つロザリンデにとって、平均的な女性を想定されて作られた寝巻は一回り大きかった。その証拠に、衿ぐりが大きく開いてしまい、辛うじて肩に引っかかっている状態になっていた。それを鏡で確認すると彼女の頬は上気した。瞳が狼狽でくるくるとまわる。

「……どうしよう……。こんな恰好、ジークフリートにも見せたことないのに……」

 どうしよう、と口の中で何度も繰り返し、ロザリンデは狭い部屋中を裸足でうろうろした。

 年齢は成人の十六歳に達したとはいえ、未だ女性としては未完成の凹凸の少ない体は、たった一枚の寝巻だけに守られていた。そんな無防備な姿を血気盛んと思われる青年の前に晒すと思うと、彼女は貞操の危機を真剣に考え始めた。

「い、いくらなんでも、そんなこと、絶対に避けなくちゃいけないわ……!」

 女王の精神は、その体の成長する速度よりもずいぶん早く成長した。であるから、すぐ隣で女王を支えるジークフリートを意識し始めるのに、そう時間はかからなかった。恋い焦がれる気持ちが盛り上がるとともに、さまざまな恋愛小説を読みあさるようになった。その大概がかなわぬ悲恋の物語だった。それでも彼女は、想い合う男女の美しい描写に自分の気持ちを重ね、愛しあうことについて大いなる理想を抱いた。

 端的にいえば、偶然に出会った人物と一夜限りの関係を結ぶことは彼女の理想に反していた。

 結ばれる為には、まず、恋人同士が深く愛し合うことが必要だと、彼女は強く考えていた。

 己を落ち着かせようと必死に独り言を唱え続ける。

「大丈夫よね! 着替えごときで慌てる男だし!」

 いいえ、ともう一人のロザリンデが彼女の脳内でささやく。

 赤面して慌てふためくのを見たでしょう?

 異性を強く意識しないと、ああは不自然な行動をしないのではなくて?

「た、確かに……。でも、すぐに出て行ったところを見ると、そんな勇気は無いのかも……」

 そこまで言葉を紡ぐと、ロザリンデは自身の論理の隙を見つけてしまった。

 それは、勇気と言う肯定的な言葉を用いたこと。

「え……わらわ……」

 がく然とするロザリンデが、雨の叩きつけられている窓をふと見ると、そこに映りこんだ少女が妖しくほほ笑んだ。

 ほら、本当は期待しているのでしょう?

 ジークフリートのことを忘れさせてくれるような出会いが欲しかったのではなくて?

 気になっているのでしょう、彼のことが。

 真っ直ぐで正義感が強くて、幸い、顔立ちも悪くない。

 あなたのヒーローに相応しいのではなくて?

 彼に抱かれてみたいと、思っているのでしょう?

 素直になったらいかが、ロザリンデ。

「そ、そんなこと……」

 窓辺の彼女の言葉を、ロザリンデは否定できなかった。

 だが、完璧に自身の心を言い当てられるのは、実に悔しく感じられた。

 彼女は苦し紛れに、窓辺でほほ笑む少女の顔を手、のひらで滅茶苦茶にこすってやった。すると、手あかで曇った窓硝子には、下唇を噛んでいるロザリンデが映るだけになった。窓辺の彼女は去ったようだった。

「落ち着くのよ、ロゼ。意識するからいけないんだわ。極めて、冷静に。そう、先に寝てしまえばいいのよ。そうしたら何も気にならないわ」

 落ち着けと唱えながら、彼女はそっと寝台に体を滑り込ませる。固い寝台を覆うひんやりとしたシーツの感触が、彼女の熱っぽい頭を少しだけ冷ましてくれるようだ。

 横たわった彼女の目の前に、きらりと光る物があった。

 彼女は細い腕を伸ばし、それを手に取る。

「……これは、あのときの?」

 ロザリンデはシーツからはい出て、その栓を抜く。中からは思考をもとろかすような甘ったるい香りがした。その香りは露天商の言っていた、魔法の証拠とやらだった。

 彼女の好奇心が再び動き出す。

 惚れ薬程度で揺らぐ信念ではないぞ、と自身に念じて、小瓶を小さな唇に触れさせる。

「ルロイの言うとおりならはちみつ……。そうじゃないなら……」

 こくり、と小さな音を立てて飲み干すと、甘い香りと言い知れぬ熱気が彼女を襲った。


「お。兄ちゃん、待ちぼうけかい?」

「おわっ!」

 手すりに剥き出しの上半身を預けてぼんやりとしていたルロイの脇腹に、生温かい息が降りかかる。彼はそれに反応し跳び退った。

 それを見て、酒瓶を持った男はいやらしい笑いをにたにたと浮かべた。だらしない口元からは、言わずもがな酒の匂いが漏れていた。ルロイはその悪臭に顔をしかめながら答える。

「……まあな」

「兄ちゃん、色男だからな。今夜はお楽しみだあな?」

 濁った瞳で探りを入れてくる男に、ルロイは不快感を覚えた。小汚い男の隠喩で茶化されるくらいなら、彼の気の置けない友人に直接的な言葉で言われる方が、まだましだった。

「なっ……そんなことするかよ! おっさんこそ、さっさと寝ろ!」

 むきになって反論する青年を見て、男は豪快に笑った。

「うぶなさまを気取ったって無駄よ。据え膳食わぬは何とやらだ」

 酔っぱらいはそう言い残し、腰を曲げたまま、えっちらおっちら、自身がとっているだろう部屋へと入っていった。

 後に残されたルロイはばつが悪くて、扉が閉まる音が消えると共に、軋む床に一発、踵を打ち込んだ。それでも乱れた気持ちは収まるところを知らず、彼は右手で自身の頭を掻きむしる。

 そう、今の状況は、彼の同室の友人が常々話していた「据え膳」という状況だということは、ルロイにも理解できていた。

 いつだったかの夜、彼が酔っぱらって、深夜に帰ってきたときの言葉が思い出される。

 友人ヒューゴは自身の寝台にうつ伏せになって、子供のように足をばたつかせながら言った。

「夜にさ、満室の宿屋で運良くとれた一室に、女の子と二人っきり……。女の子がくったり寝込んでいる、一台しか無いベッドにそっと入るんだ……。はあ……据え膳って、ほんと、憧れるよなあ……」

 話しぶりから、そんな一夜を過ごしたのかと思い、どきどきしながら身構えていたルロイだったが、最後まで聞くと、それは結局、憧れの混じった妄言だった。大いに肩透かしを食らったのでひと思いに殴ったことも思いだされた。そしてルロイは、移り気なヒューゴの真の思い人である妹のスクラータを、絶対に彼に嫁がせるものかと、心に固く誓ったのだった。

 ルロイという男は、実直で一途な男だった。潔癖と言っても過言ではない。

 それゆえに、性的な視点から女性を見ることを極端に嫌った。

 だが、哀しいかな、男の性には逆らえず、発育の良い女性の体を常に意識してしまった。

 そう言う時、彼は、赤面ののち努力して視線を逸らした。未発達な、妹と同じくらいの少女ならば気楽に対応が出来るのに。

 彼はふと気付いた。

 リュリには、何故かぎくしゃくしなかったことを。彼女が、他の女性とどう違うのか、彼にはよくわからなかったけれども。

 そして思考は、彼女を救いに単独で城内におもむいたアルフレッドの心配に及んだ。

 果たして彼は無事なのだろうか?

 と、彼は体温が下がってきたのか、一つ体を震わせた。八つの鐘が鳴ってから、ゆうに二十分は経っていた。いい加減、彼も何か一枚体にはおりたいと思った。

「ローズ……もういいかな?」

 ルロイは扉に向きなおり、そっと扉を拳で叩く。

 小さな扉は、軽い力でも十分にその音を響かせた。

 少し待つ。沈黙が聞こえるほどに集中して。

 しかし内側からは何の反応も物音も聞こえなかった。

「……あれ?」

 再度叩く。

 けれども、一向に少女の返事は無い。

 心配になったルロイは意を決して、そっと扉の取っ手を握った。

 刹那、彼の思考が渦巻きはじめる。

 もしも衣装を着替え終っていなかったら、彼女のあられもない姿を見てしまうだろう。太い血管が力強く脈打ち始める。

 彼の緊張感とは裏腹に、扉はかちゃりという軽やかな音を立てた。

 慎重に部屋に入ると、少女は寝台の上で仰向けに横たわっていた。

 彼はそっと張り詰めていた呼吸を緩める。ゆっくりと胸板が下がる。

「なんだ……寝てたのか……。ん?」

 ルロイがほっとしながら、自身の寝巻を片手に少女の横たわる寝台へ近づく。

 すると彼の耳に、穏やかとはいえない呼吸音が聞こえてきた。

「ちょっ……ローズ、大丈夫か!」

 様子がおかしい。

 再び緊張感を取り戻すと、彼は注意深く観察した。

 頬が不自然に上気して紅く、膨らみきっていない胸元は苦しそうに大きく上下している。

 ふと、主張していない胸元に視線が集中してしまう。少女には大きすぎる寝巻ゆえ、今にも肩を滑り落ちてしまいそうだった。少女の胸元を見ないように、慌ててルロイが彼女を抱き起こすと、その体は熱を帯びていた。

 少女の黄金の瞳がゆっくりと回りルロイを捉えると、彼女は彼の腕を握った。

 その手も、ほんのりと赤みがさしている。

 彼女は上ずった声で、ルロイに返事をした。

「ルロ……、うごけ、ないの……。……体中が、どきどき、するの……」

 高めの声が舌っ足らずになり、それは彼女の幼さをより強調した。

 はあ、と一つため息をついた彼女の呼吸からは、ルロイの知っている匂いがした。

 彼があたりを見回すと、寝台の横にある机の上に、先程銅貨二枚で購入した、惚れ薬と謳われた物の入れ物があった。

 彼は少女を腕に抱きながら、左腕を伸ばしそれをとる。

 そして、小瓶の底に残っていたほんの一滴を舌の上にのせた。つんとしたはちみつの香りと甘さ、そのすぐ隣から灼けるような熱さが訪れる。それははちみつ酒だった。

「強いな、美味いけど。ずいぶん、凶悪なお薬だこって。ローズ、俺、水持ってくるから……」

「ん……」

 ルロイがそっと彼女の顔を覗き込むと、少女は切なそうな声を出した。

 それと、紅潮し、うっとりとしたような潤んだ瞳が相まって、ルロイの心臓を突き刺した。

 これはまるで、ヒューゴの言う、無防備な女性の寝込みを襲う据え膳よりも、恐ろしい何かなのではないか、と彼は思った。

「……くるしいの……こわい……。一緒に、いて……?」

 少女はその細い腕を、再び寝台へ横たえようとするルロイの首に巻き付けた。

 息を荒げる愛らしい少女の、いきなりの行動に彼は眼を白黒させる。

 廊下に居る間にすっかり冷え切った彼の肉体に、少女の高い体温が、その体の柔らかな感触と共に伝わる。

 触れたところから蕩けてしまいそうな心地よい感触に、彼は一瞬、浸ってしまった。

 見た目にも細い少女なのに、その体のあちこちがふんわりと柔らかい。

 彼女の背中をそっと支える左手から、彼女の早鐘のような鼓動が感じられ、ルロイの心臓もそれにつられそうになる。

 本能は、少女との接触に咆哮を上げた。

 しかし、彼は理性を楯に、彼女を自身の体から無理矢理に引き剥がした。

「だ、だから、水、水を飲めば治るから……」

「……やだ……」

 そう言うと、彼女はルロイの腕の中からベッドの上へと、勢いよく倒れ込んだ。

 うつぶせになって赤く染めた足をばたつかせるその様子に、ルロイは見覚えがあった。

 それは彼の友人がすっかり酔っぱらってしまったときにする行動に似ていた。

 ルロイはほっと胸をなでおろす。

「……なんだ。ただの酔っ払いか……。ルロイ、冷静になるんだ。落ち着けー、落ち着けー。よーし、今のうちに……うおっ!」

 自身をなだめた彼が少女に背を向け、立ち上がろうとした瞬間。

 それは彼の意思に反して妨害された。

 すっかり酔っぱらっているローズが、全体重を彼の上に乗せたのだ。

 ささやかなふくらみが、彼の背中に押しつけられる。

 見た目よりもずいぶん柔らかいなと彼は思った。

 しかし、思った傍からそれを意識しないようにと、必死に別のことを考えた。

 相手は少女で、酔っぱらいで、水が必要で。

 水を飲ませてすぐに寝かせれば、どうということは無い。

 ルロイは瞳を強くつむり自身に言い聞かせた。

 一方のローズはというと、先程の苦しそうな様子から一転し、何が楽しいのかけらけらと笑っていた。

 ルロイはそれを恨めしく思った。こんなちびっこに振り回されている自分が悔しい、と彼は首を落とす。

「えへへ~……ゆだんした? ねえ、ゆだんした?」

「……はいはい。油断してたから。退いてくれね?」

 ルロイは巻き付けられた白い両腕を、解いてくれるまで待とうと思った。

 もっちりとした両腕に触れてしまったら、自身の理性が保てるかどうかわからなかったのだ。

 紳士的なルロイの意図になぞ全く気付かず、ローズは口を尖らせる。ついでに真っ赤な頬も膨らむ。

「やだ!」

「まったく……。苦しいんじゃなかったのか?」

 呆れるルロイに対し、彼女はきゃっきゃと嬉しそうだった。

「へーき! たのしい!」

「答えになってねえぞ……。ほんと、ただの酔っぱらいだ……」

 この調子なら、水は要らなそうだなとルロイはひと安心した。

 だがそう思った矢先、彼女はあろうことか、上気した頬を彼の頬にぴとりとくっつけ始めた。

「あはは、つめたくて、きもちいー!」

 上等な枕よりも弾力があって暖かく、やっぱり柔らかなそれは、ルロイの思考を停止させた。

 言葉に詰まった彼に、少女はさらに畳みかけてきた。はちみつの香りを含んだ彼女の吐息をかぐだけで、彼もなんだか酔っぱらってしまいそうな気分がした。

「ねえねえ、キス、したことある?」

「え?」

 突拍子もない質問に、ルロイはその体を硬直させた。

 だが、このままでは完全に彼女のペースに持っていかれて、行くところまで行ってしまうかもしれないと思うと、彼は気を取り直して反論した。

「ば、馬鹿なこと聞くなよ!」

 仮にしたことがあったら、いままでの不自然な女性への対応なんかない、と彼は心の中で一人ごちた。

 ルロイの余裕の無さを見てとったのか、ローズは悪戯っぽくほほ笑んだ。

「あ~! ……ないんだ? あはは!」

「……わるいかよ」

 ルロイがローズの頬から逃れようと顔を背けていると、彼女は彼に巻き付けていた両腕をやんわりと解いた。

 これで、やっと本能の誘惑から逃れられると、ルロイが全身の筋肉を弛緩させてため息をついた瞬間、彼の世界はぐるりと回った。

「……え?」

 呆気にとられた彼は、最初に天井を、その次に、覗き込んでくる少女の顔を視界に入れた。

 ルロイの頭は、何か柔らかなものの上に乗っていた。

 それにふと手をやると、それは少女の太腿であることがわかった。

 一瞬で、ルロイの顔は酔っぱらっている少女のそれよりも真っ赤になった。

 彼女の黄金の瞳が、彼の双眸を捉える。

 それは、机の上で揺れるろうそくの光を受けて、妖しく燃えている。

 薄暗い部屋の中、窓を叩く雨の音は遠ざかり、ルロイの耳には、ただ自身の早鐘のような鼓動ばかりが響く。

 おいしそうな紅い色から視線を逸らせなくなる。

「……してみる?」

 木苺のような瑞々しいくちびるが呟くのを見て、ルロイは自分の理性が限界まで来ていることを悟った。

 彼はそっと、彼女の頬に筋張った手のひらをあてがった。

 彼の手のひらがローズの頭の三分の一を覆うのを見て、なんて小さな顔なんだろうと思った。

 少女はそれを彼の返事とみなしたのか、小さな両手でルロイの頬を覆うと、ゆっくりと顔を近づけ始めた。

 その両手もやはり、愛おしさがこみあげてくるほど、小さかった。

 ローズの金色の瞳がおずおずと閉じられていく。それを、彼も無意識に真似していた。


 ルロイは、本能に促されるまま、自身のくちびるに彼女のが触れられるのを待った。

 だがその間、首の皮一枚で繋がっていた理性のかけらを動かしていた。

 彼女の望みとはなんだ?

 惚れ薬を求めるほどの気持ちはどこへ行った?

 どうして惚れ薬を、今使った?

 彼の真っ直ぐな理念が、心の底からゆっくりと浮上した。

「……こういうのは、大事な人の為にとっておくものじゃないのか?」

 刹那、ルロイの右手にしずくが伝った。

 そっと開いた栗色の瞳に、涙に濡れた少女の顔が飛び込む。

 彼女はそれを拭わず、ただ流れるままにしていた。

 しずくはルロイの頬にも降り注ぐ。

 それは、早朝に露をまとった花が、涙をそっとこぼすのに似ていた。

 戸惑うルロイに、ローズは途切れ途切れに語りだした。

「……やっぱり、無理……。すぐには忘れられないよ……ずっと、好きだったんだもん……」

 えへへ、と涙をあふれさせながら笑顔をつくって見せる少女が痛々しい。

「……そっか……。辛かったんだな……」

 少女が頷くと、しずくがまた落ちた。

 ルロイは頬にあてがっていた手のひらでそっと彼女の頭をよしよしと撫でる。

「……無理すんな……?」

 ルロイにも強がっていた時期があったと思いだされる。誰だって、強がりと混乱に満ちた本心を隠す為に、正反対のことをしたりするものだ。

 ローズは一瞬はっとしたと思うと、愛らしい顔を悲痛そうにゆがめ始めた。

「あのね……、あのね……、わらわ、知ってたの……。本当はずっと前から……」

「……なんだ? 言ってみな?」

 鼻までも赤くし、顔を泣き腫らす彼女に、ルロイは穏やかな声をかける。

 少し掠れたような、低くて暖かさのある声は、彼の最大限の優しさの表れだった。

 ローズの泣きじゃくりが激しくなる。

 話すのも苦しそうな様子に、ルロイの心も締め付けられる。

「わ、わらわ……っく、愛され、ないの……! ひっ……誰からも……うぐっ、今までも……、これからも……」

 少女は、解かっていた。

 魔術師だけでなく、乳母の愛も自身に向いていなかったことを。

 魔術師と乳母が、自分の向こうに誰かを見ていることを。

 だからこそ、自分自身を見てもらうために、わざとわがままを言ったりした。

 嫌われまいと、女王として愛らしくよそおった。

 少女の言葉は嗚咽にまみれ、その顔も涙と鼻水でぐしょぐしょになっていた。

 小さな両手でごしごしとそれらを拭うも、水分はあとからあとから、とめどなく流れた。


 ルロイはいてもたってもいられず、彼女の頭を撫でる手を止めて、慎重に起き上がった。

 そして、寝台にへたりこんで悲しみに暮れる少女の隣に腰を下ろした。

 これ以上泣くまいと、肩を震わせながら縮こまる彼女には、そのまま小さくなって消えてしまいそうな儚さがあった。

 こういうとき、どうすればよいのだろう?

 泣いている少女をなぐさめるには。

 ルロイの脳裏に、母親の若かりし時がよぎる。あのころの母はスリムだった。だが、肉体は変わらず豊満で、熱い抱擁を食らうと、子供たちの誰もが呼吸困難になるのだ。けれども、抱きしめられると、不思議と安心するのも確かだった。

 ええい、ままよ!

 ルロイはローズを抱きしめた。

 苦しくないように、包みこむように。

 彼女は驚きから体を固くした。だがすぐに、わんわんと泣きだした。

「ああ、えっと、泣いてもいいけど、あんま、泣かないで!」

 割と大きな泣き声に、ルロイは違う意味でどきどきしていた。

 泣き叫ぶ少女の所在を求めて、保安官か兵士を呼ばれて、この状況を見られたら何の弁護もできない。そして、少女の保護の後、ルロイには不名誉な称号が与えられるだろうことも多いに予想がついた。

 そんな彼の心配は杞憂に終わった。

 少しずつだが、ローズの様子が凪いできたのだ。

 だがそうなると、抱きしめている現状が意識されてくる。

 未だ寝巻を着ていない自身の胸板に、マシュマロのような頬が押しつけられている。

 沈黙が気まずい。

 彼は咳払いをした。なんとか声帯を震わせる。

「……寂しかったよな、独りはさ……」

 ルロイの腕の中で、少女が小さく頷く。

 彼の孤独の記憶が、断片的に脳裏によぎる。

〈力のギフト〉が現れたときのこと、妹に母親を独占されたこと、〈孤児院事件〉で濡れ衣を被ったこと。

 彼はそれらをぎゅっと噛み潰し、言葉を紡ぎ出す。

「……つらい時って、周りが見えなくてさ。独りぼっちだって思いこむけど、あとあと考えると、そう言う時、いつも誰かが傍に居てくれたような気がするんだ……」

「そばに……?」

 真っ赤な瞳がルロイを見上げる。

 怯えたような瞳と、震える小さな体。

 うさぎみたいだ。

「ああ。例えば、今のローズには、オレが居るだろ? こんな感じで」

 ルロイは、ここぞとばかりにぎゅっと抱きしめてやった後、彼女に笑いかけた。

 暖かな抱擁に、少女の心がじっくりと解れていくような感じがあった。

 ぶっきらぼうなもの言いをするのに、嫌われるかもしれないという恐怖を感じさせない。

 少女は、優しさそのものに包みこまれているような気分で、彼の胸に頭を預けた。

 ルロイがどぎまぎしながら彼女を見ると、もごもごと何かを言ったようだった。

 その声があまりに小さくて、ルロイには聞き取れなかった。

「ん? なんか言った? もう一回、言って」

 すると彼女は、口を尖らせて上目遣いにルロイを見た。

「あなたは……愛してくれる……の?」

「な? え! うそ、そっちにつながるの?」

 彼女の愛する、という言葉を深読みしたルロイは、ローズを抱きしめる腕をぱっと離し、慌てふためいた。

 急に照れたり、真面目になったり、あわててみたり。変な男だと少女は思った。

 すると少しだけ、腫れた顔に笑みが戻る。

 緊張のせいか少し汗ばんできた彼に、今度は彼女から抱きついた。

「……責任、取ってよね」

「え、なにそれ! オレ、何もしてないのに! あ、えっと、やましいことはなんにも考えてないからな!」

 ルロイが真っ赤になって反応するのが、ローズにはだんだんと面白くなってきた。

「あなたの言う、その何か……。してもいいわよ、ルロイ。あなたならね」

「だめ! そういうのは大人になってから!」

 急に態度を翻してきた少女に、ルロイはたじろぐ。

 前の恋人を忘れるために何かをするつもりなら、まっぴらごめんだと、彼は強く思っていた。

「あら、わらわは成人しているわよ?」

 こんなやり取りが前にもあったなと、少女は思い出す。

 しかし今は、子供扱いをされても、それほど嫌な気分にはならなかった。もちろん、リュリに言われてもそうだったが。

 ルロイはかたくなにローズの誘いを拒み、あわよくば改心させようと力説し始めた。

「仮にそうだとしても! 恋人同士じゃないと、そう言うのはしちゃだめなんだぞ!」

 恋人同士ならばよい、という理論に、少女は心の中でもろ手を挙げて賛成した。

 彼の誠実な意見は実に好感が持てるわ。

 ジークフリートに抱いていた、ある種の憧れじみた恋心は、その一生を終え土に還り、新しい恋の若葉を芽吹かせていた。

 酒気も穏やかに抜け、少し腫れの残る少女の表情は、不思議と晴れやかだった。

「……わらわのこと、好き?」

 小首を傾げて見上げてくる少女に、ルロイは言葉を詰まらせた。

 この夜だけで、何度この上目遣いに心臓を射抜かれたかわからなかった。

 彼は嘘のつけぬ男だったので、悔しいが、素直な言葉で返すほかなかった。

「……か、かわいいとは思うけど……」

「わらわもルロイのこと、かわいいと思うわ。じゃあ、これでいいかしら?」

 にっこりと余裕たっぷりに、少女はほほ笑む。

「よくない! ほら、やっぱり一緒に過ごした時間とかって、大事じゃねえ?」

「さっきから一緒よ? これから、ずっと一緒にいればいいんじゃないかしら?」

「オレ、寮住まいだし、寮から出ないことにはなあ。書類って何がいるんだろ……はっ!」

 ルロイは、気がつけばローズに丸めこまれそうになっていた。

 彼に腕をまわしたままの彼女も、あることに気付いたのかその顔を輝かせていた。

「書類を出せばいいのね。じゃあ、明日から私の騎士さまになってくださる?」

 突飛な発案に、ルロイはがくりと体勢を崩す。

 一体彼女は、どういう思考回路を持っているのだろうか?

 しかし、話題がそれて行くのは大いにありがたかったので、彼は少女の話に乗った。

 このまま、恥ずかしい展開から遠ざかってくれますように。

「はあ、ずいぶんロマンチックな提案だなあ。お姫さまごっこはいつ辞めるんだ?」

「姫と呼ばれるのはもう終わっちゃったわね。今は女王陛下よ」

 取り立てて大したことではない、というような口調でさらりと言ってのけたので、ルロイは彼女がほらを吹いていると思い、いい加減にあしらった。

「へー。そりゃまた、でっかくでたな」

 大した驚きも見せず、それどころか疑いの視線をくれるルロイに、ローズは苛立ちを見せた。

「……撤回。今日から騎士に叙任するわ。書類は後からどうにでもなるし」

「はいはい、女王へーか」

「へーかはだめ! ロゼって呼んでくれないと」

「……呼ばないと、どうなる?」

 意地悪く口の端を持ち上げたルロイに、ロゼも負けじと策を打った。

 ルロイに巻き付けていた両腕をおもむろに解くと、彼女は自身の寝巻の裾をじっくりと焦らすようなそぶりでゆっくりと持ち上げ始めた。黄金の瞳は、じっとルロイの栗色の瞳から離れない。

「……この寝巻が無くなるわよ?」

「やめて! 落ち着いてロゼちゃん!」

 ルロイは必死にロゼの両腕を抑えつけた。

 彼は少女が寝巻の下に何も着ていないことを知っていた。

 そう、部屋に入った時から、その視界の隅に、彼女の脱ぎ散らかした衣服がずっと見えていたのだ。

「よろしいです。さ、寝ましょ。明日も早いし」

 彼女は満足げにほほ笑むと、寝台のシーツをぐいっとひっぱり、自身とルロイの上にかけ、ころりと横になった。

 ルロイがそこから音も無く出て行こうとすると、彼女の手が彼のベルトを引っ張った。

「……一緒に寝ないの?」

 有無を言わさない彼女の口ぶりに、ルロイはとうとう折れた。

「……着替えてくるだけです」

「うん! 待ってる!」

 嬉しそうにしやがって、とルロイはそっと心の中で独りごちた。

 しかし、彼女のわがままには、不思議と気分が悪くならなかった。

 寝巻にやっと着替えられたルロイが寝台に体を滑り込ませると、少女はそっと寝返りを打ち、彼の隣にぴったりとくっついた。

 彼が体を硬直させて少女の様子を窺うと、彼女はささやかな寝息を立てていた。

 彼は、ゆっくりと息を吐き出した。

 この夜だけで、緊張と弛緩をいくつ繰り返したのか、数えられなかった。

「……なんだ、驚かすなよな……」

 瞳だけを下に動かす。そこに見える無防備に眠る少女の表情は安らかで、それを見るルロイの心もじんわりと温かくなった。

 そっと、小さな頭を撫でてやる。

 小さく身じろぎをしたローズは、良い夢を見ているのか、その口角をわずかに上げた。

 少女の高い体温を感じながら、彼も夢の中へと入っていった。


 翌朝。

 彼は息苦しさを覚え、覚醒した。

 目やにでなかなか開かない瞳を擦りながら開くと、彼を見据える二つの瞳があった。

 あまりに驚いた彼は動けずにいた。

「おはよう、騎士さま」

 嬉々とした様子で彼の上に乗っていたのは、自称・女王陛下だった。

「光栄に思いなさい。わらわに起こして貰うなんて、誰もされたことがないのよ?」

 泣きぬれた夜から一晩経ったのにもかかわらず、少女の頬はほんのりと薔薇色に染まっていた。おまけにその瞳もきらきらと輝いている。潤んでいると言っても過言ではない。

 彼は遅まきながら気づいた。

 少女がルロイに、恋をしたことに。


 二人は宿を出ると、雨で洗われた空気を胸一杯に吸い込んだ。

 心なしか、青空がいつもより透明感を増しているように見える。

 あたりへ首を回すと、二人同様に、住民たちも気分が良いのか、街並みを飾り付けていた。

「今日は女王さまのお誕生日かあ……」

 街並みを彩る旗や飾りに気付いたルロイが呟くと、ロゼはつまらなそうに答えた。

「……そうね」

 きゅっと、マントを握りしめる少女。未だに彼女がうそぶいていると思っているルロイは、ほんの悪戯心から意地悪を言ってみた。

「準備しなくていいのか、女王陛下?」

「いいの」

「まだ女王ごっこをしてるのか、ロゼ?」

「……そうだったらいいなって、思うわ」

 てっきり威勢よく反駁してくるかと思いきや、俯いてしおらしく答える彼女にルロイは肩透かしを食らう。

 強引だったり、急に大人しくなってみたり、変な少女だと彼は思った。しかし、そこがなんとなく気になるところでもあった。

 そのとき、すっと、二人の前を端正な顔立ちの男が横切った。煤けたような金髪が、朝日に煌めくのをルロイは見逃さなかった。彼は、その見覚えのある後姿を、まず視線で、そしてその足で追った。急に歩き出したルロイに、ロゼは慌てて声をかける。

「ちょっと、ルロイ! どこにいくのよ?」

「ごめん、ロゼ。ここで待ってろ」

 振り向きながら残されたルロイの言葉に、彼女はかぶりをふった。軽やかな足音を立ててルロイを追いかける。

「いや。一緒に行く!」

 彼は振り向きながら、わかったというふうに白い歯を彼女に見せると、その左腕を彼女に差し出した。ロゼは顔を輝かせてそれを受けた。

 ルロイの追う男は、ゆっくりと大股に大通りを進んでいく。お披露目の当日ということもあって、人通りは少なくないのにも拘らず、彼は華麗に人々の間をすり抜けてゆく。

 二人は彼につかず離れず付いていった。しかし、彼はある一瞬から、急に歩く速度を速め、細い路地に入りだした。気付かれたか、とルロイは危ぶむ。二人の足も速まる。

 幾つも角を曲がった、人気のない裏路地で、彼は背を向けたまま立ち止った。

「私に、一体どんな用事がおありでしょうか?」

 聞き覚えのある声に、ルロイは確信をもった。

 彼だ。

 こんなところで巡り合うとは、と思いながら、ルロイは悪びれずに答える。

「あんまり知り合いに似てたもんだから、もしかしたら、と思ってさ」

「へえ。他人の空似、ということだって十分にあり得るのに?」

 男の冷徹な返しに、ルロイは怯まなかった。握るロゼの手に力が入る。

 不安がっている。

 彼は少しだけ握り返してやる。

 大丈夫だ、何があっても。

 そう伝えるように。

「ああ。俺は、あんたのことをずっと忘れない」

 ルロイはそっとロゼの手から左手を抜き取ると、その手を男の肩にかけ、力ずくで彼を振り向かせた。

 男の水色の瞳が、ルロイの険しい視線をまともに受ける。

「リチャードさま、いや、今はリヒャルト、って呼べばいいのか?」

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