一、瑞花は花嫁のもの
王都エルンテには、貴族の別荘たるアパルトマンがあった。
ボーマン伯爵家もその例にもれない。
柔らかな桃色と白の配色が典麗な建物の入り口、まっすぐに立つ二本の白い柱が守る扉から、インヴァネス・コートを着こなした男が颯爽と現れた。
ひと束ねにしたくすんだ金髪が、太陽の光を喜んでいる。
目の下に隈のある彼の立ち居振る舞いは凛としていて、たくましい体躯にふさわしい、堂々としたものだ。
「サナは?」
「くたびれて眠ってますよ。あの子にも〈ギフト〉があるなんてあたしゃ知りませんでしたよ」
「だが、おかげで助かったな。さあ、ハンナ。ユーシィを頼んだぞ」
「はい、坊ちゃん。いえ、旦那さま」
彼の乳母が深々と頭を下げるのに、現ボーマン家当主――にいつのまにかなっていた――アルフレッドが微笑んだ。
白カラス――イグナートの言うように、この世界には何らかの変革が起きてしまった。
その例をあげるのは、意外と簡単だった。なぜならその変化と言うのは、アルフレッドの身の回りにだけ起きていたからだ。
たとえば、アルフレッドの肩書だ。
本来の彼の記憶通りならば、彼はボーマン家の嫡男ではありつつも、伯爵として正式に女王に認められてはいなかった。
だがこの世界では、リチャードの失踪から現在にかけて、アルフレッドは心を失った未亡人を保護する若き伯爵、ボーマン家を支える豪傑として名をはせていた。
これは事実だが、本人は噛み合わぬ二重の記憶にさいなまれていた。
そして、肝心のアルフレッド自身の縁談は、義姉の豹変などのどさくさに紛れてすっかり無くなっていた。
そもそも、女傑ユスティリアーナの存在があり得なかった世界だ。
彼女の武勲やこれまでのアルフレッドに対する縁談のすべてが無くなるのは至極自然な成り行きである。
もちろん、あんなに忌み嫌ってきた舞踏会を運営してきたのはアルフレッドということになっていた。
全く身に覚えのない、踊り狂いの日々の記憶がいくつもよみがえってくるのは、彼にとって大変不快なものだった。
あんなにも彼を責め立ててきた縁談だったけれども、今となっては肩の荷が下りたと軽くあしらえる、その程度にしか思わなくなっているのは、彼にとってなんとも不思議に感じられた。
今、そんな彼のはらわたは、確かな熱を持って煮えたぎっていた。
それは彼の高らかな靴音がはっきりと証明していた。
世界の全員が全員、アルフレッドのことをだまそうとしているのだとしたら、その利益は何だろうか。そんな微々たるもののために、大きな嘘を重ねるとは考え難かった。
それよりも、しゃべる白カラスこと魂だけの存在になった賢人イグナートの説明のほうが、納得がいく。
何者かが、時を超えて変革を起こした。
誰が、と問うには、すべてがリチャードに結びつきすぎていた。
「兄貴……。時間を旅して、一体、何を変えたんだ? ユーシィがああなったのは、あいつの望みだったのか?」
時間旅行を果たした結果、歴史が人の手で書き替えられる。普通に考えれば、あり得ないことだ。けれども、とアルフレッドは唾を飲み込む。
俺たちの〈ギフト〉だって、もしかしたらあり得ないことなのかもしれない。
ふと、青年は数多の可能性に思いを馳せてみた。
「〈ギフト〉は神さまからの贈り物……か」
それならば、恋に落ちる相手と巡り合うのも〈ギフト〉ではないか。
大真面目にそう思案したアルフレッドは、急に我に返って頭を掻いた。
耳が熱い。
己のロマンティシズムが呪わしい。
恥ずかしさに顔面がひくつくのを、手の甲でごしごしとこすった。
彼がそうしてたどり着いたのは、先日まで彼が寝泊まりしていた宿屋だった。
離れの厩から、一頭が鼻をもたげた。
栗毛とつぶらな瞳の愛らしい顔つきの愛馬に、アルフレッドは眼を細めた。
開きっぱなしの玄関で、花壇に水をやっていた女将が腰を伸ばして彼を迎えた。
「あら、朝帰り? おかえんなさい! ……あれ、お客さん、その格好―?」
「後で説明する」
女将がきょとんとするのを振り向きもせず、ずかずかと屋内に踏み入ったアルフレッドは、ある部屋にたどり着くと躊躇なく扉を開けはなった。
栗色の髪を逆立てて、ベッドに横たわっていた青年がびっくりして起き上がった。ルロイだ。
「なんだ! ……って、アル? いままでどこに――?」
「やっと考えがまとまったんでな」
一晩いなかったと思いきや、急に礼装になって現れたアルフレッドにルロイは目を丸めた。
「いや、ちゃんと話をきかせてくれないと、わかんねーって!」
「これを見ろ」
「ん? なにこれ?」
ルロイは突き出されたカードをもぎ取った。
つまらなそうにだらけていた顔が、みるみるうちに引き締まり、そのうちにぐんにゃりと歪んだ。状況が状況なら、さすがのアルフレッドでも笑い出したであろう、道化のような顔つきだった。
「リュリちゃんの、結婚式の招待状ぉ? いいのかよ、アル!」
「悪いに決まってるだろう!」
「アルとユスティリアーナさまを招待するって、馬鹿にしてんのか? しかも、女王さまの御披露目が終わった後だって! 今日が十九日だろ。成人の儀だっけ、それが二二日だから……。あと三日しかない!」
「その前に、助ける」
口を思い切りひん曲げる青年と、太い眉を寄せに寄せる男が、顔を突き合わせる。
「ちょっとまって。オレ、頭痛くなってきた。やること多くねえ? 時間を超えたリチャードさまを見つけるだろ、そのためにはジークフリートからなんちゃらって楽器――」
「〈時の竪琴〉だ」
「それそれ。竪琴をくすねなきゃならないだろ。あー、でもその前にリュリちゃんを助けてあげないといけないし。だから、えっと、魔術師はぶん殴る!」
ルロイのトンデモ論理が組み立てられたが、それは砂れきの城よりもたちが悪かった。そもそも、手順がバラバラなのだ。
「兄貴――って言っても、いくつの兄貴かはわからないが、とっつかまえて、真実を聞きださないと気が済まない。あと、魔術師を殴るのは……悪くないアイディアだな」
めずらしくニヤリと悪い笑みをしたアルフレッドは、コートを着たままどすんとベッドに腰を下ろした。そして長い脚を組む。
「ジークフリートは見せつけのつもりかもしれないが、策におぼれたな」
ルロイが、どこか余裕を見せるアルフレッドに首をかしげる。
「どういうこと?」
「三日間だ、ルロイ。それまでにリュリを連れ出せばいいってことだ。要するに――」
金髪の青年は、かつてそうしていたように悪戯っぽく白い歯を見せびらかした。
「俺たちには時間がある。画廊のリヒャルトを捕まえるだけのな」
御披露目を二日後に控えた六月二十日、少女たちはロザリンデの部屋で最後のお茶会を開いた。もちろん主催者は、間もなく十六歳になる女王だった。
彼女は公の場に臨むにあたって、自室に引き篭もることを元老院に伝えた後、自室に戻った。
ロザリンデは一週間前の失恋もなんのその、新たな一歩を踏み出そうと元気を振り絞っていた。それが、から元気であることは、誰の目にも一目瞭然だった。
リュリは自身が元凶だと思うと、彼女にかける言葉をどうにも見つけられない。俯きがちな妖精に、女王は高らかに言い渡した。
「リュリ、作戦の確認をするのじゃ。こういうものは仕上げが肝心なのじゃ」
「陛下、お言葉が」
サナはいつもと変わらず、髪の毛を二つに結んでおり、無感情な声で指摘する。しかしその口角はほんの少し上向きに修正されていた。
「わ、わかってるわよう、サナったら意地悪ね」
サナが城内の地図を机の上に広げる。彼女と同じ女中の衣装を身にまとったリュリは地図上の女王の部屋を指さしながら言う。
「ロゼちゃんは、明日の日暮れにサナちゃんと城下町。私は自分の部屋で朝までお兄ちゃんの相手……。城内が混乱したころに私も逃げる。そのとき、サナちゃんがお兄ちゃんを足止めする……だよ、ロゼちゃん」
リュリの腹の底から、深く長いため息が沸き起こる。夜、二人っきりでシュウと居れば、また例の如くリュリのことを辱めようとすることが眼に見えていたからだ。
リュリには、あの恥ずかしい行為を始めようとしたがる、彼の気持ちがわからなかった。血は繋がっていないといえども兄妹なのだから、そんなことは意味がないと思っていた。しかし、そんなことは、ロゼの手前言えたものではない。やるせなさに、もう一つため息が出てきた。
「でもわたし、朝までお兄ちゃんと、一体何をしてたらいいの……」
対するロザリンデはあっけらかんと答えた。
「あら、そんなの簡単よ。ジークフリートの昔話でも聞いてればいいじゃない。あなたしか聞き出せないわよ、多分」
サナもそっと頷いて同意して見せる。
「確かに、知りたい。わたしの過去も全部、お兄ちゃんが知ってるんだよね……」
リュリは、『白金の小鳥作戦』の確認が済んだその後、女王所蔵の恋愛小説から引用された『男性に対するいじらしい態度について』の講座を一時間ほど受けた。
サナは、リュリが気付いた時にはすでに居なくなっていた。
力説するロザリンデには悪いと思いつつ頭痛がしてきたリュリは、彼女に詫びを入れ、新鮮な空気を求めて廊下をふらふらと散歩した。
ぼんやりと歩くうちに自身の部屋のある塔を登り切ってしまった彼女は、思い切りその部屋の扉を開けた。
すると、そこには糸紡ぎを回す中年の婦人が座っていた。
眼を合わせたままの二人をよそに、糸紡ぎはカタカタと回り続けた。糸がその勢いでぷっつりと切れてしまうと、二人は我に返ってあたふたとした。
「あ、あの、私の部屋かと勘違いして! ごめんなさい、邪魔をして!」
「どうってこと、無いのよ。またより直せばいいことだし……」
年齢による皺は刻まれているものの、美しい婦人だとリュリは思った。しかし、どこかで見たような気分がして、リュリがじっと見ていると、糸をよっていた女性はその視線に気付き、にっこりして見せた。
どこか無理して作ったような笑顔に違和感を覚えたリュリは、はっとして宮廷式の礼をした。
「あ、挨拶してなかった! わたし、リュリです」
そう言ってリュリが勢いよく頭を上げると、目の前の女性は、瞳にあふれんばかりの涙を浮かべていた。
それを見て、リュリは多いに困惑した。たしかに彼女の作業の邪魔をしてしまったが、涙腺を刺激してしまうほどの衝撃を与えたつもりは無かったからだ。
泣くほど、傷つけちゃったのかな。
「リュリ、ファイナのところまで行くだなんて。散歩にしても遠すぎるわよ」
戸惑うリュリの後ろから、ロザリンデがひょっこり首を出した。
彼女は自身の乳母の尋常ならぬ様子に気付き、駆け寄った。
「おかあさん? どうしたの? 具合でも悪いの? 医者を連れてくるわ! リュリ、おかあさんのことよろしくね!」
ロゼはそう言うと、リュリの脇をすり抜けて階段を駆け下りて行った。
あっけにとられたリュリは、言われたとおりにロゼの乳母の横にそっと寄り添った。
なるほど、ロゼの母ならばその容貌に覚えがあるのも頷けた。
「ロゼちゃんのお母さんだったんですね。気を確かに!」
ファイナは彼女の肩を抱くリュリを見、口元を押さえ嗚咽を漏らし始めた。
「リュリ……ありがとう……やさしいのね……」
ファイナは、ロザリンデが戻ってくるまで、静かにむせび泣いた。
その理由はリュリには計り知れず、彼女の背中をそっとさすり続けることしかできなかった。




