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【完結】純白の抒情詩《リューリカ》  作者: 黒井ここあ
第三章 その夢は誰が為ぞ

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八、陣貝は高らかに

 ボーマン邸を出て三日目、日付は六月十七日。

 二人の男は沈む夕日に見守られながら、ヴィスタ王国の首都エルンテの門前に立った。

 アルフレッドが、帽子を左手で支えながら顎を上げる。

 その視線は、ヴィスタの城の象徴ともいえる二つの塔を求めていたが、城壁に邪魔され、見ることはかなわなかった。

 先程越えてきた、じゃがいも畑の丘からは良く見えたのに、とアルフレッドは残念に思った。

 もしかしたら、塔の窓辺から、もはや懐かしささえ感じるあの銀色の流れが見えるのではないかと期待したのだった。

 だが、窓辺どころか尖がった屋根の先さえ、ここからは窺い知れなかった。

「あれ、ルロイ? お前、いつの間に城から出てった?」

「あはは、すいません、ジェラルドさん。挨拶もしないで出てきちゃって……」

 アルフレッドの耳に、ルロイの明るい声と、少しだけ酒焼けしたような野太い声とが聞こえてきた。横目で窺うと、声の主は番兵の一人の物で、話しぶりからするに、二人はどうやら知り合い同士らしかった。

 警戒は怠らないのがアルフレッドだった。

 距離をとりながら様子を窺う。右手は愛馬の手綱を固く握りしめていた。

 交渉をしているにしては緊張感が無いな、と彼が思った矢先、番兵は腹の底から笑いだした。彼の、ビールで肥えたであろう下っ腹の上で、鎖帷子が濁った音を立てる。

「へえ、ルロイの従兄ねえ! 色男が、方向音痴とは可哀想になあ!」

 口元のひげを整えながら、番兵はアルフレッドの方をにやにやと見やる。

「誰が方向……」

「そうなんですよ! 馬が道を知ってるくらいでさあ! こう、いつも手綱を離せないわけ! だからこいつを連れてくるために、オレも村と城を往復する羽目になっちまったんです」

「いや……」

 アルフレッドは一歩踏み出し、笑い合う二人の兵士の間に割って入ろうとしたが、少しくぐもった彼の声の上にルロイが被せてきたため、反ばくの機会は失われてしまった。

「馬の方が利口か! 気の毒になあ!」

 番兵が歯茎を見せながら、元気出せよ、と毛むくじゃらの腕でアルフレッドの背中を一発叩いた。太い腕から繰り出された一発に、彼の肺の中の空気が強制的に外に出され、アルフレッドは少しむせた。

 と、エヴァンジェリンがそっと、アルフレッドの頬にその鼻先をこすりつけてきた。反射的にその顔を撫でたアルフレッドは彼女が言わんとすることに気付き、ルロイに耳打ちした。

「どこか、エヴァが休めるところは無いか? 不安がっている……日が落ちるまでに厩に入れてやりたいんだ」

 ルロイは返事の代りにと、満面の笑みをアルフレッドに返した。


 番兵の勧めに従い、二人は厩のついたブリューテブルク城にほど近い宿屋に部屋を取った。

 城下町エルンテは、城に近い建物ほど、立てられた時代が古い。厩付きということもあって、宿の中には異国風の出で立ちが目立っていた。女王の御披露目―この祭りに乗じて出店する商人だろうとアルフレッドは推測した。

 彼はその相貌を見せまいと、ぐいっと帽子を目深に被り直し、足早に部屋に向かった。

 アルフレッドのひたいまでしか無い戸口から部屋に入ると、窓口で受け取ったろうそくの炎を室内のろうそくに移す。

 照らされて見えたのは、大の男二人が寝泊まりするには小さな屋根裏部屋だった。

 ルロイが自身の革鎧を脱いでいる間に、アルフレッドはさっさとブーツを脱ぎ棄てた。

「従兄で、方向音痴で、馬の方が利口ときた……」

 アルフレッドは寝台に自身の体を背面から投げ出した。体重を受け止めた証拠に、寝台とその床が軋んだ音を立てた。

 いつも通りの仏頂面で呟く彼に、鎧から解放されたルロイは真正面から必死に謝った。

「悪い! なんていうか、その、とっさの思いつきで……」

「……それにしては、楽しそうだったな……」

 ころりと寝返りを打ってルロイから体ごと顔を背けるアルフレッドに、ルロイはがっくりと肩を落とした。とぼとぼと歩く背中を橙色のろうそくが照らし、彼自身よりも大きな影が屋根裏で揺らめく。

 それをぼんやりと眼で追いながら、アルフレッドは思案を巡らせていた。善は急げとボーマン邸を飛び出してきたものの、いつの間にか白カラスの姿は無いし、リュリを連れ出す決意はあれども、作戦など無かったのだ。

「……さて、どうやって城に入るか……」

 アルフレッドが一人ごちた、その言葉に同意するように、ぐぐうと大きな音が部屋中に響き渡った。しばしの沈黙が過ぎ、自身の寝台に腰掛けたルロイが気まずそうに口を開く。

「……なあ、アル……」

「今から食堂に繰り出す気力は無いぞ」

 アルフレッドは覚えていた。窓口に据えられた時計が、深夜に向かって刻々と針を進めていたのを。だが三日ぶりにブーツから解放された両足はむくみきっており、休息を欲していた。

「そうだよな……。それに、今の時間じゃ、どの食堂もパブになってる……」

 ルロイの力ない声に、アルフレッドは少しだけ含み笑いながら答える。

「朝のパン屋に期待するんだな」

「それ、良いな! そうしよう、じゃあ、おやすみ!」

 ルロイは打って変わって明るい声を上げると、靴を脱ぎ捨てたらしい二つの音と共に寝台に潜り込んだ。

 彼の単純さに苦笑をこぼしながらも、アルフレッドの表情は穏やかなものだった。

 ルロイの真っ直ぐな瞳や行動は弟分じみていて、アルフレッドからみれば、かつての自分のように思われた。

「ああは無鉄砲じゃなかった……はずだ……」

 音を立てぬようそっと寝台から立ち上がると、アルフレッドは素足のまま部屋中のろうそくを消して回った。

 手元の燭台の明かりで、窓越しに外を見る。少し歪みのある窓硝子に、アルフレッドの顔が照らしだされる。

 彼は小さな机に燭台を置くと、眼を凝らした。

 濁った硝子には、さすがのアルフレッドの〈ギフト〉も勝てず、街路灯の明かりがぼんやりと見えるだけだった。

 アルフレッドは振り向き、ルロイの様子を確認する。短髪の青年は、しっかりと掛け布団を被り、もう寝息を立てている。

 彼を起こさぬように、慎重に窓の金具を外し、頭が出せる分だけ開けた。しかし、壁に取り付けられた窓は下開きで、覗き込んでも埃っぽい通りが見えるだけだった。

 開けたとき同様に、そっと窓を閉めると、彼は首を回した。次なる当てがあった。それは、屋根裏ならではの天窓だ。裸足であるのをいいことに、彼は椅子の上に乗ってその窓を開けた。

 古くなって乾燥した窓枠が、耳障りな音を立てて、木端をアルフレッドの頭に被せた。反射的に瞳を閉じたお陰で埃が目に入ることは無かったが、彼の額に粉っぽい不快感があるのは確かだった。

 埃を吹き飛ばすかのように、屋根裏の窓から夜風が吹きこむ。冷たい風は机上の灯火を一瞬で消してしまった。夜目の利くアルフレッドにとって、それは大した問題ではなかったが。

 彼がその足場を椅子から机に変えると、ちょうど彼の首が窓から外に出るくらいの高さになった。状況が状況ゆえに首は廻らないが、その瞳を動かすことはできた。

 ヴィスタという国は、丘の上に城を頂き、そこから下るように城下町を形成し、それら全体を城壁で囲った城塞都市を首都としていた。

 彼のいる宿屋は丘の中腹よりも少し上にあり、城下町を見下ろすことも、城を見上げることも可能な位置にあった。丘の下方に、明かりの密集している地域があるのに、アルフレッドは気付く。そこがいわゆる繁華街なのだろうと彼は思った。

 そして、そこから街灯がうねうねと一本の線を描くように灯されている。深夜にまで明るさを保つ道は、大通りだ。彼は丘の下方を把握すると、足を慎重に動かし、その眺めを丘の上方へと変えた。巨大な二つの塔を持つ、ヴィスタの城が彼の視界を占める。左の塔は既に光を落していて、下からは窓があること以外窺い知れなかった。しかし、右の方は未だ明かりが灯されていた。

 アルフレッドは眉をしかめ、瞳を凝らす。

 一瞬、灯火の前を人影がよぎったのが、塔の天井越しに見えた。

 細身の体とふんわりした髪を持つ影だ。

 アルフレッドの期待が膨らむ。

 刹那、明りは消されてしまい、それ以上は宿屋の位置から見ることは難しかった。


 朝を告げる鶏の声と、甲高い独り言を飽きずに繰り返すクロウタドリのけたたましさで、アルフレッドは浅い眠りからたたき起こされた。

 首元がこわばって頭も重たい。彼はそれを支えるように手のひらを額にあてがった。

 寝不足の理由は寝具ではなかった。くたびれた寝台はところどころ固さがあったものの、眠るのには問題が無かった。彼は布団に入ったものの、その頭はどうやって城内に侵入するかで一杯で、なかなか寝付くことが出来なかったのだ。

 アルフレッドは乱れた髪をいい加減に梳きひとまとめにした。そして開き切っていない灰色の瞳でルロイの寝台を見やった。

 彼は掛け布団をどこかにやって、身一つで寝台の上に横たわっていた。

「……ずいぶん、お行儀が良いじゃないか……」

 アルフレッドは朝の冷気に少し体を震わせると、ブーツを履き、上着を羽織って扉に手をかけた。が、帽子を忘れていたことに気付き、それを目深に被ると朝の街へと繰り出した。

 鳥たちは朝だと鳴くが、あたりは未だに夜の気配を残しており、濃紺の空に青白い光がゆっくりと混じり合っていた。

 窓を開き、空気を入れ替える女性の姿も無い早朝、静まり返った町の中で唯一音を立てていたのがパン屋だった。その音と、店頭に出された立て看板に引かれるように、アルフレッドは歩みを進めた。店に近付くと共にパンが焼きあがる小麦の香ばしい香りが鼻腔をくすぐる。ルロイほどではないが、アルフレッドの胃も、空腹を訴え続けていたため、その歩みも自然と大きくなった。

 いよいよ彼が店頭につこうとする、その直前に、アルフレッドは開け放たれた扉に気付いた。

それは、パン屋の隣の建物だった。そこは画廊だった。

 不用心だ、そう思いながら、あたりを見渡す。住人が近くにいるわけでもないようだった。

 では、中にいるのだろうか?

 それでも不用心だ。そう考えながらアルフレッドはおそるおそる敷居をまたいだ。

 彼の視界に、花も恥じらうような貴婦人の肖像が飛び込んできた。小麦のような金髪が、陶磁器のような頬を包み込み、その青い瞳は波を得た海だった。彼は壁に掛けられた他の肖像を、飢えた獣のように見まわした。母親と思われる貴婦人と、くすんだ金髪を束ねた少年の肖像。そして、姉妹のような、麗しい女性と少女の肖像。

「ユーシィ……母上……」

 唖然としたアルフレッドは瞳を見開いたまま、風景画にぼんやりと視線を移す。

「……森だ……国境近くの……。間違いない……!」

 彼は、絵画の全てにサインが無いか調べた。だが、枠の裏にさえなんの痕跡も見当たらない。

 アルフレッドは当初の目的とは別に、パン屋に駆けこんだ。

 肩で息をし、険しい表情をした青年に、中年女性の店番は大いに驚いた。

「隣! 隣の画廊は、誰のものなんだ?」

「あ、ああ、それね! お客さんもびっくりしました?」

 店番は安心したのか、手に握りしめていたバンダナを頭に巻きなおしながら、体同様にふっくらとしている頬を持ち上げた。

 何の事だか把握できないアルフレッドの眉根は、未だにひそめられたままだった。

 女性はそれにはお構いなしに続ける。

「お隣さんね、最近来たばっかりなんですけどね。あんなに素敵な絵を置いて、いつもどこかに行っちゃってるみたいでね。盗まれないか心配ですよね」

「いや、俺はそう言うことが聞きたいんじゃない。奴の顔は?」

「そうねえ、一回しか見てないけど素敵だったわよ。お嫁さんに困らないんじゃないかしら」

「いや、だから……」

 アルフレッドは、女性の感想ではなく、具体的な容貌を知りたかった。

 しかし、彼女にはいまいち伝わっていないようだった。

 アルフレッドは息巻くのをあきらめ、ため息と共に肩を下ろした。一つずつ聴き出さないといけないようだ。

「背丈はどれくらいだった?」

「お兄さんくらいかしら」

 アルフレッドは拳を握り直した。この方法でどうやら間違いないらしい。具体的ではないが、ある程度的を射た答えが得られそうだった。

「髪の色は?」

「お兄さんより暗めだったかしら」

「瞳は?」

「水色! 綺麗だったわあ」

 聴き出した答えのほとんどは、アルフレッドの予想と同じだった。

 しかし、たった一つだけ、そこから外れていた。

「表情はどうだ? 優しそうに笑って……」

 女性は、口を尖らせて反論した。

「そうそう、お兄さんより怖―い顔、してたわあ。色男が台無しになるくらいだったわよ。お嫁さんに逃げられたのかしらね?」


 ベッドの上に体を広げていたルロイは、かりっとした小気味のいい音で跳び起きた。

 跳び起きた横、机の前でアルフレッドがパンを齧りながら何やら難しそうな顔をしていた。

 見なれた表情なので特段気にせずに、ルロイはアルフレッドの紙袋から一つパンを頂戴した。

「おはよう、アル!」

「意外と食い意地張るよな、ルロイは」

 口の中の物を水と共に飲み下すと、アルフレッドは呟いた。ルロイは悪びれずに答える。

「成長期なんで」

「とっくに終わってるだろ。それよりも……」

 ルロイは小さなパンを二口で食べきってしまうと、店をずばり言い当てた。

「ん? これ、北通りのパン屋のだろ? ちょっと高かったんじゃ……」

「ああ、有名なのか。……そこの横に、画廊が出来ていた」

 アルフレッドの言葉を聞き流しながら、ルロイは紙袋に手を突っ込む。

「へえ……ずいぶんと、物好きな位置に」

 室内が暗く感じられるほど、明るい日差しが天窓から差し込む。

 アルフレッドは右手でひさしを作り、それから瞳を庇った。

「店主は、リヒャルトだ」


「城なら、俺の方が良く知ってるんだけどなあ……」

 うららかな午後。ルロイは、エルンテの蛇のような大通を貫いている北通りを何往復も歩いていた。それぞれの軒下に揺れる看板が、光を受けて誇らしそうに輝く。

 ルロイは納得していなかった。

 アルフレッドにとっても、兄を見つけることは重要なことだったはずなのに。

「お前が、奴を探してくれないか? 街をよく知っているだろう?」

 薄暗い屋根裏部屋で、彼の灰色の瞳がルロイを貫いたときも、ルロイは反発した。

「ってことは、アルが独りで城に行くのか? だとしたら……」

 アルフレッドの語気もそれに負けなかった。大概、不愛想な表情をしている彼だったが、今日はいつにもまして眉根に力がこもっていると、ルロイは思った。そしてその口調もいつもに増してとげとげしく感じられた。

「だとしたら? 誰だったかな、単独で潜入して深手を負ったのは?」

「……それがあるから、なおさら一人で行かせたくないんだよ、アル」

 金髪を陽光に焦がしながら、貴族の青年は、不安げにするルロイに自信たっぷりに言った。

「魔術師が俺を見つける前に、俺の目があいつを見つけるさ」

「確かに、野うさぎよりはでかい的だけどさ……」

 ルロイは、装備の重みが無い体の軽さに若干の違和感を覚えながら、こうしてヴィスタの街を徘徊することとなったのだった。

 アルフレッドには何か考えがあるらしく、二人は別行動をとっていた。

 真夏の太陽が家々や地面を焼き、歩く靴の裏からもそれが感じられる。しかし、その熱気に負けじと人々も活気づいていた。

 運搬用の馬車が大通りを行き来する、ひづめと車輪の埃っぽい音と、通りに面した窓辺を飾り付ける職人たちの声があちらこちらから聞こえてくる。それはルロイの気持ちをも浮だたせるようだった。

 重たい音の隙間を縫って飛んでくるのは、女性たちや少年少女の、甲高いわくわくとした噂話の内容は、四日後の六月二二日に公開される君主・女王ロザリンデの容貌について持ちきりだった。

 髪は金色だ、はたまたあかがね色だの、十六歳にして絶世の美女であるとか、既に求婚されているとか、噂話はふわふわとして確実性が無く、どれも不確かな情報ばかりだった。

 それもそのはず、城下町に住んでいる人々にも、君主の顔は肖像画一枚も公開されていなかったからだ。城内に勤務する小間使いも城内で生活させているため、情報の漏洩はしっかりと管理されていた。

「ロザリンデ女王さま、ねえ。誰も見たことないんじゃ、想像するしかねえよなあ……。それに比べたら、リチャードさまを探すのは、オレには割と簡単かな?」

 そう、心の中で自分自身を励ますルロイの視界の隅に、見覚えのある少女が通りすがった。

 彼女の黒い髪に反射的に反応した彼は、すぐさま少女の肩を掴んだ。

「ちょっ……! サナちゃんじゃないか! こんなところで、どうしたんだ?」

 少女は振り向いてルロイを視界にとらえると、不思議そうに数回まばたきした。長い睫毛が震える。

「……? あらあ? あなた、どこかで……」

「何言ってんだよ、助けてくれただろ、ルロイだよ」

 ぽかんとして見せる少女。

 ルロイの命を救ったことすらも、彼女にとってはどうでもよいことだったのだろうか。

 栗色の瞳を陰らせるルロイを目の当たりにした少女は、しばし瞳を丸め、視線を斜め上に上げて思いだすそぶりを見せた後、その答えを見つけたように、笑顔を花開かせた。

「あぁら、そんなこともあったわね。お久しぶり、ぼうや」

 清楚な外見に、異性を魅了するような仕草とけぶるような声。それは、彼の知っているサナとは大いにかけ離れているようだった。ルロイは強い違和感を覚えると同時に、他人の空似だったのではないかと気恥かしくなってきた。

「ご、ごめんなさい! 人違いだったみたいで――!」

「そうね、あながち間違いではないわね。でも、会えて嬉しいから許してあげちゃう」

 ふふっともうひとつ妖しく笑うと、上目遣いをしてよこすサナ。

 その蠱惑的な眼の色に、ルロイはくらりとしてしまうようだった。

 青年のうぶな様子に満足したのか、彼女は黒い髪を右手で払うと、その手を彼の首に甘く巻きつけ、背伸びをすると彼の鼻先にくちづけた。

「時間があったら遊んであげたけど。今日は難しいのよね。ばいばい」

 唖然として固まるルロイをそのままに、サナは彼の横をすり抜けた。

 まるで別人のような彼女を問いただそうとルロイが振り向いた時には、彼女の姿は見当たらなかった。

「なんだ……? ……初めて会った時に、雰囲気が似てるぞ……?」

 陽光の熱さから来るものとは別の汗が額に浮かぶ。それを思い切り手の甲で拭う。

「それにしてもサナちゃん、どうしてこんなに暑いのに、髪を降ろしてたんだろ?」


 六月十八日の昼下がり。

 アルフレッドは一人、北通りの画廊に足を運んでいた。ルロイの捜索を掻い潜った画家が画廊に戻ってくるのを見張る為だ。

 女王の御披露目に沸く大通から、無人の画廊の敷居をまたぐ。喧騒から一歩引いたその場所には、相変わらず無造作に絵画が飾られており、壁に掛からない余りの物は壁に立てかけられている始末だった。

 息を殺して慎重に動くアルフレッドをよそに、画廊には近所の住民たちが何の気なしにやってきては、かるく室内を一周すると帰るというのを繰り返していた。

 幼き日の自分は元より、見知った人間の肖像を、見知らぬ人々が眺めて行くと言うのは、なんだかくすぐったい気持がするものがして、アルフレッドは頬の裏を噛んだ。

 鑑賞者たちの往来に眼を光らせる彼は、画廊において異質だったようだ。彼らは画廊に入ると、絵画だけでなくアルフレッドも観察しているようだった。

 その視線にアルフレッドはしばらくしてから気付き、何となくばつが悪くなったので、彼も画廊の客を装うことにした。玄関からほど近い窓辺を起点に、彼もゆったりと歩みを進める。

 まず視界に飛び込んできたのは小さな緑色の絵画だった。鮮やかな緑は、油彩特有のものだった。日差しに照り映える葉、その茂みの中心には、茶色い塊がほんの少し顔を見せていた。うさぎが茂みからあたりを窺っている場面だと理解するのに、さほど時間はかからなかった。

「……これは……」

 この画家は、うさぎがこのように無防備にしている場面に出会ったことがあるのだろうか。

 仮にアルフレッドがこうした場面に遭遇したならば、すかさずその頭蓋を狙うだろう。次に目にする映像は、茶色い毛玉がぐったりと茂みの中で息絶えている姿に違いなかった。

 想像もそこそこに、彼は隣に掛けられたデッサンに眼をやる。

 これもまた、うさぎの作品だった。しかし右の作品とは異なり、キャンバスいっぱいにその全身が描かれている。そしてこれまた無防備にうさぎはその体をくったりと地面に預けていた。

 描いてはぼかし、そしてその上からまた線を書き足す木炭の素朴な質感が、うさぎの柔らかな手触りを彷彿とさせる。その腹は今にも呼吸の為に上下しそうに見えた。

 その繊細な書き込みを目の当たりにし、アルフレッドは再び右の油彩画へ顔を向ける。

 茂みからほんの少しだけ首と耳をのぞかせているうさぎ。その毛並みは、細い筆で線を一本ずつ丁寧に乗せられて表現されていた。力強い生え際から、摩耗によって細くなった先端までの、神経の通った筆運び。

 それは、画家の観察眼と、この絵画にかけた時間を体現したものに違いなかった。

 これほど細密に描けるほど、彼は記憶の良いたちだったのだろうか。

 ふと、在りし日の兄を思い起こす。

 決して積極的ではない気位だ。誰に対しても、どのような場面においてもおっとりとしていたような場面ばかり思い起こされた。アルフレッドは、気付けば鑑賞することだけに全神経を傾けていた。

 それが破られたのは、美しい少女の肖像を見ているときだった。

 籠を腕に引っ掛けた中年の女性が、画廊に入ってくるなり彼の顔を覗き込む。

「あら、リヒャルトさん、こんにちは。どうですか、筆の調子は?」

 いやおうにも視線がかち合うと、女性は群青色の瞳をこぼれんばかりに開いた。

「あーら、ごめんなさい! 今朝のお兄さんだったのね! あたしったら何で間違っちゃったんでしょ? どうしたの、ここでぼーっと突っ立って?」

「……絵を見ていただけだ」

 アルフレッドは突然のことに表情を固くする。調子よく話を進める女性は、今朝がた彼にパンを売った女性だった。

「あたしったら! そうよね、画廊に来る理由なんて一つだけだわね! それにしても……」

 そう言葉を途切れさせると、女性はまじまじとアルフレッドを観察しはじめた。

 全方位からくまなく見定められ、アルフレッドは自分が値段をつけられる商品になったような気がした。

「……ふう……」

 自然と出てきた彼のため息に、女性はすかさず反応した。

「それだわ、似てると思ったら、背格好だけじゃなかったのよ! その声もそっくりだわ!」

「リ……、あいつにか?」

「そうよ。今朝からずっと不思議だったの。やっとわかったわあ!」

「俺はあいつみたくは―」

 心底すっきりしたような笑顔を見せる女性は、それじゃあまたねと手を振り、立ち去ろうとしたが、アルフレッドの目前にある絵画に足を止めた。

「この絵、素敵よねえ……。お嫁に行っちゃった、前のお姫さま。婚礼衣装がほんとにお似合いで……」

 女性のうっとりとしたため息にならい、アルフレッドも再び絵画に視線を移す。

 なるほど、白い光沢のあるドレスに見覚えがあると思ったら、と彼は記憶を洗い直す。

「ほんと、天使さまみたいだと思わない? ねえ?」

 この衣装に彼女が袖を通したのはいつだったろうか。

 挙式の直前? いや、それよりも前か……?

 そもそも、こんなふうに肖像を残すだけの時間があったのか?

 そう、目前でほほ笑む十年前の彼女に、アルフレッドは心の中で問い掛けていた。

「あたしもねえ、ほらお転婆だったから、子供もせがむものだし、一緒に行列を見に行ったのよ。お城の中にある礼拝堂には入れないんだけどね、城門から馬車が出てくるのを、街の人、皆で首を伸ばして待ったもんだわ」

 女性が雄弁に語る、王女の嫁入り。それはアルフレッドの見知らぬ話だった。

「……そうか」

「そうそう。でもね、国中から人が来てたから全然見えなくて。せめて子供だけでもと思って、がんばってこの肩に乗っけたのよ」

「……どうだった?」

「ん? なにが?」

「……その、姫君は……?」

「ああ、そりゃあ綺麗だったって、子供が言ってたわ。でも、いつものお出かけのように手は振ってくださらなかったって、残念がってたわねえ。だからあたし言ってやったんです。お嫁に行くのに体を清めたから、もう前までのお姫さまじゃないんだよってね」


 アルフレッドがパン屋の女性と話しこむうち、絵画が本来の色合いをくすませていた。ふと灰色の瞳を窓辺に投げかけると、石畳が紅く染まっている。

 日が傾いていることに気付いた女性は夕飯の支度をするのだと言い、手を振り去っていった。

 彼女の背中を追うようにして、彼は画廊を出る。左を見れば、街灯をつける人々の合間を、そそくさと過ぎ去る女性。右を見れば、坂道を転がるゴム鞠と競争する少年たち。見回せど、見覚えのある男の姿は見当たらなかった。

「……収穫なし、か……」

 彼は独り言の代りに小さくため息をついて、すっかり薄暗くなった画廊に背を向けた。その手には、先程の女性が寄こした紙袋が握られていた。闊歩する人々の足音をぬって、朝も往復した道を、速足に戻る。履き馴らした柔らかい狩人の靴は森の中同様、石畳を叩き鳴らすことは無かった。夕焼けの作る細長い影のように、彼は音を立てずに進んだ。

「あら、どこを歩いてらしたの?」

 だから、この声を聴いたときに、彼はまず自分に話しかけられているとは思いもしなかった。

 しかし次の瞬間、アルフレッドの目前に黒い何かが割り込んできたので、彼は立ち止らざるを得なかった。それは見覚えのある少女だった。

「ねえ、お手紙を持ってきたの。褒めてくださる、伯爵さま?」

 笑みを湛えた彼女―サナが両手で差し出してきた手紙を、ぼんやりと受け取る。

「褒章はいらないわよ、ただ褒めてくれるだけでいいわ、伯爵さま」

 少女の黒い瞳が黄昏色を映し燃えるように煌めいた。

 既知の印象をくつがえす変貌ぶりだったが、アルフレッドはルロイのように閉口しなかった。

「……嫌味も言えるようになったのか、サナ?」

 少し乾いた風のなかにアルフレッドの声を捉えたのか、サナはにんまりとして見せた。これまで、あえて隠してきたのかと思うような、豊かな表情だった。

「あたしはあたしよ、伯爵さま。それよりも、はやく手紙を開けてほしいわ」

「道端で手紙を広げる趣味は無いが」

 少女を怪しみ、アルフレッドは値踏みする。

「じゃあ、開けてあげようか?」

「結構。見るからに、親書だからな」

「じゃあ、早く」

「どうして、そうも急かすんだ?」

「時間が差し迫ってるの」

「なんの時間だ?」

「見ればわかるわ」

 アルフレッドは、しぶしぶ王家の封蝋を開いた。中から出てきたのは、小さな二つ折りのカードだった。狩人の銀鼠色の瞳が書かれた文字を撫でた。

 と、同時に、彼は生意気な女中の腕をぐいと引っ張った。

「な、なによ――!」

「無礼を許す。代わりに、仕事をしてもらうぞ、サナ!」

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