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【完結】純白の抒情詩《リューリカ》  作者: 黒井ここあ
第一章 妖精とよばれし娘
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〈組曲〉プレリュード

 僕の記憶は痛みから始まる。

 全身に刻みつけられた傷から、じわじわと侵食してくる痺れるような痛み……。

 小さな村の小さな家で、小汚い男に虐げられる日々。食べ物も満足に与えられず、空腹だと泣き叫べば、殴られるだけでなく蹴られ、その痛みにうずくまる僕を、雨の降りしきる戸口の外に放り出すような、最低の人間との暮らし。暮らしとはとても言えないような僕の日常。

 そこで僕という意識が動きだした。生まれて数年しか経たない幼児だったにもかかわらず、すでに生まれた運命について呪っていた。今となってはどうでもいいことだけれども。

 僕の人生の本当の始まりは、彼に出会った時だった。

 その外見は天使と見紛うほど整っていたけども、その所作は全くと言っていいほどその外見からかけ離れていた。当に益荒男というのを意識して、わざと演じているかのような、そんな感じ。

 彼は小屋の外でうずくまって転がっていた僕を見つけると、自身のマントに泥が付くことも厭わず、屈みこんで僕を抱きしめてくれた。ああ、これは本当によく覚えている。じっとりと降り続ける雨が傷口にしみて、もう死ぬんじゃないかと思っていた時に、感じたことのない温かさを感じたんだ。それまで抱きしめられたことが無かったから、知らなかったんだ。その時に思ったよ。僕は今まさに死ぬところで、彼が天使様で、僕は迎えに来てもらえたんだと。こんな温かさがあるのなら、天国は良い所なんだって本当に思った。

「おい、お前、大丈夫か? こんな小さな子供を……」

 僕が微動だにしなかったものだから、彼は自身の水筒をあけ、僕に水を飲ませてくれた。土の味のしない水の味も初めてだった。そして彼は、雨に緩んだ泥と、腹を蹴られた際に嘔吐したもので汚れている僕をそのマントで包むと、大股であの男の家に怒鳴り込んだ。

 すると僕の大嫌いな声が聞こえてきた。しわがれて、馬鹿みたいに大きいあの男の声。あの声を聞くと僕はいつもすくみあがってしまった。だが今日は、それに立ち向う精悍な声が聞こえる。彼はあの男と違って、色んな声を出せたみたいだった。時々大きく、引き付けるかのように小さく、音量だけでなく雰囲気も変えて、あの男に交渉していた。もっとも、当時の僕にはそんなことは判るはずもなく、一体これからどうなるのか、成り行きに対してただ恐怖していた。あの男の剣幕に負けて、彼が引き下がってしまったら、そう、彼が去ってしまえば、あの男はまた僕にその不機嫌をぶちまけるだろう、暴力という形で。

 目をつむり、包んでもらったマントの暖かさに必死にしがみ付いていると、軽やかな足音が僕の近くにやってきた。あの男ではない、彼のものだと僕にはわかった。

「お前、名前はなんていうんだ?」

 僕は、力なく首を横に振ることしか出来なかった。だって本当に名前を持っていなかったから。そんな僕の様子を見て、彼はちょっとだけ寂しそうな顔をした。綺麗な翠の瞳がちょっとだけ曇ったような気がしたんだ。

 だけども、それはほんの一瞬で、彼はその凛々しい眉をくいっと上げて、僕に指をさして言ったんだ。

「俺とおんなじ翠の眼をしているのか。そうか、おまえにも……。決めた。お前の名前はシュウだ。そして俺はアラム。今日から俺が、お前の親父だ」


 アラムと僕は、雨が上がった早朝に小さな村を出た。誰も見送りになんか来なかったけれども知り合いと呼べる人物はあの男しかいなかったのでどうでもよかった。

 そんなことよりも、アラムが即席でこしらえてくれた小さな鞄を自身で背負っていたことの方に関心があった。物として扱われてきた僕には、当然与えられるものなんか無かったから、旅立つにあたって彼が僕のために何かを用意してくれるのが何だかむずがゆい気持ちがして堪らなかった。

 この気持ちが「嬉しい」という言葉で表すことも知らなかったから、僕はアラムの手を握ることしか出来なかった。彼は、それに対していつも不敵な笑みを見せてくれた。そしてその武骨な手で驚くほどそっと握り返してくれた。

 アラムは道中、沢山のことを教えてくれた。まずは彼が二十歳だということ。次に僕が三歳くらいであること。そして言葉だった。

 僕にはまともな会話を求められた経験が無かったから、発想と概念と言葉が繋がっておらず、何かを伝えるのには体を使うことしか出来なかった。例えばお腹が空いたとき、僕は「お腹が空いた」事実について体感しているけれども、それに該当する言葉を知らないから、泣くか叩くかすることしか出来なかったのだ。

 彼は、そんな僕に根気強く付き合ってくれた。それこそお腹が空いたと泣く僕に、すぐに食べ物を与えはしなかった。食べ物を目の前にちらつかせ、僕がそれを取ろうとすると、すかさず高いところに持ち上げて、こう言った。

「シュウ、このパンが食べたいか?」

 僕が泣くのも忘れて頷くと、彼はにやりと不敵に笑って説明し始めた。

「それが、『お腹が空いた』ってことだ。言ってみな。『お腹が空いた』」

「おなかすいた!」

 僕が彼の言葉を復唱すると、彼は満足げに僕の頭を撫でて、手にしていたパンをくれた。

「物を貰った時は、『ありがとう』だ。はい、これやる」

「ありがと」

 アラムと旅を続けていく間、僕は生きることの概念を言葉で表せるようになってきた。そのころには小さな村からは遠く離れていて、遊牧民の間に交じって暮らしていた。小さな村のあった大陸の東側から北上し、草原ばかりが続くステップ地帯に足を踏み入れ、そこからは西に進もうとしていた矢先だった。

 ここには三年以上腰を落ち着けた。なぜかというと、僕が遊牧されているふわふわな羊の群れに大いなる興味を表したからだった。

 最初の一年は、とある一家に交じってその仕事を手伝った。そのうち独立して、アラムの持つ異国の物と羊を交換してゆくことで、僕たちは原住民よりはだいぶ小規模だが、二人でなら暮らせるだけのテントと羊を手に入れることが出来た。僕は、陽が昇る前から羊を構い、陽が昇っている間は羊と戯れ、陽が落ちてからはアラムの膝の上で昔話を聴くという充実した生活を送っていた。いつからか、その昔話をする役割は、その家の娘さんになった。

 アラムより二つ年下の彼女は銀鼠色の髪と瞳を持っていた。彼女は僕がそれまで見た中で、最も美しい女性だった。そして、物語の紡ぎ手だった。僕は彼女の歌うような語り口にうっとりとしながら、夢へ旅立ったものだった。

 次の一年は、びっくりするような出来事があった。前の年に一緒に暮らしていた家の家長が、その娘を妻にしないかと、アラムに持ち掛けた。あの、優しい声の彼女だ。彼女とアラムが結婚したならば、彼女は僕の母になるのだ。僕は母という存在に彼女はぴったりだと思い、舞い上がった。しかし、当のアラムは渋い顔をして、なかなか相手のお家に行かなかった。

 こんなに良い話はないと思っていた僕は、彼の心持なぞ気にかけず無神経に勧めていた。

「アラム、僕はあの人のこと好きだよ。アラムは?」

 彼は吐き捨てるように言った。悩んでいる自分に言い訳をしているみたいに。

「俺だってそうだよ。彼女以外いないと思ってるよ。でも……」

「でも、なあに?」

 僕は本当に子供だった。そして彼はそれに比べて随分と大人だった。彼は最後まで僕に本音を言わなかった。今なら判る。彼は、僕という存在と彼女の間で板挟みになっていたのだ。血の繋がっていない子供をいきなり持つという大きなハンディキャップを、彼女が背負ってくれるのか。そして、その子どもを実の子同様に愛せるのか……。

 でも、僕には判っていた。あの女性がそんな石ころにつまづく人間ではないと。彼女と僕の優しい時間が過ぎる間、アラムがうたた寝をしていたとき、僕は彼女に聞いたのだ。そう、その日聞いた話は、継母が継子をいじめる話だったから……。

「ままははかあ……。じゃあ、アラムは僕のままちちだよね。アラムも僕のこと嫌いになる時が来るのかなあ」

 彼女は、膝に乗せていた僕を自分の方に向き直らせて、まっすぐな瞳で言った。

「シュウは、アラムが嘘をつくような人だと思う?」

「ううん」

「わたしもそう思うわ」

 彼女は僕の答えに優しく頷いた。温かい気持ちが僕の心に充ちていった。彼女の銀色の瞳がほんのりと潤んで細められる。柔らかそうなほっぺたが薔薇色になって、それは素敵な表情だと僕は思った。

「血なんか繋がってなくても家族になれるのよ、大事ってだけで。シュウの大事な人は誰かしら?」

「アラム! それから、お姉さんもだいじだよ!」


 アラムと彼女が結婚した次の年は、本当に素晴らしいものになった。

 なぜかって、僕に妹が出来たんだ。

 髪も瞳もアラムとそっくりだけど、その甘い顔立ちは彼女にそっくりだった。七歳の僕は子供心に思った。こんなに愛らしい赤ん坊が成長したらどうなるんだろうと。

 想像の中の妹は、義母のようにすらりと大地に立ちこちらへ振り向くと柔らかくほほ笑んだ。

 僕は馬鹿だったんだろうな。

 その女の子にすっかり心を奪われてしまったんだから。

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