六、銀の乙女、金の乙女
呼び出された魔術師ジークフリートは、不機嫌そうに眉を上げた。
「あなたに〈ギフト〉が?」
「じいやが遺言で、そう言っていたわ。だから元老院に、ボーマンとの婚約を取り下げに言いに行ったの。わらわに〈ギフト〉があれば、すべての問題が解決するもの!」
薄い胸を張るロザリンデに、彼はため息とともに首を振った。
「先生――あの人の言うことは、信ずるに値しません、陛下。それに、婚約は確定です。可決されたのです。誰にも取り下げられは――」
「最後まで聞きなさい。婚約はなかったわ。破棄でもない。そもそも存在しなかったのよ」
ジークフリートに小さな手のひらを突きつけ、少女はきっぱりと言い放った。
「……それは、ありえません」
政界というのは、議決したものをわざわざ蒸し返すことを嫌った。ジークフリートはそれをよく知っていたので、笑い飛ばした。
だが、小さな国家元帥は小さなくちびるを尖らせるばかりだった。
「どういうことじゃ? わらわが間違っているとでも? 七名の賢人全員が、この縁談そのものを知らないと言っていたのよ!」
斜めになった眉を見て、彼女の癇癪が爆発しそうだと、魔術師はすぐに察した。テノールをやんわりとほぐし、なだめすかすように整える。
「老人が七人そろって、一斉に記憶喪失になったとは考えにくいでしょう、陛下」
「違うのよ、ジーク! これをご覧なさい!」
金髪の女王が机に叩きつけて開いて見せたのは、議事録だった。
「どれ……」
にわかに信じられないと、余裕たっぷりにそれをめくっていたジークフリートだったが、彼が婚約を取り付けてきた日付にたどり着くと、思わず身を乗り出してしまった。書記の美しいカリグラフィを指でなぞっても、ボーマンのBの字も見当たらない。
流し読みをしたかと我が目を疑い、何度もめくり、指と瞳とを駆使して議事録に目を通すも、ロザリンデの結婚をほのめかすような一文さえ見つからなかった。
もしやと、一冊の本としてまとめられている議事録のノドをなぞってみるが、指には何も引っかからない。ジークフリートの翠の瞳が、焦りと疑問でからからに乾く。まばたきを繰り返しても、それは現実として机の上に鎮座していた。
ありえない事態に頭痛がしはじめてくるジークフリートの手元を、女王が得意げに覗き込む。
「わらわが破り捨てたわけじゃないわ。見てわかるでしょう。一体、何が起こったのかしら? あなたの魔法?」
魔術師には、覗き込む少女の愛らしい相貌をちらと認めるほどの余裕も残っていなかった。
まるで、過去にさかのぼってその一項目―ロザリンデとアルフレッドの婚約―だけを消されたような違和感が、彼の心に襲いかかる。ジークフリートは渇いた喉から声を絞り出した。
「……それは、私が知りたいですよ……」
「何だかわからないけれど、わらわに〈ギフト〉があったことだし、リューリカやボーマンに頼らなくても十分にやっていけるんだわ、これまでどおり!」
「……これまでどおり?」
ふくふくと頬を持ちあげる少女と反対に、青年の声は冷たかった。
「ええ。わらわと、ジークと、ファイナと――」
「それは残念ながら、ありえません」
「え……?」
ロザリンデは聞き間違えたのかと思った。
「これまでどおり、わらわに仕えてくれるでしょ? ね?」
魔術師は彼女に目もくれず、窓辺へと肩を預けた。
「ジークフリート! 答えなさいよ!」
「……御披露目までは」
「までは? まで、って何よ!」
「そのままの意味です」
ジークフリートは窓を少し開けた。エルンテを駆けのぼる風が彼の頬を撫で、黒髪を揺らす。
「な……、なんですって……!」
いつもなら、ずかずかと近づいて彼に憤怒の表情を見せつけるところだった。
いつもならば。
しかし、ロザリンデはそこに立ちつくしていた。
言葉を見つけられない。
昂った感情に、理性をつぶされたからではなかった。
風に体を任せて消えかねない、この魔術師の男について、彼女は悟ってしまったのだ。
知らない人みたい。
そもそもわらわは、この男の何を知っていたというのかしら。
ジークフリートの瞳は、風を読むように遠くを見つめている。
青空が切り取った彼の横顔に、少女の心がきつく締めつけられた。
息をするのも、やっと。
熱い涙とともにこみあげてくる激しい気持ちは、ロザリンデの体には大きすぎた。
わらわを、こっちを見て。
「すき……なのに……」
彼は振り向かない。
ぽつりとこぼれた本心は、風が吹き込む声に負けたのだ。
ごくりとひとつ、決心を飲み下すと、少女は恋する男に駆け寄った。
そして、彼の細い体を折らんばかりに、抱きしめた。
「陛下……」
優しい声が、彼女の頭をなぜた。
それに安心して見上げたロザリンデが腕を緩めると、彼はやんわりと彼女の体を己から引き剥がした。
黒髪の青年は、残酷なまでに優しかった。
「陛下の気持ちには、お答えできません。私には、心に決めた人がいますから」
あるじの居なくなった部屋を、リュリはほんの少しだけ見渡した。
そして、自身の腕を拘束するリボンが解けるよう、強く考えた。
アルフレッドが教えてくれた、考えるだけ、という戦法はやってみると存外難しいものではなかった。強く思えば思うほど、うまくいくビジョンと確信が芽生えるのだ。彼女は少しずつ魔法のコツをつかみかけていた。
「んーっ!」
リュリが想像したとおりに、ぷちんぷちんとリボンが独りでに切れると、彼女は自由になった体を起こした。扉を薄く開けて兄がいないことを確認し、急いで女中の服を着なおした。
鏡台を見ながら背中のボタンを綴じ、エプロンのリボンを綺麗に結ぶ。ついでに髪をロープのような一本の三つ編みにした。
かわいいかも、と自画自賛する横で、置かれていた竪琴に目が移った。
瑠璃色、あるいは棗色のふちに黒い色の絃が一本だけ張られている竪琴は、つやつやと輝く。
「あれ……? アルくん……?」
リュリはその瑠璃色の向こうに、アルフレッドによく似た、しかし彼よりも柔和な顔つきの男性を見出した。
それをよく見ようと竪琴の縁を指で磨いたが、それはすぐに消えて見えなくなってしまった。
「んー?」
リュリの耳に時計の針が忙しなく動く音が聴こえ、リュリに現在の状況を思い起こさせた。
「そうだった! 今のうちに、だよね」
彼女は竪琴を元通り鏡台の前に置くと、忍び足でジークフリートの部屋を出た。
少し見渡すと、廊下には衛兵が立っていることがわかった。
彼女は及び腰でゆっくり廊下を進んだ。
どうやら、以前リュリが転げ落ちた地点とは違うところのようだった。
きょろきょろと不審な動きで歩むリュリに、赤毛の兵士が声をかけてきた。先程彼女を曲者扱いした人物だ。リュリの全身に冷や汗があふれてきた。
「お、新人さんだったのか! さっきは悪かったな」
「はいいい! そ、そうだったんです!」
突然の事態に対応できないリュリだったが、声を裏返しつつも何とか彼の声に答えた。
彼はそれを緊張から来たものと受け取ってくれたらしく、にこにこと朗らかだった。
「お詫びと言っちゃなんだが、わからなかったら、このヒューゴさんに聞くんだぞ!」
「は、はいっ! じゃあ、女王へーかのお部屋は! あの!」
しどろもどろになるリュリに、彼は親切だった。
「女王陛下は、この階段を上がったところを左に曲がった執務室におられるはずだ」
「はい、ありがとうございますわ!」
「またお茶か? 女中も大変だよな……俺たちも四六時中、鎖帷子なんか着てるから肩が凝って仕方ねえよ……。ときにお嬢さん、肩揉みは得意? ……っていないし……」
リュリは行き先が定まるとまっしぐらに突き進む性格だったので、親切な青年兵士の口説き文句を耳にすることなく去っていた。
リュリがそっと階段を上ってロザリンデの居る執務室の前に行くと、中からは男女の話し声が聴こえてきていた。聞き覚えのある二つの声、それは間違いなく兄と女王のものだった。
リュリはどこか隠れるところが無いかと見渡すも、その階の廊下は下の階のホールからの吹き抜け構造になっていて、陰になるところはどこにも見当たらなかった。
廊下の奥の空間が歪んで見えたかと思うと、その中から台車を押した黒髪の女中がやってきた。彼女はリュリの姿を見るなり、歩く足を速めて彼女の傍へやってきた。その顔を見てリュリはボーマン家でも彼女に出会っていることを確信した。
「あなた、アルくんのところの女中さん、だよね? どうしてここに?」
「妖精、あなたがここにいるのはまずいのでは? 私の手を取って」
黒髪の女中はリュリの言葉を遮り、台車に触れていない左の手を差し伸べた。
リュリは特に断る理由も見当たらなかったので言われるとおりに彼女の手を握った。冷たい物言いの彼女の手は、意外と温かかった。
彼女はそのままひとつ深呼吸をすると、リュリ共々歪んだ空間に足を踏み入れた。
次の瞬間に二人は大きな扉と面積を持つ豪奢な部屋にいた。
空間を一瞬にして移動したことに驚いたリュリが首をもたげてみると、その天井の高さにも驚かされた。
「凄い……アルくんのお家より大きい……」
「女王陛下はもう少しで帰ってきますよ」
そう言って黒髪の女中は金色の装飾が施された椅子を引いた。
リュリに座れという合図だというのに彼女はずいぶん気付けなかったが、軽く腰掛けると丸机に近くなるように軽く椅子を押し込んでくれた。
「ありがとう。……えと……」
「サナです。お茶をどうぞ、妖精」
「……リュリって呼んで欲しいな」
「では、リュリ。冷めないうちに」
サナと名乗った彼女は、その話し方よりもずいぶん幼いように見えた。
リュリは言われたとおりに紅茶の注がれた茶器を両手で持ち、火傷をしないように息を吹きかけながら、そうっと飲んだ。暖かい飲み物が、リュリの心をほぐしてくれるようだった。
「……おいし……」
リュリの呟きに、サナは少し口元を綻ばせたが、飲むことに夢中のリュリにはそれを見ることは適わなかった。
「サナちゃんは座らないの?」
「正規の女中なので、一応、座りません」
「そっかあ……ロゼちゃんに聞いてみて、良いよーって言ったら座れる?」
「ええ、まあ……」
リュリはにっこりすると、再び熱いお茶をすすった。
リュリが紅茶の二杯目をおかわりする頃、女王の部屋の巨大な扉が乱暴に開かれた。
「何なの、何なの、あんな男なんて大っ嫌いだわ! ぽいよ、ぽい!」
やんごとなき小さな女王は大きな音を立てて扉を閉めると、大声でわめき散らした。
その剣幕にサナもリュリも呆気にとられていた。
ロザリンデは自身の豪奢なドレスを脱ぎ捨て、簡単な部屋着に着替えると、リュリの真向かいにサナの助けなしに座った。リュリがいつの間にか訪れていることには、さして驚いていないらしかった。それよりも、激昂した勢いで舌が回りに回っている。
「リュリ、あいつ、最低な男だわ!」
唐突な話題に切り出しに、リュリはどぎまぎした。
「あいつ、ってだれのこと?」
「ジークフリートよ! 頭が海藻みたいで、いつもミルクティーを飲んでて、呼ばなくても傍に来て、かと思ったら必要な時に居なくて! おまけにキザで、女たらしで! 人をその気にさせておいて! なによ、なによっ!」
大声で捲くし立てるロゼに、リュリは申し訳なさそうに尋ねた。
「ジークフリートって、誰……?」
ロザリンデの口がこれ以上なく曲がる。
「知らないとは言わせないわ! さっきあなたを連れていった男じゃないの!」
鼻息を荒くしてリュリに詰め寄る小さな怪獣に、リュリは果敢にも答えた。
「え? お兄ちゃんはシュウって名前で……」
「はぁ? お兄ちゃん? シュウ? 何の話? わらわはジークフリートの話をして――」
女王は話を捻じ曲げる妖精にも苛立ちを覚えたが、女中に差し出されたぬるめの紅茶を胃袋に注ぎ込み、一息落ち着けることに決めた。彼女は目の前の紅茶を無碍にしない性質だった。
二人の少女が固唾をのんで見守るなか、ロザリンデはぐびぐびと細い喉を上下させてカップの底を乾かした。とどめとばかりに、鼻から息をつく。
「リュリ。あなた、あいつの何を知っているの?」
金と銀の乙女は、お互いの情報を共有した。女中は、口を引き結んだままだった。
「髪の色がずいぶん違うけれど、それでもあなたたちは兄妹だっていうの、リュリ?」
「うん。……たぶん」
「濁さないでくださるかしら!」
「うう……。ロゼちゃん、こわい。だって、わたし、色々憶えてないことが多くて……」
「陛下」
ロゼの興奮した声にサナの落ち着いた声が入ったことで、彼女の憤りもいくらか静まったように感じられた。サナは続けた。
「女王陛下の元摂政も、リュリの兄も同一人物、ですね」
リュリは頷く。
しかしロザリンデの人差指は苛立たしげにテーブルを打ち鳴らしている。
「でも、そうしたら、じいやの言っていたことが腑に落ちないわ。じいやを殺したのはシュウという男なのよ。ジークフリートがじいやを殺すようなメリットってないはずだわ」
「……!」
リュリが思わず両手でその口を塞ぐ。
「なによ」
「あ……。その、えっと……」
「はっきり言いなさい」
「その、死んじゃった人の名前って、イグナート……?」
「どうしてリュリがそれを知っているの?」
ロザリンデの剣幕におびえつつ、リュリは、真実を述べねばなるまいと思っていた。
けれども、嘘付きの兄、シュウからの聞き語りであるから、真偽のほどは不確かだ。
「お兄ちゃんが、教えてくれたの。わたしの家族をばらばらにした人だって」
「じゃ……じゃあ、じいやを殺したのは……?」
「……」
「嘘、嘘だよね……じいやを……ジークフリートが……」
女王は先程までの興奮が嘘のように押し黙り、うつむいた。
彼女に、リュリはかける言葉も見当たらなかった。
少女たちの間に漂う暗雲たる雰囲気を打ち砕いたのは、他でもないロザリンデだった。
「……わらわは、本当に信用してたの、あいつのこと。じいやのかわりになってくれて。……好きだった」
リュリはロゼの苦しそうな告白を、茶器に映る自分の瞳を見ながら聴いていた。
着席の許可を得たサナも、同様だった。
女王の声に段々と嗚咽が混じる。
「意地悪だったけど……優しかったし……。助けて、くれたし。わらわの傍に、ずっと、ずっといてくれると……信じて、たの……。でも、違うって、違うんだって……もう、一緒には居られないんだって……違う人が、好きだから……。わらわにはボーマンがあてがわれて……」
涙でぐしゃぐしゃの顔を袖口で擦りながら、女王はむせび泣いた。
リュリは思わず、恋をしていた小さな少女の傍に寄り添った。
今、シュウのリュリに対する行為の数々を知ったら、彼女の心は壊れてしまうだろう。
だから、リュリにとって一番大切だと思う人のことを話すことにした。
彼は奇しくも、友人の伴侶になる運命が定められた男、アルフレッド・ボーマンだ。
アルくん。
リュリは瞳を伏せた。
今、まばたきをしてしまえば。
本当の気持ちが涙になって、全部出てきてしまうから。
「わたしも、好きな人がいるから……。でもその人には、他に好きな人がいてね。その人とじゃないけど、結婚する相手もいるんだって……。わたし、それが悲しくて、その人に何も言わないで、出てきちゃった……」
しゃくり上げながらリュリに返事をするロゼへ、サナが白いハンカチを渡すと、彼女は盛大に鼻をかんだ。あまりの勢いのよさに、サナの口元がほんの少し綻んだ。
「でもね、好きでもない人に、恋人同士でするようなこと、されそうになって気付いたんだ。それは好きな人となら、したいって……。わたし、まだ伝えてないって……」
「……伝える……? 断られたら、嫌だから……だめよ……」
もし、断られたら。リュリの恐れている言葉がロザリンデの口から聴こえた。
しかし、リュリの耳には、あの優しい午後に聴いたアルフレッドの声がこの時にも聞こえたような気がした。
どうして、だめなんだ?
リュリはその問いに答える。
「だめじゃ、ないよ。大事なのは、相手からの答えじゃなくて、自分の思いを伝えることだと思うから……」
少女は、自分に言い聞かせるように言い放った。
「だめじゃ、ないよ!」
きっぱりと。
「だめじゃ……ない……?」
「うん!」
明るい声を絞り出したが、もう限界だった。
はらはらと、まるい頬の上を真珠の様な涙が駆け抜けてゆく。
はたから見れば、それはロゼからの貰い泣きだった。
真実を知るのはリュリだけだ。
アルくん。
わたしね。
好きなんだよ。
でも、好きって、かなしいね。
あんなに、あったかい素敵な気分だったのに。
今は……。
少女は無理に笑顔をつくって見せた。
するとロゼも、真っ赤に泣き腫れた顔を頑張って笑顔にした。
だが、次の瞬間、二人は抱き合って泣いていた。
サナは、二人の傍に寄り添い、それぞれに新しいハンカチを差し出した。そして、そっと一粒だけ涙を零した。
昼食、午後のお茶、そして晩餐に至るまで、三人は女王の部屋から一歩も出なかった。
リュリを探しに来たシュウや、仕事の催促に来た元老院の面々、掃除をしに来た女中に至るまで誰も女王の自室に入れないように大きな扉の外側には〈面会謝絶〉の紙が張られた。
「リュリ、サナ、わらわ、家出がしたい!」
ロザリンデの時の声により、三人はある計画を練ることにしたのだ。
一週間後、六月二十二日の女王の御披露目当日、肝心の女王がどこにも見当たらないとなると、城内は騒然とするだろう。その混乱に乗じて、リュリがブリューテブルク城を抜け出す、という作戦だった。
「名付けて、『白金の小鳥作戦』じゃ!」
「陛下、口調が……」
「あら、つい公務のときの癖で……」
作戦が彼女たちの気持ちもほんの少しだけ前向きにしてくれたのか、ちょっとしたことで笑いあえていた。
「わらわも城下に出て、シファナさまのように素敵な人を見つけるの! 家出すればジークフリートにひと泡吹かせられるし、一石二鳥ね!」
「王宮を出る前に『白金の小鳥』の本、読みたいな、今、借りても良いかな、ロゼちゃん?」
「ちゃん禁止! ……良いわよ」
「ではお二方、夜がやってきます。またお茶会でお会いしましょう」
三人は、少し赤さの残る瞳でそれぞれの部屋へ戻った。
リュリが部屋に戻るとそこには彼女の兄が待っていた。
だが、彼女はそれを知らんぷりして机に向かった。本を読むためだった。
そんな彼女にシュウはろうそくを何処からともなく差し出した。彼は彼女の肩越しに手元を覗き込む。
「暗いと目を悪くするよ……。おや、童話か……。小さな女王さまに借りたのかい?」
「そうだよ。お友達になったから」
燭台を机の上に置いた。彼はそっけなく答えるリュリの両肩を包み込むように撫でた。
「それはよかった。結婚式の前に〈ギフト〉を持たない可哀想な彼女を助けてあげよう。ヴィスタの王家に必要な〈ギフトの証明〉があるからね……」
「〈盾〉のこと?」
「ああ、そうだよ。よくわかったね」
ご褒美だ、と彼女の頬にくちづけようとするのを避けて、リュリはシュウを睨みつけた。
「ロゼちゃん、泣いてた。それに、言ってたよ。ロゼちゃんの〈ギフト〉がわかれば、アルくんと結婚しないで済むんだって。お兄ちゃん、何か知ってる?」
「……どうして、そんなことを気にするのかな、リュリ?」
「だって、わたし、アルくんのことが好きだもん」
「ふうん」
憤然としている妹を憐れむかのように、兄はその顎を持ちあげた。
ジークフリートは自身の目元を覆っていた仮面をかなぐり捨て、自身の鼻をリュリの鼻に触れさせてきっぱりと言い放った。
「僕だけが君の過去も、そして未来も幸せにしてあげられるんだよ、リュリ。あんな男は捨て置いて、僕と結婚しよう」
少女の困惑が高まる。
「だって、わたしがずっと一緒にいたいのは、アルくんだもん」
「それは一時の気の迷いさ。僕がいなかった穴を、彼が先に埋めてしまっただけ。でも、これからはずっと一緒だよ。その前に、僕たちは幸せな過去を取り戻さなくっちゃ」
「わたし、お兄ちゃんと結婚するなんて、ひとことも言って……」
彼はリュリの柔らかな唇を右手で覆うと、後ろから彼女の左頬にそっとくちづけた。
「僕の鳥籠に居る今、君は僕の物だ。すなわち、僕の花嫁だ」
にこやかにおやすみと一言残すと、彼は魔法の扉を丁寧に閉めて去った。
リュリは、自身の置かれている立場が思っているよりも悪いこと、そして『白金の小鳥作戦』の失敗が許されないことを再認識した。




