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【完結】純白の抒情詩《リューリカ》  作者: 黒井ここあ
第三章 その夢は誰が為ぞ

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四、座興をひとつ

 アルフレッドはその灰色の瞳を白黒させていた。

 ルロイを見送って三日目の六月十四日の夜、自室の寝室で横たわってまどろんでいると、彼は自室にそっと侵入してくる何者かの気配に気付いた。

 彼は狩人として鍛え上げた体の反射により、素早くその上半身を起こすと、寝台の下に隠した小刀に手を伸ばした。

 下ろしてある金色の髪が彼の視界を邪魔していたが、その気配の在り処は確実に捉えていた。

「……わたくしですわ……」

 アルフレッドの耳に、聞き馴染みのある声が静寂に混じって聞こえてきた。

 それは彼の義姉のものだった。彼は不可解なユスティリアーナの行動を不審がり尋ねた。

「ユー……義姉上? なぜ、こんな時間に? 使いの者をくれれば……」

 アルフレッドは、自室に満ちた暗闇を切り裂く月光に照らされ露わになった彼女を見た。

 彼女はガウンを纏い、ゆったりとした足取りで彼の寝台に近づき、起き上がった彼の横にその腰を落ち着けた。その瞳は青白い夜の光のせいか心なしか潤んでいるように見えた。

「水臭いことを言わないでくださいな……わたくしはあなたの妻ではありませんか」

「妻って……! 義姉上は兄貴の……」

 彼女はアルフレッドの顔に自身の顔を近づけ、その唇に人差指を当ててお喋りを止めさせると、触れた指先で愛おしそうに一周撫で、その指を自身の唇に持っていった。

 アルフレッドを上目遣いに見て物欲しそうに自身の指先に接吻する淫靡な様子は、彼の劣情を大いに刺激した。

 しかし、彼はそんなユスティリアーナのことを意識しないように顔を背けることで、自身の理性に必死にしがみ付いていた。

 しかし、衣擦れの音は彼の耳に大きく聞こえ、目の前の女性の一挙一動を想像するのは容易かった。

 彼女は、意固地になって全く自身の方を見ようとしないアルフレッドの右手をとると、そのまま自身の頬に触れさせた。

 彼女の予測のつかない行動と熱を帯びた肌に、アルフレッドが驚いて彼女の方を見ると、ユスティリアーナはその唇を妖艶にひとなめしてみせた。

 そして、彼の右手を使って自身のガウンを肌蹴させた。

 ガウンの下のシュミーズは、豊満な乳房と女性らしいまろやかな曲線を申し訳程度に隠していた。

 アルフレッドは悩ましい彼女の体から目が離せなくなってしまった。

 右手の中に収まった滑らかな肩の感触が心地よく掌に馴染み彼の雄としての本能を刺激する。

 金色の豊かな髪をその首の後ろへ邪魔そうに流すと、貴婦人はこなれた動きでアルフレッドにしな垂れかかり、頭を彼の胸に預けた。

 湯浴みをしてきたのか、彼女の髪からは茉莉花の香りがした。

 月光に白く光る成熟した女性の蕩けるさまな柔らかい肉体に、彼の心臓は喉から出るほど高鳴った。その音を聞いた彼女は、嬉しそうに顔を上げた。

「こんなになっていらっしゃるわ……。どうぞ、わたくしで満たされてください……」

 そういうとユスティリアーナはアルフレッドの瞳を愛おしそうに下から覗き込んだ。

 アルフレッドは、生唾を飲み下した。

 彼は今、兄であるリチャードの妻である初恋の女性に迫られているこの状況に、呑み込まれそうになっていた。

 昼間、彼女は清楚で穢れの無い様子からは、今目の前で繰り広げられる誘惑の数々は想像もできなかった。

 これは五年前に失った、彼女と結ばれるチャンスの再来なのだろうか。

 そう都合よく考える彼と、頑なに夫に操を立ててきた貴婦人の行き成りの身の翻しに疑惑を抱く彼とが、頭の中でその議論を大きく繰り広げていた。

 今ここで彼女を抱くか否か、彼は思いあぐねたままその両腕を彼女の肩に置いた。

 彼女はそれを合意と見做したのか、その長い睫毛を持つ瞳を伏せた。

 ユスティリアーナの熟れた唇にアルフレッドの瞳が引き寄せられる。

 熱く滾る興奮が彼の理性を吹きこぼしてしまう、その寸前、彼女は瞳を閉じたまま焦れったそうに呟いた。

「……リチャードさま、いじわるをなさらないで……」

 その言葉を聞いた刹那、アルフレッドは彼女の肩を強く押し、彼女を突き飛ばした。

 運良く寝台の柱にぶつかることは無かったが、彼女はひどく傷ついた顔をした。

「そんな……ひどいです……わたくしはあなたを……」

「君は……! 君はそんな性質の悪い冗談を言うような人だったか、ユーシィ!」

 苛立ちも露にアルフレッドが吐き捨てると、彼女は再び彼に縋りつき言った。

「冗談だなんて! わたくしにはリチャードさましかいらっしゃらないのに……!」

「それがそうだって言ってるんだ! 俺のことがそこまで嫌なのか!」

 縋りつくユスティリアーナを力づくで無理矢理剥がすと、アルフレッドは寝台から立ち上がって言った。アルフレッドを誘惑しておきながら、彼をリチャードの名前を呼んだ彼女が、彼には心底憎らしく思えた。

 独り取り残された寝台の上で彼女が涙ながらに叫ぶ。

「リチャードさま、お慕いしております! わたくしには、あなただけですの!」

「ユーシィ、俺は……もう君には付き合いきれない……!」

 悲痛な叫びに背を向け、アルフレッドは燭台も持たずに部屋着のまま部屋を出た。

 ボーマン邸は水を打ったように静まり返っていた。

 先程の争いが嘘のように感じられ、彼はその静けさに冷静さを取り戻せそうな気がした。冷たささえ感じられる静けさが、暖かさを恋しくさせた。

 それはアルフレッドの心理に暖かな午後の記憶を思い起こさせた。

 その白い髪を持つ妖精じみた少女との陽だまりの時間を思うと、同時に、彼女を奪われたという事実が思い起こされ、そのせいで寝室での一件とは異なる苛立ちを覚えるのだった。

 そして、この有事に際して義姉と関係を持ちそうになった自分自身にも大きな嫌悪を覚えた。

 苛立ちがさせるまま館の二階を一回りすると、だんだん頭の冷えてきた彼は階下に降り、彼は厩に行こうと思った。

 長い距離を走らせることを考えると、エヴァンジェリンを労うのもよいだろうと思ったのだ。

 夜明けと共に彼もブリューテブルク城まで行こうと思いついた。帰ってくるルロイと合流して何か情報が知れたらよいとも。

 館を出る直前、黒い髪の女中が陰から音もなく歩み寄ってきた。

 察しの良いアルフレッドにもわからない程気配が消されていた。

「アルフレッドさま、こちらに来ていただけますか?」

 彼が女中からの申し出とは珍しい、と思いながらも一つ返事で彼女について行くと、彼女は厩の方に歩いて行った。彼は目的地が一緒なら助かると安直に考えながら歩いた。

「私には、連れて帰ってくるのが精一杯でした……。すぐに診てもらいましょう」

 彼女がそう言って厩の影にアルフレッドを招き入れると、そこには厩に背を預けぐったりとしている栗色の髪を持った若い兵士がいた。

 彼はその身につけた鎖帷子のお陰か目立った外傷はないものの、呼吸が大いに乱れていた。エヴァンジェリンもその首を傾けて心配そうに彼を見やっていた。

「ルロイか! しっかりしろ!」

 彼はアルフレッドの声に気付くと、軋む首を動かして、笑顔を作って見せた。

「若君……。申し訳ないです、やられちゃいました……ははは……」

 彼はそう言うと走る激痛に顔をしかめた。それを見た黒髪の女中が、女中の衣装が汚れるのもかまわず彼の傍に膝まづき脂汗を丁寧に拭いてやった。

 そしてアルフレッドに向かって申し訳なさそうな顔をして言った。彼女に表情を見たのはこれが初めてだと、彼は思った。

「こんなことなら止めておけばよかったです。あいつがあそこまで妖精に執着しているなんて予測がつきませんでした……」

「いや、サナちゃんは悪くないんですよ、若君。サナちゃんが教えてくれなかったら今頃……。うわあああ! そんなこと絶対にだめだッ! 痛っ……」

 ルロイが顔を真っ赤にして体を暴れさせると、痛めた部分に再び痛みが走ったようで、彼は歯を食いしばってそれを堪えた。

 その様子を半ば呆れた様子でサナと呼ばれた黒髪の女中が濡らした布で再び彼の額を拭った。今度は先程よりも少々手荒かった。

「今頃……って、何かあったのか、リュリに?」

「ありまし……あったのかッ! あったらいやだああああ!」

 アルフレッドが問い掛けると、ルロイは再びその顔を赤面させて手足をじたばたさせた。

 埃を立てる彼に代り、サナが続けた。

「白い妖精が、仮面の魔術師に貞操を奪われそうになっていたんです。未然に止められたんだから良かったと思いませんか、ルロイさん?」

「いや、でも、俺が行く前にもう……、ってそんなことばっかり考えちまう!」

「確かに、あれから二晩経っていますしね、行った後ということも……」

「サナちゃんやめて! それ考えるとつらいからやめて!」

 冷静なサナに対し、羞恥のあまり牧草の海の中に傷だらけの体を沈めるルロイは、微笑ましい光景だった。

 だが、アルフレッドは笑えない話の内容に顔を渋くしたまま話を続けた。

「君はうちの女中だったな? 何を知っている? 君のこと、リュリのことも含めてすべて話してほしい」

 彼に代って、という言葉は呑み込み、アルフレッドはサナに頼んだ。彼女は無言で立ち上がり、アルフレッドに向きなおった。

「この人を手当てしてもらってからでいいですか? 私の師匠に」

 サナがルロイを指さして無感情にそう言うと、厩の中へ白いカラスが器用に飛び込んできて、彼女の肩にとまった。


 アルフレッドはルロイを担ぎあげてリュリの使っていた客室に運び込むと、サナの師匠の行う治療の一部始終を傍で見守った。

 サナの肩の上に乗った白カラスは首を捻り自身の羽を一本引き抜くと、それを彼女に渡した。サナがそれを沸かした湯の中に沈めると、湯はとろりとした紫の液体になった。それを寝台に横たえられたルロイの口に含ませると、彼は少々咽ながらも全てを飲みきった。

「……おいしくない」

「そうでしょうね、薬ですから」

 苦い薬だったせいか、その顔を顰めたルロイをサナがたしなめる。白いカラスが嘴を開いた。

「あとは寝るだけじゃ、若者よ」

「カラスから人の言葉が聴こえるのって慣れねえ……」

「奇遇だな、俺もだ」

 ルロイとアルフレッドは人の言葉を話す白いカラスに未だ戸惑っていた。

 サナは寝台の傍に椅子を持ってきて、そこに白カラスを恭しく乗せると、その傍に立った。

「改めてご紹介します、アルフレッドさま。こちらが賢人イグナート先生です。先生、アルフレッドさまのことはもうご存知でいらっしゃいますね?」

 白いカラスはアルフレッドに向かって、解かっているという風にその瞳をぱちくりして見せた。アルフレッドにとって、サナの発言は俄かに信じがたい話だった。疑問が口をついて出る。

「イグナート殿は確か六年程前に……」

「そうです。先生の肉体は六年前、確かに滅びました。その有事において、先生はその精神をカラスの像に移したのです。五年前、私が先生の研究室においてその像に触れたとき、封印が解かれました。以来、私は弟子として行動をしています」

 アルフレッドとルロイの想像もつかない〈魔法のギフト〉の話に、二人は顔を見合わせた。

 ルロイが寝台からその体を起こし、白カラスに顔を寄せて軽い口調で質問する。

「イグナートさまって〈ギフト〉の有無を見極められるんだったよな? じゃあオレの当ててみてよ、カラスさん?」

 白カラスはその翼でふわりと飛び立ちルロイの膝の上に乗ると、そこで軽く足踏みをした。

「主は……。〈力のギフト〉……脚に宿っておるようじゃの」

「なんでわかるんだよ!」

 嘘だ、とぼやくルロイを放っておき、白カラスは傍に立つアルフレッドに向きなおった。

「主も〈力のギフト〉じゃ、間違いないじゃろう?」

 アルフレッドの全身の筋肉が強張った。

 近しい人間以外に明かしたことがなかったからだ。

 彼は生まれつき視力が高かった。彼の見つけるものは、たいていの人間に見ることのできない距離にあった。それを近親者に話しても共感は得られなかった。視界の遮られる森においても、その木々の葉一枚ずつの違いを見分けられるほどだ。その上にうまれたての芋虫がいることさえもわかった。

 アルフレッドの体が成長してゆくと、その良くきく遠目は、父親の趣味であった狩りに大いに役立ったものだった。

 そしていつしか、アルフレッドは、誰よりも狩りの達人として腕を上げていた。それも全て〈力のギフト〉の為せる技だった。

「本当に、イグナート殿……?」

「そうじゃ。遠目だけでなく、夜目も利くじゃろう? いきなりの光の明暗にも」

 アルフレッドが神妙に頷くと、白カラスは満足したようにサナの用意した椅子の上に戻った。サナは白カラスの行動をちらりと見遣ると、つまらない話ですが、と枕詞を置いて話を続けた。

「私の〈ギフト〉は〈魔法〉……移動に関するものに特化されています。私は、五年前に東のイーシアから自身の〈ギフト〉を暴走させてこのヴィスタまで来ました。それというのも、悪魔の子と呼ばれた生き別れの兄がいるところに来たかったからです」

「なんだそれ? 悪魔? そいつなんか悪いことしたのか?」

 悪魔という物騒な単語に、ルロイがすかさず反応する。サナは静かに語りだした。

「……兄が生まれる際に、母親が死んだのです。イーシアに伝わる神話に倣って、生まれるときに母親を殺す子供は悪魔の子と呼ばれています。父親は兄を旅人に売ったと言っていました。その後に娶った私の母も同様に私を生み落として死にました。父親は二度までも妻を失って、ついに狂人になってしまいました」

 表情も声色も変えずに淡々と壮絶な生き様を話す年端も行かない少女に、アルフレッドは心の中でそっと同情を寄せることしかできなかった。

 言葉が何の慰めにならないことを彼は知っていた。

 彼女が抱え込んできた心の闇があまりにも大きすぎたせいで、彼女は年相応の無邪気さを失ってしまったのだと想像することは容易かった。

 ルロイに至っては、自身の体の痛みを堪えていた時よりももっと苦しそうな表情をしていた。

「九歳だった私は、父親に殺されそうになりました。冥土の土産にと、私に兄がいることを口走ったのが彼の過ちでしたね。私は今際の際に〈ギフト〉を目覚めさせたようです。気付いた時には、ブリューテブルク城の地下室に居ました。……後から知ったことですが」

 月の光が病的にまで色白のサナの頬と翠の瞳を照らす。

「そこで先生に出会い、私は自らの〈ギフト〉を磨きながら、兄を探していました。ボーマン家に入ったのも実はその一環です。……王宮と制服が一緒ですから」

 サナがアルフレッドに視線を向けると、彼は軽く頷いた。

 ルロイは暫く考えた後、画点がいったようで納得した表情を見せた。彼の様子を見て、サナが口の端をほんの少し上げたのを、アルフレッドは見過ごさなかった。

「私は〈ギフト〉を使って、このヒューゲルシュタットとブリューテブルクを行き来して情報を集めていました。兄のこと……そして、兄の求める白い妖精のこと……」

 妖精という単語に、ルロイが食いついた。

「妖精! リュリちゃんを欲しがる奴……ってことは、サナちゃんの兄貴って……!」

 顎をあんぐりと下げるルロイに対し、サナはこくりと小さく首を動かして返事をして見せた。二つにまとめたくせのない黒髪が、さらりと肩から落ちた。

「先生とお話して分かったんです。仮面の魔術師こそが先生の敵にして私の兄だと」


 月がその役目を太陽に明け渡す頃、客室にはルロイとアルフレッドだけになっていた。

 サナは女中としての仕事のために去っていた。

 白カラスは二人の男性がうたた寝から覚めるとその姿を消していた。

 一条の光に目を覚ました二人は、まずルロイの回復に驚いた後、リュリについて話し合った。

 途中何度もルロイが赤面する場面があったが、なんとかその話が終わると、アルフレッドはすっかり彼女を何が何でも取り戻す気持ちになっていた。

 陽だまりのような暖かな笑顔をもう一度見るために。

 もう一度その腕に抱く為に。

 ふと、アルフレッドの脳裏に思い出したくもない義姉の誘惑が蘇ってきた。

 今度はアルフレッドが、そのルロイにいきさつを簡単に説明した。

「義姉上は、俺のことをリチャードと呼んでいた……そんなことは一度もないし、そんな当てつけるようなことをするような人ではなかったのに……なぜだと思う?」

 耳まで真っ赤に染めたルロイが、極めて真面目そうな顔つきをして答える。

「うーん……。未亡人の悪戯にしては、ちょっと変な感じだな……。母ちゃんに聞いてみるか……?」

「かあちゃん? 屋敷に知り合いでも居るのか?」

 アルフレッドが驚いて日光に照らされ始めたルロイの方を見ると、彼はあっけらかんとして答えた。彼の栗色の髪が透けて赤い炎のように見えた。

「一つ耳の熊、って言ったら解かりますか? あれ、うちのお袋です」

「……ハンナのことか? もしかして、俺たちは同じ熊に育てられたのか?」

 二人は顔を見合わせて大笑いした。

 そして、アルフレッドが右手を差し出すと、ルロイもその右手でそれを受け止めた。

 乳兄弟は、固く握手を交わした。

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