〈組曲〉メヌエット
イグナート――これは僕の師匠の名前だ。だけども僕は、この独白の場でまで彼のことを先生呼ばわりする気にはなれない。
彼は、大陸の西にあるヴィスタという王国の摂政だった。
ヴィスタ王家は極めて特殊な任を負っていた。それは、魔力の高い王家出身の君主が、その魔力を使って盾をつくり、痩せた土地や枯れた川を支える、いわば豊饒を司る宿命だった。そんなこと、まるで神話に出てくる神さまのする仕事だとは思わないかい?
僕が使ったような眼に見えない力というのは、この国では〈魔法のギフト〉と称されることもわかった。そう、僕は奇しくも、両親を奪ったイグナートの元で、知識と魔力の扱いについて訓練したのだった。
僕の身分は彼に買われていた。すなわち僕は彼の奴隷だったから、人目につかないところ、王宮の地下深い日の光も入らないようなイグナートの部屋の管理を任されるようになった。
そこにはあらゆる国から集められた魔術書、禁書、それから錬金術の本が集められていて、埃っぽくてかび臭かった。イグナートのいない間、僕はこれらを自由に読むことが出来た。それに、彼はその魔力を国王に分ける任務についていたから、ほとんど部屋には帰ってこられなかった。実質、ここが僕の部屋になったのだ。
年齢は知らないが、彼はたいそう偏屈な老人に違いなかった。地下室に戻ってきたときに僕が何かしらの本を読んでいると、僕のろうそくを消して、今読んでいた項目を暗唱しろと言ったりする。そこで僕がすらすらと言えてしまうと、次にその魔法を使ってみろと言う。だんだんそんなイグナートの偏屈さに慣れてきたとき、僕はこうやって言い返したよ。
「ネズミをたくさん召喚する魔法ですけど、いいですか? 先生のことだからここの本なんてすべてそらで言えてしまうとは思いますが、もったいないと思いませんか?」
羊皮紙は本当に弱い。インクは特にそうで、光にも弱い。植物性の紙に印刷した本もあったけれども、羊皮紙でできた本が特に多かった。それに、閲覧台が無ければ重たくてとても読めた代物じゃなかった。
だから、イグナートはこんな陽光の入る隙間もない王宮の地下に自室を作り、大切な本をしまったのだと、僕は分かっていて言ったのだ。彼はそれから、そんなに本に関する意地悪はしなくなったかな。
地下室には、魔法に関する本以外もたくさんあった。ヴィスタの建国史や、神話、昔話の類まで几帳面にそろえてあった。でも、それらを開いてみると、ページ同士が癒着していたり本を綴じる糊のはがれる音が聞こえたりしたから、書かれてから誰にも読まれていない本だということがわかった。新しい写本らしく、最後のページには写字士による署名があった。なんだか女性の名前のようだった。少し角の丸い、眼に馴染む文字を書く人のようだった。
僕は実用的な本も読んだけれど、それよりも神話や英雄譚に耽溺した。この身は邪悪な魔法使いの弟子という身分に甘んじていたけども、いつか剛力無双の勇者として、僕が家族を救う英雄になるんだと思っていたんだ。
そうやって、イグナートの書庫で何年も過ごした。ここに居る間、外の景色を見ることはついぞ適わなかったけど、その季節は感じていたよ。ページをめくる指がかじかんで、じっとしているとどうにも凍えて仕方ない冬を耐え忍ぶと、だんだんと厳しさも解れてきて、春が来たことを感じた。夏は快適だったよ。日差しも入らないし、本当に暑くて参ってしまう時にはひんやりした石の壁に寄りかかりながら作業をした。汗をかかなくなったなと思ったらもう秋だ。
そうやって僕は、地下室の中の灰色の四季を感じ取っていた。だから、ここから出たときには、色のある四季を再び見られて、感動したものだよ。
僕は見えない季節と、失った家族を思いながら十三歳になった。
日付については、占星術の表をつくっていたから間違いなかったはずだ。
僕は自身を英雄に重ねたりするような夢想家でもあったけれど、実際家でもあった。
イグナートがいない間、僕は今いる国についても調べた。王家の成り立ち、責務、そして今の王族。第五十九代国王には、唯一娘がいるらしいことも、地下に居ながらにしてわかった。
まあ、これはイグナートが時々ぼやいた単語を覚えていたら、その名前がたまたま血統図に書いてあっただけなんだけども。
彼女の名前はロザリンデ。母である王妃は、病床に伏せる父王にかかりきりだ。ヴィスタ王家に必要な〈魔法のギフト〉を持たず、両親にも愛されていない、可愛そうなお姫さま。
成人していない王妃が産み落とした子供だから、その世話を全て乳母に任せてしまったのだとイグナートから聞いた。ある日、イグナートにしては珍しく、何か悩んでいるようだった。
「国王はもう長くはないじゃろう……だとしたら、世継はだれが……」
僕は、そんなことはどうでもよくて、本を読みながらいい加減に答えた。
「ちっちゃいお姫さまでいいんじゃないですか。ちゃんと王族なんでしょう」
「むう……。そう簡単に引退は出来ぬか……」
イグナートは長いひげを指に巻きつけながら呟いた。
イグナートが僕の意見を採用したのかは知らないけど、記念すべき第六〇代目の王さまは六歳の女の子になったらしい。彼女は後宮から一気に引き揚げさせられて、今は王宮の玉座に座らされていた。王妃は喪に服したまま、その喪服をそのまま修道服に着替えたらしい。
よって、母親代わりの乳母も王宮にやってきたんだって。
六歳……。生きていれば僕の妹も同じくらいだろうか。
そう思うと胸がきりきりと締め付けられた。もしも天国に旅立ってしまった後なら、そこで両親に会えているだろうか。そんなことを思うと、僕は全てが悔しくて、枕をぬらすことも少なくなかった。
そしてその次に願うのは、イグナートへの復讐だ。
僕と妹から幸せな時間を奪った罪をつぐなわせるには、一体どうしたらいいのか。
僕はだんだんとその計画に傾倒していった。
僕は、心の中である計画を立てていた。この老魔法使いにあの世への引導を渡してやろうと。僕の中で芽生えた黒い考えが、どんどんとその葉を茂らせていく。それは、その瞬間が訪れるまでずっと渦巻いていた。
一方のイグナートはそうとは知らず、呑気なものだった。小さい子供の相手をするのが初めてらしく、意気消沈して僕のところへやってきた。
「のう、シュウや。小さな女の子というのは、一体何をしたら喜ぶんじゃろうな」
「手を使わずにシーツを畳んであげたらどうです?」
憎き宿敵に対し、僕はとっさに思いついた、いい加減な案を言った。
そして僕は思った。見ず知らずの子供なんかじゃなくて、妹を喜ばせたかったと。目の前の魔法使いは、僕からそのチャンスをすべて奪い取ったんだ。そう思うと、僕の中の復讐の木にまた一つ、恨みの実がなるのを感じた。
その一週間後くらいに、イグナートがほこほことして部屋に戻ってきた。正直、そんな様子を見て僕は最高に苛立った。でも、おくびにも出さなかった。彼はご機嫌に報告してきた。
「お前の言った通りじゃった! 陛下はたいそうおもしろがっておられたよ」
僕は彼の方をちらっとみたあと、煎じている薬をかき混ぜながら答えた。
「へえ。それはよかったですね」
極めて不愛想な僕の対応について、イグナートは全く気にしていないのかさらに続けた。
「お前のおかげじゃ。ありがとう」
僕は一瞬、聞き間違ったかと思った。
あり得ない。この人物は、人の形をとった魔物なんだから。僕の薬をかき混ぜる手が止まったことに気付かず、イグナートは僕の肩を軽く叩いて部屋から出ていった。
それからだ。僕がこの地下室から出られるようになったのは。一体どういう風の吹きまわしなのか僕には理解できなかったが、突然、許されたのだ。顔に刻まれた皺が一層深くなったイグナートが、僕に言い渡した。
「長い間、こんなところに閉じ込めておいて悪かった」
そう言った後、さらにこう続けた。
「出かけておいで。そして、ここを家だと思って、いつでも帰っておいで」
僕が自由を手にして最初にしたことは何だったと思う?
ここまで聴いてくれた君ならわかるだろう。
そう、三年前に国境沿いの森で逃がした妹の安否を尋ねることだよ。
僕は地下室に居る間に頭の中に叩き込んだヴィスタの地図を頼りに王宮を出た。世界は光で満ちあふれていた。ちかちかと目に刺さる痛みがなくなるまで、しばらくかかったよ。
城下町を一通り歩いてから国境の方に向かった。実際に歩くと距離感というのが体に馴染んできて、ずっと今までこうして生活してきたような錯覚さえ覚えてきていた。
少しの小銭とアラムの残した荷物を持って、僕はヴィスタ国の東にあるボーマン伯爵の領地エルレイに向かった。瞬間的に移動する魔法については覚えていたけれども、あの魔法は僕自身の頭の中にある記憶に依存するものだから、一度歩いて行ってみなければならなかった。
十三歳の少年の足で、エルレイへは四日かかった。そもそも三年もろくに運動をしていなかった体に、いきなりの長旅はこたえるものだった。途中、何人も商人や旅人にすれ違った。その度に僕は尋ねた。
「白い髪と翠の髪を持つ、妖精みたいな女の子、知りませんか?」
尋ねた人たちはみんな、鳩に豆鉄砲を食らわせたような、そんな間抜けな顔をした後にいつも同じことを言った。見たこと無いな、と。
ちょっとした旅に出て一週間が経ったころ、僕はようやく国境沿いの森を隣とする樵たちの住む町に着いた。ホルツという町だ。
人々であふれかえる城下町エルンテなんかより人が少なくて、かえって僕には居心地の良い町だった。宿も安かったし、僕はしばらくここを拠点にした。むやみに森の中に入って、自分が遭難するのは避けたかったしね。
宿屋の小母さんに、世間話がてら、このあたりの様子を聞いてみた。彼女はその職業柄なのか、取っても気さくに答えてくれた。
「僕、このあたりって初めて来たんですけど、どんな感じなんですか?」
「どんな感じ……。そうねえ、商人さんが結構来るわよ。森でとった獣の皮とか肉とかを売りさばく人もいるし、粉を売る人もいる。南のエスパディアから来る人もいるわね」
僕は彼女にしばらくここに居ると伝えると、興味深い単語を言った。
「あら、もし遊び相手が欲しいなら、南に行くと孤児院があるわよ。いってみたら?」
僕は勧められるまでもなくそこに行った。町の中の人間関係なんて僕に知ったことではなかったし、僕のただ一つの目的は妹を見つけることだったんだから。
まだ昼間だったから、森の中は明るかった。
三年前のあの日の森だと思うと、その落差になんだかそわそわした。
そう思っていると、木陰から急に小さな白いものが飛び出てきて、僕にぶつかってきた。
「ひゃっ!」
「うわっ!」
僕はその塊を受け止めた。結構な勢いだったから、僕も危うく転びそうになってしまったが、何とか持ちこたえた。僕は目を疑った。夢かと思った。
「ごめんなさい、ぶつかっちゃった。いたくない? いたくない?」
「あ、うん、なんとか……」
天使がもてあそんだ雲みたいな、きらきらした白い髪、そして陽光にきらめく翠の瞳。
僕は本当になんとか彼女の言葉に答えるのが精いっぱいだった。
妹が生きていた……。
それだけで、僕の生きる意味が見えてきた。
それだけで、僕の真っ暗な三年間が報われる思いがしたんだ。
涙があふれてくる。止められない。鼻も出てくるけど拭く物も無い。
「いたかった? どこいたかった? なかないでー!」
「だ、大丈夫、大丈夫だから……」
ぼろぼろとその場に泣き崩れる僕に、妹は、その小さな手で頭を撫でてくれた。
それが逆効果になってさらに泣きじゃくる僕に、彼女は困り果てて、小さなポケットから小さなハンカチを貸してくれた。
「ふきふきしてね、いたいの、ごめんなさい」
申し訳なさそうにする、七歳になっただろう妹が愛らしくていじらしくて、僕はたまらなくなって彼女を抱きしめた。
「生きていてくれて、ありがとう……」
僕は戻った宿屋の薄っぺらいベッドの上で悩んだ。妹が生きていてくれた事実は、僕に生きる意味を取り戻してくれたけど、彼女は僕のことをこれっぽっちも覚えていなかった。
そうだ、これは僕が望んだことだ。両親を目の前で消され、兄から手を放される、そんな苦い記憶を捨てるように言ったのは僕だ。あのときのきらきらは、僕の魔法だったに違いない。彼女の兄だと僕が申し出て、彼女に過去の記憶を取り戻させたら、きっと妹は苦しむはずだ。
妹の居る場所がわかって安心した僕は、体調を崩してしまったため瞬間移動の魔法を使ってすぐにイグナートの部屋に帰った。イグナートは、熱を出した僕を心配してきて、解熱剤を飲ませてくれた。僕は都合のよいことを考えたよ。そんなことできるわけがないって思うような。そして、ちょっと気を緩めてしまって、考えが口からポロリとこぼれた。
「……過去って、変えられないんですかね……」
「頭が熱でやられとるようだの。……道具はあるんじゃ。ほら、これじゃ。お主の荷物の中に入っておったようじゃがの」
イグナートは、アラムの荷物の中から布でくるまれた物を取り出した。彼がその包みを開けると、中には竪琴が入っていた。アラムが大事にして、僕にも見せてくれなかったものだった……。それには、見えないほど細い絃が張ってあった。
「絃が無いから……、なんと、張られておる……。〈魔法のギフト〉を持つ女性の髪でなければ時の竪琴の絃は張り替えられぬはずじゃが……?」
「時の、竪琴……?」
「さよう。これを爪弾けば時を越えることが出来ると言う。じゃが、この絃の様子では一回も持たんじゃろう……」
僕は朦朧とする意識の中でその言葉をしっかりと頭に焼き付けた。それさえあれば、過去に行ける。過去を、変えることが出来る―。
その日から僕は、孤児院で育つ妹を遠目に見守りながら、その時が訪れるまでの四年の間、イグナートの食べ物に少しずつ毒を盛った。あの日煮出していた植物の根の液は、香りも味も弱く気付かないほど弱いが、長年の摂取で確実にその肉体を滅ぼす毒だった。
「シュウ、貴様か……一体……」
「お忘れですか、先生。まあそんなご老体ですから無理もありませんね」
「まさか……アラムの……?」
「その死に体でよく思い出してくださいましたね。大正解ですよ」
苦しみか驚きかはわからないけど、彼が目を見開く。イグナートは喀血と共にしわがれた声を絞り出した。
「時の竪琴が狙いか、ばかものめ……その竪琴の絃は一度でも使えば切れてしまうじゃろう……。二度と、この時間軸に戻ってはこれまい」
僕は、もうすぐ人生を終える哀れな大先生に教えてあげた。
「戻る気なんかありませんよ、先生。僕は、過去からやり直すんです、あなたが奪っていった愛しい人と共に」




