六、浮世離れの才人
第六〇代ヴィスタ女王ロザリンデの元摂政ジークフリートは、その役目を終えると、政治の場にほとんど顔を出さなくなった。
女王からも何も説明がなく、元老院は首を傾げるばかりだったが、肝心の女王の仕事ぶりが良いため、誰も彼のことを気にかけなくなってきていた。
実際、アルフレッド・ボーマンとロザリンデの婚約をつつがなく結んできてくれた彼に対し感謝さえすれども、反発はしなかった。これまで、ジークフリートが元老院の機嫌を損ねるような行動をした試しもなかったから、この対応は至極真っ当と言えるものだった。
もっとも、元老院の注目は、二週間後に控えた女王の成人の儀と結婚披露宴に注がれていた。
家柄があり、結婚適齢期真っ最中の男、アルフレッド・ボーマンを王室に迎えることは、彼らの意に沿ったようだ。
この状況をよしとした仮面の魔術師は、独自に行動を重ねていた。
彼は今、お気に入りの香水を振りまいたベッドの上で細長い両腕を開いて寝そべっていた。
しかし彼の胸をいっぱいにしているものは、その香りではなかった。
日の光が、しっかりと閉じ切られたカーテンの隙間から部屋の中へかぼそいリボンに姿を変え侵入している。
ジークフリートが何気なしに首を横へ倒すと、自身のスカーフを彩る真珠が目に入った。言わずと知れたそれは、丸く艶やかで、舌の上にひとたびのせれば、とろけてしまうのではないかと思えるようなミルク色をした宝石だ。
彼はその暖かい色に眠気を誘われ、翠の瞳を虚ろに濁らせた。
「アルフレッドを、女王陛下の花婿に?」
エルレイの地、ボーマン家の客間で、真珠を髪にちりばめた貴婦人がほんの少し眉を上げた。
その手には、王家のクラウンが押された手紙が開かれている。書状の宛名として「元王女にして伯爵未亡人ユスティリアーナ・フロリンデ・イリシア・ボーマン様」としたためられていた。
「ええ。そちらに書かれてあるとおりです。陛下が成人されると同時に、婚儀をとりはからおうと考えております」
「しかしアルフレッドは、エルレイを治める身ですわ。王宮に身を寄せる訳にはまいりません。彼は女のわたくしとは違うのですから」
彼女の青い瞳は厳しい色を湛えている。
ジークフリートはそれをいなすように、けぶるような睫毛を羽ばたかせた。
「いえ、結婚とは言いましたが、ただの契約だとお考えいただければいいのですよ、未亡人。正式な契りの前に、舞踏会で恋に落ちてくれれば、こちらのものですが」
「契約……」
「そう。ヴィスタ家の〈守護のギフト〉を発現させるだけの契約です。愛が無くとも構いません。家と血筋を存続させるためには致し方ないことでしょう」
未亡人は艶やかな唇を強く引き結び、その隙間から小さく呻いた。
「あの子に、誰よりも愛されたがっているロザリンデに、そんなひどいことがよくも言えますわね、ジークフリートさま」
貴婦人が穏やかな雰囲気を一変させて、声を波立たせるのに対し、魔術師は何食わぬ顔をして紅茶を口に含んだ。唇から離れたカップには、キャラメル色の液体が満ちている。
「あなたがそうおっしゃるとは思いませんでしたよ、レディ。アルフレッド殿をここまで追い詰めたあなたが」
「魔術師さまは、何が言いたいのかしら」
ジークフリートはそっと前髪を掻きあげた。しかし癖の強い黒髪は、撫でつけたそばからくるくるとうねる。
「これは、私とあなたとの契約でもあるのです」
魔術師は机に両肘をつくと、翠の瞳でユスティリアーナを直視した。
「知りたくはありませんか。五年前のこと……リチャード殿のことを」
ちりちりとした不快な頭痛とともに、ジークフリートの意識が浮上した。
午睡のために滲んだ汗が肌全体をしっとりとさせていた。少しねばついた首元にくせ毛が張り付いているのを、彼は無造作に撫で払った。そして、夢に見た貴婦人の堅苦しい佇まいを払拭するかのように、ほんの少し首を回した。乾いた喉仏が少し上下する。
「どうせ夢に見るなら、リュリが良かったのに」
魔術師は、頬骨にぶつかる固いものを左手で取り除いた。それは、彼が人前で片時も外さない仮面だった。眼窩がくりぬかれ、それを覆うようにスズランの彫刻が施されている。彼の目元をしっかりと覆うそれの銀色の目元からは、青空の一滴のように澄んだ色の雫石が飾られていた。揺れて光を跳ね返す宝石に、ふと視線が吸い込まれる。
しかし、その瞬間に真っ白な髪を持つ少女が脳裏を横切った。
彼女の瞳はこれよりも綺麗だった、とジークフリートは思いなおし、手にしていた仮面をベッドの上に放った。そのついでに瞳を乱暴にこする。
「……リュリ、リューリカ……!」
ジークフリートの手の甲が、にわかに湿る。ふいにこみあげてきた涙は瞳から溢れるだけでなく、彼の鼻腔まで塞ごうとしはじめた。しかし、鼻をすする彼の口の端は、持ち上げられていて、あろうことか、小さな笑い声までもが喉を鳴らす。
「ふふ、ふふふ……!」
細長い両腕を投げ出したジークフリートの顔は、涙が浮かんではいたものの晴れやかだった。
「生きていてくれた! しかも、無傷で! ははは……。あはははは!」
魔術師は、彼が憶えている限りしばらくぶりに腹を震わせて笑った。彼の甘やかなテノールが部屋中に散る。彼は体を針金のようにしならせて起き上がると、虚空へと手を差し出した。
「お手をどうぞ、レディ。美しい森のドレスをお召しになって、一体どこへいくのかな?」
夢想の中で、少女が彼の真っ白な手指をおずおずと受け取る。触れた手のひらは瑞々しく、小さくて弾力があった。
恥ずかしげに伏し目がちにしているのがたまらなくいじらしく感じられて、ジークフリートは彼女の気を引こうと唇を羽ばたかせる。
「君は運命を信じるかい、可愛い人?」
白鳥の羽のような前髪の下から、翡翠の翠をしたきらめく魔法の瞳が、ちらりと彼のことを窺う。そして遠慮がちに、ふるふると首を横へ振った。
男の自尊心をくすぐるようなかよわさだ。
ジークフリートは興奮のあまり、心だけでなく体まで小さく震わせた。思わず少女の細い腰をとる。その拍子に白く輝く髪がふわりと揺れ、彼の鼻を甘い香りで満たした。それは、ハリエンジュの白い花が風にさわやかな香りを装わせるのに似ていた。
「リュリ。運命はあるよ。僕たちがこうして、再び出会えたんだから」
魔術師は彼女をリードしてワルツのステップを踏む。
少女の成長した体、女性の象徴の一つである柔らかな双丘が足取りの度に弾み、彼の欲望をかきたてる。
二人の新緑の双眸がからみあう。
「ねえ、リュリ。可愛い声を聴かせて。お願いだから」
熱っぽく懇願する青年に、少女は無情だった。つい、とそっぽを向いたのだ。
つれなくされても、魔術師はがっかりしない。
恋する男の瞳に映るのは素直になりきれない意地っ張りの横顔だけだからだ。
彼はチャンスをくれてやるように、そっとかたちのよい顎をつまみあげてこちらへ向かせた。
「僕の妖精。まことの恋人……」
そうして彼は、乙女のつぼみに舞い降りる羽のような優しいくちづけをおくった。
ジークフリートのゆっくりと開いた瞳、彼の腕の中に少女なぞいる訳もなく、彼はただ一人で踊っているにすぎなかった。それを見ていたのは、鏡台のそばで鳴りを潜めている彼の竪琴と、閉じ切られたカーテンだけだ。
「……」
ジークフリートの細長い腕が夢見るように下ろされる。
ふわりと、あたかもバレエのエチュードが終わったかのように。
じくじくという寂しさが募りつつも、不思議とむなしさは感じられなかった。
これまでとは違い、彼の心の中に、成長した少女の姿が花開いているからだ。
だが、彼女を求めるあまり、ジークフリートの喉は乾ききっていた。
焦る気持ちとともに、少女を本当に抱き寄せた男への嫌悪も高まる。
「アルフレッド・ボーマン……」
ジークフリートは、普段の優雅さをかなぐり捨てるように頭をかきむしった。
「なんで、なんで! よりによってあいつなんだ? よりによって、ボーマンなんだ?」
魔術師はぐるぐるとその場を歩きまわる。苛立ちが足音として高らかに部屋中へ散らかる。
「エルレイの森にいたなら、それなら僕が先に見つけてしかるべきだろう! そもそも、エルレイなんて飽きるほど探したのに! それなのに、どうして!」
どうして、という叫びの合間に、彼はふと気付いた。
そうだ。リュリの虹彩は萌える木々の葉と同じ色をしていた。
「そうか。リュリの〈ギフト〉ということも……。血は争えないということか」
ジークフリートは自身の考えにひとつ満足感を覚えると、鏡台を覗き込んだ。
そこに映り込んだ青年の素顔の上には、陽光の差し込まない部屋でもきらきらと輝く、翠の瞳があった。先程乱した黒い髪を指の腹でそっと撫でつける。するとくるくるとわがままに遊んでいた髪の一本一本が自発的にふんわりと弾んでまとまった。
彼は前髪の下で細い眉がしかめられていたのに気付くと、それをほぐした。
おまけに、つくりものの頬笑みを浮かべる。これこそが仮面の下にいつも創りだしていた彼の本当の仮面だった。
それはそのうちにほどけて、白い歯がぬらりと現れた。
「ふふ。それにしても僕の布石に狂いはなかった。アルフレッド・ボーマンには、しかるべき場所に収まってもらう。小さな女王さまにも」
鏡には、笑顔と言うには歪んだものが映っていた。
ジークフリートは、仮面舞踏会の場で目的の人物を見つけられたことだけを幸運と思うようにした。
一度ならず、何度もつかみ損ね、見失い続けてきた希望の光。
それを今やっと手にすることができるという期待感までもわき立つ。
彼は、少女を庇護しているであろうボーマンの屋敷へと向かうことにした。そうと決めたら、今すぐにでも行かねばならぬ気分でいっぱいになった。
陽が昇ってまだ時間もそんなにたっていない、今日中に行って帰ってこようと彼は思案した。
彼は自室の窓辺に立つと、右手で指を鳴らした。
その音とともに、彼のたっぷりとしたマントが彼の全身を包み込んだ。すると、その場から長身の若者が消え、代わりに黒々とした翼を持ったカラスが現れた。
黒いカラスは、ジークフリートが変身する姿としてよく好まれていた。
少年の時分は、瞬間的に目的地に移動してから、その場で変身をしていた。だが、それを素人の考えだと思いなおしたので、多少移動に時間がかかったとしても、変身を遂げてから行動を開始することを選んだ。
黒いカラスとして窓から飛び立ったジークフリートは、城の南東を目指した。四日前の仮面舞踏会の主催者、ボーマン家の領地がある方角だ。
太陽が昇って、あたまのてっぺんを通り過ぎる頃、彼はボーマン邸についた。
軽く旋回しながら降りて行き、屋根にとまると、ボーマン邸は何やら騒がしいようだった。
聞き耳を立ててみようかと、細いカラスの足でぴょんぴょんと跳ねながら屋根のてっぺんから縁まで降りてみる。すると、何やらあわてた様子の青年が、鉄格子の門を開けさせて馬を走らせていったのが見えた。
魔術師はカラスの小さな首をこてんと傾げる。
「アルフレッド・ボーマン? 尋常ならざる様子だね。もしかして、彼女に逃げられたのかな?」
くすくすと喉を鳴らすジークフリートは、狩人の帽子の下から馬の尻尾のように揺れる金色の房を見て、出ていった青年をボーマン家の次男と判断した。
「さすがは僕のリュリ。悪い男からきちんと逃げられたんだね」
そして、ボーマン邸の様子と彼の様子とを合わせて推理したところによると、どうやらここにはすでに目的の人物はすでにいないと考えた。
ジークフリートは黒い翼を広げ、アルフレッドの馬が立てる土煙を追った。
アルフレッドが馬から降りたところは、ボーマン邸からさらに東にある森林地帯だった。
入口の近くには樵の村ホルツがあり、エルレイ全体を見れば、未だ開拓の進まぬ土地であると魔術師は窺った。
アルフレッドが馬の手綱を引きながら歩くのを見て、ジークフリートはそっと馬鞍のうえに降り立った。標的が一度森の中に入ってしまえば、木々の腕に邪魔をされて空から見つけ出すのは困難であると判断したためだ。
乗られた方の馬は、ジークフリートを快く思わないのか、尻を跳ねさせながら退けようと必死に動いた。彼は、アルフレッドの手前、発声することは避けたが、心の中で盛大に舌打ちをした。
馬の様子がおかしいことに気がついたアルフレッドが立ち止まって振り返る。
ジークフリートは少したじろぎ、アルフレッドの感覚を侮っていたことを後悔した。
「どうした、エヴァンジェリン? ……なんだ、カラスか。いつも仲良くしているだろう」
彼は愛馬の首筋を撫でさすってやると、引き続き歩き始めた。
ジークフリートはほっと胸を撫で下ろし、アルフレッドの鈍感さを称賛した。
馬の方はというと、諦めたのかおとなしく歩いてはいたものの、その尾っぽは不機嫌を表すようにぶんぶんと振り回されていた。
アルフレッドが歩みを止めたのは、森の北に位置する、通称北の泉と呼ばれる湖のそばだった。
彼はエヴァンジェリンと呼んだ愛馬の手綱を近くの木の枝にくくりつけると、その周辺を歩きだした。
どうやら誰かを探しているようで、首をきょろきょろとしきりに動かして木陰に分け入っている。
ジークフリートは彼の様子を見て、彼が目的の人物の正確な居場所を知っているわけではないと判断し、自身もその翼を使って探すことにした。
「ここでリュリと会っていたのか……」
そう思うと、近くにいる間抜けな男への嫉妬が燃え上がる。
ジークフリートはそれを務めて無視しながら高度を上げ、北の泉の上空を旋回した。何やら建物が無いかと探していると、強風にあおられてしまった。
その拍子に二人の人間がいる小道の脇に落ちてしまったが、体に損傷はなかった。
ジークフリートが再び翼を広げようとしたその時、彼の落ちてしまった木陰の反対側に、白くきらめくうねりを見つけた。
「……見つけた……」
「カラスさんが道を教えてくれるって! 行きましょ!」
そう言った少女は、栗色の短髪を持つ青年の手を取り、駆けだしていった。
「あれは、城の衛兵じゃなかったか……? 一体なぜあいつがここに……」
ジークフリートはその様子を見て、再びはらわたが煮えかえるような嫉妬を覚えたが、気を取り直して、少女たちを追った。
彼女を迎えに来たのだと自分に言い聞かせて、冷静さを損なわないように努めた。
少女の軽快な足取りを追いかけてたどり着いたのは、他の木々よりも何百年と生きているであろう太い幹を持った大樹の麓だった。そして、その木の枝と枝の間に小さな小屋が組んであった。大樹のまわりをぐるりと囲む畑は豊かで、青々としていた。
魔術師は、この、明らかに周囲の木々よりもぬきんでている大樹を空から見ても見つけられなかった自分の瞳を疑った。大樹の持つ無数の枝と葉が、この小屋と少女を包み隠していたのだとしても。
「やっぱり、なんらかの力――いや、リュリの〈ギフト〉――で見えなくされていたんだな」
納得すると同時に、一つの妙案が彼の中に閃いた。
ジークフリートは、少女が青年兵士を大樹の麓に残して、ひとりで梯子をのぼり小屋に入っていくのを見届けた後、再びその翼を広げた。
「彼女が誰のものか、わかっておいた方が良い人はもう一人いますからね……」
彼は心の中でほくそ笑むと、北の泉へと舞い戻っていった。




