四、せめて、ひとことだけ
太陽が空を白ませはじめる明け方。朝を告げる鳥たちの声がやかましい中、黒髪の女中がアルフレッドの部屋を訪れた。
彼は既に目覚めていたが、朝特有の気だるさが抜けず、もう一度まどろむのをベッドの中でぼうっと待っていた。だから、居間の扉を叩く音には過敏に反応してしまったし、寝室のドアを叩く音に至っては身構えてしまった。その一連のあわただしい音を聴いてか、女中はその扉を開けずに言い放った。
「おはようございます、アルフレッドさま。奥さまがお呼びになられていますが、お支度のほうはいかがでしょうか」
彼は聞き覚えのある感情の抑制された声を聴いて、ほっと肩を下ろした。
三日前の仮面舞踏会の後、しばらく面会を断り続けていた未亡人からの招待だった。アルフレッドは彼女の狼藉についてやっと問い詰める機会が来たとふむと、勇んでベッドから跳ね起きた。
「四分、いや二分だけ待ってくれないか」
アルフレッドは手早く身なりを整えながら、扉の向こうに居るであろう女中に向かって言う。
「かしこまりました。わたくしはお茶の支度に参りますのでこれで失礼します」
彼女は、さほど彼に興味がないような声音で答えると、静かな足音で去っていった。
「姉上のご病気がすっかり良くなられて、僕は嬉しいですよ。三日間も御休みなさっていたものですから、心配で……」
アルフレッドは柔らかい物腰で切り出したが、その視線は厳しいものだった。
夫人はそれをまともには見ず、焼き菓子に手を伸ばした。
陽が昇りつつある早朝だったが、風が冷たいのでテラスの窓は閉じられ、そのすぐそばに丸机が用意されていた。義理の姉弟は淹れたばかりの紅茶の暖かさをカップ越しに感じながら、それぞれの思惑を探ろうとしていた。
「ええ、お陰さまで。そういえば、あなたの舞踏会に皆さん大変満足されていましたわ。恥ずかしくないレディもつれていたと噂になっているそうよ。姉として鼻が高いわ」
そう言うと未亡人は、固く焼かれたジンジャーブレッドを音もたてずに口に入れた。
「姉上の名を汚さぬよう、必死に努めただけです。やはりこういった催しは姉上の手腕があってこそと、骨身に感じましたね」
アルフレッドは陽の登ったであろう気配を、窓の向こうに探す。顔におだやかな頬笑みを湛えた二人の視線は一向に合わない。どちらかが本音を引き出せそうな隙のある発言をしたら、そこでこの会話の勝者は決まるだろう。そう考えて、慎重に言葉を選んでいた。
「物事は経験ですわ。わたくしはこう言ったことをしばらくの間やってきましたもの。お兄さまにできたことです、あなたにもできますよ」
兄、という言葉にアルフレッドの眉がぴくりと反応する。貴婦人はそれを目の端で捉えるとさらに追い打ちをかけた。未亡人はアルフレッドが事あるごとに兄に対抗心を抱きつつも、それを誰にも知られまいと隠したがっていたのを、少女時代から知っていたからだ。一瞬でも感情を露わにしたほうが、主張をより強く出せる。
そう、二人は強がっていた。
「あなたにリチャードさま……お兄さまの面影を見ている人も多いのですわ。あなたが爵位を継いでくれたらという人は少なくありません。わたくしもその一人だということは、もうわかっておいででしょう」
「ええ。それはもう、うんざりするほどには」
「……」
反抗的な態度を変えないアルフレッドに、ユスティリアーナの目元が一瞬ひくついた。彼女はコルセットの下で静かに腹を立てはじめていた。
威勢と返事の良い少年アルフレッドが、こうも強情な男になるとは。リチャードという家督をなくしてからだったかしら、と貴婦人は訝る。彼女が怒りにまかせて尋ねたところで、大人になったアルフレッドに軽くあしらわれて終わりだろう。それは、ボーマン伯爵未亡人たる彼女の威厳が許さなかった。
ユスティリアーナは紅茶で喉と心を潤し、気を取り直した。本題はこれからですわ。
「アル。喧嘩腰はおやめになって。こわくて縮こまってしまうわ。落ち着いてお話しさせてくださるかしら。わたくしとあなたにとって、とても大切なお話ですの」
「そう受け取っていらっしゃるのはあなただ」
無表情に突っぱねられるのにも、限界があった。
「また、そうやって!」
「義姉上こそ、そうやって声を荒げればこちらが怯むとでもお思いでしょうか。侮られたものだな」
「ええ、ええ。女ごときに責められたって、一寸も動じないでしょうね、あなたは! でもどうかしら。軍配はすでにわたくしに上がっていてよ」
アルフレッドの銀鼠色の視線が、言葉の代わりに冷ややかに注がれる。挑戦的な鋭さでユスティリアーナを貫くそれに、彼女は屈しなかった。
「これまでの縁談を、すべてあなたに問うてきた理由なんて、知らないでしょうね。あなたの自由意思を尊重するからこそ、無理に婚約を結ばずにきたということを」
義弟が噛みつく。
「それが、何か? 真に俺の自由意思を尊ぶならば、そもそも縁談なんて突きつけはしない。それはあなたのエゴイズムだ」
「利己主義者で結構。実際には、わたくしの利益なんてこれっぽっちもありはしませんけれども」
息を荒げ始めた貴人たちは、これまで潜ませていた棘を言葉の節々に突き出させる。子音が自然に強調されて、とても穏やかとは言えない雰囲気だ。
「そう。あなたのためよ、アルフレッド。引いてはこの家、そして国家のため」
「また話を逸らすつもりか?」
「まさか。これこそが本題よ」
ユスティリアーナの青い瞳が、決意と怒りと悔しさとが入り混じって潤む。しかし、そこで涙をこぼしはしなかった。彼女は大人だった。
「女王陛下との婚約が決定しました。これは縁談ではありません。あなたとロザリンデは夫婦になるのよ!」
アルフレッドが音を立ててカップをソーサーに叩きつけた。その音の大きさから、茶器の一部が欠けたであろうことは明白だった。
「そうか……。最初から、そういうつもりだったのか?」
アルフレッドの苦々しい言葉を聴いて、未亡人は口ごもった。彼女が義弟を見やると彼は苦痛に耐えるかのような表情で彼女を見つめていた。少年のようなまっすぐな瞳と、ゆがめられた眉根に、彼女は自身の表情をつくろうことさえも忘れた。貴婦人の中で、アルフレッドはいつも少年時代のままだったが、今の彼の厳しい表情を見て、彼女は時の流れをまざまざと見せつけられた気分になった。
「おかしいと思ったんだ。ジークフリートが来て、それからいきなり仮面舞踏会だなんて。やっぱり君が噛んでいた。おまけに女王まで? ああ、なんて夢みたいなんだ」
アルフレッドの唇から乾いた笑いが漏れる。
「悪夢だよ、ユーシィ」
義弟のバリトンが濁った。
「ユーシィ! そんなに、俺のことが嫌いなのか。俺は、まだ君のことを……!」
「わたくしはリチャードさまのものですわ」
「ああ、わかっている、わかっているさ! だから、近くにもいられないって。けれども遠くにもいられないんだ。一体、俺はどうしたらいい? 君に出会ってから、思いの枷がずっと、ずっと俺を捕えているっていうのに!」
先代の王リュディガーの妹、王女ユスティリアーナがボーマン家に修錬に来たとき、アルフレッドは理解者を得た。
「君を……本当に素晴らしい人だと思って……」
想い人が義姉になったとき、アルフレッドの初恋はやぶれた。
「でも、君が選んだのは兄貴で……」
義姉が未亡人として生きることを選んだ時、アルフレッドのささやかな夢は潰えた。
王が倒れ、兄もいない今、貴婦人の唯一の身内として一番近しい存在は彼だけだった。
「兄貴がいなくなって、今度は俺が君を支えてあげられるんじゃないかって……」
その事実が彼のプライドを支えていた。
アルフレッドはとつとつと本心を紡いだ。
「ユーシィ。俺は、君を愛していたよ……」
拳を膝の上で握り悲痛な言葉を投げかける義弟に対し、義姉のほうは冷酷だった。
「かなしい初恋でしたこと。もう、お忘れになってはいかが。あなたこそ、わたくしを愛していると言う口で、どういうおつもりであの娘を連れてきたのですか? わたくしの縁談を全て断り、その中で連れてきた女性ですけれども。まさか、伴侶になさるおつもりだったのかしら? 妖精王になるつもりだったのなら、ぜひその算段を聴かせていただきたいものだわ」
「ぐ……!」
そう問われると、彼には答えが無かった。
素直で愛らしい、妖精のように幻想的な少女に惹かれない、と言えば嘘になる。けれども、彼女を自分の妻にするとまでは考えていなかった。第一、気軽に昼寝に誘ってみたり、のこのこアルフレッドに着いてきたりと、すっかり警戒心をなくした少女に対しては、愛玩動物に対するような慈愛の気持ちのほうが強かった。ふいに押し付けられる柔らかな体を意識しないことはなかったが。
アルフレッドが言葉に詰まると、ユスティリアーナはその隙にたたみかけた。
「いいのよ、アル。あなたが一番わかっていますわね。身分のために許されない恋があることは。一夜限りの夢だったと思って、妖精リュリのことはいい思い出になさいな」
貴婦人はそう言うと立ち上がって、アルフレッドの後ろに回った。そして彼の肩にそれぞれ手を置くと、アルフレッドの耳元にそっと唇を近付けた。
「アル。わたくしもただでとは言いませんわ。ロザリンデの伴侶になると、たった一言いってくだされば、わたくしが夜伽の手ほどきをしてさしあげます」
彼は不意に訪れた言い知れぬ感覚に、背筋をぞくりとさせた。アルフレッドの耳をくすぐったのは、聴く者をうっとりとさせるような、艶やかなメゾソプラノだった。声帯を羽で撫でて奏でたような密やかな声は、彼が初めて聴くものだった。
アルフレッドは顔を染め、突然立ち上がった。その足で戸口に向かう。
あんな声を聴いて、理性を保てる男なんかいない。
かといって、貴婦人との一夜のために、自身の一生を女王に捧げるというのもお角違いだった。それにユスティリアーナを抱いたからといって、彼女を自分のものにできるわけではないと、アルフレッドはわかっていた。嫌というほど。彼女の心は、今もずっと、行方知れずの兄、リチャード・ボーマンのものだった。
「くっ……!」
苛立ちを露わに去るアルフレッドは、またもこの口論の敗者だった。
だが、彼女のほしがった答えはまだやっていないと、一抹の安堵もあった。
追い打ちをかけられるまでは。
「アル。あなたは縁談を断ったおつもりでしょうけれど、これはそもそも縁談ではなくってよ。すでに元老院と取り決めた婚約ですの。あなたに断る権利はほとんど残っていませんわ」
その様子を、さも見なれたように貴婦人は愁いを帯びた瞳でそっと見送った。彼はおもむろに立ち止ると、肩越しに問いかける。
「ユーシィ。あの事件があってから、君は変わったな。俺はあのときから、ずっと変わらないっていうのに。どうしたら君は、傍に居てくれるんだ?」
貴婦人は何も言わず、微動だにせず、ただ寂しそうな頬笑みをアルフレッドに向けるだけだった。彼はそれを見ると、そっと未亡人の部屋を後にしようとした。
「ひゃっ!」
アルフレッドの開けた扉の影から、何かが聴こえた。彼が扉を閉めると、朝日にきらめく髪の房が目に入ってきた。フードの下からのぞくそれを見て、彼は愕然とした。
いつか聞いたような、素っ頓狂な声をあげた少女は顔ごと扉にぶつかったようで、両手で患部を撫でさすっていた。彼女は尻もちをついたにもかかわらずぴょんととび起きた。そして素顔を見せることなくアルフレッドに声をかけた。
「あ、あの、私……。お家に帰るの! ありがとうございました!」
「リュリ!」
宮廷式の礼もせず、勢いよく頭を下げた少女は召使ではなかった。
アルフレッドの客人であった彼女は、彼が呆気にとられているうちに階段を駆け下りていってしまった。フードは脱げなかった。
「今のを、聞かれていたの……か? 」
彼が事態を呑み込めたのは、あてがった部屋ががらんどうになっていることを確認してからだった。
アルフレッドはベッドの上に、舞踏会で彼女がまとった翠のドレスを見つけると、それを手にとった。ドレスには少女から滲んでいた森の匂いが、かすかに残っていた。
いつの間にか顔を見せた朝日が、テーブルの上の小ぶりな仮面を輝かせていた。
リュリはアルフレッドの顔を見まいと、すぐに走りだした。貴婦人の部屋のすぐ横の階段を下りると、誰かとぶつかりそうになった。
「ひゃ、ごめんなさい!」
「……」
リュリは間一髪、その人物との衝突を、身をひるがえして回避した。
対する黒髪の少女は、その服装からしてボーマン家の女中のようだった。彼女はリュリの突然の登場に対して目を丸くすることも無く、一言も発しなかった。
まるで、この場でリュリに会うことがあらかじめ決まっていたかのように当たり前にしていたので、ぶつかりそうになったリュリの方が面喰ってしまった。だがしかし、今は彼女にかまっている暇はなく、急いで屋敷を後にしたかったのでリュリは素早く頭を下げるとその場から立ち去った。
馬の汗のにおいを頼りに出口を見つけ出すと、リュリは持てる力をすべて足に込めて走り出した。鞄が、その大きさと重さで盛大に揺れ、彼女の走りの邪魔をする。彼女はそれを右手で制し、左手はフードが脱げないようにきつくケープを握りしめていた。
石の角がすっかりとれた古い石橋を渡りきると、そこには門と衛兵が控えている。しかし、運の良いことに郵便馬車が到着する時間とかち合ったため、二人の衛兵が門を開けているところだった。
鉄格子の門が、ぎりぎりと歯車のきしむ音とともに上がる。郵便馬車の通れる高さまで鉄格子が上がり、馬車が通っているところでリュリもちょうど門前にたどり着き、彼女は門と馬車の隙間から出ていった。
その様子に呆気にとられた兵士が、門を操作する鎖をうっかり緩めてしまい、鉄格子が勢い良く落ちる音が夜明けの空に大きく響き渡った。リュリがその音に驚いて、立ち止まり振り返ると、閉じられた門の向こうに郵便馬車の無事が確認できた。けが人は出なかったようで、兵士と御者がいがみ合う声がした。と、その喧騒の中に知った声が聞こえてきた。
「早く門を開けろ!」
それはアルフレッドのものだった。
「アル、くん……」
リュリはそれに気がつくと、門に背を向けて、陽の登る方角へと走り出した。それは彼女の家のある森の方角だった。
彼女は、ボーマン邸が見えなくなるまで、街や村、あぜ道を走りぬいた。かかとの部分がこころもとないミュールとは異なり、履きなれた革靴はいくら走っても彼女の足を傷めつけることはなかった。太陽もすっかり昇りきっており、世界をその光で包んでいる。
家へと向かう最中、リュリの頭の中にはたくさんの疑問が駆け巡っていた。そのほとんどはアルフレッドのことだった。なぜ彼女を屋敷に迎えたのか。なぜ舞踏会に連れ出そうと思ったのか。なぜ優しくしてくれたのか。
「アルくん、好きな人が他に居るのに……! わたし、わたし……!」
リュリの頬にふいに涙がこぼれてきた。強まる向かい風に彼女の走る足も次第に遅くなり、進む足も弱弱しくなった。なだらかな丘陵についたころには、彼女には走る体力も気力も残されていなかった。
とぼとぼと歩くリュリに、後悔の念が押し寄せる。今のリュリには、新緑に包まれた明るく生命力に充ち溢れた世界が皮肉のように見えた。
「カラスさんの言っていたとおりだった……他人を信じちゃいけないって、こういうことだったのかな……」
五年前の〈孤児院事件〉から、着かず離れずリュリを保護してくれていた白いカラスは、疑うことを知らなかったリュリに、口を酸っぱくして他人を疑うように言っていたのだった。その度にリュリは言葉だけで反抗したものだったが、実際にこのように信じていたものに足元をすくわれる思いをすると、考え方を変えた方が良いのかと思い始めてきた。カラスの言葉がリュリの頭を横切る。カラスに会うたびに聞くこの台詞を、リュリはそっと呟いてみた。
「だれも信用しちゃ、だめなんだ……」
と、そのときリュリの後ろの方で、なにやら子供の騒ぐ声が聞こえてきた。その声は、俯いてゆっくり歩く彼女にだんだんと近づいてくる。
リュリは旅人を装うために、フードを深くかぶり直した。汗がついて普段よりもその強い癖が露わになった白金の髪も、そっとケープの中へ忍ばせる。
リュリは軽装の旅人を何度も森の中で見たことがあったが、白金の髪の人物は自分以外知らなかった。いや、と一つ思いなおす。あの恐ろしい仮面の男も、月光に染まる白い髪を持っていた。
子供の集団がリュリを追い越して先へ行こうとしたとき、その中で一番年少の男の子が、姉らしき人物に手を引かれながら何度も振り向き、ずっとリュリの方を見ていた。
リュリはその視線を感じながらも、フードが脱げないよう歩くペースをそのままに俯き、彼らが過ぎていってしまうのを待った。
「妖精さんだ! スー、妖精さんだよ!」
小さな少年は声をあげるとリュリに駆け寄った。リュリは一瞬固まってしまうも、その少年の顔を見ると、フードを引っ張っていた左手を下ろして彼の頭を撫でてやった。
「ああっ。ごめんなさい、うちの弟が……あ……」
二人の少年を引き連れてリュリのもとにやってきた一番年かさの少女は、リュリを見てその笑顔を咲かせた。二人の少年も手を叩きあう。
リュリは生まれて初めて、笑顔を作って子供たちに声をかけた。
「スーちゃん。みんな。お家に帰るところ、かな? 実は、私もそうなんだ」




