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【完結】純白の抒情詩《リューリカ》  作者: 黒井ここあ
第二章 錯綜せし絃

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三、ケシの花びら散るころに

「はぁ……! はぁ……!」

 リュリは長い廊下を走っていた。

 壁に灯された蝋燭の明かりを頼りに、先の見えない渡り廊下の、その奥へ奥へと。

 重たい翠のドレスをたくしあげ、歩きにくいミュールを履きながらも、懸命に逃げる。

 しかし、走れども景色はゆっくりとしか動かず、ちっとも進んでいないように思えた。

 心なしか体の動きもだんだんと重たくなっているようだ。

「あっ!」

 彼女は声にならない声を上げた。

 ふいに左足をくじき、不意に床へくずおれてしまったのだ。

 背後から影が音もなく忍び寄る。

 リュリはとっさに振り向き、立ち上がろうとした。だが、たっぷりとしたドレスの布を踏んづけてしまい、思うように身動きが取れない。

 影はその長い手を、あとじさるリュリに向かって伸ばしてきた。

「いや……。こないで……」

 その影は白い髪と翠の瞳をもった男だった。炎を瞳にちらつかせながら、リュリに近づく。そして背筋も凍るような甘美な声で彼女を懐柔しようとするのだ。

「さあ、一緒に……リュ……」

 男の唇がリュリを求めて妖しく蠢いた。


「いやぁっ!」

 リュリは目覚めた。

 未だ陽が昇らぬ、月も高い時間だったのであたりは静かな濃紺に包まれていた。

 遠くに早起きした小鳥たちのおしゃべりが聞こえている。

 不快な目覚めだ。

 汗で髪の毛が肌にまとわりつき、寝巻もこころなしか湿気ている。

 羽毛と綿のしっかりと詰まった枕やベッドなど、今までに使ったことのないような高級な寝具に横たわっているというのに、ひとたび眠ってしまうとあの悪夢が襲ってくるのだった。

「うう……。また、かぁ……」

 あの仮面舞踏会から三日が経った。

 白い髪の男に迫られた一件から、リュリは安眠を奪われて久しかった。

 彼女はとうとう寝不足に根を上げて、何か手立てはないかと思案した。

「そうだ! 何かあったんじゃないかな」

 そして一つ思い立つと、温かいベッドの中からまだ冷える室内へと軽やかに飛び出した。むき出しの足に床が冷たかった。彼女はひとつ身震いをし、ボーマン家に持ってきた大きなカバンをベッドへと速足で持って帰ってきた。それをひっくり返し、ベッドの上にその中身を両手ですべてかき出した。ガラスのガチャガチャとぶつかる音のする包みがいくつもあるのを、リュリは一つ一つその中身を取り出し、並べ、目的のものを探す。

「蜜ろう、クレイ……、この袋は違う……」

 黄色い塊の入っている大瓶と赤茶けた砂の入った大瓶を彼女の左に振り分け、その近くにクリーム色の袋を置き、リュリは青い色の袋に手を伸ばす。

「あ、瓶が小さい。精油かぁ……。ほかに何かあったかな……?」

 リュリは藍色の袋から親指ほどの小さな瓶を一つ取りだしては、その香りを確かめた。コルクの栓を取らずとも香りが識別できるほど、精油の香りは強い。その作業が終わった小瓶は漏れなく彼女の右側に並べられた。

「ミント、ユーカリ、イランイラン……。ラベンダーは忘れてきちゃったのか」

 花や葉の精油をすっかり並べ終えると、リュリは最後の白い袋に手をつけた。こちらに詰めていた瓶は、彼女のこぶしより小さいくらいで、花弁や何かの根、葉などがしっかりと乾燥した状態で保存されていた。彼女はベッドの上に差し込む月明かりで瓶の中身を照らしながら識別してゆく。

「これはタイムでこれがローズマリー。……これはカレンデュラ? 消毒系ばっかり」

 彼女が何を探していたか。それはラベンダーやカモミール、パッションフラワーなどの不眠を解消する類のハーブだった。

 しかし、リュリが持ってきた「家出セット」の中には見当たらなかったため、彼女は肩を落とした。かといって、このまま寝不足を続けたい気持ちはしなかった。どうしてカバンの中に入れてこられなかったか、彼女は記憶を手繰り寄せた。荷物を詰めるとき、そして家を出るとき。

「カラスさんに見つからないように出てきたんだから……。あ!」

 彼女は、自宅の戸口をまたぎ、カラスがいないかどうか室内を確認した時のことを思い出した。

 ぼんやりとした記憶の中に右へ左へと首を回したときの映像が浮かぶ。枕元につるしたラベンダーの束と、窓辺にあるネットを敷いた籠の上に並べたカモミールの花々。大樹の上から梯子で降りてきたときに確認した、ハーブ畑のパッションフラワーの株。

「そっか、まだ乾かしてなかったもんね。乾いてないのはさすがに持ってこられないはずだよ。でも……」

 一週間以上たった今なら、すっかり乾燥して使えるかもしれない。

 リュリはふと、たくさんのハーブが混ぜられたサシェのような自宅の香りを思い出し、恋しさを覚えた。少女はベッドの上で小さく膝を抱えた。

 大樹の上にあるがために狭く、天井も低い小屋。風が良く通る自宅は、今、彼女の住まわされている屋敷とはかけ離れた家だった。彼女にとって、屋敷にある贅沢なものが彼女の暮らしやすさには直結していなかった。

 その証拠に、あの履きにくく歩きにくいミュールせいで足の小指が未だにずきずきと痛むし、美しくもいざ着るとリュリの体を存分に締め付けたあの翠のドレスを見ると、着てもいないのに呼吸が苦しくなるような気がする。

 極めつけは、紅く燃える翠の瞳と白い髪を持った男から、無遠慮に触れられたあの日の思い出だ。おどけながらも悲しみの表情をした気味の悪い仮面の奥に、どんな表情が隠されているか、リュリからは見えなかった。だが、男の尋常ならざる様子は、少女を怯えさせるのに十分だった。

 ――僕の妖精。僕のまことの恋人。

 仮面の男の、うっとりとした、いやに滑らかな声を思い出すと、リュリの肌はにわかに粟立つものだった。彼女は何かに守られたい気分がして、ベッドのリネンの中に深く潜り込んだ。

 彼女の素顔をゆっくりと覗き込んできた燃える魔法の瞳は、彼女そのものを見透かしてそのまま取り込んでしまうかのように感じられたのだった。そのまま囚われてしまったら、と思うとリュリはそら恐ろしかった。

 ――貴方に家族がいるとしたら、どう思いますか?

 はじめて会ったのに不思議なことを言うものだ、とリュリは思った。

 彼女には生まれてこの方、血縁者と過ごした記憶が無いからだ。

 しかし、あの白い髪をした男はなぜ、リュリに対して問うてきたのだろうか。

 彼との出来事を脳内に呼び出す度、恐怖がにじり寄る。ぞわぞわした嫌な震えがつま先から頭の頂点に達した。恐ろしさに強く目をつむると、記憶はアルフレッドが助けてくれたシーンに飛んだ。

 かたかたと震えるのを自覚して、それを止めるのに、あるいは仮面の男から救ってほしいがために、アルフレッドにしがみついたことも覚えている。だが、その後のことはまるで覚えていなかった。リュリは、毎度のことながら、自身の記憶力の悪さにうんざりしてきた。

 でも、ドレスの下のコルセットのせいで呼吸が浅かったところに、さらに息の詰まるようなことをされたのだから、仕方がない。

 少女は真っ白でふわふわと渦巻く髪の中に顔をうずめて、自分自身に言い訳をした。

 しかし奇妙なのは、その舞踏会のあとにアルフレッドに一度も会えていないことだ。

 彼の部屋はリュリの部屋のすぐ隣ではあるが、彼女は自由に部屋を出ることが許されていなかったため、自ら出向くことは不可能なのだった。これも不可解なことだなとリュリは再認識する。なぜ部屋から出てはいけないのだろう?

 自由な好奇心のままに家を後にしたが、好奇心を満たす為の代償は、リュリ自身の自由だったことに気付いた。

 彼女は学んだのだ。

 貴族社会というのは田舎者が興味本位で足を踏み入れて良い場所ではないと。

 少女は一つの決意をした。

「おうちに帰ろう。カラスさんも心配してるはず、だよね」


 リュリが汗ばんで張り付いた髪をひとまとめにしていると、その耳にノック音が聞こえた。

 少女が体をびくつかせてすくみあがったところに、扉が開いた。入ってきたのは、癖のない黒髪を二つに結びきった女中の少女だった。濃紺のメイド服で足首までを覆い隠し、その上に清潔な白いエプロンを身につけている。

 リュリは一瞬、見覚えのある顔だと気付き、彼女を見たのはいつだったろうかと頭を回した。幸運にもまばたき数回分で、舞踏会のために髪を結ってくれた子だと思い出せた。

 女中は無感動に口を開いた。

「妖精。奥方が入ってもいいですか」

 有無を言わせない口ぶりに、リュリは体を固くした。

 リュリは妖精と呼ばれたことに反論したかったが、ハンナが教えてくれた丁寧な言い方が全く思い出せずにあたふたすることしかできなかった。

 そこへ、音もなく一人の女性が現れて戸口をくぐった。

「あなたが妖精ですのね。サナ。下がってよくてよ」

 ランプを手にして入ってきたのは、濁りのない小麦色に輝く金髪をふんわりと結いあげた女性だった。髪と同じ色の睫毛が縁取っているのは、晴天の瞳だった。ほっそりとした顎の上で、厚くもなく薄すぎもしない上品な唇が頬笑む。リュリが悲鳴を上げたような豪奢なドレスを、さも普段着のように着こなして悠々としている美しい女性に、リュリは圧倒された。思わず脚がそろう。

「はい、奥さま」

 女中は丁寧におじぎをして部屋を出ると、音もなく扉を閉めた。

 リュリは、突然の来客にすっかり戸惑ってしまって、ベッドに座ったままでいた。

 青い瞳でリュリの全身を上から下まで舐められているような、そんな錯覚まで覚えて、少女はちぢこまる。それさえも見とがめられているような気分がするくらい、リュリは緊張感を高めていた。

 なので、貴婦人から声を掛けられて体をびくつかせたのは、彼女にとって自然なことだった。

「あなた」

「ひゃいっ!」

 貴婦人はきゅっとひとつ瞳を丸めたが、次の瞬間にはそれをふんわりと緩めた。くす、と控えめな笑い声はカスミソウが揺れるような可憐さがあった。貴婦人はサイドボードにランプを置くと、リュリに向き直った。

「いいのよ、楽になさって。自己紹介がまだでしたわね。わたくしはユスティリアーナ。この家のあるじよ。アルの義理の姉ですわ。あなた、お名前はなんておっしゃるの?」

 レディ・ユスティリアーナは甘やかなメゾソプラノで語った。そして、ふんわりとした頬笑みとともにたおやかな礼を見せると、リュリの隣に腰かけた。その拍子に、彼女のまとう香りがリュリを訪れた。ジャスミンだ、と少女は直感的に解った。

 リュリは、貴婦人がアルフレッドを愛称で呼ぶのに、ほんの少しだけ嬉しくない気持ちがした。思わず唇が尖る。

「……リュリです」

「そう。家名はなんて?」

「わからない、です」

「そう」

 尋ねておきながら、ユスティリアーナの返事はそっけなかった。

「不思議な白い髪と魔法めいた翠の瞳を見て、あなたのことを妖精だと、みな思っているようだけれど。その真偽はいかほどかしら」

 ユスティリアーナは金髪を飾る真珠と同じ輝きをした頬で、そっとリュリの顔を覗き込んだ。すっと背筋をピンと伸ばしたまま顎を引くその仕草は、完璧に作り込まれたものだ。

「え、えと……」

 リュリは、違う、とは断言できない自分を恥入った。

 貴婦人のまなざしに不機嫌なものはなかったけれども、どこか抜け目なくて、嘘も本当も言ってよい相手なのか、リュリには判別が難しかった。

 少女はばつが悪くて瞳を泳がせる。

「その、わたしにも、よく、わからなくって……」

 リュリがちらと上目遣いに見上げた美しい相貌には、先ほどと変わらず穏やかな頬笑みが浮かんでいた。

「そう。わたくしにとっては、どちらでもかまいませんわ」

「ほえ? そうなんですか?」

 思わず明るい声が出る。優しく受け答えするユスティリアーナに気を許しそうになったのだ。

「あなたが妖精であろうとなかろうと、お帰りいただくにはかわりありませんもの」

 相変わらず口元に頬笑みを湛えたまま、貴婦人は変わらぬ調子でさらりと言った。

 この人は、一体何を言っているのだろうか。

 貴婦人からの思わぬ宣言は、リュリの心をきゅっと震え上がらせるのに十分だった。

「アル――アルフレッド、彼は近い未来、この家を背負って立つ運命にありますの。我が伯爵家の存続のために、王家と婚姻を結ぶことになったのですもの」

 はくしゃくけ。

 おうけ。

 アルくんに聞いた言葉だ、とリュリは茫然と聞き流していた。

 こんいん。こんいんってなんだろう。

 正確な意味を理解できなくとも、リュリには、その言葉がアルフレッドと彼女を引き離すものだということは、うっすらと感じられていた。

「それは、どういう……?」

「アルフレッドとは、二度と会わないでくださるかしら」

 会わない。

 言葉がリュリの心に突き刺さる。

 彼女の〈ギフト〉は、アルフレッドの矢よりも鋭いそれからは守ってくれなかった。

「ど、どうして?」

「アルには、相応しい相手がおりますの」

 あなたではなく、と、貴婦人はあえて言わなかったようだ。

 ユスティリアーナは心からの言葉のように、流麗に舌を動かす。

「あなたには感謝していますのよ、リュリ。堅物のアルが舞踏会に出て、そしてわたくしの代役を務めるだなんて。あのようにしてくれたのは初めてなのですもの。元来、その能力を持ち合わせているのに、できなかったのが不思議なくらいですの。ダンスを忘れていないことも解ったことですし、ロザリンデ女王に会わせても恥ずかしくありませんわね。ねえ、そうは思わなくて?」

 リュリは、貴婦人の意図が全く解らず、ただただ困惑しきっていた。

「ふふ。あの強面が王配になれるだなんて、本当に幸運なお話ですわ。これまでの縁談を破棄してきたかいがあったというもの。あの子にも先見の明があったということかしら。ああ、それにしても、リチャードさまにご覧にいれられない、ただそれだけが心残りですけれど……」

 そしてこれが――穏やかな表情と語り口を武器にするのが、貴族のたしなみだということも察し始めていた。

 ここは、わたしのいていいところじゃない。

 リュリは知らず知らずのうちにこぶしを握りしめていた。それで体の震えが収まるわけではなかったのだが、そうするほかできなかった。

「ところで、お帰りはいつになさるのかしら」

 ユスティリアーナは、手土産を用意するような気軽さで言った。

 だからリュリも、そう努めた。

「今日。これから、帰ります」

 

 ユスティリアーナが、お気をつけて、と一言残していった部屋に、暗闇が戻ってきた。

 しかし太陽が勇み足で朝を連れてこようとしていたので、闇は濃紺から紺へ、その色を変えていた。外では光の到来を喜ぶ鳥の声が、一層騒がしさを増している。

「……はぁ……」

 ため息とともに、リュリの頬にほんのひとしずく涙が零れた。それをきっかけに、熱いものが次から次へと流れ出す。それを手の甲で拭いながら、どうして泣いているのかわからないと、リュリは一人心の中で言い訳をした。どうして涙があふれてきたのかな。

 本当は解っていた。

 これは、あの舞踏会の続きで、怖がる気持ちだということに。

 ユスティリアーナの穏やかな語りには、無言の責めがあった。リュリにはそう感じられた。

 アルくんに会いたい。

 でも、会っちゃだめなんだ。

 貴婦人の口ぶりから、舞踏会のあと、リュリとアルフレッドが会えなかった理由がなんとなくわかった気がした。二人はすっかりユスティリアーナの手の上で踊らされていたのだ。

 リュリは、自身が利用されたことに傷つくほど、社会性を持たなかった。

 それよりも、アルフレッドが自分を森から連れ出したその真意について直接聞いてみたいと、強く思うようになっていた。

 ふつふつと沸きあがる疑問、「どうして」の気持ちが、リュリの悲しみの隙間を埋めてゆく。

 どうして、会いにきてくれたの。

 とうして、連れてきてくれたの。

 どうして、わたしだったの。

 思えば思うほど、唇から言葉になって飛び出してしまいそうだった。

 リュリはぼうっと重たい頭なりに、帰りの支度を始めることにした。

 柔らかくて薄いコットンのワンピースを脱ぎ捨てて、ベッドの上に乱暴に放り投げると、鞄の中から着なれた下着と花染めのチュニック、ニッカーボッカーズを取り出し身に付けた。使っては洗いを繰り返した衣類は、多少のごわつきはあるものの、リュリの肌にしっくりとなじんだ。

 次に、ベッドの上に開かれた小さな市を全て畳み始めた。それぞれの瓶を対応する袋にそれぞれ入れ直し、無造作に革の鞄の中へ詰め込む。ガラスの瓶がぶつかり合う音が涼しく鳴り終わると、鞄はふっくらと膨らんだ。リュリはそれを見て、鞄が屋敷に到着した時よりも心なしかしぼんだような印象を持った。

 まるでわたしみたい、と少女は自分を重ねてみた。

 ベッドに腰掛けたまま、靴に手を伸ばす。薄くて外に出たらすぐに壊れてしまいそうなミュールではなく、少し土の匂いのするくたびれた革靴をとると、その中に丸めて入れておいた靴下をはいて、革靴を履いた。最初に右足、次に左足の革ひもをほどけないようにきゅっと結ぶ。そして、結ぶために持ち上げていた脚を下ろす反動を使って勢いよく立ちあがった。

 すると丁度、彼女の左手から化粧台の鏡がこちらをこっそり伺っていた。

 ブラシを手にとる。彼女の髪の毛は癖が強くそれぞれ渦巻いているので、頭のてっぺんから髪の先まで、ブラシが通るようになるには時間がかかりすぎる。であるから、今はとりあえず一つに結んでおき、髪を梳くことは帰宅してからやることに決めた。馬の尻尾のように高い位置で結んでしまうとケープのフードが顔を隠す役割を果たさなくなるので、髪をすべて右側へ流し、リボンで一纏めにした。

 リュリは鞄を斜めに掛け、その上からケープをはおり、フードを目深にかぶった。一週間だけだが不思議と思い出のたくさん詰まった豪華な部屋に別れを告げがてら、忘れ物が無いか調べた。寝室は確認が済んでいたので、その横の水回りと姿見のある部屋を確認した。

 そこには初めての晩餐の机があり、その上には、舞踏会の日に身に付けた仮面が乗せてあった。リュリは、ハンナが置いたのだろうかと一瞬思考を巡らせたが、手にとりはしなかった。

「運よく取ることができました」

 ふいに、あのいやになめらかなテノールがリュリの耳に聞こえた。強風に飛んだ仮面をやすやすと掴み取り、差し出してきたあの男のことをまた思い出してしまったのだ。

 リュリはそれを忘れようと首を振った。

 これは、わたしにはいらないもの。

 もはや彼女にとってそれは苦い記憶を呼び覚ます装置でしかなかった。

 リュリは仮面とドレスを残した部屋に背を向け、重たい扉をゆっくりと開ける。

「さよならって、言いに行くぐらい、いいよね」


 リュリはアルフレッドに連れられるまま屋敷までやってきたため、実のところ自身の滞在していた部屋が屋敷の一体どこにあるかすらも知らなかった。只一つわかっているのは、隣の扉がアルフレッドの自室だということだった。

 何か地図があればわかりやすいのにと頭の中で愚痴をこぼしながら、リュリはとりあえず廊下からアルフレッドの部屋に入ることにした。彼女はそっと、だが徐々に力を込めていきながら重厚な扉を、音を立てずに引いた。細身の少女がすりぬけられるくらいの隙間を作ると、そこに自身の荷物を挟み、素早く室内に滑り込んだ。そしてゆっくり時間をかけて荷物をそこから抜いて、扉を閉めた。

 初めて入るアルフレッドの部屋は、彼が好んでいるらしい薔薇のような香りがほんのりと漂い、狩人が森から帰ってくるにしては床が綺麗に掃かれ磨かれていた。その両目がすっかり暗がりに慣れているリュリは、部屋を見回しながらつやつやした床に靴音が鳴らない様、慎重に足を進めた。リュリの見たところ、どうやらこの部屋はリュリの部屋だったところと鏡うつしの間取りになっているらしかった。それというのも、扉の位置、姿見の場所、食卓のある位置が見覚えがあるようでしかし正反対の位置にあることに気付いたからだった。だが、四枚の壁には扉とも戸棚とも見分けのつかない引き戸が何枚もある点が異なっており、リュリにはどれが寝室につながっているのかは見当もつかなかった。

 彼女が廊下から入って左側にある扉を叩こうと手を上げようとした瞬間、今まさに入ってきた扉から三回、ノックの音が聞こえた。リュリは慌てて、しかし音をたてないように窓を開け放つと荷物と共にテラスの陰に身を寄せた。もちろん窓の扉は元に戻したが、音が聞こえるのを危惧して鍵はかけなかった。

 朝靄が覆う暗い世界に一条の光が差し込むのを見て、リュリはその清らかな光景に溜息をついた。と、彼女の耳に、蹄鉄がその場で足踏みする音が飛び込んできた。呼吸をしてみると草木の青い匂いと共につんと鼻につく獣臭さを感じられた。

 馬小屋が近い、と彼女は気分が高揚するのを感じた。彼女の連れてこられたとき、屋敷の出入り口は馬小屋から近かったのだ。あのまつ毛の愛らしいアルフレッドの愛馬を、彼自身がそこに連れていったために彼女の記憶に残っていたのだ。

 リュリはテラスにかかる太い枝を伝って屋敷から抜け出すこともできたのだが、そうはしなかった。

「アルくん、どこにいるんだろう?」

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