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【完結】純白の抒情詩《リューリカ》  作者: 黒井ここあ
第二章 錯綜せし絃

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二、ラジカル・シンギング

 仮面舞踏会へお忍びで遊びに、もとい見学しに行ったうら若き女王、ロザリンデ・ツィツェーリア・フォン・ヴィスタは、舞踏会後の二日間、自室のベッドの上で二日酔いに悩まされた。

 一挙手一投足に頭痛がついてまわるというこの奇怪な病状に、少女は大いに苦しんだ。

 女王の身支度のためにやってきた侍女も晴れた窓辺から彼女を手招く菩提樹の緑も、永遠に続くかのような悪疾のせいで、すべて少女に呪われるはめになり、唯一、彼女の首筋を冷やしに来てくれる風だけが歓迎された。

 深酔いのせいで、いつ、どうやって帰ったのかも覚えていない。

 そもそも酔っぱらったという自覚すらなかった。辛うじてぼんやりと覚えているのは、豪華絢爛な舞踏会についてである。ダンスは危険だと深く胸に刻み込んだことと、彼女の頭の中で繰り広げた踊る自分とその摂政という場面に限られていたが。

 麦粥などの病人食にすっかり飽きた彼女は、食器の乗った盆をサイドボードの上に無造作に置くと、柔らかな掛け布団にくるまって寝転がった。

 そして思い出せない記憶を、覚えているところからなぞっていた。

 桜貝のような艶やかな爪が並ぶ、ほっそりとした指先は、無意識に胸元の銀のペンダントに触れていた。

 魔術師ジークフリートがくれたそれを、口元に持っていこうとしてもなぜかできない。

 吹こうか吹くまいかためらっているうちに、音のしない笛にアネモネの刻印があることに気付いた。銀色の花は落ちる陽に煌めいて、ロザリンデのすさんだ心を和ませた。

 だがしかし、彼女の憂鬱はそれだけでは解消されなかった。ロザリンデはそれを口から漏れだすままにしていた。

「はぁあ。せっかくの舞踏会なのに、まったく踊らなかったわ。あいつ、あの甘い顔の魔術師。ジークフリートのことだもの、楽しく過ごしたい違いないわ。それなのに、わらわは……」

 女王はころりと寝がえりを打つ。結ばれていない桃色の長髪がうねり、手触りのよいシルクのカバーの上に黄金に輝く流れをいくつも描き出す。

 寝台の上を縦横無尽に転がるうちに、同じくシルクのナイトキャップはすっかり脱げてしまっていた。乳母に見咎められそうだが、糸紡部屋にいる彼女にすぐには伝わらないだろう。

「そもそも、わらわがこんな風に苦しむ道理なんてどこにあるのかしら? わかるわけがないじゃないの。あれがお酒なんて誰も言わなかったのよ。あの甘い飲み物が。それとも、他の食べ物にもお酒がたっぷり仕込まれていたのかしら。それを知りながら、誰もわらわにおしえてくれなかったのだとすれば、それはそれは大変な不敬だわ。それで、何が悪かったのかしら。マフィンかしら、それともあの、とろっとした物が入ったチョコレート? どれもおいしかったのに、とんでもない罠だったということね!」

 人参の入っているマフィンは初めてだったが、女王の口に合ったことは確かだった。今度は酒を使わせずに作らせてやるわ。それに加えてチョコレートの中に液体が入っていることにも驚かされた。いっそ、ボーマン家の菓子職人を引き抜いても良いかもしれない。

 独り言と思索がはかどるほどには、彼女の二日酔いも回復してきていた。ふと、目に付いた髪の房を指に巻きつける。そのなかに一本枝分かれしたものを見つけ、力任せに引きちぎった。

「あるいは、あるいはよ、お酒でもなんでもなく、薬が入っていたのだとしたら。だまし討ちもいいところね。結局、あれがすべての原因なのだわ。あれのせいで気分が悪くなってしまわなければ、わらわはあの日……」

 ジークフリートを探しに行けたのに。

 最後の言葉は口の中で紡いだ。

 身分を偽って参加した舞踏会でロザリンデの興味があったもの、それは舞踏会に踊り狂う大人でも、シャンデリアの輝くダンスホールでも、ユスティリアーナの代わりにホストを務めざるを得なかった気の毒でかわいそうなアルフレッド・ボーマンでもなかった。

 少女はただ、ジークフリートと手と手を取り合って踊ってみたかった。成人する彼女を一人の女性として認めさせたい。そういう気概でいっぱいだったのだ。

 そのために、とびきりのおめかしをして、大人びた装いと態度のロザリンデを見せつけて、彼の眼が真ん丸に見開かれるのを見てやろうと密かに画策していた。それなのに、ただ飲んで食べて終わってしまった。それくらいなら居城でもできること、そして踊ることはめったにできないことゆえに、女王は苛立つのである。

「なによ、なによ! わらわのおバカさん!」

「本当ですよ、陛下が目を回してくれてさえいなければ、今頃……」

「きゃあっ!」

 ロザリンデは、ベッドのすぐ横からふいにきこえてきた声に肌を粟立たせた。

 驚いた拍子に飛びのきながら声のするほうを振り返ると、仮面の魔術師ジークフリートが女王の鏡台に軽く腰掛けていた。そして腹の底からのため息を吐き捨てると、不機嫌そうな翠の視線だけを彼女に投げた。その手にはいつもの茶器があり、ミルクとスパイスの香りが湯気と共に上っていた。

 女王は極めて態度を崩さないよう、叫んだ。

「い、いつからそこにいたのよ!」

 対する男は、飄々としたものである。

「陛下が麦粥をおいしくなさそうに召し上がっている頃から、ですかね」

「この間、今後はわらわの部屋に無断で入ることは許されないと言ったじゃないの。それをあなた、自分で破るだなんて!」

「ちゃんと伺いましたよ。陛下の大きな独り言には負けましたが」

 魔術師は心外そうにいってのけ、瞳を閉じると手にしている茶器を口元へと運んだ。起きぬけの女王は耳まで羞恥で赤く染まっていることを隠すため、掛け布団を頭のてっぺんまで引っ張り上げ、声も張り上げた。

「出ていきなさい! いますぐ!」

「お伝えしたいことがあるから、ずっとお待ちしていましたのに。陛下はひどいお人です」

 女王の様子など意に介せずといった風に、ジークフリートは大層残念そうな声を出してみせた。しかしその声音にも関わらず、口元は仮面のようにぴくりとも動かなかった。

 ロザリンデはちらりと布団から瞳を出して魔術師の方を窺った。彼はちょっとの視線も向けずに紅茶を飲んでいた。まるで女王のことよりも紅茶が冷めてしまうことの方が大事かのようだった。

 ジークフリートの端正な顔立ちが感情を表さないとき、その表情は極めて冷酷に見える。女王の苦手な魔術師の側面が出てきて、ロザリンデは黙ってしまった。

 彼はさも簡単だったというような口ぶりで、さらりと切りだした。

「舞踏会で彼女を見つけましたよ」

 女王は一瞬の間ののち、彼の発言に体ごと反応した。

 彼女。ロザリンデの求める存在。

「何? それは本当なの?」

「私が間違うはずがありません」

 布団をはねのけ、勢いよく起き上がった女王を見もせず、魔術師は女王の聞いたことのない冷たい声で言い放った。素顔にして仮面のような冷たい表情は幾度か見たことはあった。だがしかし表情と声音の一致は、彼にとって大変珍しいことだった。

 女王はそれに気づかないふりをすることにした。

 魔術師はなめらかに、しかし、とげとげしく言葉を並べる。

「ボーマンが連れてきてくれたおかげですね」

「あそこの次男ね。彼は先日、渦中の人だったわね、お気の毒だこと」

「おや、陛下。アルフレッド・ボーマンをご存じで?」

「知っているも何も――」

 素性を兵士にばらされたおかげで、ひっきりなしに未婚の女性の相手をせざるを得なくなった男じゃないの。

 そう、ロザリンデが唇を尖らせてジークフリートを仰ぎ見ると、彼は少しだけ機嫌をなおしたようだった。

 女王は可愛そうなボーマン伯爵未亡人代理のことを思い出す。

 彼のことは覚えていた。次から次へとやってくる貴族の娘たちの相手をする合間に、ちらりちらりとロザリンデのほうを人々の間から見てきたからだ。そのとき、彼女の座っていた椅子に、ボーマン家の次男が探す人が座っていただろうとは、やすやすと予測できた。しかし、彼女と入れ替わりで座ってしまったためその存在はわからなかった。そして彼女はその男女二人が躍る様子に自身と魔術師を重ねて見ていたのだった。

「気の毒? そうですね、もっとひどい目に合わせてあげたい気分ですよ」

 魔術師は残忍な笑い声を洩らし、顔をゆがめた。この隣に立つ男が、女王は急に知らない男に思えてきて、一つ身震いをした。

「どうかしたの、ジーク? あなた……」

 もともと何を言ってものらりくらりとしていてつかみどころのない人物ではあった。しかし、今日はそれに加えて、底知れない暗闇を垣間見たように、ロザリンデには思えた。悪魔にでも魂を売ったの、とは口が裂けても今のジークフリートには言えなかった。

 そうこうしているうちに魔術師は、たじろぐ女王のベッドに軽く腰かけていた。彼の纏うまったりと粘り気のあるムスクの香りが少女を包み込む。嗅ぎ慣れた彼の香りだ、とロザリンデがどきどきしていると、彼は思い出したかのようにぽつりと零した。

「まあ、いいのか。あの男はあの男で、責任を果たせば、それで」

「……責任?」

「ええ、そうですよ。あの男、アルフレッド・ボーマンは、突然降ってきた幸運に囚われまいと逃げ回っているんです。無責任でしょう」

 ロザリンデは、彼の言う幸運がなんなのか頭をひねってみた。その間に、彼女の魔術師はつらつらと辛辣な言葉を並べている。

「そもそも、リチャード・ボーマンからして気に食わなかったんです。抜け目ない瞳は兄譲りとはいかなかったようですが、それもまた幸運の一つかもしれない。馬鹿でいられるのは、ものを知らずにいられるのは、本当に幸せなんですからね。しかし、レディ・ユスティリアーナの肩には重すぎる荷だからこそ、黙って背負えばいいものを」

 ロザリンデは、嫁いだ叔母の名を聞いてピンときた。

「ああ、そう。爵位のことね、幸運というのは」

「ええ」

「リチャードがいなくなったんだもの。しかたがないわ。誰かが伯爵をやらなきゃ」

 幼くして国を継いだ女王の言葉には、それ相応の説得力があった。ジークフリートが思わず頷くくらいには。

「次男だからって、嫡子になる可能性が無いとは言えないのに。馬鹿な男ね。準備は仕損じることが無いのよ、知らないのかしら」

 自身の境遇を思えば、アルフレッドの悩みなぞ軽いもの。

 そう、ロザリンデが鼻息を荒げる隣で、くつくつと静かな笑いがあった。少女は小さな不快感に眉をひそめる。

「なによ。どこが面白かったというの?」

「いえ、ご立派だな、と思ったまでで」

 ふわふわと黒髪を揺らして笑うジークフリートの態度が気に入らず、ロザリンデは語気を強める。このころにはもう、すっかり二日酔いのことなど忘れていた。

「それにしてもあなた、ずいぶんとボーマンのことを知っているのね。近々、謁見にでも来るわけ?」

「そうですね。あなたの夫となる人ですから」

 魔術師が長い舌でなめらかに紡いだ言葉を、女王は一瞬、聞き間違ったかと思った。

 そもそも、夫と言う単語は、未だ少女であるロザリンデにとって縁遠いものだったし、彼女もそう信じてやまなかった。

 夫。夫とは。

 確かに、十六歳を数え成人となれば、彼女には伴侶と結ばれる権利が与えられる。

 ロザリンデは聞きかえした。

「お、夫? 一体、なんの話なの?」

「何って、陛下のご縁談ですが」

 一人の少女の人生が決まる重大な話なのに、これまた、けろりと言ってのけるジークフリートが憎たらしくて、ロザリンデはソプラノをこれでもかと角ばらせた。

「縁談ぅ? 聞いてないわ、そんなこと! 一言も! 縁談の「え」の字も!」

「今、初めてお伝えしましたからね」

「げ、元老院が黙っていないわよ!」

「ご心配なく。すでに話はまとめておきました」

「はぁっ?」

「式の日取りは、陛下のお誕生日と決めました。成人のお披露目と結婚を一緒にだなんて、大変な記念行事だとは思いませんか?」

「い、厭よ! そんなの、絶対に! よりによって、腑抜けたボーマンだなんて! お、叔母様が許すはずが――」

「レディ・ユスティリアーナからのお申し出です。彼は爵位と王配の立場を得て、あなたは孤独ではなくなる。決して悪い条件ではないと」

 ロザリンデは絶句した。

 彼女を守ってくれるだろう優しさのすべてから見放された気分でいっぱいになった。

 ああ、これが、と女王は悟った。絶望というのは、これくらい突然に自分を大きく落胆させるものなのか。

 それならば、いっそ。

 少女は薔薇色の唇を噛んだ。そして、金色の瞳を口惜しさに潤ませながら、キッとジークフリートを睨みつけた。思いを手渡したことのない、初恋の相手をたっぷりとねめつける。歌うように自由で、誘うようにはぐらかすこの男に、ロザリンデが胸の内で暖めてきた秘めごとを伝えてもいないのに。

 そう思えば思うほど、少女の中でさまざまな気持ちが膨れ上がって混じり合う。

 好き。あなたが。嫌い。一緒にいて。許さない。ありえない。

 彼女の感情は、今まさに暮れなずむ太陽のごとく燃え上がっていた。その正負の判別がまったくつかないほどに、彼女は頭に血を登らせていた。せっかくおさまったはずの頭痛が、再びどくんどくんとロザリンデを苦しめる。

 熱い涙を下まぶたに溜めるロザリンデの、シュミーズが覆う肩の上。そこに、筋張った手指がのせられた。それはしっとりとしていて、まるで彼女をなぐさめるかのように、奇妙に優しかった。

「陛下。落ち着いて考えてみてください。たとい意にそぐわぬ相手だとしても、子孫は残さねばなりません。あなたは違っても、あなたの子が《守護のギフト》を持って生まれるかもしれない。われわれは、そこに賭けることにしたのです。これは、あなたが《持たざる者》でもヴィスタに君臨できるようにとの措置なのですよ」

 ロザリンデはいやいやと首を振った。その衝撃ではらはらと涙のしずくが散る。

「ジーク! だから、だからわらわは、リューリカを探しているのでしょう! 違って?」

 黒髪の青年は、少女の頬にとめどなく流れる熱い涙を拭ってやる。

 彼はいつものような頬笑みを見せて言った。ふんわりと緩めた口元から、ビロードのような甘い声に乗せて。

「ご安心ください、陛下。彼女は私が必ず連れてまいります」

「そうしたら、そうしたらわらわ、結婚しなくてすむの?」

 わっと泣き出した女王は、そのまま魔術師の胸に飛び込んだ。

「……そう、ですね……」

 ジークフリートの翠の瞳は、冷ややかに煌めいた。

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