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【完結】純白の抒情詩《リューリカ》  作者: 黒井ここあ
第一章 妖精とよばれし娘

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八、いたいけなステップで

 仮面の魔術師ジークフリートは苛立っていた。

 それというのも、彼の夢の中に特定の人物が現れ、彼の夢と安眠を妨害することが日常化していたからだ。

 たっぷりとしたひげを蓄えたその人物はかつての彼の師匠であり、そして憎むべき相手でもあった。

 それに加えて、女王と魔術師の探す人物の足取りがまったく掴めずにいたことも、彼の神経を逆なでしていた。

 さらには仮面舞踏会に出席するという時間だけをとられる面倒な仕事が舞い込んできたため、その苛立ちは頂点を極めようとしていた。

「女王様の代りも、下僕も、やることは変わりませんね。どうにかなりませんか、陛下?」

「あら、あなたらしくないわね。わらわも忙しいわ。あなたからもらったお仕事がこんなにあるからよ!」

「それはもともと陛下のものですよ」

 元摂政の魔術師は、成人間近ということで、晴れて政治を一身に負ったうら若き女王の執務室にやってきて、壁に背中を預けるいつもの姿勢で、お茶を片手にぼやいていた。その話す先には、机の上に山高く積まれた書類にサインをする女王がいた。

「第六〇代目の女王様がやっと成人するとあって、大臣たちの気合いも段違い、というところでしょうか。お気の毒ですね」

 魔術師が積まれた紙の山を見やり、そっけなく言い放つと、ロザリンデもうんざりといった様子で口をとがらせる。

「まったくだわ。何をこんなに盛り上がりたいのだか……。結婚するわけではあるまいし」

 ジークフリートは、ロザリンデの言葉を耳にし、そうだ、とばかりに口を開いた。

「ああ、その話ですが――」

「なあに、急ぎの案件かしら? わらわはご覧の通り忙しいの。急がないのならば後になさい」

「急ぎはしません。けれども、急にまとまったといいますか。いずれ判ることですから、まあ追々で」

「あら、そう?」

 書類の山が高いのか彼女が小さいのか、立っている彼から見えるのはピンクがかったブロンドの一部分と、紙をとっては置く小さな手だけだった。彼女はドレスのコート部分を脱ぎ捨てて、袖口が汚れぬように腕まくりをして署名をしていた。

「……ふう。それにしても、あなどっていたわ。サインがこんなに面倒だなんて」

「ただ書いて終わりではなくて、ちゃんと書類にも目を通すのですよ、陛下」

「ロゼ! それから、子供扱いしないで下さる? わらわはもう成人するのよ。というか、無駄口を叩けるほど暇なら、サインしたものがこっちにあるから、目を通しておいて」

「仕方がありませんね」

 魔術師はカップをソーサーの上に置くと右手でパチンと指を一つ鳴らし、同様にぼやく女王の机の右側の書類の山をさらりと風を起こし自身の目の前に持ってきた。

 お陰で女王の左半身がやっと午後の日を浴びることが出来るようになった。

 ふんわりとブロンドがそよいでも彼女は全く気にかけず作業を続けている。

 そして魔術師は、人差し指を使って一枚ずつ空中に持ち上げ目を通しては、目前のソファの上に無造作に放り投げて分類していった。

 投げられたのにもかかわらず、紙はその角をそろえて位置におさまった。

「貴賓の招待状に、屋台の許可証まであるのですね」

「知らないわよ。どれもわらわの名前だけが必要なのだから、大した違いはないわ」

 女王は強く言い放った後、恨めしそうにつぶやいた。

「ジークはいいわよね、魔法が使えるから仕事が早いわ。わらわには……」

 ため息はつくもののその手を止めない女王にむかって、魔術師はあっけらかんと答える。

「おや、〈ギフト〉なんか無くてもいいとおっしゃっていたはずでは? 陛下は魔法が使いたいのですか? だったら、いつでも私を呼ぶといいですよ」

「いつだって呼ばなくても勝手に来るくせに」

 ロザリンデは最大限の憎しみをこめた視線を元摂政に投げたが、彼はそれをさらりと受け流しておどけてみせた。

「それは陛下が私にテレパシーを送ってくださるからですね。ああ、こまったわ。こんなとき、素敵な魔術師の彼がいてくれたら……」

 ジークフリートが口元に笑みを湛えながら、夢見る乙女のようにセリフを吐くと、女王はむきになって反論した。その証拠に、顔を赤らめて立ち上がった。魔術師がそれを見てにやついたことには気づかない様だった。

「そ、そんなこと思ってるわけないじゃないの! それにあなた言ったわよね、そういうやり取りにも魔力がある同士でなければできないって。わらわには〈ギフト〉が無いのだから、仮に、仮によ、そう思っていたってあなたにはわかりようがないわ!」

 女王は息を荒げている自身に気が付き、分が悪くなった気がしたのか、次の瞬間にはドスンと音を立てて執務椅子に座り、何事もなかったふうを装って署名の続きを始めた。だが、その顔は羞恥に赤らんで口元はへの字に結ばれていた。

 魔術師は、やれやれと紅茶を一つ飲み下すと、カップとソーサーを空中に残し、国王の努めを始めて七日目の女王の横にやってきた。一週間前から執務室にこもりきりの彼女に気晴らしをさせてあげようと思ったのだった。実際、口の立つ女王と会話をしていて飽きが来たことはないし、どちらかというとジークフリートの都合で彼女を誘おうと考えたのだが。

「陛下、今日は仮面舞踏会があります。一緒に行きませんか、気晴らしを兼ねて」

 女王はそれを聴くなり、羽ペンをインク瓶に突っこんだまま動きを止めた。

「一人で出席するのもなんだかつまらないと思うのですよ。ねえ、舞踏会なのに。陛下もそう思いませんか?」

「わ、わらわは別に……」

 ジークフリートは解っていた。ロザリンデの常套句、別に、という言葉にも言い方が様々あるが、今回のような消え入るような言い方は、間違いなく悪く思っていないときだった。あとひと押しで彼女は折れるだろう。彼女のたっぷりとしたピンクゴールドの髪で隠れてその表情はうかがえないが、間違いなく行くか行くまいかを葛藤しているだろうと思われた。

「陛下も、乗り気ではないお披露目の書類にばかり囲まれて嫌気がさしてきたころではありませんか?」

「確かに、国民に顔を見せるだけでいいとは思っているわ。腕も痛いし……」

 いける、と確信した魔術師は、左手をくるりとひねった。

 すると手のひらには女王の小さな顔にぴったりの顔全体を覆う仮面が出現した。

 あたかも道化師の化粧のように装飾されたそれは、上品な色合いで統一してあり、女性にも受け入れられやすいようなデザインだった。

「ほら、陛下の仮面ですよ。お披露目前ですから、お顔は全て隠した方が良いと思いまして」

「う……」

「それと、これを差し上げますよ。陛下がいつでも私を呼べるように」

 女王が仮面を受け取ると、魔術師はもう一度左手をひねった。手のひらには細長い銀色の物が出てきた。鎖がついていて、首から下げられるらしかった。

「これは……?」

「鳥笛みたいなもの、と言いましょうか。吹いても私にしか聞こえません。安心して私を呼べますよ、ロゼ」

 小さな女王陛下はそれを両手で受け取ると、小さく照れくさそうにほほ笑んだ。

「……ありがと」


 それはこう言う約束だった。

 一つ、お互いいつもと違う衣装をまとうこと。

 二つ、異常がなければ往復はそれぞれ別々にすること。

 三つ、一人が不安になったらすぐに笛を吹くこと。

 もし約束を破ったら、どちらかが一日いいなりになるというゲームじみたことまで女王と約束した。

 ジークフリートは、日頃から自身の存在を強調する異国風の衣装を今回は脱ぎ、この国の紳士が着るようなありふれた衣装に身を包んだ。

 いつもの衣装には肩周りにゆとりがあり動きやすいが、この服はそうもいかないようだと魔術師は思った。

 姿見の前でさらりとジャケットを羽織ると、彼の細身の体をうまく覆ってくれているようにも見えた。

 しかしそれよりも気になったのは、その髪の色だった。彼のような黒髪を持つ者はヴィスタ王国では珍しかった。

 隣国、東のイーシアではさほど珍しくもないのだが。

 髪まで装ってこその変装だと思い、彼は鏡の前でしばし悩んだ。

「さて、何色にしようか……」

 ピンクゴールドにしてしまうと、女王と同じになってしまうためにばれてしまう。

 かといってありがちな金髪にしてしまうのもつまらない。

 彼は衣装のことよりも思いのほか悩んでいたが、これまでの記憶を手繰り寄せていく中で、個性的で、しかも悪目立ちしない色の髪色が閃きと共にやってきた。

 それは、彼の憧れた人の色だった。

 彼が両手で髪を丁寧に梳くと、そこから湯気のように黒い色素が逃げていった。


 頭からつま先まで変装した魔術師は、馬車でボーマン家のホールへ赴くと、見知った御者と馬車のセットが行きつ帰りつ、あるいは主の帰りまで控えようとしているのを見た。

 魔術師は自身の馬車を城へ帰し、それを後目に、従者によって開かれたホールに颯爽と入って行った。

 いつもあるような、扉の衛兵による入場者の紹介は、今日は無かった。

 ホールの中にはすでに客人が集まっており、ささやかな談笑があちこちで繰り広げられ、その音がホール中に心地よい喧騒をもたらし、ひしめく人間の数がどれほどかを知らしめていた。それと同様に、様々な香水の香りも入り乱れてもいる。

 ボーマン家の持つダンスホールは天井も高く、大きな窓を使用した贅沢な作りとなっており、全ての管理と維持はボーマン伯爵未亡人の采配により完璧になされていた。乳白色の柱はその輝きを失わず凛として聳え立ち、ホールを照らすシャンデリアはいくつも並び、煌めきながら高みの見物をしている。舞曲を演奏するオーケストラもお抱えとあって、その衣装も貴族のそれには劣るが場にふさわしいものだった。何より、靴が上等なものだと魔術師は見て取った。

今回の舞踏会は趣を凝らして仮面舞踏会ということであったため、ジークフリートも行動がしやすいと踏み、出席の手紙を担当者に送ったのであった。酒の入る舞踏会の場では主にポロリとこぼれる貴族の本音や、知りうる秘密などを聴きだすのが彼のもっぱらの仕事だった。宴において口元が緩くなるのは男性よりもむしろ女性で、それは彼にとって好都合なのだ。ときに甘く、時に意地悪に、自身に宿る魔力を使わずとも魔法のように声音を使い分ける彼にしてみれば、あらゆる女性のプライドをくすぐることも憐憫をあおることも、同情を誘うことも、淡い恋心を抱かせるのでさえ造作もない。そしてその手管に丸めこまれた婦女はすっかり心を許し、父親や夫の野心についてひっそりと愚痴をこぼすのである。ここだけの話と前置きをして。

 魔術師は、ゆったりとした足取りでホールを回った。彼の目の端で観察するところによると、やはり見慣れた髪や服装の趣味、そして佇まいが見受けられ、いわゆる「いつもの」参加者が多いらしかった。その中に気位の高い小さな主人はいないようだった。その高貴な出自がばれぬよう、おそらく彼女は普段着のドレスよりも何ランクもドレスの格を下げてくることが彼には予想されたが、別行動をとるという約束を取り付けた手前、それを確認してから出発することはかなわなかった。

 彼の女王は幼いとき、正式に即位してから今まで、実は王室からその外に顔が流出することはなかった。国の外交は全て摂政以下の大臣が顔となって取り行ってきたし、肖像画家も城に一室を与え外出を禁じていたからだ。無論、これにはわけがある。王族といえども成人していないと軽んじられる風潮が世間にはあり、女王が十六歳になるその時を、側近たちは今かと待ちわびていたのだった。そして今、彼女は全世界にその姿を公開する披露宴を間近に控えており、本来ならば今まで通り外出は禁じられていた。しかし、側近への女王の熱い詭弁により、極秘裏のお出かけが決行されることとなった。それはこうだ。

「わらわには下々の催しを喫する趣味はないが、統治者としてそれがなんであるか知っておくことは必要じゃ」

 魔術師はその強気で健気な様子を思い出して、口元をほんのりほころばせた。

「根回しは済ましていたから、素直に、行きたい、と言ってもよかったんですけどね」

 そう心の中で一人ごちると、彼は給使からグラスを一つ受け取りひと思いに半分ほど飲みほした。さらりとした白い葡萄酒が彼ののどを甘く潤す。まるで果汁のようだったが、甘いのも悪くはないと、彼は思った。宴が始まり、人々が夢と現の境を忘れるころに動きだそうと、彼は考えた。それまでは葡萄酒を楽しむことにし、彼は先ほどの給使を呼びとめ、グラスを交換した。葡萄酒をあおると、またもう一つ交換する。

 彼はホールの窓辺に軽く腰掛け、賑やかな男女の戯れを真新しい仮面の奥から翠の瞳でぼんやりと眺めていた。


 アルフレッドがハンナに呼ばれリュリの部屋に入ると、髪を結わえてもらい、化粧を施され、シャンタンが惜しげもなくつかわれたドレスをまとったリュリが、あてがわれた部屋の鏡の前でくるくるとその場で回りながら喜んでいた。その様子はまるで自身の尻尾が別の生き物であると勘違いして追いかける仔犬のそれと同じだとアルフレッドはぼんやりと思っていた。実際、彼女はその腰にたっぷりと使われたフリルやレース、そしてリボンを見たいがために、イタチごっこをしていた。それは無邪気で、好奇心が旺盛で、悪意というものにさらされたことのないだろう無垢な印象のせいだろうかと彼は訝った。仮面を手渡したときのこわがった反応も、なんだか子供じみていた気がした。リュリの支度が完成したことを確かめると、彼はすぐ隣の自室に戻った。アルフレッドはいかなる場合でも、身支度を自分ひとりでやらないと気が済まない性質だったので、女中たちももはや訪れてはこなかった。

 年配の女中がのりをつけただろうパリッとしたシャツが、なんだか肌になじまない。こう言った魅せるための服は狩りの時とは違って飾りが多く、それらを定位置につけるのは煩雑で苛立つ作業であった。しかし、アルフレッドは今回に限りあまりそういった心持ちにはなっていなかった。ドレスアップしたリュリのことを思い出しながら、支度をしていたからだ。彼は、彼女の白金の髪をふんわりとアップにし、右の肩へと流し、その流れに赤みのある生花を差し込んだ女中と、彼女の抜けるような肌に合うような瞳の色と同じの翠のドレスを選んだ女中に褒美をとらせたい気持ちになっていた。それと、ベリーのような唇の色を損なわせない口紅を選んだ女中も褒めてやりたかった。普段、ハンナ以外の女中に対して特段興味のない彼だったが、今回の良い仕事ぶりには感服し、一体だれがやったのか知りたくなった。

 彼は臙脂色のジャケットとそれよりも深い色をしたコートを、そして兄がつけたという仮面をつけて、リュリの待つ馬車に乗り込んだ。御者が鞭打った音が聞こえた時、あのテラスをみると貴婦人がいたような気がした。しかし、彼はその貴婦人よりも重たいドレスに慣れていない少女をうまくエスコートできるのかの不安が募るばかりで、そのことについて深く考える余裕はなかった。リュリはというと既にヘアピンで髪にしっかりと留められた自身の仮面よりも、アルフレッドの着飾った姿にどこか興奮して、彼から見るとまるで主人に懐いた忠犬のように彼に接近していた。すんすんと香りをかいでいる様子に、一週間前のことが思い出されるようだった。

 彼らが屋敷を発った頃、離れにあるボーマン家所有のホールでは、既に参加者が季節の食べ物に舌鼓を打つことにも飽きて、ダンスが始まるのを今か今かと待ちわびる空気が満ちていた。アルフレッドがゆっくりとリュリを連れてホールに入った時には二曲目が終わるころで、三曲目のパートナーを探す場面だった。

 扉の衛兵が名乗りを上げる。

「ボーマン伯爵家の若君、アルフレッド殿のおなりです!」

 すると、来客たちは音楽を流れるままにし、踊る足を止め、一斉に扉の二人の方を見た。

 アルフレッドは軽く舌打ちをし、リュリは瞳を丸めておまけに口までぽっかりと明けてしまった。驚く二人よりももっとあわてていたのは衛兵である。

 左に居た衛兵がうっかり名乗ってしまった右側の衛兵をしかりつける。

「おい、お前、今日は名乗り無しだって交代の時言っていただろう! 仮面の意味が無いだろうが!」

「ええっ。でも舞踏会だし言うべきかなって、オレ、あの方が若様だってすぐわかったし……」

「お前が城下勤務になったのが不思議なくらいだよ、まったく……」

 来客の中に悲鳴ともとれる歓声が遅ればせながら沸き起こった。

 リュリはこの状況を今一つつかめないまま、アルフレッドにその右手を預け、彼の行く方にゆっくりとついて行くことしかできなかった。

 彼は今、どんな表情をしているのだろう。

 見上げるも、仮面の奥に隠されていてそれを知ることはできない。

 アルフレッドは、仮面の意味と義姉の意図がここにきて読めた気がした。

 行きしなになぜ主催者である彼女が未だ屋敷に居たのか、なぜ兄の仮面をつける必要があったのか。

「わかっているよ、やればいいんだろ、やれば」

 自棄になったセリフと苦虫をかみつぶし、彼はリュリをエスコートしながら、オーケストラが足元に控えるホール最奥の高台までやってきた。道すがら、彼ら二人を貴族の視線やざわめきが包んだが、彼はそれらの一切を無視して突き進んだ。オーケストラのすぐ横に誂えられた厚みのある一人がけソファにリュリを座らせると、アルフレッドは彼女の耳元にそっとささやく。

「せっかく練習したのに、ごめん。今日はここに座っててもらうしかなさそうだ」

 そう言うと彼はかがめた背筋をすっと伸ばし、ホールを見渡せる高台に立つと、リュリの聞いたことのない、毅然とした張りのある声で宣言した。

「紳士淑女の皆様、永らくお待たせいたしました。本日はボーマン伯爵未亡人に代り、わたしが皆様の夜を彩って見せましょう。さあ、時間を忘れて踊ろうではありませんか」


 ジークフリートが窓辺にて彼の交換したグラスの数がわからないころ、アルフレッドもまた共に躍った婦人の数を数えられなくなってきていた。彼と踊りたいがために近くには野心的な婦女が集まり、アルフレッドは遠く離れて座っているリュリの方を見ることしかできず、なかなか踊りに誘い出せずにいた。アルフレッドが先ほど見た限り、彼女の不思議な存在感に、男性たちは未だ話しかけるかどうか腹をすえかねている様子で、さらにそんな男性パートナーを咎める女性も少なくはないというふうだった。このまま順調にいけば、宴の最後まで彼女は他の男性と触れることなく、かつ舞踏会の雰囲気を味わうことが出来るだろうと彼は踏み、安心したところで現在のパートナーの足を踏みつけてしまった。

「とんだ失礼を、レディ」

 足を踏まれた女性を見て、一番彼女のことを気の毒だと感じていたのは、周りで踊っていた人々ではなく、お忍びの女王だった。彼女の頭の中に、ダンスは危険という走り書きがされるほどだった。

 彼女はオーケストラの近くに座り心地の良いソファをみつけ、そこでゆったりと時間をかけて初めての葡萄酒を味わっていた。しかし、葡萄酒は甘かったため、彼女は果汁か何かかと勘違いしているようで結構な勢いでグラスを交換していた。葡萄酒のお供には、あらゆるチーズとナッツを乗せたプレートではなく、焼き菓子がたくさん載ったプレートを給使に持ってこさせた。彼女は目立つことが懸念された髪を隠すように、結いあげた。そしてその天辺に花でできた船のような形をした帽子を乗せていた。髪は彼女が日ごろ気にする身長をカバーするかのように極めて高い位置で結われており、大きなお団子は全て三つ編みで覆われていた。ドレスは腕のみがすらりと露出したデザインで、彼女がこれまた日ごろ気にする胸元をふんわりとしたレースでカバーしていた。たっぷりとしたレースはお抱えのレース編み職人の最新作で、手袋からストッキングまで、その編み糸は絹だった。ロザリンデ本人は、本当は自身に色気を早く身につけたく、髪型は艶やかな流すスタイルを、ドレスは胸元が露わになったデザインを希望したのだが、彼女の乳母によってことごとく却下された。成人女性用のドレスの型を一から彼女に合わせて採寸するよりも、女児用のドレスの型を修正したほうが、手間がかからないと言われ、ロザリンデはまた一つ自身の体にコンプレックスを覚えたのだった。

「化粧もろくにしてくれなかったわ!」

 紅も差さない程のわずかな薄化粧に対して大層憤慨しながら、マフィンと葡萄酒という極めて異質な取り合わせに舌鼓を打つ彼女に対し、人々はそのただならぬ様子に何かを感じ、敬遠してしまっていたが、女王は全く気にとめていなかった。小さな体に大きな存在感があるということが問題だったかというと、そうではなかった。小さな少女が大きな態度でいることが問題だったのだ。しかし、彼女は本当に久しぶりの遠出を心から楽しんでいた。おいしいお菓子に、甘い飲み物、それから楽しい音楽。

「でも……幸せだわ……」

 ロザリンデは女王と呼ばれる以前の自分に返ったような、ふわふわとした夢見る気持ちで、すぐそこに見える、踊り狂わざるを得なくなった可愛そうな伯爵家の若者を自分の摂政に、その相手の女性を自分に置き換えて、素敵な舞踏会を自分で開く妄想をはかどらせた。


 一方のリュリはというと、アルフレッドが彼女を人々の隙間から垣間見れたときには、ひとまず近くに居たオーケストラを興味深そうに見ていて、音楽に合わせて楽しそうにしていた。実際、たくさんの知らない人間がいることでできることといえば何もなかったし、オーケストラというものを初めて見たというのもあったからだ。

「わあ、難しそう……」

 少女はさっそく、ハンナに教わった『気品のある話し方』を失念していた。

「うん、すっごく難しいよ!」

 リュリの素直なつぶやきに、一番前の列の左端にいたヴァイオリン奏者が演奏しながら答えた。妙齢の男性からウインクを受けたリュリは、またもや驚く。

「話しながら弾けるなんて、すごいのね!」

「すっごく難しいよ? お姫様、やってみたいかい?」

「難しいのはできないよぉ」

「ううん、簡単だよ」

 リュリが生真面目に返す度、彼はのらりくらりと受け答えしながら、演奏を完ぺきにこなしていた。リュリはそれでも邪魔をしているような気がして少し気がひけたので、ソファから立ち上がり軽く会釈をした。立ってみるとのどが渇いていたことを思い出し、人々が円舞する海に足を踏み入れた。こうして、会場で一番座り心地のいい椅子は、空いているところを女王に発見されるに至った。

 履きなれないミュールで足が痛くなるほど大広間を歩き回るという失態を犯したリュリは、めまいを起こしそうになっていた。人にぶつかるたびにその仮面がこちらを向く、その光景がぐるぐるとわけがわからなくなってくる。大量の人間がひしめく室内は空気が薄くなっていたし、何よりも体を締め付けるコルセットが彼女のことをじわじわといたぶっていた。

「どうしよう、気持ち悪いよう……」

 助けを求めようにも、アルフレッドは未だ見当たらず、知り合いもいない。回り踊る人々の海からどうにか抜け出そうと群れる人をかきわけながら、リュリは森を出たという人生最大の冒険への決断をほんの少し後悔していた。


 魔術師がいい加減、時間がただ過ぎてゆくのに飽き飽きしたころ、終わらない円舞の中から一人の少女が必死に出てきたのに気がついた。彼女はそのたっぷりとした翠のドレスのせいなのか、それともサイズの合わないミュールをはいているのか、ふらふらと歩きにくそうにしていた。どうやら、バルコニーを目指しているらしかったが、危なっかしい足取りに魔術師はついぞ暇つぶしを見つけたとばかりに駆け寄り、彼女がつまづいた拍子にその体を受け止めた。細い体に見合わない豪奢な身なりで、疲弊するのも無理はないと彼は軽く同情を寄せた。

「あ、あろがとう……」

 言葉も噛んでしまうほど疲弊した女性が、ささやかな優しさに弱いことを既にわかっているジークフリートは、ここぞとばかりに心配して見せた。

「大丈夫ですか、レディ? さあ、外で新鮮な空気でもいかかでしょう?」

「うん……」

 少女は辛うじて自身の裳裾を持ち上げ歩くことが出来たので、魔術師はその両肩を支えてやり、バルコニーへと連れ立ち、彼女を座らせてやった。

 白金の髪の乙女は、深呼吸を繰り返し新鮮な空気を取り込んでいるようだった。たっぷりとした髪を右側に流しているため、右側に居るジークフリートにはどんな顔立ちかはわからなかった。肩で息をする少女は、聴こえないくらいの小さな声で呟いた。

「はあ、やっぱり苦しい……」

「女性のドレスは、大変だと伺っていますよ、レディ」

 魔術師はさり気なく瞳の端で乙女を観察しつつ、その視線のほとんどを、上空で恥ずかしげに霞に隠れた月に向けていた。

 少女はから元気の笑いを立てる。懸命に話す声は、息苦しそうにとぎれとぎれだった。

「あはは。私は、知らな、かったの……。こんなに、大変な、んだって……」

「そうですか? 見たところ、大変高貴なご出身かとお見受けいたしますが」

「あは……は……」

 ジークフリートの甘い声に包まれた率直な感想に、少女は先ほどよりもほろ苦さを帯びた笑いをこぼす。豪奢なドレスの下で彼女を締め付けているだろうコルセットは彼女に楽な呼吸を許さないらしかった。彼は、そんな少女の儚げな様子が少し引っかかった。はぐらかされない様、彼はさらに重ねる。

「ボーマン家の若君が連れてきた麗しい姫君、どちらからお出でで?」

「えっと、ちが……。お姫さまじゃ……」

 少女は答えにくそうにして押しどもってしまった。こういう女性は、押さずに引いた方が良いと魔術師の経験がアドバイスする。彼は悲壮感をも感じさせる声音で、偽りの許しを請うた。

「失礼をいたしました、レディ。差し出がましい真似をした、愚かな男をお許しくださいますか」

「あ、え、そんな、助けてもらったのは、わたしなのに」

 夜風が遠くからごうごうと音を立ててバルコニーの二人のところまでやってきた。すると、強風にあおられて少女とジークフリートの髪や衣服が乱された。魔術師はその魔力で仮面を固定していたので被害はなかったが、少女の仮面は目元を覆う程度のものだったのであっけなく宙に浮いてしまった。木々の葉梢を唸らせるほどの風にとって、ヘアピンでとめる類の少女用の仮面をもぎ取ることはたやすかった。

 魔術師はその一瞬をとらえ、少女の仮面をつかんだ。そしてしげしげと仮面を観察しながら少女の周りを迂回し、座っている彼女の正面で跪き、彼女の手を取り、仮面を乗せた。

「運よく取ることが出来ました。お帰りはお気をつけ……」

 ジークフリートは遂に乙女の顔を見ることが出来た。

 白金の髪に、翠の瞳。夜に消えそうな儚い存在感。そして、触れた手に感じる、確かな魔力の渦巻き。

 彼は自身の瞳孔が開くのを確かに感じ、緊張と興奮のあまり唾を飲み込んだ。そして、彼女の両手を両手でぎゅっと握る。少女は体を一瞬強張らせた。

 少女は礼を恐る恐る述べると、ジークフリートの様子に気が付き、うろたえた。

「あ、あの、何か……?」

「レディ、お父様はどちらに?」

「え……?」

「お母様は?」

「えと、わかんない……です……」

 魔術師の食ってかかるような質問の勢いは、止まらなかった。止められなかった。

「そうでしょうね、わからないでしょうね」

「あ、の……?」

 少女がにわかに怯え始めたのに気付かないまま、彼は続ける。ずっと夢の中で問いたかったことを。

「貴方に家族がいるとしたら、どう思いますか?」

「家族……! そ、そんなの、ありえないよ! だってわたし、ずっとグレンツェンに居たから……あっ!」

「グレンツェン、……グレンツェン孤児院!」

 少女がしまったというふうに顔を青ざめさせると同時に、ジークフリートは何年かぶりに声を荒げた自分に気づき、自身の血液が沸き立つのを感じた。

「リュリ! ここにいたのか……」

 すると、ホールの中から宴もたけなわ、婦女の群れからようやく解放されたボーマン伯爵家の後継ぎが少女を探してやってきた。アルフレッドは彼の見知らぬ男が少女に詰め寄る場面に、強く反感を持ち、仮面の裏で思い切り眉をひそめ、足音も高らかに歩み寄っていった。

「リュリ……! ああ、僕は信じていたよ。君が生きているって。こんなところで巡り合えるだなんて。これは運命だよ」

「生きて……?」

「そう。僕の妖精。僕のまことの恋人……」

 魔術師ジークフリートはアルフレッドに気付きながらも、握る手を緩め感慨深そうに彼女の顔を覗き込み、片方の手でやさしくその頬を包み込んだ。その翠の瞳がどんどんと近づく。まるで恋人同士がするように、鼻と鼻を絡めようとするようだった。

 魔法めいた翠の瞳が、リュリを絡め取って捉えてしまったようだった。先程の穏やかな様子とは打って変わって別人に代ってしまったこの男性からすぐさま遠ざかりたい気持ちがあるのに、体が思ったように動かせずにいた。

 一方でアルフレッドは、リュリが彼女と同じ白金の髪をした仮面の男に触れられているとわかった途端、頭が真っ白になった。ずかずかと二人に遠慮なく近づくと、彼女の椅子を引いて少女を立たせ、少々強引にその腕に抱いた。

 アルフレッド・ボーマンの行動の素早さで、魔術師の手はあっさりと少女から離れた。

「どこのどなたか存じませんが、私の宝石を助けて下すってありがとうございます」

「とんでもありません。紳士として当然のことをしたまで」

 二人の青年は、仮面越しに睨みあった。筋肉質でがっちりとした体つきのアルフレッドと、細身でともすれば骨ばかりにも見えるジークフリートは圧倒的な体格の差があったが、お互いに殺気立つのは同じだった。

 アルフレッドはそっと妖精に耳打ちした。

「リュリ、リュリ。大丈夫か? 遅くなって悪かった」

「あ、アルくん……!」

 リュリはアルフレッドの登場に安心するも、目前の男にひどく怯えており、震える両手でアルフレッドにしがみついて、魔術師から顔をそむけた。

 その様子に、魔術師は大層苛立った。きっと彼を睨みつけていたアルフレッドには、一瞬、彼の翠の瞳が赤く燃えたように見えた。だが次の瞬間、少女と魔術師が体をこわばらせた。

「なんだろう、笛の音……?」

「こんなときに、あのこは……!」

 それぞれにつぶやいた二人には聴こえたのだ、あの笛の音が。

 ジークフリートの、主人と従者の契約はまだ終わっていないがため、約束という約束は全て破るわけにはいかなかった。

 彼は後ろ髪を引かれる思いでくるりとリュリに向き直った。アルフレッドの登場から歪んでいた表情が、リュリを目にするなり柔らかに蕩けた。それは、普通の女性ならば恋に落ちてしまいそうな、甘やかな笑顔だった。

「どこに居るかわかって安心したよ、僕の妖精。必ず迎えにいく。いいこにしているんだよ」

 ジークフリートはそう言い残すと、ホールの雑踏の中へと消えていった。


 興をそがれた魔術師は、想像よりもはるかに豪奢な出で立ちをして、想像をはるかに超えた葡萄酒を飲んだと思われる主君の頬を、軽くペちぺちと叩いた。

「ほら、結局あなたは私に会いたいんじゃないですか、帰りますよ」

 ソファの上でぐったりとした姫君は、軽く笛を加えたまま、小さく話す。

「らって、ほら、きもひわるいひ……。つえてかえんなひゃいよ、はやく……」

「それだけ文句が言えたら大丈夫ですね。ほら、掴まってください」

 ジークフリートはその腕に小さな女王を抱きかかえた。それが先ほどの光景とかぶる。

「ボーマン……。五年前といい、ことごとく邪魔してくれる!」

 白金の髪を持つ彼は仮面の奥で顔をゆがめた。そして雑踏から少し遠のくと、その場から一瞬で立ち去った。

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