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【完結】純白の抒情詩《リューリカ》  作者: 黒井ここあ
第一章 妖精とよばれし娘

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七、粋を凝らした無粋

「ああ、もう……」

 ヴィスタ王国の首都エルンテの中心に王宮ブリューテブルクはあった。その執務室には、先刻から女王のため息が響いていた。

 頭上に王冠こそ載せていなかったが、高い位置に結いあげて結びきられた二つの金髪の流れが、彼女の愛らしい相貌を朱色にあるいは金色に彩っていた。

 彼女は結ってもなお床につきそうな髪と、薔薇色のサテンと生成りのレースがたっぷりあしらわれたドレスを翻しながら、苛立ちに任せて窓辺を右往左往していた。陽光を切り取る小さな影も同じようにせわしなく動いている。

 それを我関せずと壁に背を預けて眺めるのは彼女の元摂政である。目元を仮面で覆った彼は、つまらなそうに左手で空間をひと混ぜすると、どこからともなくティーカップとソーサーを取り出した。そして、ふわふわと湯気の立つカップにそっと口をつけた。

「ジークフリート、報告なさいよ! 元老院はなんて?」

 ロザリンデは彼に向って勢いよく振り向いた。金色のお下げもふわりと翻る。だが、仮面の魔術師は悠長にしていて、こくりとひとつ喉を鳴らしてから口を開いた。

「反対はされませんでした」

「なによ、それ」

 少女のソプラノが鋭さを増す。

「あの人たちはまだ信じているのです、陛下に――」

「ロ・ゼ・!」

 金色の瞳を一層険しくして詰め寄ってきた女王に、ジークフリートは視線を落とした。彼の頭髪と同じ、カラスの羽のように黒々とした睫毛に縁取られた瞳は、〈魔法のギフト〉の現れである翠の輝きを宿していた。

「……ロゼに、あなたの血脈に備わるはずの〈魔法〉—―〈守護のギフト〉がいつか必ず芽吹くとね」

「そんなのあるわけ……」

 ロザリンデが口をつぐむのはもっともだった。彼女は誰しもが持って生まれる〈三つのギフト〉を持たなかった。

 彼女が生まれたとき、今は亡き先代の摂政、〈先見のギフト〉と〈魔法のギフト〉を持つ魔術師イグナートがそう言ったのだ。彼は信頼の厚い人間だったので、誰もその発言を疑う者はいなかった。

 北方の半島にあるロフケシア王国が勇者の国と呼ばれたとおり、ヴィスタはかつて魔法王国とも呼ばれた。それというのも、古の勇者の癒し手が拓いた国ゆえに、その血を引く王家の者は不思議な力――主に〈魔法のギフト〉を持って生まれた。そうして記録の残らない歴史以前から、ヴィスタ王家はその力をもってして、国の守護を司るようになっていた。

 これまでは魔術師イグナートが、現在は、摂政の座を退いたジークフリートが、引き続き魔法の防護壁を国の端から端まで張り続けている。

 国家元首が〈持たざる者〉であるという事実は、外交にも影響を及ぼしかねない由々しき事態であった。元老院が雁首をそろえて若き女王の〈ギフト〉の発現をいまかいまかと願うのも無理はなかった。

 ロザリンデはむすっと唇を突き出した。

「そ、そもそも、お父様がはやくに亡くなられたのも、その〈守護のギフト〉で国を覆い続けたからなのよ。あなたもがんばりすぎないことね、ジークフリート。〈ギフト〉で皆が幸せになって、それで自分は早死にだなんて、そんなつまらない人生なんて厭じゃなくって?」

 いつの間にやら表情を曇らせてうつむいた女王に、ジークフリートは心ない言葉を投げた。

「おや、ロゼ。それこそがこの国の王族の生きる道とききましたが。それにしても、美人薄命という言葉をご存じだったのですね。感心いたしました。申し訳ありませんが、この私はあなたさまを置いて儚く散る運命かもしれませんが」

「なんですって! わらわが可愛くないと言いたいの? なんて無礼者なのかしら、あなたって人は!」

 きいきいとわめく、まだ子供らしさが抜けきらない主君の頭を、魔術師はそっと撫でた。

「本当の無礼者は、ありのままのあなたを見ようとしない彼らだと思いますけれどね」

 そうでしょう、と同意を求めるように彼が顔を覗き込むと、ロザリンデは恥ずかしげに視線を逸らした。

「……そんなこと、認められたら、わらわは……」

 ぼそぼそと呟く少女は、先程と打って変わってしおらしくなった。

 女王の金色の瞳もまた、不安げに魔術師を見上げ縋っている。

「認めてもよいように、私が動くのでしょう。ねえ、ロゼ」

「……そうよね。ところであの子、どこにいるかはわかったの?」

「カルルスもル・マンシュも調べましたからね。これからボーマン家の領地をしらみつぶしに、というところです」

「本当にみつかるかしら。あれからもう、五年も経っているのよ」

「エルレイの森は深いですから。それに何か、あのあたりを調べようとするとはぐらかされる感覚が後をつきないので」

 ジークフリートの細い体を覆う、ふわふわした衣装が小さな手のひらに握られ、つ、と引きつられた。そして彼女はそのまま小さな頭を彼の胸に預けた。

「必ずよ。必ず、あの子を連れてきて」

「言われなくとも、必ず手に入れますよ」

 だからロザリンデは、ジークフリートの仮面の下で翠の瞳が赤く燃えたのに気付かなかった。


 アルフレッドは、背中に眠る少女のぬくもりを感じながら、一晩かけて計画の実行を決心した。計画といってもいたずらに閃いたことだったが、そのことについて考えると少年のころの浮足だった気持ちがよみがえるようだった。

 後宮からボーマン邸に住まうと決まった時、あてがわれた部屋をすっかり自分好みに改造してしまったことを思い出して彼は口元を緩めた。

 彼はその思いつきによって、あらゆる収納を壁に埋め込み、その扉を出入りに使う扉と同様のデザインにし、なおかつそれを四枚の壁すべてにつけた。アルフレッド少年が、いつかどれかの扉が異世界とつながってもよいようにと本気で考えていたからだった。

 誰にメリットがあるでもない、誰かがデメリットをこうむるわけでもない、極めて無害ないたずらだと、そう考えていた。その昔のように。

 リュリが〈孤児院事件〉の生き残りだからと、憐れむ気持ちから保護するわけではない。そう、自分に言い聞かせながら。

 彼は朝を迎えると、慎重に彼女から離れた。

 そして、幸せそうに眠るリュリをゆすり起こした。

 銀色の睫毛で蓋をされた瞳が開く前に、整った顔を観察しようとも思わなかった。

 最初は触れるのもためらわれたが、そうも言っていられない気持ちでいっぱいだった。

 思いついたらば、この計画を早く実行したくて仕方が無くなっていたのだ。

「……あえ……? アルくん……?」

「リュリ。なあ、森の外のこと、気にならないか?」

 アルフレッドが唐突に切りだした言葉を聞いて、少女の動きが止まる。

 声を発した当人も固まっていた。

 思考が思わず口をついて出てきてしまったからだ。

「……そと。外! でも、どうして?」

 わあ、と嬉しそうに飛び起きた少女は、両の手の甲で目をこすりこすりしたあと彼を見上げた。

 その翠の瞳が爛々と輝きだしたのに、アルフレッドは手ごたえを感じた。

 彼は拳を握り、話を続けることにした。

 こうなってしまったらもう自棄に近かった。

 しかし恥ずかしさは抜けきらないので、顔はそむけてしまった。

 彼の大きな鼻の代わりに、真っ赤に染まった耳が、リュリに対面していた。

「森の外が気になるなら、俺が見せてやる。住む所なら、俺が用意する。心配することはないから、だから……」

 少女がまっすぐに狩人を見上げるのを頬に感じ、彼は勇気を振り絞り彼女の瞳を見据えた。

「一緒に、森を出てみないか?」

 丸められた翠の瞳が、ひとつふたつとまばたく。

 アルフレッドには、答えに期待を寄せて待つ時間が、永遠にも感じられた。

 二人の沈黙を鳥のさえずりが埋める間、彼はいろいろと情報を付け足して言い訳をしたい気持ちに駆られたが、なんとか言葉を飲み込んだ。

 そしてじっと少女を見つめているのもなんだか気恥かしくなってきて、視線を逸らそうとしたそのとき、、彼女の口が開いた。

「……行く。行きたい、一緒に」

 野薔薇が揺れるようなささやかな声が、アルフレッドの耳に届く。

 期待していた答えに心が躍り出そうとしているのがわかる。

 彼は声を絞り出した。

「い、一緒に……」

 そして、そっと彼女に手を差し出した。

 初恋の女性にダンスを申し込んだときにも震えなかった彼の手が、小刻みに震える。

 アルフレッドがじっと見つめていた自身の平たい手のひらの上に、真っ白な指先がおずおずとのせられた。


 ボーマン家次期伯爵が今までで一番大きな獲物を持ち帰ったという話は、一瞬にして城中に広まった。

 晩餐の支度をしながら、女中たちは新鮮な話題を共有し合っていた。

「聞いた? アルフレッドさまのこと」

 そばかすの多い癖っ毛の少女が話しかけると、小麦色のおさげの少女が甲高い声で捲くし立てる。

「聞いたどころじゃないわよ、一体どういう風の吹きまわしだと思う?」

「厩の彼が見たって、アルフレッドさまが歩いて、あの女の子が馬に乗せられていたって」

 くせ毛がおさげをたしなめる様に声をひそめて言うと、おさげもつられてささやく。

「ええっ、アルフレッドさまが?」

「そうよ。それに、あのエヴァンジェリンが他人を乗せるなんていままできいたことがないわ」

「アルフレッドさまを歩かせるなんて信じられない!」

 白熱するおさげが厨房にて悪目立ちし、他の女中の注目を浴びているのに気づいた癖っ毛は彼女の肩を押して、二人して廊下に出た。

「アン、貴方うるさいわよ。少しは落ち着きなさいよね」

 と、くせ毛の彼女がお下げに向かってくぎを刺す。

「落ち着いてられないわよ。アルフレッドさまは貴族にご興味がないって聞いていたから私にもチャンスがあるって思っていたのに! ネリーには私のこの悔しさがわからないんだわ!」

 小麦色のおさげを振り乱して錯乱するアンをこれからなだめなければならないのかと、くせ毛のネリーは少し嫌気を覚えた。アンは寝ても覚めても恋愛ゴシップに夢中で、その中でもとりわけボーマン家の若君、アルフレッドのこととなると興奮が収まらず、同室の女中たちはしょっちゅうそんな話を聴かされたり、気が立っているアンをたしなめたりと気が休まらないのであった。

 しかし、ネリーはアンに軍配が上がることは決してないとわかっていた。

 それというのも、彼女がアルフレッドと謎の少女を迎えた本人であり、アルフレッドが少女にむける柔らかな表情を見てしまっていたからだ。

 少女の顔は、フードを目深にかぶっていたため見ることはかなわなかったが、その存在の儚くも尊げな雰囲気は感じ取れた。

 まるで王子が森から妖精の姫を連れてきた、そんな童話のようなワンシーンだった。

「アン、ネリー、あなた達の仕事は終わったの?」

 廊下でわめくアンとその被害者ネリーの背後に、耳がひとつしか無い熊、もといお団子のハンナが厳しい声を叩きつけた。新入りの女中である彼女たちは一瞬ですくみあがった。

「ま、まだなんです、お皿の枚数が合わなくて……」

 ネリーがとっさにごまかす。

「そうなんです、わたしはナプキンが汚れていたのを見つけて新しいものを取りに行くところで!」

 ネリーに乗じてアンもあたふたと取り繕う。

「理由は何でもいいから、時間までに終わらせなさい。さあ、今すぐ動く!」

「は、はい!」

 ハンナが二人の尻をたたくと、二人は大慌てで厨房の中へと戻っていった。


 彼女はそれを見届けると、とり分けられた二人分の食事を持って一階の食堂から二階のとある部屋までやってきた。その扉は、アルフレッドの部屋のすぐ隣、ハンナが若い主人に言い遣って掃除をした部屋だった。しばらく使われていなかった扉をノックする。

「ぼっちゃん、わたくしです」

 一声かけると、アルフレッドの声がして、扉が開いた。

「ハンナ、来てくれたか。入ってくれ」

 彼はハンナを招き入れるとすぐに扉を閉めた。そして、そっと耳打つ。

「……未亡人には見られていないな?」

「ええ、しかし女中の間では既に噂が広まっています。時間の問題かと」

「舞踏会まで気づかれなければいいんだ」

 ハンナは大きく一息つき、テーブルに二人分の食事を用意する。

 しかし、蝋燭で明るく照らされた室内を見渡しても、そこにはアルフレッドしかいなかった。

 彼と目が合うと、にっこりとほほ笑んできた。

 彼女は目を見開いた。

 成人してからというもの、ずっと見なくなっていた笑顔が突然現れたからだ。

 彼はハンナがテーブルの支度をし終わったと見るや、寝室の方に行った。そして、アルフレッドより二周りくらい小さな少女の手をひいて戻ってきた。

 蝋燭の光で正確な色はわからないが、ハンナには彼女の髪は蝋燭と同じ色に見えた。

 彼はテーブルまで彼女を連れてきて、椅子を引いて座らせると、ハンナに向きなおった。

「ハンナ、紹介するよ。リュリだ。これから彼女の世話をしてほしい」

「かしこまりました、よろしくお願いします」

「は、はい……」

 ハンナは一礼して少女の方を見やる。

 俯いていた彼女が頭をもたげ、その翠の瞳と視線がかち合うと、彼女が怯えていることが読み取れた。ハンナには〈ギフト〉こそないけれど、たくさんの人間と関わってきた経験がある。

「リュリ、ハンナだよ。俺の乳母だった人で、今も世話になっている」

「うば……?」

リュリがアルフレッドを見上げて尋ねると、彼は彼女の方を見て困ったように笑って答える。

「母親と似たようなものだ」

「おかあさん」

「そうですね。ぼっちゃんの数々の武勇伝を語るのでしたら、右に出る者はいませんよ」

 アルフレッドの方をちらりとみやり、ハンナはにやりとして見せた。彼はどうしたことはないというふうにおどけて、憤慨してみせた。

「やめてくれよ。俺が一体、何をしたっていうんだ?」

「館中の蝋燭をかき集めて馬の手綱を芯にして、巨大な蝋燭を作ろうとしていましたっけねえ……それから……」

 ハンナが白々しくつらつらと少年時代のアルフレッドが試みた武勇伝を語り始めようとすると、リュリは蝋燭の炎を瞳に映しキラキラとさせて、彼女を見つめた。

 ハンナはこう言った類の顔に見覚えがあった。

 話が気になってわくわくしている顔だ。

 と、アルフレッドがわざとらしくせき込み、ハンナの話に割って入った。

「ともかく、リュリはわからないことはすべてハンナにきいてくれ」

「アルくんの子どもの頃は、わからないことだよ」

 きょとんと返すリュリに、アルフレッドは照れたように笑って言う。

「それは勘弁してくれないか?」

 彼の自制しない自然な感情が表情に現れるのを見てハンナは心がほぐれるのを感じていた。

「ぼっちゃんは私に可愛い人の自慢をしたかったのですね?」

「いや、そういうわけでは……」

 ハンナのちょっとした冗談に、アルフレッドは明らかに狼狽していた。

 リュリはアルフレッドとハンナを交互に見やったあと、テーブルの上に並べられた良い香りをたてる食べ物に気を取られているようだった。

「じゃあ仲良しはここまでにして夕食でもいかがです? さあさ、冷めないうちに」

 そう言ったあと、食事が済んだら片づけると付け足し、大きな体を揺らしながらハンナは退出した。

 テーブルにつく若い二人のやり取りを見て小さな幸福感と、大きな違和感とを感じながら。


 それからというもの、ハンナはアルフレッドに言われた通り未亡人の目を盗みながらリュリに宮廷式の教育を施し始めた。

 リュリはハンナの知る誰よりも呑み込みが恐ろしく早かったため、二日後に迫った仮面舞踏会までに必要な作法を叩きこむのに随分と明るい展望が見えた。

 特筆すべきは彼女がすでに礼を未完成ながら身に着けていたことであった。

 他のことは仮面舞踏会では無礼講、目をつむられるのが通例なので、あとはちょっとした隙や間違いを正し、ダンスを学ばせるだけだった。

 彼女はおどおどしながらもハンナの言うことをよく聞いて行動し、褒めてやると子供のように顔を明るくして喜んで見せた。

 その健気な様子に、ハンナはアルフレッドがリュリに気を許した理由がわかってきた気がしていた。

「ハンナ、どうかな」

 白金色の髪をひとまとめにし、サテンのワンピースをまとったリュリは、ハンナに倣ったとおりに礼をし、おずおずと頭をもたげた。

 ハンナは腕を組んでそれを見ていたが、実演して見せながら指摘した。

「裾をつかみすぎですね。裳裾に皺が出来ないように指先でつまみ上げるようにするんです。ほら、お嬢さまもやってみてくださいよ」

「おじょうさま、じゃないよ?」

「仮にそうでも、今はそうなんですからね。それに――」

「えと、…では、ありませんわ」

「そうですね、言葉尻が大切ですね」

 リュリはお嬢さまと呼ばれる度に訂正してきたが、そんなことは無駄だとハンナは思っていた。

 浮世離れした可憐さと儚さはおとぎ話の妖精のようだし、おっとりとした気風は生まれの良さを思わせた。

 どこの出身かはわからないが、伯爵家の嫡男が連れていこうとする女性なのだから、どうであれ気品というものが大切になるのだ。

 たとえ仮面舞踏会であっても、そしてこれ一回きりの同伴者であったとしても。

 ハンナは、何回も礼を練習させた後、ミュールを履いた時の歩き方、歩幅、そして口元を隠すのに使う扇の使い方、そして今回の舞踏会に必要な仮面をつけたままでの行動を指導した。

 リュリは全ての道具を興味心身に手にとり観察したがったが、ハンナはぴしゃりとそれを夜の時間に回すように言い放ち、彼女が割いた限られた時間のすべてで指導に当たった。

「ハンナ、どうもありがとう」

「ございます」

「ありがとうございますわ」

「大変結構。ではお嬢さま、今日はここまでにしましょう。また明日定刻に。是非復習しておいてくださいね。それと靴ずれが辛かったら早く言うのですよ。あれは拷問の類ですからね」

「うん、じゃなくて……はい。あ、あと……」

 ハンナは早口で注意事項をまくしたてた。


 リュリが彼女に尋ねようと口を開いた時にはすでに彼女は扉を開けてそそくさと仕事に戻って行ってしまった後だった。

 すると、ハンナと入れ替わりにアルフレッドがリュリにあてがわれた部屋へ入ってきた。

 すぐに扉を閉めた彼は、コットンのシャツにリネンのパンツという気楽な格好をしていた。

 だが、リュリの姿をとらえると、すぐに目を逸らしてしまった。

 そっぽを向きながらも声をかけてきた。

 金髪を一つに結びきっているので、彼の大きな耳が赤く染まっているのが丸見えだった。

 それを見て、リュリの心も不思議とドキドキと脈打つのだった。

「なんだか、雰囲気が違うな……」

「……そうかも。そうだよね」

 リュリはすぐ目の前の壁に掛けてある姿見に映る自分を見て苦笑いし、それに同意した。

 いつもの麻のくたびれたチュニックとスカート、ニッカーボッカーズは鞄の中にしまわれており、大きな鏡に映ったのは、見たことも無い令嬢だった。

 リュリがおどおどと見つめると、鏡の中の彼女はこちらにむかって胸を張り、自信満々に笑って見せた気がした。

「似合わない、よね。ハンナはお嬢さまっていうし、なんだか、違う世界に来ちゃったみたいだよ」

「そんなことはな……!」

 アルフレッドは喉に何かを詰まらせたのか、二つ三つ咳き込むと、まばたきを重ねて深呼吸し、ぽつりとつぶやいた。

「……似合ってる」

 至極言いにくそうにくれた褒め言葉で、リュリの頬は一瞬で茹で上がった。

「で、でも、わたし、おじょうさまとかじゃないけど、けど、大丈夫かな……」

「大丈夫だ。頼むから何度も、言わせないでくれ……」

 リュリは、彼の声が早口で、若干のとげを帯びていたのに驚いて、思わずアルフレッドの方を見た。

 彼はまだ、リュリと瞳をちらちらと動かしてはいるものの、目を合わせようとはしてくれなかった。

 けれども、彼の精悍な顔は彼女の方へ向いていた。

 口元はまごついていて、何かを言おうと、あるいは言うまいとしているようだ。

 そして、ゆるく一つにまとめたブロンドの毛先を左手で弄んでいた。

 露わにされた緊張感がリュリにも伝わって、彼女も後れ髪をついいじってしまった。

 アルくんも、わたしとおんなじ気持ちなのかな。

 少女がそう思っていると、アルフレッドは急に彼女の方に向き直った。

「と、ところでだな! ダンスのことなんだが……」

「そ、そう、それ! わたし、てっきりハンナが教えてくれるって思ってたんだけど、違うみたいで。他の先生が来るのかな。ね、アルくん、何か知ってる?」

 アルフレッドが、まさにリュリの聞きたかった話題を切り出してくれた。

 ハンナに尋ねようとしていた矢先に彼女が足早に去ってしまったので、彼女はここぞとばかりに食い付いた。

 だが、アルフレッドは歯切れ悪く答えた。

「その……。違うんだ。俺が、教える……ことになった」


 二人はお互いに向き合って、形式ばった礼をした。

 するまでは、良かった。

 しかし、アルフレッドのそれはぎこちなかったし、リュリに至っては頭が真っ白になってハンナに教えてもらったことを吹き飛ばしてしまったらしく、ワンピースの裾をぎゅっと握りしめてしまい皺をつくってしまった。

 次に二人はゆっくりと相手の動向を窺うように歩み寄り、恐る恐る手を触れ合わせた。

 随分長い時間をそうして過ごしたように感じた二人だったが、先にしびれを切らしたのはアルフレッドの方だった。

「手は、握るんだ」

 リュリはこくりと小さく頷くと、言われたとおりに触れていただけの彼の左手をそっと握った。

 そしてそうするのを待っていたかのように、彼の大きな手が彼女の細い手を優しく包み込んだ。

「えと……。こう、かな……」

 向い合せに片方の手だけを繋いだ二人は、なんだか気恥かしくて、お互いの顔を直視することが出来ずに俯いてばかりいた。

 窓から差し込む午後の光が、カーテン越しに風で揺れる。

 と、リュリの腰にアルフレッドの右手が置かれた。

 置かれたというよりは、最大限、彼女に重みを感じさせないように触れられたという様子だった。

 彼の手のひらの熱さを薄い布越しに感じ、リュリは触れた部分から、自身の跳ね上がった鼓動が伝わりはしないかと、さらに心拍数を重ねた。

 彼の右手に少し力が入ったと感じた瞬間、リュリはアルフレッドにしなだれかかる形になっていた。

 頭が彼の胸にぶつかり、彼女は謝ろうとして顔をあげた。

 その手は、とっさの衝撃を和らげるために前に出て、彼の胸板の上に置かれる状態になった。

 見上げたそこにあった、銀鼠色の瞳と視線がかち合う。

 吐息の交わる距離に彼の顔があり、リュリの心臓がさらに動きを速める。

 胸元にあてがった手のひらからは、アルフレッドの薄いシャツ越しに彼の体温を感じた。

 開いたシャツから見える胸板からは、リュリの気になる香りと、もう一つ親しんだ香りがした。

 それは彼女が四日前に彼に手渡したハーブティーの香りだった。

 リュリはなんだか気持ちが暖かくなって、そしてその高まった気持ちのままに言葉を発していた。

「もしかしてアルくん、私のお茶――」

 飲んでくれたの、とリュリが言う前に、アルフレッドは彼女から一歩、離れた。

 あんなに近かった顔は離れて、彼女の後ろをじっと見すえているようで、今は表情が伺えない。

 繋いでいた手は、未だそのままだったが、力なく垂れていった。

 その繋いだ手に合わせてリュリがアルフレッドの胸におかれた手を下ろそうとした。

 しかし彼の声が毅然と聞こえてきて、それは中断された。

「手はそのままだ。……もしつらければ、肩に乗せてもかまわない」

 リュリは素直に頷いて彼の胸元から肩へとその右手を滑らせた。

 彼女は、彼の体にぴったりと這う筋肉の逞しさにうっとりしながら、小さな笑いをこぼしていた。

 くすりと漏れるそれに、アルフレッドは過敏に反応した。

「何か、おかしいか?」

「ううん、いや、うん。だって……」

 リュリは考えたままの言葉を言おうと思った。

 逞しくて丈夫そうで、素敵。

 しかし、それは声になって出てくることはなかった。

 ちらりと瞳だけでリュリを見おろしてくる銀鼠色の瞳が興味深そうにまばたいているのに気がついたからだった。

 彼女はなんだか恥ずかしくなって、こくりと、気持ちと言葉を唾液と共に飲み込んだ。

 二人はそうして、終始ぎくしゃくしながら不格好にステップを踏んでいた。

 着実に、一つずつ。


 アルフレッドはリュリにダンスの一通りを教えると、彼女の言葉も聞かず、すぐに隣の自室へ戻った。

 勢いよく扉を閉めると、同じように自身の寝室へ行き、そのままベッドへと倒れ込んだ。

 乱暴に閉めた扉の音は彼女の部屋にも聞こえたに違いない。

 そう思うと、また気持ちの整理がつかなくなってきて、彼は束ねた髪が乱れるのもかまわず頭をかきむしった。

 陽はまさに落ちようとしていて、室内を明るく照らしだすだけの力はなかった。

 彼が社交界から離れて既に五年は経っていた。

 彼は彼の予想していた以上に社交界に必要なスキルを失っていなかったようで、リュリがそれなりにステップを踏めるようになるくらいは指導が出来た。

 このままいけば、仮面舞踏会当日に彼女を連れて行っても彼女が恥をかくことはなさそうだった。

 しかし、彼の心をかき乱すのはそのことではなかった。

 社交界は、兄と義姉のいた華やかな場所であり、アルフレッドが社交界に顔を出す目的はただ一つ、義姉をエスコートし、そのダンスのパートナーを一瞬でもしたいがためだった。

 既に伯爵夫人として身分も地位もあった彼女に近付けるのは、たったこの時だけだったから。

 兄がその姿を消してから、彼は舞踏会という機会から遠ざかった。

 非常時だからこそ、未亡人が少しは自分のことを頼ってくれないかと期待した自分と、義姉の兄への愛ゆえの義理堅さに直面し、アルフレッドはその恋心を心の奥深くにしまおうと決意した。

 そうしてながらく凍りついていた青年の心に、一つの暖かい灯火が生まれようとしていた。

 忘れようと努力してきた感情がゆっくりと芽生えはじめているのを感じ、アルフレッドは今、戸惑っていた。

 舞踏会に出席するのは、ほかならぬ未亡人の要求を叶えるためだと考えていた。

 しかし、あのいたいけな少女の純真さが気になっているのも確かだった。

 すると、扉の奥から小さなノックが聴こえた。

「アルフレッドさま」

 若い女中の声がすると、アルフレッドはすぐさま返事をし、招き入れる。

 扉を重たそうに開けて入ってきたのは先日と同じの黒い髪をした女中だった。

 少女は癖のない長い髪を下のほうで二つに結びきっており、彼女は簡易的に会釈をするとそれがさらりと揺れた。

 そして、まるで自分の感情がないかのように、事務的に連絡事項を述べた。

「お休みのところ失礼いたします。奥さまがお茶をいかがかとおっしゃられています」

「お義姉さまは随分お茶がお好きだな。君もそう思わないか?」

「……」

 アルフレッドがため息交じりに乱れた髪形を直しながら冗談を飛ばしても、彼女はうんともすんとも言わず、にこりともしなかった。

 彼はその様子を目の端でみとめると、そっけなく言葉をかける。

「悪かったよ、今、行くと伝えてくれ」

「かしこまりました」

 失礼いたします、と黒髪の女中が出ていくと、アルフレッドはもう一つため息を漏らした。

 ため息と同時に髪を束ね終えた両腕をだらりと垂らす。

「これは、誰のためでもない。俺のためだ」

 着なれたシャツの首元を改め、リボンタイを緩く縛る。

 お守り代わりにと、懐にリュリからもらった薫る小瓶を潜ませて、彼は何も持たずに自室を後にした。


 貴婦人の部屋の前には、先程の黒髪の女中が音もなく控えていた。

 アルフレッドがその扉の目前にたどり着くまで彼を見ようともしなかったが、彼は別段大したことのない風に思っていた。

 なぜなら、その瞳が合えば、声をかけずとも扉を開けてくれて、未亡人の晩餐前のお茶会を始める準備をしてくれるからだ。

 アルフレッドは女中としての仕事ぶりが良ければ、愛想の良し悪しは気にしない性質だった。

 彼の分の茶器が用意されると、女中はそのまま部屋を後にした。

 それが済むまで、そして未亡人から声がかかるまで戸口の近くで待っていたが、女中が出ていくと同時に未亡人がテラスのテーブルから動かず、彼に向って手招きをした。

 彼は厚い絨毯の上を重たげな足取りで夕陽の射すテラスに向かった。

「アル。噂を耳にしたのですけれど、この度の仮面舞踏会に出てくださるというのは、本当かしら」

 彼に背を向けたまま、未亡人は落ちる陽を愛でながら言った。

「にわかに信じ難くて。ごめんなさいね、あなたの信用がない、と言いたいわけではないのよ。だってこんなこと、いままでにないことなのだもの。かといって、噂を鵜呑みにするような真似はしたくありません。あなたの口からお聞かせ願えないかしら」

「疑われるのはもっともでしょうね。俺は遊び人ですから。ですが、残念ながら本当ですよ、義姉さん。それに、レディの瞳を曇らせるようなことをするのは俺の主義に反しますから」

 彼が本音を虚偽でくるんだのを、彼の義姉はどう受け止めたのかはわからなかったが、その答えは、ほんの少し見せてくれた横顔に集約されていた。

 オレンジの光が彼女の顔に濃い影を落とし、瞳がきらりと閃いた。青い瞳が一瞬だけ、冷徹に。

「それでは、楽しんでいらっしゃいね、小さなレディと共に」

「そうですね、奥方の推薦する姫君ならばデビューした時からレディに違いありません」

 アルフレッドの拳が固く握りしめられる。

 女中の噂の足はそんなに早かったのだろうかと彼は訝った。

 口元が引き締められる。それは目の前の未亡人も同様だった。

 静寂がしばし空間を支配する。

「ふふっ。うふふふ! いつも思っていましたけれど、そういう性質の悪い話し方はあなたには似合いませんわよ!」

 すると、彼に走った緊張に水をさすように、貴婦人はいきなり声をあげて少女のように笑いだした。

 肩を震わせて屈託のない、しかし確実に年を重ねてきた女性のそれだった。

 そして、膝の上に載せられた二つの豪奢な仮面を持ち、立ち上がってアルフレッドに歩み寄った。

「え? ゆ、ユーシィ? 俺、何か変なことを言ったか?」

 一方のアルフレッドは、未亡人の雰囲気ががらりと変わったことに驚きと焦りを隠せず、紳士の仮面がはがれてしまっていた。

 要するに、感情が表情に直結してしまっていた。

 義姉はそんな彼を気にせず、手に持った仮面の片方を彼に差し出した。

 金の縁取りの美しい、陶磁器のような肌を持ったそれは、額の部分に宝石をも持っていた。

「これはね、アル、あなたのお兄様の仮面です。あなたは見覚えがあるかしらね?」

「あ、あるけど! でも、第一、俺が兄貴のものを使ってもいいのかよ?」

 アルフレッドはうろたえながらも差し出された仮面を受け取った。

 舞踏会に出席したことはあるが、彼の兄が躍るのはユスティリアーナと決まっていて、その光景を見たくないがために最後の舞曲が始まる前にいつも貴族の群れの一番後ろに退散していたものだった。

 アルフレッドが直接目の当たりにせずとも、周りの人々が口をそろえてボーマン伯爵夫妻を誉めそやすものだから、彼の苦痛は一つも軽減されなかったのだが。

 苦い思い出を少しかみしめる彼には、彼を見やる未亡人の瞳の陰りに気付く余裕はなかった。

「道具は使われるためにあるのですわ。リチャードさまもきっと喜ばれるとおもうからこそ、それを貸してさしあげると言っているの。おわかりかしら」

 それから、と貴婦人はもう片方の小さな仮面を差し出した。

 こちらは銀の縁取りが幻想的な、目元のみを隠す仮面だ。

 男性用のそれとは違って随分軽く、瞳の周りを覆うようにまつ毛のようなものが誇張して描かれていた。まつ毛の先には小さな屑宝石がちりばめられている。

「そちらはわたくしのもの……ではありませんわ。先方のお嬢さんへの手土産です。必ずお渡ししてくださいね」

 いたずらっぽく口元をほころばせる彼女を見て、アルフレッドはどうしようもなかった。


 仮面を受け取り、礼儀として一杯だけお茶をごちそうになってから、彼は自室に戻った。

 今日も晩餐はリュリと彼女の部屋で取るつもりでいた。

 それまでの時間は考えを弄ぶことにした。書斎に静寂を求めて行き、自身の書きもの机には例の仮面が並んで置いた。

 仮面舞踏会には、素顔のままホールに入ってはいけないというルールがある。

 よって、未亡人のいう縁談の相手はいったい誰なのかは知ることはできないし、ましてや会場で仮面をプレゼントすることは笑い話の種になるだろうと容易に想像がついた。

 美しき女傑として社交界に羽ばたくボーマン伯爵未亡人が、そんな単純なルールを知らないはずがなかった。

「かなわねえなあ……やっぱり……」

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