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深月星降る冬空に

作者: しおバター

男は、週にたった二回、許された時間には何があろうと駆けつけた。

嵐が来て泥まみれになっても、笑顔だけはいつも変わらなかった。


女は、男の笑顔が気に食わなかった。

どんなに八つ当たりしても変わらない、真っ直ぐな笑顔が許せなかった。


「あたしね、もう長くないんだって。保って一年だろうって、そう言われたの」


女は、男の顔に浮かぶ優しさが気に食わなかった。

雨でびしょ濡れになっても変わらない笑顔が、恨めしかった。


人は、勝手な生き物だ。

蚊帳の外からは我関せずと白を切り続けるのに、

いざ死を目の前にすると、とても恐くなるという。


ぼくは、病室の隅に置かれたパキラ。

そこにいる男が数ヶ月前に、ぼくをここに連れて来た。

男は俺がいなくても寂しくないようにと言って、それからぼくは女の病室で暮らすようになった。


ぼくには、人の名前がわからない。

けれど女はいつも、ぼくの足元に水を注ぎながら男の話をした。

そのとき女は、決まって嬉しそうな顔をした。


今日もあの人が来てくれた。

元気になったらあたしのやりたいことを沢山しようと、そう言ってくれた。

女はぼくの葉を撫でながら、男の話を繰り返した。

付き合い始めてから、何年か経っているらしい。

昔の話をしては、幸せだった、と最後に漏らしていた。


「あなたは、どんどん大きくなるのね。あたしも植物になれたら、月に手が届くほど、大きくなれるのかな」


冬が近づいて、女の容態は急変した。

担当医は、女に最長で一年の余命を宣告した。

女はそう話してから、ぼくの葉を一枚千切った。


少し、痛かった。


男は、優しい人間だった。

お前の望むことは、何でも叶えてやる。

変わらない笑顔で、いつも女にそう語り掛けた。


その頃から、女は男に八つ当たりをするようになった。

あたしは辛いのに。あたしは苦しいのに。

あなたはいつもそうやって笑ってる。


怒鳴り散らして物を投げて、男から笑顔を奪おうとした。

女は、希望にすがることが恐かった。

女は、男の変わらない笑顔が気に食わなかった。


日を増すごとに、女の髪は抜け落ちていった。

ぼくは、ひとりで歩けなくなった女のベッドの脇に移された。


「わかってるの。全部、あたしの我儘だってことくらい。あの人が、あたしに心配かけないように笑ってるってことくらい。でもね、恐いの。いつかあたしの前からいなくなってしまうんじゃないかって思うと。恐いの」


あの人がいつも大切にしてくれるから、死ぬことが恐くて堪らなくなったの。

ある夜女は呟いて、それから少し微笑んだ。

ぼくはそれに応える術を持たなかった。

外から滑り込んだ夜風がぼくの葉をざわつかせて、女はそれをじっと聴いていた。

やがて手を伸ばして窓を閉めると、また軽く笑っていた。


「いいの。ありがとう」


それから女は、男に八つ当たりをすることを止めた。

少しずつ笑顔を取り戻して、男の話を楽しそうに聴いていた。


面会時間の終わる、その五分前。

男の顔からは、いつもの微笑みが消えていた。


「こんなこと、本当は言うつもりじゃなかった。でも」


自然に笑うようになった女を見て、男は逆に心配になったと告げた。


「ずっと不安で堪らなかったんだ。でも一番辛いはずのお前が頑張ってて、俺が泣くわけにはいかないって。そう思って、俺は…」


「わかってる。わかってるの。今までずっとごめんね。いっぱい傷つけてごめんね。…どうしてあたしなんかを大切にしてくれるのって、…期待もして…。でもその反面、いつか離れ離れになっちゃうのが恐くて…甘えたいのに、うまく出来なくて、沢山酷い事言った。ごめんね…」


目が霞んで見えない、そんな強がりが被って、ふたりは笑い合った。

そしてその後、ふたりは涙を流した。


「ねぇ、どうして…。どうして、あたしなのかなぁ。ひどいよ。どうしてかなぁ…」


男は、元気になったら月に行きたい夢を叶えてやると言った。

しかし女は最後に、もう逢いに来ないでと告げた。


「一緒にいたら、お互い辛くなるだけだもの」


冬が来た。

女にとって最後の、冬。

女はあまり水をくれないので、ぼくは喉が渇いていた。

あれから何度か、ドアの向こうから男の声が聴こえた。

女は、ろくに返事もしなかった。


これでいいの、と女は呟いた。

「あの人が哀しむのは、嫌だから」


ある夜、その年で一番激しい嵐が吹き荒れた。

カーテンと窓の向こうから、雨と風の大きな音がしている。

こんな日に外に放り出されれば葉が全て持っていかれそうな、そんな天気だった。

女は、何か物憂げな顔でその向こうを見つめているようだった。

ぼくには、何かを恐がっているように見えた。


何か音がした。

吹き荒ぶ風に混じって、微かにドアを叩く音がする。

それと一緒に、男の声がした。


女は飛び起きて、そのままベッドから転げ落ちた。

異変を感じた男は急いでドアを開けて、女を抱き上げた。


諦観の入り混じった女の視線は、男の目から逸らすように斜め下の床に落とされたままだった。


「どうして来たの?…もう来ないでって言ったのに」


「…ごめん」


「外は凄い嵐なのに」


「…ごめん」


「…こんなびしょびしょになることくらい、わかってたでしょう?


「…ごめん。…でも、俺はどうしても逢いたかったんだ」


男は、何故か笑っていた。


「何がおかしいの?あたしだって…」


「今日はさ、記念日なんだ。忘れたのか?」


「…記念日……」


「そう。お前と一緒に過ごして、五年経ったんだ。去年は旅行プレゼントしたよな」


女は気圧されて、言葉を失ったようだった。


「じゃあ今年のプレゼントは、何だと思う?」


「…な、…そんなもの渡すために来たの?この嵐の中を?」


「そんなものって言うなよ。まだ見せてないだろ」


男は少しもったいぶるような素振りを見せてから、鞄の中から大事そうに一枚の紙を取り出した。


ふたりの名前と、男の印鑑。


はっと口元を押さえた女の瞳から、涙が溢れ出した。

ぼくはあの夜以来、女が一度も泣かなかったことを知っている。

ずっと、我慢していたのかもしれない。


「馬鹿じゃないの!!!」


男を突き放して、女は泣きじゃくった。


「どうして?あなた自分が何してるかわかってるの?何しようとしてるかわかってるの?」


「わかってるよ。だからはっきり言うよ」


男の目は真剣だった。


「結婚しよう」


「どうして?あたしはもう死んじゃうんだよ?もう長く生きられないんだよ?そしたら一緒にいられないんだよ?」


「…わかってる」


「答えになってない!あなたはどうなるの?あたしなんかに構ってたら、あたしが死んじゃったらどうするの?あたしは…それであなたが哀しむのは嫌!あたしは……!!」


男は、女が言い終わる前にそっと、それでもしっかりと抱き締めた。

離さないように、そして壊れないように。

ぼくには、そう感じられた。


「ずるいよ……。こんなの、ずるいよ…」


女の涙は止まらなかった。


「これでいいんだ。俺は、好きでお前と一緒にいる。一緒にいたい。それ以上に何が要るんだ」


「でもあたしがいなくなったら、そしたらあなたは…」


「寂しいよ。哀しいよ。生きていくのが辛くなる」


「だったら…!」


「でも!!」


「………」


「でも、それは俺の話だ。お前はどうなるんだ。長く生きられなくたっていい。だったら生きていられる最後の瞬間まで、お前の中で生きていたい。お前の人生はまだ終わってない。お前が望むなら、俺が最後まで満たしてやる。だから、もう死んだみたいな言い方はするな」


男の口調は穏やかだった。

ぼくには、外の嵐の音は気にならなかった。


「あたし………!!生きたいよ…!」


止まらない涙と嗚咽の中で、女はやっと言葉を紡ぎ出した。

男はそれを優しく受け取って、しばらく女を抱き締めていた。


ぼくは冬の残りの日々を、女と一緒に過ごした。

女は体力を失って、ほとんどぼくのように動けなくなっていた。

それでも毎日少しずつ、ペンを手にしては紙に何かを書き綴っているようだった。

ぼくはその内容を知る術を持たなかった。


女はそっとこちらを振り返って、こう囁いた。


「まだ秘密なの」



:*:'¨':*:'¨':*:'¨':*:'¨':*:'¨':*:'¨':*:'¨':



春が来て、ぼくは病院の屋上へと根城を移した。

今までの住処には、もう家主がいないからだ。


こんなに沢山陽の光を浴びたのは、久々だった。

ぼくは、複雑な気持ちになった。


その次の次の春になると、ぼくはそれまでの一回りも二回りも大きくなっていた。

まだまだ遠いけど、少しだけ、女が月と呼んだものに近づいた気がする。


ぼくはまだこの屋上にいて、毎日同じような日々を過ごしている。

もう喉が渇くことだってない。


今日ぼくに水を飲ませた男は、古びた手紙のようなものを大事そうに眺めて、

それから背負っていたギターと一緒に歌い始めた。


ぼくには人の名前がわからない。

けれど、この男のことはよく知っている。


夕焼けに月が浮かび始め、ぼくは男の歌をただじっと聴いていた。



:*:'¨':*:'¨':*:'¨':*:'¨':*:'¨':*:'¨':*:'¨':



これはこれは

二人で描いた 夢の旋律

雨降る日には ちょっとブルーね


愛しい人へ

一度は呪った 人の道だけど

あなたに出逢えて 幸せだったわ


愛しい人へ

この唄をずっと 笑顔で唄ってね

明日に近づくのは いつもあたしたちなの

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― 新着の感想 ―
[一言] 短編のなかに、詰まった想い。私は、好きだ。これからも書き続けてほしい。
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