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「うっ……」
ぷかぷかと浮かぶ石像を見たユリアは、口を押えてうずくまった。
一瞬で彼女の肌は青白くなり、どっと汗が流れている。
すぐ隣に居たノーラが慌ててユリアを支えるが、この石像から目を逸らしていない。
「こいつもノンアクティブ、かな?」
浮かんではいるが、攻撃行動を取っているようには見えない。
ユリアの反応はまともではないが、それは攻撃されたからではない……はずだ。
少なくとも魔力の気配は感じないし、何かしらの魔法が発動したようにも思えない。
カーソルを合わせたら名前やHPが表示されたゲームとは違って、今の僕には“ただ浮かんでいる石像”にしか見えないのだ。これが敵かどうかすら、僕には認識ができない。
「重そう、だね……」
僕の手をぎゅっと握ったリリーは、そう呟いた。
「……せんせ、それが何に見えます?」
「何って……悪魔の形した石像?」
「……そうですか」
イルマすら、緊張した面持ちで冷や汗を流している。
どうやら、何か食い違いがあるようだ。見えているものは同じはずだが、ただの石像に見えている僕とリリーとは違い、イルマやユリア、ノーラの反応は明らかに普通ではない。
そりゃ浮かぶはずのない石像が浮かんでいるのは異常だが、異常なのはそのくらいだ。
「クリストッフェルの像よ、知らないの?」
震える声でそれを教えてくれたのは、いつの間にか大剣を産み出し、半身で構えるノーラだ。
「えーと……神話に出てくる悪魔だっけ?」
「……それが分かっててその反応なのね」
「まぁ……」
悪魔、クリストッフェル。それは異形種が多くを占める悪魔のカテゴリーにおいて、最も人に近いとされる悪魔だ。
ルゴスの生きていた3000年前より更に昔で、年代が語られることはない。この世界の成立において語られる存在、20の悪魔。その中で最も有名な存在であり、現在にまで続くとある異教が崇める対象である。
この世界ではほとんどの土地において、神話の悪魔について学ぶのも語るのもタブーとされており、国によってはそれらに関わっただけで罪となることもあるという。
「こんな形だったんだ。へぇー」
「そこに関心するのね」
「いやだって、どこの本にも書かれてなかったし……むしろ皆、よく知ってたね」
「その落ち着きはなんなの!?」
「いやだって、せめて僕だけでも落ち着いてないと」
皆が慌てているなら、僕だけでも落ち着いて状況を見なければならない。
この石像が悪魔、クリストッフェルを模しているとは知らなかったが、そうと分かれば石像の意味は分かってくる。
全員が慌てる意味も、今すぐ魔法を打てるようにイルマが詠唱している理由も、分かるのだ。
「ルゴス」
誰に言うでもなく、僕はそう口にする。伝える相手は一人だけだ。
「これはあなたの担当だから、僕はこれ以上関与しない」
はっきりとそう宣言し、僕は言葉を続ける。
「異相の門よ、開け」
石像から伸びる赤黒い帯を握り、引き裂いた。
静寂は、数秒か。
『ア、アアアア、アアアアァァァァァァァッッ!!!』
頭の中に、大音量の叫び声が響き渡る。誰の声だ? 男の声ではあると思う。ただし、若いか年を取っているか、そのあたりはさっぱり分からない。子供の様にも聞こえるし、老人のようにも聞こえるから。
その声は長く響き渡るが、耳から直接聞こえているわけではないので耳を塞いでも意味はない。隣に立つリリーが何も反応していないことから、これは僕だけに聞こえている声なのだろう。
あぁ、それなら良かった。
ナルコティクスオープン、絶叫の響き渡る頭の中でそう唱え、麻薬魔法を自己使用。音をどうしようもできないならば、催眠耐性の底上げと、思考の安定化、高速化を図る。
『キ、キサ、キサマァアアアアァアアアア!!!!!!』
浮かぶ石像は微動だにしていない。それでも、僕の頭に声を届けているのが目の前に浮かぶ石像だと、はっきり分かるのだ。
恨みの籠った呪詛のような言葉を、僕の頭に送り続ける。
お前なんて知るか。僕は今を生きる人間だ。過去のしがらみは、過去の人間がなんとかしろ。
石像から感じていた微弱な魔力が、一気に膨れ上がる。
攻撃魔法の予兆を感知。自動展開している障壁が、石像内の魔力の流れから精神体への攻撃と断定。精神異常耐性を自動的に増加、障壁構成を変更し、周囲への余波を減衰。
「神話の遺物は、砂に還れ」
ルゴスからの魔力供給を得た僕は石像に対し、異相門を通して無尽蔵の魔力を送り込む。
ルゴスを経由して僕の一生分にも等しい魔力が流れ込み、蛇口となっている僕の体は静かに悲鳴を上げる。けれど、もう慣れた。全身から魔力が抜ける感覚も、魔力を底まで絞り出す感覚も、才能のない僕にとっては日常的なものだから。
努力とは、底を知ることだ。才能の限界を知ることだ。自分がどこまでできて、何ができないかを知ることなのだ。
才能溢れる人間の巣窟である学校で、僕の才能そのものはきっと底辺であろう。故に、誰よりも底を知っている。誰よりも自分の実力を知っている。そして誰よりも、ルゴスという一人の神を信頼している。
あぁ、そうだ。こんな石像に負ける神じゃないんだろ?
ナルコティクスオープン。麻薬魔法によって虚脱感を高揚感で打ち消し、体中の穴という穴から飛び出しそうな魔力を、帯を握る手のひら一点に集中させる。高速化された思考を更に分割し、他人の魔力を最適に扱えるよう拒否反応を封じ込め、意識を覚醒させ、吐き気を抑え込む。
熟練の魔法使いならば、もしくは才能溢れる者ならば、麻薬などに頼らなくとも自分の意志だけでこのくらい対処できるのだろう。しかし僕にはそれがない。故に、対処できるところまで体を作り替えるしかない。
石像が砕け散りただの砂粒になるのに、そう時間はかからなかった。
「あっまずっ」
「どうしたの?」
臨戦態勢を崩さないまま呆気に取られるイルマやノーラとは違い、リリーは特に驚くことなく僕に語りかけてくれる。
あぁ、安心できる。彼女が隣に居てくれるから、僕は意識を保てるのだ。
好きな子に格好つけたい一心で、僕は前を向いて立っていられる。
「死に際に召喚魔法使われたみたい。たぶんそこまで数は多くないけど……ちょい誰か、ユリアさん起こして。戦力足りない」
魂でも抜けてるのか、ノーラに抱えられているユリアはきゅうと幻聴が聞こえそうな鯖折り姿勢で微動だにしない。キャパオーバーなのは分かるけど、とっとと復帰して! アンタ強いんだから!
「え、せんせ、今のは?」
「倒したよ、僕じゃなくてルゴスがだけど。イルマも警戒して、たぶん死霊系が出てくる」
「は、はい!」
砕ける寸前、僕への精神支配を諦めた石像は、召喚魔法を使用したのだ。
術式が完璧ではないからそこまで強いモンスターは出せないだろうが、相手が相手だ。雑魚を出したつもりでも僕らより遥かに格上の可能性もある。
流石に連続してルゴスに頼ると僕の身体が耐え切れないし、ここはなんとか自分で乗り切るしかない。最悪の場合を想定しながら、召喚魔法の行く末を見守る。
それから待つこと30秒。万全の準備を整えた僕らの前に召喚されたのは、腐った狼のような巨体だ。
「これが魔獣ってわけか」
腐って悪臭を放つ狼の肉体は、所々骨が見えている。
内部は空洞のようにも見えるが、腹部には人の残骸のようなパーツがある。恐らく、この村を襲った魔獣か、それに近い存在であろう。
今度のこいつは、ノンアクティブモンスターではない。明確な殺意を向けて、こちらに牙と爪を向けてくる。
実体のある死霊系モンスターは、僕にとって天敵のような存在だ。
何せ、ほとんどの毒魔法が有効ではないか、大幅に威力が落ちてしまうから。
生命ではないから、最も得意とする麻薬魔法に至っては判定すらない。主戦力を封じられている状態だ。
それでも僕には、出来ることがある。
「攻性障壁、展開――ッ!」
移動速度減衰、攻撃力減退、魔法構築妨害、たった1%の効果でも構わない。それでもやらないより、やるのだ。
「乱れてるなぁ!」
先のルゴスとの接続によって身体は疲労を訴えるが、麻薬魔法によって頭は冴えている。
しかし、それでも、いつものように魔法が使えない。効率良い魔法の構成ができない、魔力の量が調整できない。それも全て、ルゴスから圧倒的な魔力を受け取ったからだ。
石像の中に居たであろう悪魔の欠片に対応するため、僕は全てをルゴスに委ねた。
結果的に悪魔を撃退することはできたが、僕にはその時の影響が強く残っている。
残存魔力が、多すぎるのだ。
ルゴスから受け取った魔力を石像に流すための蛇口になっただけとはいえ、殺せる丁度の魔力を受け取ったわけではない。
異相門により石像の悪魔が死ぬまで魔力を流したということは、受け取ってから悪魔に流すまで、一時的とはいえ僕の身体にルゴスの魔力が滞在していたことになる。今の僕では一生掛けても貯めきれるかわからないほど、膨大な量の魔力だ。
それは、まだ僕の身体に残っている。見ようによっては魔力の上限突破のようにも思えるが、実際は水道の蛇口が突然消火栓のホースになったようなもので、出力がこれまでとは違いすぎる。
「せんせ、なんか雑ですね!」
「うっせ! 痛感してるとこ!」
イルマの軽口に返答するくらいの余裕は、ある。
狼が飛び掛った瞬間に僕の展開した攻性障壁が発動し、ほんの一瞬壁に当たったかのように速度が落ち、狼の攻撃力は低下する。
その瞬間にこちらから飛び出したノーラが狼の鼻面に大剣の腹をぶち当てることでひるませ、後衛が詠唱する時間を稼ぐ。
そこにイルマとリリー、なんとか正気を取り戻したユリアが攻撃魔法を当てることで、狼を後退させる。
悪くない。この流れは、悪くはないのだ。
「攻性障壁展開! 追従、視線誘導、高速修復その他色々全載せで、《ヒュージ・プロテクション》ッ!」
僕の動体視力は、麻薬魔法のバフがあったところで大したことはない。訓練された人間とは違い、訓練されていない人間の限界速度に到達できるに過ぎない。
ほんの一瞬目を離した隙にこちらに飛び掛っている狼を迎撃するのに、僕の目は、僕の運動能力は低すぎる。
故にこの場合、前衛を勤めるのはノーラである。彼女は明らかに狼の挙動を目で追えているので、この場に彼女以上の速度で動ける者は居ない。
「えっ何これキモいんだけど!」
僕はノーラの周囲に障壁を展開する。攻性障壁の唯一無二の特徴である“自身の身体を中心としない障壁展開”は、実は攻撃魔法を入れずに、ただの障壁魔法としても成立するのだ。
ノーラに強化した障壁を付与し、彼女の守りを強固な物とする。
「我慢して! それで命が助かるかもしれないんだから!」
「……ッ! しょうがないわ、ね!」
ノーラは狼と僕らの間に立ち、視線を遮るように一人立つ。
狼が横に動けばそちらに、後ろに回ろうとすれば同じように回り込み、彼女は僕らの壁となる。
外回りでノーラを大きく迂回しなければ後衛の僕らまで到達できない狼と違い、ノーラは内回りの小さな動きだけで正面に立てるのだ。あとは僕らがノーラの動きに合わせて立ち位置を変えるだけで良い。
「いっ……たくない!!」
何度目かの突進に対しノーラは大剣で受け流そうとしたが、逸らしきれず巨大な爪が彼女の肩に突き刺さる――寸前で、止まった。
直撃ではなかったので、僕がノーラの周囲に展開する障壁でギリギリ受け止められる程度だ。直撃ならば、砕けてしまうことだろう。
攻性障壁として他人に付与できる障壁で、《ヒュージ・プロテクション》を越えるものはない。ならば、相手の速度を更に落とす。
「《オーバー・ウェイト》!《エクステンシブ・グラヴィティ》ッ!」
毒属性による速度減衰が効かないならば、切り替える。
重力操作魔法によって対象の重量、体感重力を跳ね上げるアプローチだ。
「せんせが魔法名言うのめずらし!」
「そういう突っ込みしないの!」
思考を分割して詠唱をする意識を切り分けてはいるが、慣れない魔法の行使をするにはどうしても口頭発声が必要となってしまう。
毒属性魔法によるデバフではほとんど効果のなかった速度減衰が、ようやく目に見えて効いているのが分かる。やっぱり、普段遣いしない魔法も使えるようにはしとくべきだね! こういう毒が通らない相手だと特にね!
「《オーバータイム》ッ!《リトル・バイ・リトル》!」
麻薬魔法で思考を分割したところで、詠唱を担当する思考は二つしか用意していないので、同時に扱える魔法は二つまでだ。
時属性魔法で対象の体感時間を長く、遅くしていくと、狼の動きがようやく僕にも追えるくらいまで遅くなってきた。
ノーラも楽になったのか、防御を主にしていた大剣を小ぶりのサーベルに切り替え、回避しながらの斬撃にシフトしている。
「防御考えないで良いと! 楽でいいわね!」
ノーラは、叫ぶようにそう言った。
これまで彼女が大剣を持っていたのは、攻撃速度が遅い代わりに剣の腹で攻撃を受けやすく、そしてある程度は頑丈だったからだ。
直接牙や爪による攻撃を受けると粉々に砕け散ったが、ノーラは攻撃を受けた瞬間には放り投げるようにして柄から手を離し、衝撃を殺すと同時に、空いた手に新たな剣を産み出していた。
創造系統の魔法を、武器創造に特化させているのだろう。
剣士としての腕前は知らないが、どんな武器を使っても戦える技術を会得しているということは、彼女がしてきたのは並大抵の努力ではないはずだ。
何せこの学校に居る生徒は、ほとんど全員が後衛の魔法使いとして自身の魔法を構築している。稀に近距離、中距離での立ち回りを意識している者も居るが、それでも基本的には魔法を打ち合うことを想定している。
この学校で落ちこぼれになっていないどころか僕以上の成績を取っているということは、彼女もそういう普通の魔法使いと同じこともできるはずだ。それプラス剣士としての立ち回りができているのだから、万能にも程がある。見習いたいほどだ。
「いや無理だけど!」
「何言ってるの!?」
「こっちの話!」
体属性適正がない僕がノーラのような動きをするには、《トーチャー・ペイン》のような自壊魔法を使うしかない。いくらなんでも、あれを常用はできないのだ。
その速度で鍛錬ができない以上ぶっつけ本番に近くなるし、そんな付け焼刃では達人には到底適わない。フェリクス相手に使ったときもそれで勝とうとしたわけではなく相手に“一刻も早く勝負を終わらせたい”と考えさせることが目的だったのだ。僕は僕なりに戦うほかない。
狼に知性がないわけでもないが、ノーラが僕らと狼の間に立つ以上、僕らを狙おうとしても、どうしても先にノーラに接触してしまう。
彼女を避けて後ろに居る僕らを狙おうとしてもノーラは無駄のない足捌きで立ち位置を変え狼の正面に立ち、手を変え品を変え攻撃する。
HPゲージは見えないが、狼はかなり消耗しているはずだ。
爪はノーラに叩き切られたことでほとんど残っておらず、牙も幾度となく刃と魔法を受けてボロボロに。様々な攻撃魔法によって胴体にも複数の穴が空き、内容物を床に零し続けている。
「《コンバージング・ライト》!!」
しばらく詠唱に集中していたイルマが、その魔法を発動した。
それは数万本のレーザーを放射する大技であり、イルマの使える中で最大火力の魔法だ。
イルマの手の平を中心に放たれたレーザーは一旦全方位に拡散し、その後一定の規則を持ってターゲットである狼の元へ殺到する。
極細のレーザーではあるが、肉体の一点に向けて全方位から襲い掛かるレーザーは狼の全身に穴を空け、焼き尽くし、そして――
「良いとこ頂きました!」
能天気なその声で、僕らは戦闘の終了を認識する。




